文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:文学賞

マダムNの覚書」 に 2017年12月27日 (水) 23:04 投稿した記事の再掲です。

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。
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最近、「文学賞の世界」というサイトを見つけました。「日本で行われてきた数々の文学賞に関する基礎的な資料をご紹介しています」と説明があります。

サイトマップを一望し、目眩がしてしまったほど。これは凄いです! 

プロ対象の文学賞、素人対象の文学賞の詳しい情報が提供されています。

ふと「あのとき受賞なさったあの方は、その後どうなさっているのだろう? プロとして活躍なさっているのだろうか、まだ素人の立場で他の賞にチャレンジなさっているのだろうか?」と思ったりしていたのですが、かなり消息を辿ることができました。

審査員のお名前、その賞が今も継続しているかどうか、青色になっているお名前をクリックすると同じ人が他にどんな賞に応募し受賞しているかなど、様々なことがわかり、驚かされました。

わたしが最終候補(九州芸術祭文学賞の場合は地区優秀作)まで行ったのは「織田作之助賞」「九州芸術祭文学賞」だけで、各2回ずつですが、最終候補者の名前も出ています。

「織田作之助賞」の頁全体を閲覧して賞の変遷がわかりましたし、「九州芸術祭文学賞」では地区次席までわかり、何度となくチャレンジしている人が如何に多いかがわかりました。

応募の参考になる、これだけ多くの情報を提供してくれるサイトはなかなかありません。

また、応募者のほとんどが志を遂げずにいわば文学界という戦場で戦死する運命にあることが改めてわかるような、わが国の文学界における死闘の歴史を見せてくれるサイトでもあります。

これだけの文学賞があり、それにチャレンジする夥しい人間がいるにも拘わらず(だからこそ、なのかもしれませんが)、日本の文学が劣化と衰退の一途を辿っている現実は本当に深刻な問題でありましょう!

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拙ブログ「マダムNの覚書」に1月17日、投稿した記事の再掲です。

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Fさんと前回電話でお話ししたとき、九州芸術祭文学賞について話していた。その話の続きなど、おしゃべりした。Fさんはこの日、午後からNHKカルチャーの文学講座だということだったので(Fさんは講師)、短めに切り上げた。

九州芸術祭文学賞について何を話していたかというと、彼のほうでは既に行動を起こしたそうだが、わたしも同感なので、九州文化協会に手紙を送るか、電話で話すか……いずれにせよ、応募者の1人として要望を伝えたいと思っているのだ。

九州芸術祭文学賞は、九州在住の年配者にとって、希望の星である。

年をとると、デビューに結びつく、中央の大手出版社の新人賞に応募しても通りにくいので、年配者は必然的に地方の文学賞に流れる。

年をとらない人間など、いない。昨日の若者も、明日は老人である。文学のような経験を生かせる分野では、年をとっても創作を続け、デビューしたいと願い続ける人も多いだろう。脳がやられない限り、創作はできるのだ。

地方の文学賞でありながら、中央の商業誌に発表の舞台を持ち、芥川賞候補になる夢を持たせてくれる九州芸術祭文学賞のような賞は希有な存在に思える。

地区選考を通れば、最終選考へ行けるのだ。地区選考には3人の選考委員がいて、全応募作を読んで貰える。

中央の賞に比べると、競争率の低い、まことにありがたい賞なのだが、このありがたい選考が応募者にとっては、案外ネックともなるのだ。

他の地区選考が同じかどうかはわからないが、ここの場合は、3人の地区選考委員が5作ずつ選び、2人に選ばれた作品と3人に選ばれた作品を中心に選考が進められるようだ。

応募者には常連も多く、1度や2度最終選考に行ったことのある応募者は多い。応募者にとっても地区選考委員にとっても、お互いに顔が見えすぎるのである。

それでやる気が湧く応募者もいるだろうが、やる気の失せる応募者も少なくないと思う。

で、Fさんと話していた主催者への要望は、応募者情報を伏せたうえで、毎回ランダムに異なる地区の選考委員が選考を担当するようなシステムにしてほしいというものだ。

ランダムなので、この地区の応募作をここの選考委員が担当することもあるだろう。ぐるぐる回すやり方でもいいかもしれない。

こうしたシステムのデメリットもあるだろうが、年配者たちが何回もチャレンジする可能性の高い賞であるだけに、毎回違った顔ぶれの選考委員に選考して貰えるほうが違った結果が期待でき、やる気が湧くのではないかと思う。

選考委員のほうも、そのほうが新鮮な気持ちで選考に臨めて、豊富な人材もより生かせるのではないだろうか?

