文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:梨木香歩

 『ミケルの庭』は、新潮文庫版『りかさん』のための書き下ろしだそうだ。

2012年03月21日
梨木香歩『りかさん』(偕成社、1999年) -  自己満足の道具となったアビゲイルhttp://blog.livedoor.jp/du105miel-vivre/archives/65651570.html

 上の『りかさん』の書評では触れなかったが、『りかさん』の「アビゲイルの巻」に、マーガレットというアメリカのダウンタウンに住む東ヨーロッパから移民したユダヤ人一家の女性が出てくる。

 日米親善使節として日本に送られることになった、ママードールのアビゲイル。送る前に、企画の指導役の一人である教会の牧師夫人アビィ(アビゲイルという名は彼女の名をとってつけられた)がダウンタウンの家々を訪問して回る。貧しい家に住むマーガレットは教会の信者ではなかったが、アヴィの訪問を受ける。悦ばれるだろうという期待に反して、マーガレットの反応は鈍い。アヴィはいう。

[引用 ここから]……
私、女性は皆こういうものに心惹かれるものだと当然のように思っていた、でも、あなたは私に、あなたが他人とうまくつきあえないことを以前話してくれていたわね。いつか子どもを持ったとき、その子を育てて行けるかどうか自信がない、という不安もあったわね。そういう今のあなたに人形をかわいいと思う心のゆとりがあるわけがなかった。つらいことを押しつけてしまった。ごめんなさい。
……[引用 ここまで]

 牧師夫人でありながら、アビィという女性の言動は無神経というほかないが、追い討ちをかけるように愛の押し売りをする。言葉の不自由や貧しさといった生活不安でいっぱいの女性から、愛を搾りとりたいのだ。

[引用 ここから]……
でもねえ、マーガレット、この人形にはすでにいっぱいの愛が蓄えられているのよ。この人形はその愛を、見知らぬ国へ届けに行くの。ほら、抱いてみない?
……[引用 ここまで]

 アヴィがいうと、愛という言葉がお金に聴こえる。この場面の作者の意図がわたしにはよくわからない。

 アヴィを批判的な意図から描いているのか、それともマーガレットに人間的欠陥があり、そのために、将来生まれる子供に対してその愛を充分には注げないことの伏線として描いているのかが……。ここのところは大事である。

 このあとのアヴィに肩入れしたような作者の描き方からすると、後者だろう。だとすれば、作者にとっての愛には、演出を伴う、相手の都合を無視した些か利己的な面のあることがわかる。

 牧師夫人アヴィの、愛というにはあまりにも一方的な働きかけを受け入れられなかったマーガレットの感性は、わたしにはむしろ正常に映るのだが、マーガレットのこの状態はまるで業病のような描かれ方をして、曾孫のマーガレットにも表われる(そのように作者は描く)。未読だが、曾孫マーガレットは『からくりからくさ』で登場するそうで、彼女はこの『ミケルの庭』では、不在の形で登場する。

 曾孫のマーガレットはミケルを生むが、育児ノイローゼのようになっていた。そこへ短期留学の話があり、マーガレットは下宿仲間の3人に勧められて、彼女らにミケルを託し、留学した。

 下宿仲間の3人とは、『りかさん』に出てきたようこ(蓉子)、与希子、紀久である。マーガレットを含む4人が下宿しているのは蓉子の祖母の家である。祖母亡き後は蓉子の父が大家で、下宿人の希望に副い、一部が染色工房となった。

 ところで、マーガレットの育児ノイローゼだが、育児ノイローゼになる母親は全く珍しくない。育児中、母親は過酷な労働条件のもとに置かれるだけでなく、そこでは様々な不測の事態が生じやすいからだ。

 責任感の強い母親ほど育児ノイローゼになりやすいところへ、マーガレットのようなパートナーの協力の得られない不安定な状況に置かれるともなれば、前途多難であることは想像がつく。人それぞれの悪条件と戦いながら、それでも多くの母親は、育児ノイローゼやそれに近い状態を乗り越えて、何とか子育てしていくのだ。

 マーガレットが乳児のミケルを置き去りにして短期留学に行くのは如何にも不自然で、作者のご都合主義的な操作が感じられる。

 重大な問題を提起しているという点で、『ミケルの庭』の主人公といってよいのは、紀久である。

 ミケルは紀久の昔の恋人とマーガレットの間の子供だった。紀久はインフルエンザにかかり、ミケルに移さないように用心していたにも拘らず、魔がさしたように、ミケルを抱いてしまう。そのときにインフルエンザが移ったのか、魔的な作用でかは定かでないが、ミケルは高熱を出し、医者の不手際もあって、危険な状態に陥ってしまうのだ。

