文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:瀕死の児童文学界

 幸いなことに日本では、小説を書くための基礎的な学力は義務学校で身につけることができます。創作の技法は独学できますし、文芸部などで学ぶこともできます。学ぶことができないのは、独自に育むしかない哲学で、それによって文学観が形成されるのです。

 そういった意味では物書きは求道者に似ており、一人一人が創業者であり、開拓者であって、外の世界に師匠を求めることはあっても、基本的には自分自身が先生であり、生徒のはずです。

 芸術家は皆そうではないでしょうか。

 出来上がった作品を出版社に持ち込み、出版社がそれに惚れ込んだら、契約が交わされます。出版社は印刷所に頼んで本にし、出版取次が流通させ、書店が売る――のはずが、日本の児童文学界ではよほどの経済力かコネでもない限り、そのやり方が通用しなくなっているのです。

 今の日本の児童文学界は日本の中の共産自治区ともいうべき、特殊な社会を形成しています。驚くべきことですが、日本の中に共産圏が存在するのですよ。

 共産主義が悪いとはいいません。日本では言論の自由が存在するのですから。しかし、それが児童文学という日本文化の一分野を占拠してしまうとなると、大いに問題ではないでしょうか。

 一派を形成するのであれば、いいのです。色々な派がある中の一派として存在するのであれば。でも、明らかにそうではなくなっています。いつからそうなのかは知りません。それが、カテゴリー「瀕死の児童文学界」を作り、そこに記事を投げ込み始めてから続けてきたリサーチと観察を通して得た結論です。

 最初、わたしは作品を出版社に売り込むつもりで、持ち込みできる出版社を探しました。10年くらい前には、対面式で持ち込める児童文学専門の出版社が結構ありました。

 今もないわけではありませんが、可能なのは郵送だけです。放置されるか、葉書でお祈りされるかのどちらかだと児童文学作家の卵の皆様はブログに綴っていらっしゃいます。わたしもどちらも経験済みです。

 コネもお金もない貧乏人にとっては、もう賞狙いしかありませんが、そこからの経緯は「瀕死の児童文学界」に書いてきた通りです。発端の記事は以下のようなものでした。児童文学の世界ではよく知られているらしいある賞に応募したところ、創作教室のチラシが送られてきたのにショックを覚えたのが始まりでした。

“2012年3月 4日 (日)
文学の危機――その発端を回想する

ねえ、考えてもみてください。

創作コースとか創作講座といったものは、アメリカ発祥のビジネスです。
アメリカははっきりいって、文学的には後進国ですが、だからこそ、不用意にそんなものがつくれたともいえます。

日本でその種のものができたのは、早稲田大学が最初ではなかったでしょうか? 
こんなものができるようになっちゃ、文学も終わりよね――と誰かと話した覚えがありますが、本当にそうなりつつあるという危機感をわたしは覚えています。

ヨーロッパの偉大な作家(児童文学作家も含めて)の一体誰が、そんなところの出身だというのでしょうか?
このことは、そんなものが必要ないことを示しています。
むしろ、文学という自由な精神を必要とする芸術活動にとっては有害であるとすら考えられます。”

 結論だけいえば、賞も同人誌も、異分子をいれないための関所なのです。さすが共産圏。

 内部でがんばっていらっしゃる方、指導に当たっていらっしゃる先生方の一人一人は一生懸命に善良になさっているのだとは思いますが、圏外から見ると、まことに異常な世界なのですよ。

 同人誌での体験学習を非礼を承知であえて公開記事とさせていただいたのは、おそらく他の同人誌も同じような傾向を持つと思われるからです。

 そこで起きたことは、日本の中における児童文学共産圏の特徴をよく表しています。

 そこは当初わたしが思ったより、遙かに有名かつ有力な雑誌でした。プロの作家、編集者が編集委員で、応募作品の全てにコメントがなされます。

 しかし、そもそも売り込むはずが、何でこんな教育を受けるはめになるのでしょうか。共産圏だからとしか考えようがありません。前述したように、そんな派があっても構わないと思うのです。児童文学全体の中の一部を占める限りにおいては問題ではありません。

