文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

タグ:ウィリアム・ジェームズ

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に2016年2月4日、公開した記事の再掲です。

   44 ヴァージニア・ウルフの知性美と唯物主義的極点
      http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/04/211114

Virginia_Woolf_1927
Virginia Woolf
1927年頃
原典: Harvard Theater Collection, Houghton Library, Harvard University 
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ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書)』(岩波書店、2002年)を読んだ。作品の評論的な部分は少ないが、ヴァージニア・ウルフという人物を知る上では好著だと思う。

ただ、落合恵子のあとがきが本の最後を飾っているのが嫌である。ヴァージニア・ウルフはフェミニズムの先駆者として有名であるが、落合恵子のフェミニズムとは本質が異なるという印象を受ける。

ヴァージニア・ウルフのフェミニズムは人類全体を高めるためのものだという美しさを感じさせるが、落合恵子のフェミニズムには人類をオスとメスに先祖返りさせるような嫌らしさを感じる。

落合恵子のあとがきから感じられるのは、オスが得ている特権に対する告発とその特権を奪いたいという目的意識で、単純ないいかたをすれば奪い合いの印象を与えるものであって、それ以上の崇高な意識が感じられない。彼女の政治活動にもそれはいえることではないだろうか。

マルキシズムもフェミニズムも劣化したものだと思う。

ヴァージニア・ウルフの作品から、わたしは何か制限及び限界のようなものを感じていた。シモーヌ・ヴェイユに感じた制限及び限界とどこか共通点があるような気もしていた。

ヴァージニアの宿痾であった精神障害という病気から来た制限及び限界とは別の何か思想的な性質のもので、それがなんであるかはわからなかった。

が、夏目漱石に影響を及ぼしたウィリアム・ジェームズの問題点を探る中で、彼の思想の問題点に気づいた今、「意識の流れ」という手法を接点としてヴァージニアがヴィリアム・ジェームズのどんな影響を受けたのかを調べる必要があると考えた。

シモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンの影響を受けていたことを知ってある謎が解けたように(前掲のブログ「神秘主義的エッセー」収録のエッセー2425を参照されたい)、何かがわかるかもしれないと考えたのだった。

ヴァージニア・ウルフ(西崎憲訳)『ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)』(筑摩書房、1999年)の解説によると、アデリーン・ヴァージニア・スティーブンは1882年1月25日ヴィクトリア朝の中流上層に生まれた。父レズリー・スティーヴンは作家・批評家で『十八世紀英国思想史』を著した。母ジュリア・ジャクソンは美貌で有名で、エドワード・バーン・ジョーンズの絵のモデルを務めたりした。

ヴァージニアは両親の4人の子供のうち3人目で、上からヴァネッサ、トビー、ヴァージニア、エイドリアンの順である。

両親は再婚で、父にはローラという連れ子がいた。ローラは精神薄弱児であった。母にはジョージ、ジェラルド、ステラという連れ子がいた。10名の大家族で、父の仕事柄さまざまな詩人や作家や画家がスティーブン家を訪れたという。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、詩人、作家ではメレディス、ヘンリー・ジェームズ、テニスン、マシュー・アーノルド、ジョージ・エリオットが父の友人だった。

しかし、ヴァージニアは6歳ごろから十代後半まで異父兄ジェラルドから性的虐待を受けた。ジョージからも同様の扱いを受けたとされる。

ヴァ―ジニアと彼女の姉は当時の風習からか男の子たちとは違って学校へは行かされず、両親、家庭教師から教育を受け、父の書斎の本を沢山読んだ。

ヴァージニア・ウルフ(神谷美恵子訳)『ある作家の日記(ヴァージニア・ウルフ‖コレクション)』(みすず書房、1999年)解説の「ウルフの略伝」によると、「ウルフの父レズリー・スティーヴンは初め聖職者への道に入ったが、のちに不可知論者となり、自分の子どもたちにも洗礼をうけさせず、一切宗教教育を施さなかった」(ウルフ,神谷訳,1999,p.525)という。