 紀久に魔がさしたときの様子は、以下のように描かれている。

[引用 ここから]……
いけない、と、何かが頭の奥で叫ぶ。両手を広げた自分の腕に重なるようにして、何か、大きな、黒い鳥の翼のようなものが自分を覆うような気がする。ミケルがハイハイでこちらにやってくる。ミケルは嬉しそうだ。この子は滅多にこんな顔をしない。やはりこの子も寂しく思っていたのだ。そう思うとなおさらのこと、抱きしめようとする動きが止らない。けれどいけない、風邪が移るから、それはしてはいけないのに、と叫ぶ声が遠くで聞こえる。反対にすぐ顔の前の方で、ああ、なんてかわいい、と、自分でないもののように呟く声がしてぎょっとする。
 ……かわいい、かわいい、食べてしまいたいぐらいかわいいねえ。
 ミケルがあっという間に近づく。微笑んでミケルを迎える自分の口元が悪魔のようだ。邪悪な、黒い、大きな鳥のようだ。紀久はぞっとする。けれどそれも、頭のどこかで。
 気が付けば、ミケルを抱きしめていた。
……[引用 ここまで]

 作家の鋭敏な感性が捉えた、秀逸な魔の描写といえよう。

 ここでこんな告白をするのもナンだが、神秘主義者として生活しているわたしは現に、人間に入り込んで影響を及ぼす、悪戯な妖精だが妖怪だか、肉眼では見えない色々なタイプの生き物を透視することがたまにある。ブラヴァツキーの神智学で、エレメンタルと呼ばれるものだろうと思う。以下の過去記事を参照。

2012年1月 7日 (土)
たっぷりの珈琲、童話、神秘主義。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2012/01/post-2592.html

 作者は『ミケルの庭』で、魔はどこから来て、どこへ行くのか? その正体は何なのか? と、虚心に問いかけているような気がして心を打たれた。

 しかしながら問題は、この作家が魔に拮抗できるだけのものを読者に与えられないところだろう。蓉子が紀久の背中を撫でてやって、その役割を担わされているようだが、役不足に感じられる。

 その原因はおそらく、先に見たマーガレットの曾祖母と牧師夫人アビィの描き方からもわかるように、作者の物事の捉え方が皮相的なところにある。何作か見てきたが、梨木は村上春樹同様、作家にしては子供っぽく、怖いものを読者に見せるだけの資格を欠いているように感じられるところが、問題だとわたしは思う。盲人が盲人の手を引くとは、このことではないだろうか。

 読者は、彼らこそ自分のことをわかってくれる、何とかしてくれると思うのかもしれないが、それは虚しい期待にすぎないことを作中から読みとるべきである。気晴らしが――もっと深刻には救いが――ほしいのはわかるが、彼らの作品には危険なところがあることを自覚すべきである。彼らを一緒くたに扱うのが乱暴なことだとはわかっているけれど、あまりに似ているので、ついそうしてしまう(彼らが河合隼雄チルドレンとまでは知らなかったが)。

 瀕死状態のミケルを使って、臨死体験のようなものも絵画的に表現されているが、それも作者にとってはこなれていない素材で、大団円を演出するための工夫にすぎないという気がする。

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 偕成社版『りかさん』を図書館から借りて読み始めた日の夕方、自分のものにしてちゃんと読んでみたいと思い、仕事帰りの娘に頼んで新潮文庫版を買って来て貰った。

 過去記事で『西の魔女は死んだ』の書評を書き、『裏庭』『春になったら苺を摘みに』『ぐるりのこと』を読んだあとの『りかさん』だった。

2012年3月 7日 (水)
書評 - 梨木果歩『西の魔女が死んだ』(楡出版、1994年)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2012/03/--1994-1dc0.html

 連載中の記事『瀕死の児童文学界 ⑥河合隼雄、工藤左千夫の著作を読む』を書く必要から梨木香歩の作品に初めて触れた。作者と年齢が近いということがあるからか、題材や作風に親しみが湧くところがあるのだが、作品が発散しているムードに引っかかるところがあり、読み進むにつれてそれが次第に強まっていく感じだ。

