文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:村上春樹現象

ブログ「マダムNの覚書」に3月6日、投稿した記事の再掲です。
baby-623417_640
飛ばし読みしながらも、初めて夏目漱石の「坊ちゃん」を最後まで読んだ。

この作品は純文学小説ではないが、だからといって大衆小説ともいえず、出来の悪い大衆小説的な作品というほかはない。

平板な表現の毒舌がだらだらと続く文章には耐えられず、飛ばしながらでなくては読めなかった。

その文章自体に、問題があるのではないだろうか。言葉の結びつけ方がおかしいのである(ノートですらないメモだから、ここでは省略するが、評論を書くときに例を出して指摘する)。

坊ちゃんはしきりにレッテル貼りを行う。純文学であれば、逆に、世間で貼られたレッテルをまず剥がす作業を行う。

大衆小説であれば、勧善懲悪の爽快感が得られるのだろうが、そういうストーリー展開でもない。

マドンナの心情に重きを置けば、華のある大衆小説ともなるのだろうが、そうした場面もない。

家柄のよい出でありながら、社会的激変のために女中となった清と坊っちゃんのラブロマンスだろうか?

坊っちゃんが殿で、清に祖母・恋人・召使いの役割を担わせた、夢物語というべきか。

借家とはいえ、坊ちゃんと一緒に暮らすという清の夢を実現させ、離ればなれになっても思いを通わせ続けた男女が、晴れて一軒の家に収まるという、庶民の好みそうなつつましい夢物語となっている。

マドンナがまともな形では出て来ないのも、そのためである。清が紅一点でなければならないから。そのことからも、「坊っちゃん」が変則的恋愛小説であることは間違いない。

若い男と老女が一軒の家に仲むつまじく暮らすエンディング、女のわたしには相当に気持ちの悪い恋愛小説である。

坊っちゃんは、いわゆるおばあちゃんに溺愛されたおばあちゃん子であるのだろうが、清が祖母でないというところが味噌なのであろう。清は疑似祖母であるが、まぎれもなく女なのだ。

坊ちゃんと性関係があってもなくても、ああ気味が悪い。疑似祖母との恋愛物語なんて。

わたしは、年齢差のある恋愛関係が気持ちが悪いといっているわけではない。男の側に都合のよすぎる漱石の女性観が、気持ちが悪いといっているのである。

この女性観、既視感がある。村上春樹の女性観だ。以下の作品(Kindle版)で、わたしはそれを指摘している。

「村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)」 (ASIN:B00BV46D64)

マドンナ(若い女性)に欲情することもなく、清への初恋を貫いたままの幼児心理で成人後も生きる坊っちゃん。したい放題して、事が暴力沙汰に及んでも逮捕されることもなく、学校をやめても、すぐに他の仕事が転がり込む。常に保護される坊っちゃん。

清にも天にも愛でられる坊っちゃん。このことからも、純文学小説には欠かせない、主人公と作者との間に存在すべき距離感のないことがわかる。

そして、老女が亡くなったあとのことは書かない漱石。

ぬるま湯に浸かり続ける坊っちゃんを、作者が限りなく肯定するお話なのである。

まともに読んで、まともな感想が書けますか、こんな小説で。シェークスピア、デフォー、モーパッサン、ゾラ、イプセン、芭蕉、李白まで貶す漱石が書いた小説がこれって……。

かような内容の「坊っちゃん」を読書感想文に推薦……ほほほ……ホント、どうかしてますねえ、この国。書けないでしょう、まともな感想文なんか。

デフォーは読んだことがないけれど、それ以外のどなたを読書感想文に選んでも、それなりに書き応えがあるはずだ。読書感想文には、漱石が貶す作家をオススメする。

この男が真面目づらして「門」なんか書くと、なおのこと罪深い。門なんてタイトル、こけおどしもよいところだ。

お稽古事に1、2度行ってやめる子供がいるけれど、主人公の参禅がそのレベルにすぎないことを思えば。

まだ漱石にかんする研究は序の口だが、早くも飽きてきた。この男が文豪と祭り上げられてさえいなければ、とっくに夏目漱石から離れているだろう。

夏目漱石は本当はあばた面だが、日本では文豪のシンボルとなっているあの有名な写真には、それを消す修正が施されているそうだ。それは漱石の罪ではないだろうが、加工されたあの写真が漱石のイメージアップに利用されてきたことは間違いない。

隠れマザコン(ババコン)で、幼児心理のまま成熟することを拒否、無教養であることを自慢すらし(この世で教養のある人間は漱石先生だけでなければならない)、他人にレッテル貼りをして馬鹿にして、暴力沙汰を好む――そんな生き方を天は愛でると漱石の文学は教えている……(絶句)。