ヴァージニアの精神病が発症したのは1895年に13歳で母を喪った後であった。病相としては神谷の解説の「ウルフの病について」によれば、「罪障感、抑うつ、自殺企画、拒食、幻覚、妄想その他種々な身体症状を伴ううつ状態か、または異常に愉快になり、昂奮して誇大妄想や荒々しい行為などを示す躁状態に陥るものだったが、数ヶ月後または数年後にすっかり正常に復し、ふつうの生活ができるようになる。この正常な期間は中間期とよばれていて、ヴァージニアの作品も、主としてこの中間期に書かれている」(ウルフ,神谷訳,1999,pp.522-523
)という。

1912年にヴァージニアと結婚したレナード・ウルフによれば、ヴァージニアは「一生のうち四回、この病の大きな波におそわれた」(ウルフ,神谷訳,1999年,p.522)。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、ヴァージニアに精神病との診断が下されたのは1913年だった。

彼女の強い理性と荒れ狂う妄想とが戦ったが、理性が妄想に組み伏された。言葉遣いが乱暴になり、ひどい頭痛襲われ、奇妙な声が聞こえ、眠れず、食べようとしなかった。一九一三年の三ヶ月、事態は悪化するばかりで、ついに精神病との診断が下され、レナードは彼女が二年前にいたことのあるトウィッケナムの療養所にふたたび送ったほうが賢明だと考えた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.57)
 

1915年2月にヴァージニアはまた精神錯乱に陥った。最悪といえるようなものだった。不眠症と食事拒否だけではすまず、レナードが「悪夢のような狂乱と絶望と暴力の世界」と表現するような状態に陥ったのだった。

自分でそうと意識できるような精神不調の境界を越えてしゃべりまくるという狂気の状態へ突入したのである。彼女は、支離滅裂なことを間断なく、時には何時間も、意識を失うまでしゃべり続けた。彼女が彼に話しかけることはなく、ののしるだけだった。(……)彼らは、まだ狂っているヴァージニアをホーガス・ハウスに移動させた。そして、なんとか四人の住み込みの看護人をつける費用を捻出した。(Nicoison,2000 市川訳,2002,pp.58-59)
 

1915年9月にアッシャムに戻って来られ、リハビリテーションを始めた。ヴァージニアの狂気の発作はレナードに大きな精神的打撃をもたらし、政治ジャーナリストとして国際関係においては権威となっていた彼がヨーロッパでの戦争の勃発にほとんど気づいていなかったほどだった。

第二次大戦が始まった。ドイツ軍の侵攻の脅威の中、レナードはユダヤ人であり――ユダヤ人に対してヴァージニアは複雑な感情を持っていたようである――、反ナチ活動をしていたために二人共ゲシュタポに捕われたときのために致死量のモルヒネを常備していた。

ロンドンの二つの家が崩壊し、サセックス州ロドメルのモンクス・ハウスで最晩年となる1941年の数ヶ月を過ごした。

ヴァージニアは3通の遺書を残した。レナード宛の遺書を書いてからも十日間生きていたという。3月18日にずぶぬれで帰ってきて、間違って水路に落ちたといった。

3月28日、「正午頃、ウーズ川まで半マイル歩き、毛皮のコートのポケットに大きな石を詰め込み、水中に身を投げた。彼女は泳げたが、強いておぼれるよう務めた。恐ろしい死であったに違いない」(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.193) 

59歳だった。

レナードにヴァージニアが宛てた最後の手紙は悲痛だが、ヴァージニアの人となりをよく表していると思うので、引用しておく。
火曜日
最愛の人へ。私は狂っていくのをはっきりと感じます。またあの大変な日々を乗り切れるとは思いません。今度は治らないでしょう。声が聞こえ始めたし、集中できない。だから最良と思えることをするのです。あなたは最高の幸せを与えてくれました。いつでも、私にとって誰にもかえがたい人でした。二人の人間がこれほど幸せに過ごせたことはないと思います。このひどい病に襲われるまでは。私はこれ以上戦えません。私はあなたの人生を台無しにしてしまう。私がいなければあなたは仕事ができる。きっとそうしてくれると思う。ほら、これをちゃんと書くこともできなくなってきた。読むこともできない。私が言いたいのは、人生の全ての幸せはあなたのおかげだったということ。あなたはほんとに根気よく接してくれたし、信じられないほど良くしてくれた。それだけは言いたい。みんなもわかっているはずよ。誰かがわたしを救ってくれたのだとしたら、それはあなただった。何もかも薄れてゆくけど、善良なあなたのことは忘れません。あなたの人生をこれ以上邪魔しつづけることはできないから。
 私たちほど幸せな二人はいなかった。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.192)
ヴァージニアの作品には短文も長文もあるが、同じような形式で書かれていることが多い。散文詩というべきなのか、詩的な散文というべきなのかはわからないが、いずれにしてもストーリーを重視しない詩のような文体で綴られ、「意識の流れ」という手法が用いられている。