 『西の魔女』では透明感のある翻訳調の文体だった。『りかさん』では和文化に作者の食指が動いていることを感じさせる文体を見せられ、円地文子以来の作家ではないだろうかと興奮した。円地文子には燻し銀のような純文学作品がある一方、オカルティックなライトノベル調の作品もあったと思う。だが、梨木の古典の教養がどの程度のものなのかまではうまく量れなかった。

 というのも、人形たちのおしゃべりに、文楽の作品などからそのまま借りてきたようなぎこちなさがあるからで、それが人形のぎこちなさにはよく合っている。このようなミスマッチや器用さを、作品のあちこちで発揮している作家という印象を受ける。読みながら、もう一つ信用しきれない――才気走ってはいるが、滋味に乏しい感じを受けるのは、それが原因かとも思う。言葉の遣い方に冴えた手腕を見せる作家であるが、どうかと思うような箇所が時々出てくる。

 例えば、主人公のようこが無念の思いから目を見開いたままのママードールの目を閉じてやろうとするが、うまくできない。そのとき、市松人形のりかが、「解消されない屈託があるんだ」という。りかは自らが人形でありながら、人形たちの運命をスクリーンに映して見せてくれたり、適切なコメントを挟んだりしてようこを導く案内役であって、その言葉はようこに恭しく受け入れられてきた。

 屈託という言葉の意味は、物事を気にかけてくよくよするとか、疲れて厭きるといった意味だ。ママードールの置かれた状況は、屈託などという言葉では到底語り尽くせないくらいに重いのではないだろうか。ホラーがかって感じられるくらいにママードールの描写される様が悲惨であるだけに、作者がりかにいわせた屈託という言葉にわたしは引っかかる。不信感が芽生えるのだ。

 『りかさん』がどのような物語かを手短にいうと、ようこという女の子が祖母に遣わされた市松人形の「りかさん」の手解きを受けて、鎮魂(たましずめ)のスペシャリストに成長する物語だ。

 祖母がようこに雛祭りに何がほしいかと訊く。リカちゃんと答えた主人公に贈られたのは、市松人形のりかさんだった。読み始めたときには自然に思えたこの事件の発端も、りかを背後で操っているかのようなその後の祖母の動きを見ていくと不自然で、祖母は年寄りのとんちんかんを装って、りかという特殊な人形をようこに押しつけたとしか思えない。何のためだろう?

 祖母は手紙を添えていた。りかが縁あってようこに貰われるということ。元の持ち主の祖母を含む今までの持ち主たちがりかを大事に慈しんできたから、とてもいいお人形だということ。ようこにも、りかを幸せにしてあげる責任があるということ――が書かれていた。人形の扱い方についても細かな指示があった。

 加えて人形論を説くことで祖母は、本来はようこにとって自由なはずの人形遊びを規定してしまう。そして、鎮魂の役目まで背負わせるというわけだ。ようこは、寺とか修道院に入れられた昔の子供みたいにも思えてくる。祖母は、『西の魔女は死んだ』に出てくる祖母よりはるかに魔女臭を放っている。

 7日間、ままごと遊びというよりは儀式のような食事をりかと共にすると、りかはしゃべりかけるようになり、人形たちの運命を見せる案内役を務めるようになるのだった。登美子の家の雛壇には雛人形のほかに賀茂人形、這子、紙雛、ビスクドールなどが飾られている。クライマックスで登場する目を見開いたままの黒こげのママードールは、このときはまだ汐汲人形の台座に隠されている。

 このママードールは、「アビゲイルの巻」で登場する。日米親善使節としてアメリカから日本に渡ってきて受難に遭った、西洋人形のうちの一体だった。そうした西洋人形は太平洋戦争が始まると、敵国の人形として焼かれたり、竹槍で突かれて壊されたりしたという。アビゲイルも、校長の指示により、生徒たちの竹槍で突かれ、焼かれる。

 アビゲイルを可愛がっていた比佐子は、このことが応えて死んでしまう。アビゲイルを預かっていた女教師が人形を比佐子のお棺に入れてくれるように頼むが、このときの両親の反応が奇妙である。

[引用 ここから]……
 あまりにも恐ろしそうなアビゲイルの姿を見て、それで比佐子が楽しく遊ぶなどとどうしても考えられない、というのが父親の主張だ。けれど母親にとって比佐子はいちばん最初の子どもで、その子が愛おしんだという人形を簡単に捨てる気にもなれなかった。だがアビゲイルの姿はとても人目にさらせるようなものではない。結局、母親の考えで、汐汲の台座に隠すようにして、この家であずかって行くことにしたのだった。
……[引用 ここまで]