ちょっと、漱石から離れよう。そのつもりなのに、気になってなかなかそうできない。

テレビの国会中継をつけたまま、KindlePaperwhiteで「坊っちゃん」を読んでいるうちに、爆睡。とにかく、漱石を読んでいると眠くなる。

すると、夢を見た。学校に(高校?)、安倍首相が視察にくる。ぞろっと一団になってこちらに来る安倍首相は、わたしたち生徒のほうを見て、「いつからこの国ではいじめが流行るようになったのか、誰かわかる人がいたら教えてください」と声をかける。

わたしはいじめをテーマとした小説を書いたことがあると思い、その小説の載った雑誌を手に、安倍首相を追いかける。

最上階が首相官邸ということになっていて、最上階へと続く階段の踊り場に首相がひとり。わたしが近づくと、ペロペロキャンディーを差し出される。「お一つどうぞ」

この踊り場でペロペロキャンディーをなめる時間だけが、首相の唯一の自由時間らしかった。

わたしは自作の宣伝ととられると困るなと思いながら雑誌を渡して、この小説を書いた時期からいじめが流行り出しました、いじめをテーマとした小説を書かざるをえない社会状況でした、と説明する。

ほお、という表情の首相。

「子供たちにはよい本を読ませなければいけません。でなければ、この国は崩壊してしまいます。よい本がどんな本かの選択が難しいところですが……」と、力説しているところで、目が覚めた。まだ国会中継中で、共産党議員の質疑中だった。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログ「マダムNの覚書」に3月5日、投稿した記事の再掲です。
water-464953_640
前の記事で、夏目漱石の講演録「文芸の哲学的基礎」を読みかけていると書いた。
それを何とか読了したものの、昨日一日受けたショックから抜け出せなかった。

お札にまでなった夏目漱石。何て、滅茶苦茶な文学論を展開するのかと呆れ、漱石が国民作家と崇められ続けてきた現実と、そのことでどれだけ日本人の読書環境、情操が損なわれ続けてきたかを思うと……(絶句)。

これほど神格化されることなく、一作家として、実力に応じた遇され方をしたのであれば、それほどの問題はなかったのかもしれない。が、漱石を神格化した勢力が日本には明らかに存在していて(その勢力は、村上春樹を第二の漱石にしようとしたと思われる)、彼らの目的が何なのかをわたしは疑う。

わたしは以下の電子書籍で村上春樹にかんする評論を書いたが、食わず嫌いせず、もっと早い時期に、漱石をちゃんと読むべきだった。まあ無力なわたしがそうしたからといって、それでどうなるというわけでもないのだが。

村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)

ハーヴァード大学のカレン・L・キング教授がイエスにかんする重大な発表を行っても、バチカンが公式にひとこと否定して、それで終わりなのだから、わたしなんかがここや電子書籍で声を限りに叫んでも、南海の孤島からボトルメールを日本に向けて流すのに等しい。

ウィキペディアによると、幸い、漱石は欧米での知名度はあまり高くないという。そりゃそうだろう! 村上春樹を高く評価したジェイ・ルービンが漱石を積極的にプッシュしているようで、苦笑してしまった。

漱石の小品にはすばらしいものがあるから、作品のどこかで引っかかったりしながらも、その引っかかりが問題意識にまで発展するに至らず、追究しようとはしなかった(小品を読む程度で、興味がなかった)。だから、今日になるまで漱石の文学の全貌がわからなかったのだった。最近になって、ようやく読み始めてからは驚きの連続……

「文芸の哲学的基礎」を研究した学者も少なくないだろうに、なぜ、漱石の文学が問題視されないのか、不思議である。問題視した学者、評論家は潰されたのだろうか。

勿論、「文芸の哲学的基礎」がどんな思想家の影響を受けているのか、きちんと調べられているのはさすがに学者の仕事だとありがたい思いでいっぱいになる。

しかし、漱石が影響を受けたとされるウィリアム・ジェイムズにしても、漱石がウィリアム・ジェイムズに本当の意味で影響されたのか、そうではなく、漱石が自分の勝手な都合で断片を拝借し、結果的にウィリアム・ジェイムズの仕事を貶める結果になったのか、そこのところは究明されなくてはならないはずである。それでなくては、研究とはいえない。

当記事のトップに挙げた拙過去記事で、わたしは漱石の因果の法則にかんする解釈に疑問を呈し、「漱石は、キリスト教史観(直線史観)と東洋哲学でいう因果の法則をごちゃ混ぜにして論じているのではないだろうか。ずいぶん滅茶苦茶な内容に思えてしまう」と書いたが、ウィリアム・ジェイムズに因果の法則にかんするものがあるのだろうか。漱石のいう因果の法則とは、東洋哲学でいう因果の法則ではなく、ウィリアム・ジェイムズのいうそれなのだろうか。

