村上春樹の『1Q84 BOOK3』を昨日書店で立ち読みした。
いつ頃からか、村上春樹の作品はどれを読んでも金太郎飴のように同じに思える。
金太郎飴は美味しいからいいが、この場合は文学作品として見られていることから考えると問題がある。
このような行き当たりばったりの書きかたは(シュールレアリズムの書きかたとも違う。あれは過激なまでに文学革命的、意識的だった)、純文学的でないのは勿論、娯楽小説でもないという気がしてしまう。
読者を楽しませようとする工夫の凝らされているのが、娯楽小説というものだ。
しかし、村上春樹の小説は何処か寝言のような無自覚的なところと、マスターベーションのような放埓なところがあって、なぜか作者はそれを善しとしている風で、ファンは春樹の作品が、それがどんなものであれ出るたびに喝采し、待ち焦がれ、まるで新興宗教のイベント――がどんなものかは知らないが――さながらの光景が展開されている。
信者は、作品をゲットしたことを自慢げ、誇らしげにブログで報告し、深読みすることに悦びを見出す。村上春樹教祖のステータスが上昇することを熱望し、一部の熱烈な信者は春樹教祖にアイデンティティーを預けてしまっている。
『1Q84 BOOK3』では、女性が男性のペニスを無機的に握る場面を含むベッドシーンがエンディングシーンで、それに何かいつもの感じの場当たり的な言葉がくっついて終わっていた。
娘の勤務する書店では、積み上げられた本の周りを子供がぐるぐる回り、「おかーさん、この本、すごいってね!」といっていたそうだ。
どうか、高校生以下が読みませんように。単純に風紀的に問題だと思う。高校生が読むのにふさわしい本ではない。大学生にしても、読書量が多ければいいが、他に、ふさわしい本はいくらでもある。
村上春樹の諸作品は、人生を棄てた中年以上の人間がいるとしたら(棄てることはないと思うが)、その人間にこそふさわしい。
昨日わたしが行った書店では、どの巻も結構あった。郊外店に勤める娘の書店では、宣伝につられて第一巻を買うお客さんが多いため、第一巻が足りないそうだ。
高校生によい世界の名作シリーズをこれだけの宣伝で売れば、日本もどんなにか変わるだろうに。
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