 梨木の作品に出てくる大人たちは、いずれも身勝手で押しつけがましい。一見魅力的に描かれている祖母たちもそうである。そして、子供たちはあくまで素直で、大人の意のままに行動する。まるで人形のように。村上春樹の作品に出てくる男たちが気ままで、女たちが男に都合のよい行動ばかりとることを連想させられる。

「両腕片足はなく、もう片足は取れかかり、片目はつぶれ、もう片目はかっと見開かれて恐ろしげにこちらをにらんでいる」アビゲイルの目を閉じてやろうとして挫折したようこがりかにどうしてあげたらいいのか訊くと、りかは「アビゲイルは、かわいがられることが使命なの。かわいいって抱きしめてあげて」という。

 躊躇したようこが「かわいいという言葉を胸の中に抱いてみて」というりかの導きで、「かわいいという気持ちを、小さな鞠のように胸の中にふわりとおいた」ら、その次にどうすればいいのか、りかから指導が下る。そうした過程を経てアビゲイルを抱き締めた。

[引用 ここから]……
 アビゲイルの体に触れると、ようこの心は電流が走ったようだった。かまわずに腕の中に抱き入れると、焼けつくような痛みが起こり、それから、火傷のあとのようにひりひりとして来た。ようこはそれでもアビゲイルを離さなかった。自分のどこか奥の方から、けっして絶えることのないように泉のようにあふれるものがあり、それはしばらくアビゲイルの「ひりひり」と拮抗していた。やがて「ひりひり」があまりに激しくなり、ようこは声を上げそうになったが、心のどこかに、この苦痛は長くは続かない、という確信のようなものがあった。すると心の奥の泉から今までにも増して温かく穏やかな慈しみの川のようなものが流れ出し、ようこの苦痛を包み、アビゲイルの存在までくるんで流して行ったかのようだった。アビゲイルの表情も最初は拒絶するような険しいものに見えたが、やがてそれもおさまった。
……[引用 ここまで]

  神秘主義的観点から考察すると、これはとても危険なことである。

 このあと、ようこはりかにいわれてアビゲイルと一緒にりかを抱く。二体の人形の間で何かが起こり、濃密な空気が醸し出される。そしてりかにいわれてアビゲイルの目を閉じると、アビゲイルは灰の塊になった。

 アビゲイルは悲惨な目に遭ったが、作家としてバランスのとれた書き方をするなら、鬼畜アメリカ人といいながら、自らが鬼畜となっていった当時の日本の苦境も描くべきだろう。

 比佐子は登美子の伯母に当たるのだが、登美子の母親はアビゲイルが発する瘴気のために体調を崩していたのか、アビゲイルの件が落着すると、体調が回復する。このハッピーエンドも腑に落ちない。

 現代日本で豊かに暮すようこが戦時中の忌まわしい出来事の一切を引き受けてその解消に成功するなど、安手のファンタジーにあるような設定ではないか。

 ようこがアビゲイルを癒す光景は美々しく演出されてはいるが、アビゲイル癒しの手段として使われたようこの愛情は実際には、魔女めいた祖母(及び、りか)の手解きでようやく発揮された危うい愛情にすぎない。ばあさん、難事業はあんた自らがすりゃいいじゃないか。アビゲイルは彼らの自己満足の道具に使われただけだ。アビゲイルは比佐子のお棺に入れられたほうがはるかによかっただろう。

 新潮文庫版には『りかさん』と『ミケルの庭』が収録されている。『ミケルの庭』には大人になったようこ(蓉子)が登場して、自己不信に陥った女友達の背中を撫でて癒していた。それには瀕死の赤ん坊が出てくるが、ようこにはこのような赤ん坊の病気とか、人形の瘴気で体調を崩した登美子の母親のような人を直接に癒す力はないようである。

 魅力的なところが沢山あるけれど、『りかさん』からは無責任なにおいがする。このような作品が児童向きとは、わたしには到底思えない。

 ところで、単行本のときは明記されていた参考文献が、文庫版では落ちている。以下の著作である。借りたいと思ったが、図書館にはなかった。



 以下の記事で、アビゲイルの仲間と思われる「ノルマンくん」が――写真も――紹介されていた。

「青い目の人形」と「ノルマン」君について
http://www.city.shinshiro.ed.jp/toyo-el/aoime/noruman.htm

ライン以下にサイトから抜粋しておきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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 これはまだメモ段階にすぎない。調べ出したら、次々と新しい情報が舞い込んできて、ショックを受けることばかりだ。まとまったものに仕上げるには、かなり時間がかかるだろうと思う。

