文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:哲学

シモーヌ・ヴェイユの初期論集。書店で見つけて以来、読みたくてたまらないが、図書館の蔵書検索ではヒットしなかった。書店でパラパラとめくってみたところでは、これまでは伝記で断片的にしかお目にかかれなかった学校時代の作文・論文なども収録されているようだ。

追記
よく利用している県立図書館ではなく、新設図書館のほうからシリーズの本全てを借りて目を通した。春秋社『シモーヌ・ヴェーユ著作集』と重なる作品もあるが、この選集でしか読めない作品は貴重であるし、既に邦訳本のあった工場日記なども細かいところまで訳出、紹介されていて、新鮮な印象を受ける。1に収録された学校時代の論文から早くも窺える視野の広さ、表現の瑞々しさ、厳密さと奔放さの混じった考察の魅力は比類がない。

シモーヌ・ヴェイユ選集 1―― 初期論集:哲学修業
シモーヌ・ヴェイユ (著), 冨原 眞弓 (翻訳)
出版社: みすず書房 (2012/1/11)

 この本を借りていたとき、16歳のときの既に論文の形式、内容を備えた貴重な作品をコピーしておきたいと思ったが、うっかり返してしまった。

 シモーヌ・ヴェイユの論文は、宝石箱をのぞき込んだようなときめきを与えてくれるのだが、この本の魅力をきちんと分析するためにはもう一度借りてこなければならないだろう。

 初期論文の言葉の選択の巧みさ、飛翔を目指しているかのような思考傾向は最晩年の論文に至るまで、変質することのない特徴として存在している。

 そして、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユが西洋的思考法という卵の殻を内側から破ろうとして破りきることのできなかった悲劇性は、彼女の最晩年の面影に遭難を予期した登山家のような特殊な輝きを与えているとわたしは思う。

 このところの朝晩の温度差は大きいが、日中は夏日といってもよいくらい温かいせいか、血圧が低下しがちでやたらと眠い。その眠気を覚ますにはヴェイユの論文を読むに限る。

 大学時代に博多の書店「リーブル」で初めてヴェイユの本――田辺保訳『超自然的認識』だった――に出合ったとき、何気なく開いた白いページがきらきらと金色に輝き、自分の体が宙に持ち上げられたような――勿論、それは錯覚なのだが――感じを覚えて、これまで覚えたことのなかった類の感動の中で慌てたのを昨日のことのように覚えている。

 そういえば、昨日、田辺先生の夢を見た。先生にお目にかかったことはなかったが、試行錯誤をそのままぶつけたようなわたしの不躾な手紙の数々に美しい返事をくださった。

 大学時代に、この田辺先生と神智学の田中先生に質問の手紙を出してから、お二方はお亡くなりになるまで文通をしてくださった。

 キリスト者と神智学者の双方に接することで、わたしはバランスを保とうとしていたのかもしれない。

 基幹ブログのプロフィールに「田辺先生はキリスト者、田中先生は神智学者であり、この世における思想の区分では違う場所にいらっしゃいましたが、いずれも重厚な思想的ムード、人間的な優しさを漂わせておいでになり、お亡くなりになるまでわたしごときと文通してくださいました。つまり、受けた影響力の大きさには否定しようもないものが……」と書いた通り、このお二方から受けた影響力の大きさは自分でも自覚できないほどだと思う。

 わたしの夢の中で、田辺先生は絵画の制作をなさっていた。

 絵には舞台劇が組み込まれており、舞台劇は絵の中で進行中だった。フード付の長衣を着た女性がドクロの眼窩を連想させる黒目がちの目を見張って、迫真の演技を行っている。シェークスピア、あるいはギリシア悲劇のどれかだろうか。

 舞台劇を除いた部分は、何だかクレーを連想させる。シンプルな線が印象的。十字架と、その近くにデフォルメされた2人(3人だったかもしれない)の人物が配置されている。

 わたしは「キリスト教のテーマが強すぎるため、非常に抽象的に感じます。この絵が完全な抽象であれば、むしろわかりやすいでしょうね」と、生意気そうに感想を述べる。

 暗いが、シックで高級感の漂う空間が心地よかった。この夢は何を意味しているのだろう?