西洋哲学由来の因果の法則であるならば、そう説明すべきであろうが、いずれにしてもわたしには漱石のいう因果の法則は東洋哲学でいうそれとしか思えない。

わたしは、まだプラグマティズムの哲学者ウィリアム・ジェイムズを読んではいない。

だが、弟のヘンリー・ジェイムズの小説は――まだ読み残しのほうが多いにせよ――愛読している。この二人はよく比較され、両者共に比較に耐える人物であることを思えば、ウィリアム・ジェイムズの哲学も弟の小説と同レベルの高さを持っていると想像するのが自然ではないだろうか。

その想像からすると、漱石の「文芸の哲学的基礎」はあまりといえばあまりの「猫踏んじゃった」ではあるまいか。だから、漱石がウィリアム・ジェイムズの影響を受けたということに、ウィリアム・ジェイムズを読む前から疑問を抱かずにいられない。

「ねじの回転」はよく知られているヘンリー・ジェイムズの小説で、幽霊小説としても、心理小説としても読める名作である。わたしは何度読み返しても、物書きとしての羨望のため息が出る。「マダムNの覚書」の過去記事で、「ねじの回転」に触れている。

  • 2010年8月 6日 (金)
    真夏の夜にジュニア向きホラーは如何?
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2010/08/post-1bd7.html

     わたしがこれまでの人生で一番ぞっとさせられた文学作品は、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』です。次が泉鏡花の『草迷宮』。
     どちらもこの世の深淵を垣間見せてぞっとさせながら、襞に秘められた魅力……とでもいうべきものを教えてくれました。

もう一編、過去記事でヘンリー・ジェイムズの「ボストンの人々」に触れている。長いので、ライン以下に関係のない部分を除き、折り畳んでおく。

わたしはその記事の中で、「ヘンリー・ジェイムズはボストンのいわば凋落の秋を『ボストンの人々』という作品で描いた。そこは俗物時代が到来し、拝金主義が蔓延る世界だった」と書いたが、そういえば、漱石も頻りにお金のことを恨みがましく書いた男であった。

ヘンリー・ジェイムズのお金と人物の描き方は、漱石とは著しく異なる。漱石が貶すモーパッサンにしても、ゾラにしても、その描き方はそれぞれに個性的だが、それを描くときの作家の透徹したなまざしを感じさせるという点では、モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズには共通したものがある。

漱石の小説とは明らかに違う。モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズは社会的視点を感じさせる。お金と人間の関わり方を見通しの利く世界の中で見事に描いてみせたが、漱石の場合は「私」の域を出ていないように思える。

社会的視点が感じられないため、作者の愚痴、よくても世間話のようにしか感じられないのである。むしろ、だから人気があるのかもしれないが、文学作品として評価しようとする場合、貧弱に感じられるのは否めない。

例えば、主人公が騙される話なら、モーパッサン、ゾラ、ヘンリー・ジェイムズの小説では、騙される主人公、騙す人間の人物像だけでなく、そのときの社会状況や経済の動き、人間関係がどのようなものであるかが鮮明に浮かび上がってくる。

漱石の場合は、騙された側の苦境や心理状態はよく描かれているが、そのときの社会状況や経済の動きまではわからない。

明治の初期には、江戸時代の経済の仕組みが崩壊して混乱があったようだし、明治時代を通して激動の時代だったわけだから、そうした時代背景をもっと感じさせていいはずだが、あまりそうした情報を得ることはできない。

林芙美子の小説では、さすがにその辺りはよく描かれている。ちなみに、バルザックの小説は経済学者が引用するほど、経済情報が書き込まれているそうだ。ゾラの金融小説は圧巻である。

また、「文芸の哲学的基礎」では、文芸家の理想として美、真、愛及び道義、荘厳とあるが、具体例があまりに低俗なものばかりなので、どれも同じに思えてしまう。

当記事で挙げた欧米の作家たちの小説には、美、真、愛、荘厳が気高い輝きを放って(漱石のいうそれらとは意味合いもムードも違うものだが、それらの言葉を連想させるだけのものがある)、美も真も愛も荘厳も分かちがたく存在しており、そうした小説を愛読してきたわたしには、漱石の分類の意味がさっぱり呑み込めない。