要望が多ければ、主催者を動かす力ともなりうる(可能性がある)。Fさん、わたしだけでなく、現選考システムに何か要望のある方は、それを伝えてみては如何かと思う。

わたし自身は、要望を伝える前にもう少し考えてみたいと思っている。 
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 昨夜、電子書籍の表紙絵にタイトルを入れるとき、ふと「パソコンに入っていたペイントじゃ、つまらない」と思ってしまいました。さらに表紙絵の作成自体でも、「年賀状ソフトのほうが色々とできたなあ」と思ってしまったのです。

 それで、フリーソフトを探し、解説が沢山出てきたGIMPをダウンロード・インストールしてみました。

 下記からダウンロードしました。

 本家は下記。

 本家へ行くと、トップ画像に「gimp 2.8 『Release Notes』『Download』」と表示されていて、これが最新版のようです。が、2.6の解説が充実しているようだったので、とりあえず、2.6をダウンロード・インストールしてみた次第。

 お絵描き音痴なわたしは、グラフィックと聴くだけで、別世界のお話だと感じ、そこで情報をシャットアウトしてきましたが、GIMPはオープンソースで開発されている無料のグラフィックソフトだというのです。

 タイトル文字をもっとすてきにしたい、という思いが別世界へのカーテンを開けさせたのでした(大袈裟ですみません)。

 GIMPが高性能、多機能なグラフィックソフトであることは、いくらお絵描き音痴のわたしでもわかりました。

 それが、たまたま下記のサイト様のページ『GIMP for Windowsを使ってみる』にアクセスしたところ、〈初級者だけど手っ取り早くロゴを作りたい!〉 〈金色のロゴを簡単に作りたい!〉という見出しが目に入り、そこを閲覧して「わあ、すてき。わたしにもできるかもしれない」と思ってしまったのでした。

 現在、下記のサイト様で勉強させていただいているところです。

 古いパソコンがいかれたときは、使い慣れたパソコンと心中してしまいたいくらい悲しかったけれど、あのパソコンがまだ元気で使い続けていたとしたら、今日のような展開はなかったでしょうね。GIMPの重さにはとても耐えられなかったでしょう。

 それと同じように、一種の絶望から始まった電子書籍へのチャレンジ。本格的にやりたいと思っているKindleへの登録もまだですが、お先真っ暗とは限らないかもしれないと思い始めました。少なくとも、賞に応募し続けるよりはいいかもしれないと。

 だってね、賞に応募して落ちると、勉強して出直せという感じで、どうかしたら文学講座のチラシが入っていたりするほどです。

 でも、バルザックやユーゴーやゾラなんかが活躍していた頃のフランスの文学界には、それこそオープンソースに匹敵するような文学サロンがあり、皆芸術家としての平等の意識で、優れたものを注ぎ込んでいたのです。

 それからすると、日本の文学界はあまりに貧相というか、そもそもが求めているものがあまりに違う世界でしかないという結論に、わたしは達してしまったのでした。

 商業誌「〇〇〇」は、よく芥川賞作家が出る有名な文芸誌ですが、こんなこといったらまずいかしら。

 わたしの文学仲間の一人がそこの新人賞の一次だったか二次だったかは忘れましたが、中間発表に名があったので、「凄いわね」といったら、その文学仲間は、そこの下読みの人を知っていて、直接そこへ送ったといっていました。「普通に送ったら、通りっこないからね。でも、そこまでだともわかっていたけれど」だそうで。

 その文学仲間は、某芥川賞作家とも知り合い(というより、古くからの文学仲間)でした。某芥川賞作家の担当編集者とも遊び仲間だった関係で、文学界の裏話を色々と知っています。その文学仲間は「僕があなただったら、体を売ってでも作家になったよ」といいました。

 日本の文学界からすばらしい作品が次々に(いえ、たまにでもいいけれど)発表されている状況であれば、こんな裏話もむしろ華やかな(?)尾ひれと感じられたでしょう。

 なぜわたしがそんな昔の話(だと思います。現在はその段階にすらないと感じます)をしたかというと、あまりに賞を神格化している初な人が多いと感じるからです。勿論、どの賞もそうだとはいいません。いえ、どの賞もその賞なりにまじめで真剣だということはいえると思います。

 ただ、わたしもある賞の下読みをしたことのある経験上、賞がどんなものかはわかってしまっています。神格化すべきものでないことは確かです。

 文学賞とは、文学のイロハもわからない初心者が応募する場なのでしょうか。本当はそんなものではないはずでしょう。学生の作文コンクールではないのですから。

 文学賞というからには、そこは応募者がそれぞれの芸術観(文学観)を戦わせる場であり、そのことで社会を活性化させる役目を担うべきもののはずです。

 これは物のたとえですが、例えば民主政権を想わせるような、特定の派(在日外国人寄り、左翼寄り)による占有とその教育機関といったようなものではないはずだと思うのですが。

 外国の文学賞の実態がどんなものかは知りませんが、日本の文学賞は一種独特のものに成りはてているのではないでしょうか。昭和の……三島由紀夫が自殺するくらいまでは、日本にも文学の香気が感じられましたね。その頃までは、大正から書き抜いてきた筋金入りの作家が生き残っていたからでしょうか。

 わたしはもう年ですし、作家になるには頭が悪すぎるから仕方がないとも思いますが、熱心な有望な書き手が原因もわからずにどんどん潰れていっている現状を、あちこちで風に吹かれたままの創作ブログなどから感じるたびに、やりきれない思いがし、つい色々と書いてしまいました。日本の文学は、このままでは確実に滅びてしまいます。

 また芥川賞の発表の時期が近づいたのが怖い。でも、よい作品が選出される期待が失せてしまっているわけではないので、なるべく今回も感想を書くつもりです。

 ※後半の文学の記事に対するコメント、メールは受け付けておりません。

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