今回ヴァージニアの数編の作品を再読し、彼女の作品からは流れるような、とりとめのない印象を受けるが、よく読むと、断片を縫い合わせたパッチワークキルトを連想させられるところがあった。

物事の描写に強弱がない。例えば1個の果実の落下も、戦争のような重大な社会現象も均等の重さでもって描かれるという風に。情報を無意識的に優先順位をつけて選択している凡人の意識からすれば、創作上の意識的な作業によるものだとはいえ、これは大変独創的なことであるし、また不自然なことでもある。

キルトはどんどん仕上がっていく。ある限定された空間を埋め尽くさんばかり。

分析の確かさや機知の閃きから躍動感や浄化のイメージが生まれるが、全体にどこか演技がかっているといおうか、書き割り風だ。若いころに比べると読者としてより自然体となったせいか、読んでいて息苦しさを覚えた。

日記でもそうした向きがある。こうした精緻であり、刺激的であると同時に単調でもあるような独特な思考傾向の中からこそ、評伝の著者であるナイジェル・ニコルソンが九つだったときにヴァージニアから受けたようなユニークな質問も出てくるのだろう。
「子どもでいるってどんな感じ?」 (Nicoison,2000 市川訳,2002,p.1)
わたしは評伝を読むとき、次のことを知りたいと思っていた。

  • ヴァージニアの狂気の発作とはどのようなものだったのか。
  • 性的虐待を受けたというが、相手は誰でどんな虐待内容だったのか。
  • ブルームズベリー・グループのメンバーたちとその活動。
  • 友人関係を超えた母とも、恋人ともいえる女性だったというヴィタ・サックヴィル=ウェストとはどんな人物なのか。
ブルームズベリー・グループについては、ウィキペディアから引用したほうが手っ取り早い。
ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。
もともとは、姉妹であるヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフを含む4人のケンブリッジ大学生によって、結成された非公式な会合がきっかけであり、メンバーたちの卒業後もこの集いは存続した。
(……)
ブルームズベリー・グループの意見や信念は第二次世界大戦を通して話題を呼び、広く非難されたが、次第に主流となりそれは終戦まで続いた。ブルームズベリー・グループのメンバーであった経済学者ジョン・メイナード・ケインズの著作は経済学の主要な理論となり、作家ヴァージニア・ウルフの作品は広く読まれ、そのフェミニズムの思想は時代を超えて影響を及ぼしている。他には伝記作家リットン・ストレイチー、画家のロジャー・フライ、作家のデイヴィッド・ガーネット、E・M・フォースターがいる。また早くから同性愛に理解を示していた。イギリスの哲学者で熱心な反戦活動家であったバートランド・ラッセルも、このグループの一員と見なされることがある。
ブルームズベリー・グループは組織一丸となっての活動成果よりも個々人の芸術的な活動成果が主に評価されているが、20世紀の終わりが見えた頃から、組織内での複雑な人間関係が、学問的注目を集め研究対象となっている。(ウィキペディアの執筆者. “ブルームズベリー・グループ”. ウィキペディア日本語版. 2014-10-27. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97&oldid=53352032, (参照 2016-02-02).)
ブルームズベリーとは場所である。
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Pixabay

要は両親亡き後、ブルームズベリーのゴードン・スクエア46番地に引っ越したスティーブン家の兄トービーがケンブリッジの友人たちを連れてくるようになり、その集まりにはスティーブン姉妹もいたのだった。

彼らはまじめな若者の集まりで、ブルーズベリーでの討論会は当初はケンブリッジでのセミナーの延長のようなものだった。彼らは新聞記事を互いに読み聞かせ、真理や美といった抽象的な理念を論じ合った。出されるものといえばココアやわずかなウィスキーだけだったが、それが彼らに買える全てであった。ケンブリッジとの違いは女性が二人いることだった。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.23) 
 