 梨木香歩と児童文学ファンタジー大賞、児童文学ファンタジー大賞と絵本・児童文学研究センター、絵本・児童文学研究センターと河合隼雄[故人]、河合隼雄と村上春樹と辿っていったとき、村上春樹現象は河合隼雄と切り離せないものであり、今の日本のファンタジーが河合隼雄と切り離せないという事実が見えてきた。

 絵本・児童文学研究センターは、ホームページによると、「生涯教育として、児童文化(絵本・児童文学など)の研究をしている機関です」とあり、故河合隼雄はこの機関の名誉会長とあった。

 児童文学ファンタジー大賞はこの機関の各種事業のうちの一つで、梨木香歩はこの賞の第1回の大賞受賞者である。受賞作品は『裏庭』。

 美しい筆致に息を呑むが、物語を追っていくと内容的には児童文学というよりはもっと年齢がいった男女向きのライトノベル、ファンタジー――ホラーがかった――といった作風である。

 河合隼雄と梨木香歩とが師弟関係にあったことを考えると、独特の饒舌やイメージのきらびやかなまでの豊富さ、深層心理に分け入ってそれを恣意的な解釈のもとに映像化したような作風にも納得がいくし、村上春樹が河合隼雄の影響を受けた可能性を考えると、梨木香歩と村上春樹の作風の類似にも納得がいく。

 河合隼雄は、饒舌で恣意的な、学者らしくない学者であったとわたしは思っているからである。しかし、彼が日本の文学界に及ぼした大きすぎる影響と影響の及ぼしかたを考えると、それは宗教に近い。

 ユングに熱中したのは大学時代だから、もう30年以上も前のことで、わたしが最初に河合の名を知ったのは、ユングの著作の翻訳者としてであった。その後、河合本人の著作を数冊読んだが、ユングとはまるで違うという印象を持った。それは、わたしがその頃にやはり関心を持って今もその関心が続いているブラヴァツキー[神智学協会の創立者で、近代の神秘主義復活運動の母]の理論の組み立てかたとその後継者の一人であったリードビーターのそれとがまるで違うと警戒したのと似ていた。

 ユングは神秘主義から多くを採り入れた人である。ユングの場合、彼がどんな考えのもとに資料を参考にして独自の理論を打ち立てていったのかを辿ることが可能なのだが、河合隼雄の場合はそれができない。だから、わたしは恣意的な自称ユング派の学者だと思ったわけだった。

 ブラヴァツキーの場合も、参考資料がきちんと書かれており、思考の道筋を辿ることができるのである。リードビーターの場合はそれができない。リードビーターを自分のなかで空想的神智学者と位置づけて以来、わたしは彼のものをほとんど読まなくなった。河合隼雄の本が家にないのも、同じような理由からだ。

 ユングのもので今も家にあるのは、


カール・グスタフ・ユング
河出書房新社
発売日:1975-09


C・G・ユング
人文書院
発売日:1976-04

 だから、河合隼雄が児童文学に関わっていた事実を知ると、当然ながらわたしはショックを受けたし、また彼の影響を調査する必要があると思ったのだった。しかし、一介の物書きの卵にすぎないわたしには手にあまる仕事である。河合隼雄の代表的著作を読むだけでも……。

 ところで、絵本・児童文学研究センターの各種事業には、基礎講座プログラム(児童文化講座)があり、講座については、ホームページに「講座の内容は、生涯学習の一環として、多様な児童文化の世界を模索したものでございます。そのため、本講座では心理学や哲学的観点をも取り入れて、全54回にわたる講座を行っております。会員の年齢構成は20~80歳代、今までに2,000人以上の方々が受講しております」と書かれている。講座を通して、思想的な影響を受けた男女がかなりの人数いるというわけである。

 また、絵本・児童文学研究センターの各種事業には、聴き慣れない児童図書相談士検定というのがあるようだ。読み聞かせと関係があるのだろうか?

 読み聞かせの流行に、わたしは以前から疑問を持っていた。昔はそうしたことは個々の家庭に任せられていたからであるし、わたしはあまり読み聞かせられた記憶がなく、それでも本好きになったからだった。それに、なぜ、紙芝居ではなくて、絵本なのか? 