 ここが違うと思えば、自分に合う出版社を見つけるなり、もう少し技術力を身につけたいと思えば、文学観の合う創作教室や同人誌を探せばいいのですから。

 でも、持ち込みはほぼ不可能。賞も、同人誌も、創作教室も、エンター系のジャンルに限られている上に特殊な文学観を感じさせられるものしかなく、そのどれもが再教育の必要性を謳っているかのようであり、仕方なくそこに身を置けば、否応なしに一から教育し直されるとなると……それは教育というより洗脳ですが、本来の自分を殺して洗脳に身をゆだねてその世界で生きるしかないとなると……それって、何のための文学でしょうか。それは文学といえるのでしょうか。

 同じような作品ばかり出ているのが不思議でしたが、今ではその原因が特定できました。

 大人の文学の分野では、まだしも、自分に合う同人誌や出版社を見つけることが可能でした。わたしが合うと思ったり、わたしの作品に魅力を感じたりしてくれた作家や何軒かの出版社は、上品で教養があるゆえに力がなかったり、貧乏だったりでした。

 わたしは純文学作品を書き続けるつもりですが、児童文学のほうを本格的に書き始めたいと思い、いわば下調べとして持ち込み、応募、同人誌をリサーチしてきたわけでした。

 しかし、これでは仮によい作品ができたとしても、電子書籍にするしかない現状です。作家の卵としては、ほぼ抹殺された状況といってよいでしょう。

 わたしのブログが抵抗文学ならぬ抵抗ブログ的であり、つい図書館からカロッサやケストナーといった抵抗文学を借りてしまうのは、わたしの執筆環境がそれによく似たものだからなのです。自由なはずの日本において。

 日本のメディアは中国、朝鮮、左翼にのっとられている……と警告するサイトを沢山見かけるようになりましたが、それは本当だと思いますよ。

 特に、子供の世界が危ないと思います。荒れるはずです。日本児童文学共産圏には陰湿なところがあるように感じます。そこで書くしかない人々には鬱憤が溜まっており、仲良しごっこの陰には自由行動を許さない雰囲気があります。子供たちのいじめ合いはその反映にすぎません。

 アンドレ・バーナード『まことに残念ですが… 不朽の名作への「不採用通知」160選』(木原武一監修、中原裕子訳、徳間文庫、2004年)はわたしの愛読書です。

 ひどい言葉で断られようと、作家は編集者と対等に扱われており、健康的な社会だと感じさせます。編集者の断り文句もなかなか独創的です。

 そういえば、一昨日、空間に金色の星のきらめくのが見えました。神秘主義者のわたしには時々、見えない世界からのエールがあります。あながち間違ったことは書いていないというエールではないでしょうか。以下は関連記事(「マダムNの覚書」)。

●2013年4月13日 (土)
 早朝に淡路島で震度6弱。前夜にぼんやりとした黄色い点3つ。
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2013/04/63-749a.html

 ところで、まだ夏休み前なのに(?)読書感想文の記事にアクセスが集中し始めました。新しい記事を書くつもりですが、以下は高校生のために書いた前年版の記事(「マダムNの覚書」)へのリンクです。

●2012年7月28日 (土)
 高校生の読書感想文におすすめの本 2012年夏
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2012/07/post-285f.html

2013年7月 3日 (水) 06:45

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「鬼ヶ島通信」へのわたしの書き込みに対して、編集長から丁寧なお返事と、応募者のお一人からご意見と友情エールをいただきました。

 鬼ヶ島通信HP
 http://onigashima-press.com/

  鬼の掲示板
  http://onigashima-press.bbs.fc2.com/
 
 以下は、それに対するわたしの書き込みです。

“那須田編集長

ご丁寧なお返事ありがとうございます。
那須田編集長にお目にかかったことはありませんが、お優しそうな雰囲気が伝わってきますので、このような書き込みをするに当たって迷ったのですが、どうしても気になったので、書き込みをさせていただきました。一般の人も購読なさることがあると思うので。
今後の編集、がんばってください。