メンバーに経済学者ケインズがいることに注目してしまうが、こうしたブルームズベリーにおける知的で軽妙な集まりが社会的な影響を及ぼすようになったということのようである。

ヴァージニアは兄たちの自由な雰囲気に溶け込んでおり、物を書く場にも恵まれているという風で、ヴィクトリア朝の中流上層階級から出なくとも作家として知的扇動できる境遇にあった。

ヴァージニアのフェミニズムには性的虐待という悲痛な体験から出た部分、逆に当時の女性としては環境的に恵まれている部分から出たところがあるのではないかと思うが、彼女はいわゆる社会活動家という感じではない。

作家として女として人間として思ったことを自然体で主張したところ、その主張は時宜を得ていて世に受けた――という感じを評伝からは受ける。

ブルームズベリーの先駆者の一つとして、フェビアン協会が挙げられている。ヴァージニアと比較すれば、のちに神智学協会2代会長となったアニー・ベザントのフェビアン協会での活動のほうが抑圧されていた労働者側に徹底して立とうとした情熱と心情の純粋さでは勝っている気がする。

ヴァージニア・ウルフ(川本静子訳)『自分だけの部屋』(みすず書房、1988年初版、2013年新装版)の本のカバー裏面には次のように書かれている。

「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」(V・ウルフ) 
 経済的自立と精神的独立を主張し、想像力の飛翔と軽妙な語り口によって、女性の受難史を明らかにしたフェミニズム批判の聖典。
 
講演の草稿が元となったこのエッセーは、フェミニズム運動にとって、大変有名な本なのである。

わたしの読後感は時代の変化によるものなのか、自身の変化によるものなのか、若いころに読んだときと違ってきている。昔はぼんやりと読み、漠然とした疑問を覚えた程度だった。わたしの母が社会で働く女性だったから、あまり興味が湧かなかったのかもしれない。

今、ヴァージニアの主張をその通りとは思うが、そのような環境で書かれる作品は年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋の傾向を帯びると思えるし、ある意味で、そのような女性は男性だと思うのである。田舎を出て都会に行った男性が都会の人間になってしまうように。
勿論、女性の環境を向上させることは大事であるが、社会に出て働くことが好きな女性も本当なら家庭に入りたい女性も、育児を他人にほぼ丸投げして社会で働かざるをえない現代日本の異常な状況を見るとき、フェミニズム運動の方向性に疑問が湧くのである。

家庭に入った女性たちがどれだけ暮らしを多彩なものにし、弱いものを保護し助け、貴重な文化の継承をなしてきたことか。こうした業績は無視されるべきでも軽んじられるべきでもない。

ヴァージニアの知性美は彼女の政治がかった意見以上の発言力を持ち、両性の相克を遥かに凌駕している。一方、社会改良だけではどうにもならないと悟ったベザントは人類の根源的なテーマを求めて神智学へ向かった。

この時代の女性達は肉体的に動的であれ静的であれ、スケールが大きく、徹底している。

ヴァージニアのような知性の勝った乾いたタイプはヴィタのような潤いのある女性を必要としたようだ。

ヴィタ・サックヴィル=ウェストは評伝『ヴァージニア・ウルフ 』を執筆したナイジェル・ニコルソンの母だった。ヴァージニアの異色作『オーランドー』のモデルとなった女性である。
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Vita Sackville-West
Studio portrait presented by Esther Cloudman Dunn to the Smith College Library.
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Vita_in_1916
Vita in 1916
The Life of V.Sackville-West by Victoria Glendinning
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ヴィタはといえば、あるときは大いに大胆だが、次の瞬間には非常に内気になる性格で、十歳年上のヴァージニアに恋する半面、彼女を恐れてもいた。ヴィタにとってブルームズベリーは頭がよすぎるうえ、故意に威圧感を与えていると感じられた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.86) 
 

ヴィタは魚座ではないかと思って調べたら1892年3月9日に生まれ、1962年6月2日に亡くなっているから、やはり魚座である。

わたしも魚座で、獅子座上昇宮に天王星が入り、水星と金星が水瓶座に入っているから、魚座のヴィタの気質も水瓶座のヴァージニアの気質もどちらもわかる気がするのである。

ヴィタも作家・詩人であったからヴァージニアの物の考え方は新鮮であっただろうし、自分より十歳年上であったとはいえ人間的にはどこか不器用な彼女を庇護してやりたいような母性愛が湧いたに違いない。