 絵本を売るための読み聞かせではないのか? 絵本にひたる子供の自由を読み聞かせが奪っているといったデメリットはないのか。そんな疑問がどうしてもわいてしまう。


 続きを書くには、時間がかかりそうです。

 それにしても、日本児童文学者協会の会長に、以下のようなタイトルの児童文学の著作のあることがわたしには納得できない。仮にどれほど内容がよいものだとしても(ミステリーだろうか?)、このタイトルだけで、不信感を覚える。

 コンクールを前面に出した講座案内を送りつけてきたのは、この協会だった。この協会はウィキペディアによると、「児童文学の普及運動と主とする児童文学者団体である。社団法人であり、文化庁(文化部芸術文化課)の監督下にある公益法人である」ということだ。
 そういえば、河合隼雄は元文化庁長官だったっけ(絶句)。


当ブログにおける関連記事

2009年6月 6日 (土)
評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/06/post-40a4.html

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 児童書かと思い、図書館から梨木果歩『西の魔女が死んだ』(楡出版、1994年)を借りてきて読んだ。

 わたしには児童書とは思えなかった。映画化もされた大ヒットした作品のようで、作風からは吉本ばなな、村上春樹を連想した。純文学小説ではない。純文学ではないとなるとエンター系ということになるのだろうか。かといって、ファンタジーでもないような……ライト・ノベルというジャンルなら、ぴったりきそうな読後感だった。

 しかし、ウィキペディアで調べてみると、日本児童文学者協会賞、新美南吉児童文学賞、第44回小学館文学賞を受賞しているから、文学界ではやはり児童文学扱いだ。児童文学界の考えていることは本当に訳がわからない。

 この作品は少なくとも、純文学の手法では書かれていない。主人公=イギリス人の祖母と作者の間に距離感がなさすぎるからだ。作品全体が主人公及び祖母の心地のよい――対話というより――モノローグから成り立っていて、一面的であり、純文学には不可欠な重層的つくりにはなっていないのである。

 ググってみると、日本中、感動と共感に打ち震えている人だらけなので、こんな純文学的凝視をしてしまうと、水を差すようなやましさを覚える。しかし、わたしはどうしてもそうしてしまう。

 生活のスタイルという点で他人に妥協したくない、些か身勝手な人々の孤独と束の間のふれあいを描いた都会派ライト・ノベルと感じられる。祖母を含めて、登場人物たちに基本的な違いがあるようには思えない。

 知的でセンスのある祖母は、日本の田舎でイギリス風のカントリーライフを楽しむ人物だが、自身を魔女と称さなければならないほどのマイノリティーということもできる。唯一の理解者であるはずの娘とは、疎遠とはいわないまでも、どこか他人行儀な関係である。

 祖母には、ごく部分的にだが、神秘主義をとり入れている風なところが窺える。喘息の孫の前で煙草を吸うようなアバウトな面もある。登校拒否をして緊急避難してきた孫に、自己流の死生観を饒舌なまでに伝えようとするところは、少し異様な気もする。孫の将来を案じてというよりは、ニュートラル地帯にいる孫を自身の側に引き寄せたかったのではないだろうか。

 主人公のまいは中学生になったばかりの時点で、のちに「西の魔女」と呼ぶようになる祖母とひと月を共に過ごし、規則正しい生活と「自分で決める力、自分でやり遂げる力」を身につければ超能力がつくと祖母に励まされ、カントリーライフに魅せられていく。しかし、あくまでそれは、居心地のよいゲストハウスにおける、まいのひと月のイベントにすぎない。

 というのも、本当にまいが祖母を愛するようになっていたとしたら、もう中学生にもなっていたのだから、大切な人となった祖母の身辺に鋭い視線をそそぎ、一見快適そうなカントリーライフの舞台裏を見抜いたはずだからだ。

 まいは祖母の家に出入りする粗野な田舎物のゲンジを嫌うが、祖母は彼を遠ざける原因となり兼ねない孫の行動にハラハラし、頬を打ちさえする。男手のない田舎暮らしは大変なのである。高齢になった祖母にとっては、ゲンジは用事を頼める唯一の男性だったに違いない。

 わたしには索莫とした思いだけが残った。読書感想文の課題には、ライト・ノベルではなく、もっと手ごたえのある純文系の作品のほうがいいのではないだろうか。もっと年齢のいった女性が、ティータイムに読むのによさそうな小説だと思う。

 小学生と大学生が同じような読書感想文を書いているのを閲覧し、ショックを受けた。漢字の使用数だけはさすがに大学生のほうが多かったが、内容がそっくりだったのだ。

 以上、もう一人の西の――野暮ったい――魔女の感想である。

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