こうやま様
ユニークそうなタイトルが多いので、どんな作品をお書きになるのだろうと思っていました。
「ももたろう」への昇格ですか?
うーん、わたしには難しそうです。ももたろうに昇格したら、きび団子をください。家来にはなりませんが、お団子は好き。
今後のご文運、お祈り致します。”

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 前に、どのアドバイスも参考になりましたと書きましたが、正直にいえば、それは「鬼の創作道場」のレベルがどの程度のものであるかを知る参考になったという意味も含んでいたのですね。

 今の日本では批評されたことは謙虚に受け止め、反論などしてはならないことが暗黙の了解のようになっていますが、これってヘンですよね。口封じのための方便としか思えません。

 バルザックにしても、ゾラにしても、今読んでいるカロッサにしても、様々な批評、批判に対して精力的に反論し、自作を弁護しています。双方の主張がぶつかり合う中で文学観が磨かれたりもするのではないでしょうか。

 わたしは現在本を出されているプロの児童文学作家のブログやレビューの書かれたアマゾンなどをちょくちょく見ますが、互いに褒め合い、宣伝し合っている場面しか拾えません。

 文学論も戦わせない作家なんて、本来の意味でいう作家とはいえないのではないでしょうか。

 で、上記批評を分析してみますと、全体に、これは文学賞への応募作品という水準にある作品に対する批評の仕方ではありませんわね。子供の作文に先生が一言だけ意見を添えるとしたら、こんな風になるのかもしれませんが。

 それでもこれじゃ、その子供が次の作文を書くときの助けとはなりえないでしょう。

 これ以上応募を続けたら、最後には花丸をねだるようになってしまうのではないかという危機感さえ覚えました。純文系雑誌の新人月評など見てもひどいものですが、それにしても、ちょっとひどくはありませんか。

 でも、頑張ってそれに耐え、できれば共産主義者にもなって、30年後ぐらいの作家デビューを目指せたらと真剣に考えたりもしました。

 30年後、わたしは85歳で、2013年、厚生労働省の発表によると、日本人の平均寿命は、男性79.59歳、女性86.35歳ですから、おお、ぎりぎりセーフ。

 自作の弁護に移りますが、わたしは『田中さんちによってきたペガサス』を書くために、乗馬体験をしてから馬が大好きになり、YouTubeで競馬観戦などするようになりました。

 そして、人間を楽しませてくれる馬のレース引退後の運命を知り、そこに思いを馳せたとき、人間の罪深さを思わずにいられませんでした。

 実は今わたしにはお気に入りの牝馬がいるのですが(わたしの想像するペガサスに似ています。優美なところがあるのです)、成績が揮わなくなり、調整のためにレースに出なくなりました。このまま調子が戻らないとなると……胸が潰れそうです。

 危ない運命の迫っている馬の一頭をせめて、架空の世界で助けたかったのです。

 メリーゴーランドから抜け出した木馬が窮地を救う、それも、飛び出したばかりで、外の世界が何が何だかわからない木馬の、他の馬と一緒に走りたいという衝動が他の馬を助けるきっかけとなる愉快な展開にしたいと思ったのでした。

 競馬の馬の過酷な運命を子供に向けて書くためらいは大いにあり、数日悩みましたが、知っておいてもいいのではないかという結論に達しました。

 子供の読者のショックを和らげるためにも、ユーモラスな、美しさもある展開にしたかったのです。メリーゴーランドの着飾った木馬を出したのは、華やかさを演出したいという意図もありました。

 火事の場面は、ちょうど作品を執筆する前に自身が体験したことでした。火元の真上のお宅は5月の連休明けには長かった改修工事が済んで、それを待っていたかのように鳩が戻ってきましたよ。うちにも遊びにやってきますが、糞をするので叱ります。