ヴィタは恋多き人であったようだが、戦争の中で親密さが復活した。ヴィタがロドメルまで車を走らせてヴァージニアに最後に会ったのは2月17日だった。

ヴィタに捧げられ、変装した彼女のいろいろな写真入りで1928年に上梓されたヴァージニアの小説『オランドー』。

ジェンダーをテーマとする学術研究の対象によくなるらしいので、簡単に触れておくと、『オーランドー』は男性として生まれたオーランドーが7日間の昏睡後に女性へと変身し、やがて女性としての自覚と歓びに目覚め、完全に女性としての人生を全うしていくという物語である。

当時はこのような変身はあくまでファンタジーであったが、現代では手術によって性転換してオーランドーのように生まれたときとは異なる性として生きる人も珍しいことではなくなった。
もっとも、このファンタジーは、女であったがために父サックヴィル卿の形見の――ケント州セヴノークスにある――ノールの邸宅を継げなかったヴィタを慰めるために書かれたのだという。
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West Front, Knole, Sevenoak
1910
Alfred Robert Quinton (1853–1934)
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性転換といえば、魚などで見られることのある性転換は雌雄同体の様式の一つとされる。

神秘主義では魂は両性具有とされ、人間は男女どちらにも生まれ変わる。欠けている要素を学んで吸収してバランスを取り戻すために、どちらかの性を選んで生まれてくるとされる。神秘主義者であるわたしは、前世では男性の年取った修行者として死んだという自覚があるからこそ、粛々として女性として生きている。オーランドーのように女性を謳歌しているというよりは、前世で理解しなかった女性の人生について今まさに学んでいるのだ……という感慨深いものがある。

主婦業こそ、前世で男性性に傾きすぎたバランスを回復するための最も有益な修行となりうるということを今では自覚している。いざ社会に出るときになって就職の邪魔立てをするかのように母が倒れ、共稼ぎをするにはなかなか条件が整わず、作家になって社会的な活躍ができないのもそのためだ――などというつもりはないが。

ところで、前述したようにヴァージニア・ウルフは「意識の流れ」という手法を用いた。「意識の流れ」はウィリアム・ジェームズの心理学概念、心理学用語である。

それがどんな考えかたで、文学的手法としてどんな使われかたをしてきたのかを、ウィキペディアから引用する。
人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。(……)
この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を表す言葉として使われるようにもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の流れ」という言葉が用いられるようになる。(ウィキペディアの執筆者. “意識の流れ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-04. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C&oldid=58122749, (参照 2016-02-05).)
ヴァージニアの父の仕事関係でスティーブン家を訪れていたヘンリー・ジェームズはウィリアム・ジェームズの弟である。

ウィリアム・ジェームズについては漱石やブラヴァツキー関連でいくらか調べた。以下のリンク先は拙基幹ブログ「マダムNの覚書」。
2015年3月17日 (火)
#12 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ①古き良きアメリカの薫り『プラグマティズム』、漱石のおらが村
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2015年3月27日 (金)
#13 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ②W・ジェームズの疑わしい方法論
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2015年4月 2日 (木)
#14 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ③現金価値
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2015年4月12日 (日)
#15 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ④心霊現象研究協会(SPR)と神智学協会
アメリカ哲学の創始者といわれ、その影響は哲学、心理学、生理学、文学など多岐に及ぶとされるウィリアム・ジェームズ。

ウィリアム・ジェームズの代表作は、1906年11月および12月ボストンのロウエル学会において、また1907年1月ニューヨークのコロンビア大学において講述された講義録『プラグマティズム』である。

プラグマティズムが何であるかは、ウィリアム・ジェームズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム(岩波文庫)』(岩波書店、2010年改版)からの以下の引用にいい表されていると思う。
「一つの観念ないし信念が真であると認めると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか? その真理はいかに実現されるであろうか? 信念が間違っている場合に得られる経験とどのような経験の異なりがでてくるであろうか? つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」
 プラグマティズムは、この疑問を発するや否や、こう考える。真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。偽なる観念とはそうできない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。それが真理が真理として知られるすべてであるからである。(ジェームズ、桝田訳,2010,pp.199-200)
現金価値という言葉が出てくるあたり、アメリカの哲学らしいといえばそうだが、わたしにはここでジェームズが馬脚を露わしたように感じられた。過去の哲学が最新科学ではないといって非難しているかのようだ。