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Xmas3

 シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より。


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シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より―★


 かれはわたしの部屋へはいってきて、こういった。「なにも理解せず、なにも知らぬあわれな者よ。わたしといっしょに来なさい。おまえが思ってもみないことを教えてあげよう。」わたしはかれのあとについて行った。

 かれは、わたしをとある教会へ連れてきた。新しいが、あまり美しくない教会だった。かれは、わたしを祭壇の前までみちびいてくるとこういった。「ひざまずきなさい。」わたしはこたえた。「まだ洗礼を受けておりません」。かれはいった。「真理が存在する場所の前に出たときと同じように、愛をこめてこの場所でひざまずきなさい」と。わたしは、いいつけられたとおりにした。

 かれは、外に出なさいといい、こんどは屋根裏の一室へ上らせた。そこからは、開いた窓ごしに、町の全体が、材木を組んだいくつかの足場が、荷おろしをしている船が何隻かもやってある川が見えた。かれは、すわりなさいといった。

 わたしたちふたりのほかに、誰もいなかった。かれは話した。ときどき、誰かが入ってきて、会話に加わったが、すぐまた、出ていった。

 もう冬とはいえない頃だった。といってまだ春にはなっていなかった。木々の枝は、まだ蕾をつけず、裸のまま、冷たい空気の中で、日ざしを浴びていた。

 光がさしのぼってきて、輝きを放ち、そして薄らいで行った。そのあと、星と月とが窓から入りこんできた。それからまた新しく、明けの光がのぼってきた。

 ときどき、かれは黙りこんで、戸棚からパンをとり出してきて、わたしたちは分けあって食べた。そのパンは、まさしくパンの味がした。その味にはもう二度と再び出あうことがなかった。

 かれは、わたしにぶどう酒をついでくれ、また自分にもついだ。太陽の匂い、その町が建っている大地の匂いがするぶどう酒だった。

 ときどき、わたしたちは、その屋根裏部屋の床の上に横になった。甘い眠りがわたしの上にくだってくるのだった。そして、目がさめると、わたしは太陽の光を吸いこんだ。

 かれは、教えをさずけようと約束していたのに、なにも教えてくれなかった。わたしたちは、古い友だちどおしのように、とりとめもなく、種々雑多なことを話しあった。

 ある日、かれはいった。「さあ、もう行きなさい」と。わたしはひざまづいて、かれの足に接吻をし、どうかわたしを行かせないでくださいと切に願った。だが、かれはわたしを階段の方へと抛り出した。わたしは、何もわからず、心は千々に砕かれて、階段を下りて行った。いくつもの通りを通りすぎた。そして、あの家がどこにあったのかを、自分が全然知らずにいることに気づいた。

 もう一度あの家を見つけ出してみようとは、決してしなかった。かれがわたしを連れにきてくれたのはあやまりだったのだと、さとっていた。わたしのいる場所は、この屋根裏部屋ではない。それはどこだっていい。刑務所の独房でも、つまらぬ装飾品やビロードで飾りたてたブルジョアの客間の一室でも、駅の待合室でもいい。どこだっていいのだ。だが、この屋根裏部屋ではない。

 ときとして、わたしは、おそれと後悔の気持をおさえかねながら、かれがわたしにいったことを少しばかり、自分で自分にもう一度いいきかせてみずにいられないことがある。わたしがきちんと正確におぼえていると、どうしてわかるだろう。そうわたしにいってくれる、かれはもういないのだ。

 かれがわたしを愛していないことは、よくわかっている。どうして、かれがわたしを愛してくれるはずがあるだろうか。それにもかかわらず、なおかつ、おそらくかれはわたしを愛してくれているらしいと、わたしの中の奥深くの何ものかが、わたしの中の一点が、おそろしさにふるえながら、そう考えずにいられないのだ。

★―シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より―★

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