 あの火事のとき、わたしの想い描くような木馬がいれば、火事で犠牲になった男性も助かったかもしれないと思いました。

 神秘主義者のわたしは、火事の夜、男性がオロオロと見回っているのを感じ、この世のことはこの世に任せるようにとアドバイスしましたけれど(詳細)、まあそれについては、わたしの夢想ということにしておきます。

 子供の読者に対し火事を生々しく描写してみせることのデメリットも数日考えましたが、リンドグレーンの『はるかな国の兄妹』ではもっと悲惨な場面が描かれているのを読み、間近で火事が起きたときの参考になるのではないかという結論に至りました。

 序破急の構成でしたから、2回助けた木馬が最後に助けられる結末にしたいと考えました。

 わたしは自身がメリーゴーランドの木馬のように狭い家の中、限られた執筆環境の中でグルグル回っているような虚しさに囚われることがよくあります。

 いくらかの文学的才能と神秘主義者としての体験を持っているのに、このまま宝の持ち腐れで終わるのかしら。グルグル回っているだけで、何も世のためになっていないのではないかしら。

 その応えを、最後の「急」に求めたのでした。物事に行き詰まったとき、わたしはよくグーグルアースで世界を旅するのです。大きな世界のことを考えることで、救われる気がします。

「木馬にもっとよりそって」という意見がありましたが、ガイドブックを持たずに旅行に出たときのわたしがあんな風で、どこで何をしたらいいのかよくわからないまま、何か気を惹かれたり、誘われたりしたらそちらに行ってしまいますから、木馬だってそうではないかと思ったのですね。

 ところで、いじめを描いたティーンズものが流行っているようですが、少年少女にはそんなときこそ、いじめなどとは無縁なスケールの大きさを感じさせる作品に出合って貰いたいものだとわたしは思います。

「できれば共産主義者になって」と書きましたが、説明を加えますと、今の日本の児童文学界は共産主義者のための楽園というべきか、閉鎖社会になっているという現実が窺えるからです。

 尤も、福音館はプロテスタント系ですが、日本のプロテスタントと共産党は不思議なことに仲がいいそうです。

 知恵袋がその辺りを解説してくれています。


●「日本共産党の中にも基督(キリスト)教信者が居たりしますが、カトリック派が多いの...」
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088386090

 どの出版社のものも、すばらしいのは翻訳物ばかりではありませんか。

 日本の児童文学界自体やその作品群に漂っている閉塞感と暗さの一因は、今の日本共産党的考え方では、他国から攻められたときには滅ぶ以外にないという、未来像を描けないところからきているではないかと思います。武装中立国を目指した時期もあったようですが、まだしもそれだと納得がいきます。

 戦争を知らない子供たちの一人であるわたしは戦争のことなど、できれば考えたくなく、ましてや大日本帝国が行ったといわれるヒトラー並の侵略戦争などもってのほかだと思うのですが、あれはGHQ影響下の日教組による愚民教育の一つで、真実ではなかったという説が最近盛んですね。

 わたしはそれについてリサーチを続けているところですが、共産主義者が大戦中の国難の時に国家転覆を企んで大日本帝国の足を引っ張り、あの戦争を一段と悲惨なものにしたことは間違いないでしょう。愚民政策の一つなのか、馬鹿に美化されていますが。

 攻められたときのことを考えると、防衛は本当に大事ですよね。

 純真な少女時代に、わたしは二人の男性から性的な悪戯を受けました。こちらが清く正しい生き方をしていても、犯される(侵略)ときは犯される(侵略される)わけです。殺されなかっただけでも、儲けものだったと思っています。

 わたしは日本が攻め込まれたら、竹槍ででも戦います。安手の平和論ほど、嫌らしいものはないと思っています。

 わたしの母方の祖母の家系を傍流から丹念に辿れば、やまとのあやに辿り着き、一番近い祖先は元冦の役の功で祖母の実家のあった辺りの土地を賜ったようです。そのとき松浦水軍の一員として戦ったらしい夫の祖先とわたしの祖先は、縁がありそうです。