その分類も、どこからか借りてきて、勝手な使い方をしているのではあるまいか。そう疑いたくなるほどの奇妙さだ。

シェークスピアからは妙な圧迫を受けるだけで不愉快(技巧のあるところはよいそうだ。その点デフォーは駄目だそうで)、イプセンは不愉快な女を書いた、軽薄な落ちを作るモーパッサンも不愉快だそうだ。

ゾラに至っては「ゾラ君は何を考えてこの著作を公けにされたものか存じませんが……ゾラ君なども寄席へでも出られたら、定めし大入りを取られる事であろうと存じます」と偉そうに講演なさる漱石先生は、批判するゾラの著作のタイトルさえ解説なさらず、ゾラも余席も〈普通の人〉もまとめて馬鹿扱い。ゾラとモーパッサンは、ほとんど探偵と同様に下品でもあるとか。探偵をなさっている方にも失礼な物言いだ。

芭蕉の俳句は消極的、李白の詩は放縦……

ここまで読むと、わたしはもう恥ずかしい。これが日本の文豪だというのだから。頭がおかしいのではないかとすら、疑ってしまう。

以下の「マダムNの覚書」の過去記事で、李白の「月下独酌」を山本和夫訳で紹介し、短い感想を書いている。

  • 2010年9月20日 (月)
    更新のお知らせ。山本和夫編『ジュニア版 世界の文学 35 世界名詩集』(岩崎書店、昭和44年)より。
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2010/09/post-baaf.html

    酒仙、李白の詩をジュニアのわたしは、ふん、と思っただけでしたが、今は惚れ惚れします。道士の修行をしただけあって、雄大ですわ。李白の詩からは、芳醇な老荘思想の香りがしますわね(わたしは結婚後はほとんどお酒を呑まなくなったせいか、酒呑みは嫌いです。李白みたいな酒呑みって、いませんもの)。

何だかわたしまで頭がおかしくなった気がするが、気をとり直して、まずは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読むことから始めなくてはならない。

それには時間がかかるだろうし、今は他にしたいことがあるので、とりあえず、2本の記事(メモ)をまとめ、ノートとはいえもう少し整理して、「国民作家・夏目漱石の問題点と、神智学協会の会員だった鈴木大拙 ④漱石の異常な文学論 #1」を書いておこう。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

続きを読む
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

一昨日、ついに村上春樹の検索で基幹ブログ「マダムNの覚書」にお見えになる方がゼロになりました。

村上春樹関係の記事へのアクセスはありましたが、ブログを開始したのが2006年4月。以下の記事を書いたのが5月でした。

村上春樹を検索して基幹ブログにお見えになる方が次第に増えて爆発的になり、それから次第に減っていって、検索してお見えになる方がゼロになるまでに、実に8年5ヶ月かかったということです

わたしがなぜ村上春樹を問題視し、無名ブログからそれを発信しつづけたかは、当ブログ及び基幹ブログにおける関連記事や以下の2冊の拙Kindle本をお読みになれば、わかっていただけるのではないかと思っています。

この先、村上春樹ブームが再来するかどうかはわかりませんが、この時点で村上春樹の悪影響というわたしの危惧はかなり和らいだといえます(まあファンの方々には「悪影響」は許せない言葉でしょうが、8年間記事という形で分析してきた結論です)。

ある意味で村上春樹は日本の現代文学を象徴している人物であり、その人物をわたしなりにずっと追い続けたのは、日本文学の将来に関わることだからでした。

ようやくそのつらい分析(昂揚するような分析ではありませんでした)が終わりつつあると思ったところへ(まだ河合隼雄の分析も残していますが)、春樹を潜在的に用意したとも思えるテーマとして、国民的作家と崇められ、信頼され、お札にまでなっている夏目漱石が出てきてしまいました

祐徳院を書こうと思い、江戸時代から明治時代にかけて調べなければ、出てこなかった視点でした。

ざっと調べたところでは、漱石の作品を、明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の観点から分析した論文には見当たりませんでした。

こうした大事な研究を、無名の物書きが孤独に何の報酬もなく、光の当たらないところでやらなければならないというところに、日本の現代文学の荒廃ぶりを目の当たりにしている感じを覚えています。

奮い立ったり、逆に無気力になったりの繰り返しの日々です。

いずれ評論を書きたいと思い、その下準備として基幹ブログのカテゴリー「Notes:夏目漱石」にメモを入れていっているところです(下準備にすぎませんので、そのNotes:夏目漱石の記事へのリンク、引用はご遠慮ください)。

漱石の「こころ」で中断している部分を書き終えたら、ひとまず漱石を離れ(ることは無理かもしれませんが)、初の歴史小説に行きたいと思います。

 サイト「IRORIO(イロリオ)」の以下の記事で紹介されたペーター・ハントケ。作家らしいですよね。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