 祖母は母が13歳のときに亡くなっています。聴いた話では、祖母は名のある軍人の仲人で結婚し、嫁いだときは沿道に見物人が詰めかけたといいますから、名のある軍人に仲人を頼めるような人が祖母の身内にいたのではないかと思い、ググってみました。

 すると、名のある軍人と直接に親しいと考えるには若すぎますが、身内かもしれないと思える軍人が見つかりました。祖母は結婚した年が明治41年で、女学校を出ていますから、明治21年生まれのその人は弟でしょうか? 兄かもしれません。祖母の生年がよくわかりません。

 本当に祖母の身内だったかどうかはわかりませんが、そこから離れて、その男性の一生を軍人の一サンプルとして(?)鳥瞰するとき、海での戦に明け暮れた大変な人生が浮かび上がってきます。

 その人は、明治44年(1911年)、大日本帝国海軍の筑波 (巡洋戦艦)に海軍少尉として勤務したのを始まりとしています。佐藤さとる先生の海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』にこの筑波が出てくるそうですね。

 中尉のときに一旦勤務を離れて、砲術校、水雷校に行っています。そして大尉になるまで巡洋戦艦、戦艦、海防艦、駆逐艦に乗り、海軍大尉のときから海軍少佐のときは主に駆逐艦長。海軍中佐のときは駆逐隊司令など。海軍大佐のときから出てくる鎮附って何でしょうか?  海軍提督府に勤務すること?

 まあ何にせよ、いろいろな軍船や海軍施設などでこの人は勤務して、昭和17年(1942)年に戦死53歳、海軍少将。戦死する前年は駆潜隊司令とあり、これは駆逐艦とは違って、漁船を改造したような小回りの利く小さな船? 

 海軍の船について今調べたばかりで、さっぱりわかりません。間違ったことを書いているかもしれません。 

 31年間もほとんど海に出っぱなしで、もう引退もしたかっただろう時期に、最後は危ない小船に乗って司令中に撃沈されたのかしら?

 その心は知りようがありませんが、お国を守るために必死だったのではないかと想像します。命をかけて守った国が戦後、こんなになるとは知らないで。

 原発反対だってね、わたしは原発は計画的に止めていくべきだと思いますが、急に原発がとまれば、石油や天然ガスに頼らざるをえませんよね。自然エネルギーは大した足しにはならないし、シェールガスは環境破壊や誘発地震がいわれており、結局手っ取り早く頼れるのは石油に天然ガスでしょう?

 タンカーの乗組員だった父は中東情勢が悪いときも、死ぬ覚悟でとりにいっていましたよ。2年近く帰れないこともありました。嵐のときなんか凄いらしくて、優秀な船長候補が狂ってしまったなんて話を聞いたことがあります。若いのに、わけのわからないことを口走って、垂れ流し状態になったんですって。

 西側諸国のこうした行動は中東を刺激し続けているのです。


●2011年6月15日 (水)
 村上春樹:カタルーニャ国際賞授賞式スピーチにおける論理のすり替え
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/06/post-5244.html

 反対するのであれば、優れた対案を出していただきたいものですが、共産党は国会じゃ、とりあえず反対するばかりですよね。綺麗事ばっかり。そして、共産党は日本では少数派なのに、児童文学界では多数派という異常な事態がありますわね。 

 鬼ヶ島の先生方にはすばらしい方が多いようですし(楽しみにしていた連載もいくつかありました)、そこに集う書き手も優秀な人々だと思いますが、体質改善が必要なところもあるのではないかと感じました。

マダムN 2013年7月 1日 (月) 01:09

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 前の記事で、「鬼ヶ島通信」の掲示板に選評のことで書き込んだことをご報告しましたが、それが27日で、深夜に追伸を書き込ました。

“ 「気にかかったこと」の書き込みのあとに、お二方が楽しそうに書き込んでいらして(お一人は新しい編集委員の方ですよね)、ここは問題のあることを書くにはふさわしくない場所なのだろうか、ご多忙そうな編集長に直にメールすべきだったろうかとも思いましたが、とりあえず、追伸をここに書かせていただきます。

わたしの感じ方に偏りがあるのだろうかと自身を疑い、知り合いに電話をして選評を読み上げ、どう感じるかを訊いてみたところ、純文系の創作教室を主宰している男性は「盗作は落とすべきだろう! その漫画家に読んで貰ったら、盗作かどうかは一目瞭然だと思う」といいました。
中学校の校長先生は(児童文学の賞に応募を始めた奥さんの方に電話したら留守だったので、ご主人と話したのです)、「それは盗作かと思っちゃいますね。その類いのことは、あまりわからないけれど」との感想でした。書店員の女性(娘)は「それだけじゃ情報不足だけれど、盗作とまではいかないまでも、それに近いのかな。まぎらわしい書き方だよね」といいました。

わたしは物書きの立場で考えるので、偶然似てしまったのかと思いましたが、創作教室の先生が一番厳しく、一般人でもわたしより厳しい捉え方をするようです。盗作と偶然似てしまった場合では、第一に創作姿勢がまるで異なります。盗作は裁判沙汰になることだってありますよね。

この両極のどちらとも取れる書き方が問題だと思うのです。

作家の卵は弱い立場です。それは子供の立場と同じです。その多くが努力しても努力しても物にならないまま終わります。同人雑誌に掲載されることが一生の晴れ舞台であることだってあるのです。子供と同じく弱い作家の卵を保護できるのは、地位も才能もおありの先生方のような方々以外にありません。卵は簡単なことで潰れてしまいます。

一般の誤解を招きかねないこのようなことが、今後起こらないことをお願いします。事前に調査し、その必要もない程度のことであれば、書き方に注意すれば済むことだと思います。

 創作教室を主宰している男性は、こうもいいました。「掲示板に書き込んだのなら、議論が沸騰しているだろうね?」

 そうでもありませんよ

 わたしが「購読も応募もやめる覚悟で、追伸を書き込みたいと思っています」というと、彼は「ぼくらは、ひとりでやるしかないんだよね」といいました

 ひとりでやっている求道者みたいな仲間が点在し、何かのときにはすぐに意見が聞けるというのは嬉しいことです。これこそ、文学がもたらしてくれた友情です

 でも、編集者のMさんがこの記事をご覧になったら、「まーた、Nさんったら」と呆れられるでしょうね
2013年6月29日 (土) 11:09

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 購読している「鬼ヶ島通信」が届きました。

 購読会員は「鬼の創作道場」に作品の応募ができ、優れた作品は掲載、全応募作品について選考委員による講評が誌上で紹介されます。

 年2回発行で、次の締め切りは2013年8月31日となっています。自由部門と課題部門があり、応募作品は1人2点まで。自由部門の文字数は2000字~12000字以内。課題部門のテーマは「ひび」(タイトルは自由)、文字数は8000字以内となっています。

 投稿方法など募集要項について、詳しくは「鬼ヶ島通信」のホームページへ。
http://onigashima-press.com/
 全応募作品が講評を受けることができるのですから、「創作道場」はまことにありがたい賞だと思います。

  第10回の入選発表は以下の通りでした。
•課題部門 参考作品『夜明けのシーラカンス』


 以下は、ワタクシ的メモです。

 わたしは課題部門に『ぬけ出した木馬』を応募していましたが、12編中、選考会で評価の高かった作品――今回は3作品――に入ることはできませんでした。

 自由部門は20編で、評価の比較的高かったのは7作品だったそうですが、参考作品も掲載されていなかったのは一応募者、一読者としてちょっと残念でした。

 課題部門の参考作品『夜明けのシーラカンス』を拝読したので、これはわたしの簡単なレビューですが、書いておきたいと思います。

 中学二年生の不登校の少女麻衣は、夜明け前の深海に似ているような気のする町を散歩しているときに、軽やかに体操する男の人の姿にリュウグウノツカイのイメージを重ねます。コンプレックスを抱えた自分には、シーラカンスのイメージを重ねます。

 両親の離婚が、少女に起きた半年前の出来事としてクローズアップされます。

 海の生き物たちのイメージを借りる……それは、種類ごとに、また個体ごとにも違う生き物のイメージを限定してしまうことにもなるので、こうした表現法にやや疑問がわきますが、恋愛と友情のあわいにあるような心の交流は、この年齢域特有の心の動きとしてよく表現されていると思いました。

 意外性にはやや欠けるかなという印象でしたが、筆遣いが安定していますね。

 それ以外に、選評に気にかかったところがあったので、鬼ヶ島の掲示板に書き込みました。不適切な書き込みだったかもしれませんが。おまけに赤い字で表示されてしまいました~! 以下。

第50+11号をお送りくださり、ありがとうございます。
「波のそこにも」「ホッコ」を楽しみにしていたのですが、「ホッコ」は神秘性を保ったまま終わったのですね。痛痒感を伴うような、独特の神秘性ですね。物語の世界に引き込まれそうでした。購読が途中からだったので、最初から読んでみたいと思いました。

ところで今日は、気にかかったことがあったので、書き込みをさせていただいています。

「鬼の創作道場」課題部門の『夜明けのシーラカンス』の選評で、柏葉先生が川原泉のコミックに同じ設定のものがあるとお書きになっていましたが、こういった場合、事前に作者に確認をとることはできないのでしょうか?
応募者にとって、作品が掲載されるということは胸がときめくことだと思うのです。わたしでしたら、そうです。でも、選評を読み、「同じ設定のものがある」と書かれていたら、わたしでしたら、地獄に突き落とされた気持ちになりそうです(偶然似ていた場合、無意識的に真似ていた場合です。偶然似ていた場合は、不運としかいいようがありませんが)。
「同じ設定のものがある」「おもしろいと思わせていただきたかった」という意見にもかかわらず、他の先生方の高評価を得て作品が掲載されたのですから、この評自体は、柏葉先生の率直さや、鬼ヶ島の自由な雰囲気を感じさせてくれるものでもありますが、このように書かれると、わたしが作者であれば、相当にダメージを受ける気がします。そして、偶然似てしまう場合は防ぎようがないわけで、作品を応募するのがちょっと怖くなります。
事前に確認がとられ、ここで「同じ設定のものがあるとは知りませんでした」「前に読んだことを忘れており、無意識的に真似ていたかもしれません」「知っていましたが、それが何か?」「魔が差しました」といった真相を物語る作者の声が挿入されていれば、この件は、応募者にとって勉強になる一件となるのではと思います。
追伸

 わたしの『ぬけ出した木馬』に対する講評は以下のようなものでした。

木馬が逃げ出す発想は面白い(金沢)。ぐるぐる回ることにあきた木馬が空へとびたって競馬にまぎれこんだりおばあさんを助けたりする様子がたのしく書けている(末吉)。少年と馬のエピソードに絞ってもいいのでは?(岸井)。もりだくさんすぎて視点がさだまらない(柏葉)。木馬にもっとよりそって、なにをしたかったか書いてほしい(那須田)。

 どのアドバイスも参考になりました。応募するつもりであれば、もっと早く準備を始めて、できれば、次回は課題部門、自由部門の両方に応募したいのですが、文学観の違いは否めず、長居は失礼な気もしていて、応募しないかもしれません。

『ぬけ出した木馬』はワタクシ的には気に入っているので、また電子書籍化する予定です。自分の作品はだいたいどれも気にいってしまいます……子供と同じですから。夢では最近自分の作品が馬になって出てきます。

 最低価格99円になると思います(Kindleではただにはできないので)。そのうち、まとめてétudeというタイトルの作品集にするのもいいかもしれません……。
 
 2013年6月29日 (土) 11:09 

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