験証とは、検証、実験の結果に照らして仮説の真偽を確かめることだが、最新の実験装置で験証できる観念だけが真の観念である、とジェームズはいっていることになる。

つまりそのときの科学で解明できることだけが真で、それ以外の仮説は全て偽ということになるわけだ。神秘主義者はそうやって切り捨てられたりするわけだが、それはつまり、哲学を科学に限定してしまうという話になるのではないだろうか。しかし、科学が仮説によって成り立っているところから考えると、科学的というわけでもない。

1882年に心霊現象の研究と検証を目的とした研究機関(SPR、英国心霊現象研究協会)、1885年にはASPR(米国心霊現象研究協会)が設立された。ウィリアム・ジェームズは1894年から1895年にかけてSPR会長を務めている。

SPRは「ホジソン報告」でブラヴァツキーに汚名を着せ、神智学協会の社会的信用を失墜させた。

H・P・ブラヴァツキー(加藤大典訳)『インド幻想紀行 下(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2003年)の解説で、高橋巌は次のように書いている。

一九八六年になって、SPR(ロンドンの心霊研究協会)は、HPBの欺瞞性を暴露したといわれた「ホジソン報告」(一八八四年)について亡き夫人に謝罪し、百年来の論争に終止符を打った、とのことである。(ブラヴァツキー,加藤訳,2003年,「解説 魂の遍歴」p.501)
 
だが、SPRの「ホジソン報告」の影響は現在にまで及んでいる。

ウィリアム・ジェームズは超常現象について、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」と発言し、コリン・ウィルソンはこれを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけたそうだ。(ウィキペディアの執筆者. “ウィリアム・ジェームズ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-30. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA&oldid=58429691, (参照 2016-02-03).)
  
このウィリアム・ジェームズの法則、わたしには意味がわからない。信じるとか信じないといったことが、事の真偽に何の関係があるのだろう? 

わからないことを端から色眼鏡で見たり、否定したりする態度が科学的だとはわたしには思えない。わからないことをわからないこととして置いておく態度こそ科学的といえるのではないだろうか。

ブラヴァツキーを誹謗中傷する人々は、コリン・ウィルソンの著作の影響を受けて引用していることが多い。

わたしが怪訝に思うのは、ウィリアム・ジェームズのような哲学者を会員として持ちながら、なぜSPRはブラヴァツキーの著作について学術的な論文を書かなかったのかということである。

もっとも、『ブラグマティズム』で「プラトン、ロック、スピノザ、ミル、ケアード、ヘーゲル――もっと身近な人々の名前をあげることは遠慮する――これらの名前は、わが聴講者諸君の多くには、それだけの数の奇妙なそれぞれのやりそこない方を憶[おも]い出させるに過ぎないと私は確信する。もしそういう宇宙の解釈がほんとうに真理であるとしたら、それこそ明らかな不条理であろう」(ジェームズ、桝田訳,2010,p.45-46)と、大哲学者たちをまず否定してかかることを何とも思わないウィリアム・ジェームズが、ろくに読みもせずにブラヴァツキーの著作を否定したことは充分考えられる。

聴衆や読者に先入観を植え付けるような態度が哲学的な態度でないことは、いうまでもない。

また、神秘主義者によって拓かれた心理学の分野(エッセー39「魔女裁判の抑止力となった、暗黒の時代の神秘主義者たち」、詳しくは上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社、1998年)を参照されたい)がウィリアム・ジェームズのような唯物主義的、実利的な人物の影響を受けたことと、現代の精神医療が薬物過剰となっていることとは当然、無関係とはいえないだろうと思う。

ウィリアム・ジェームズより遥かに知的だったヴァージニアは自分にわからないことを否定したりはしなかったが、その思索は唯物論的世界に限定されていたような感じを受ける。プラトンなど読書した形跡は日記にあるが、ざっと読んだだけという印象を受ける。
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Lytton Strachey and Virginia Woolf.
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生と死は頻りにモチーフとなっているが、死のことを書くにしても、『ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)』所収「」壁の染み」で書くように控えめである。

結局のところ人はここで生まれるのと同じようにあちらで生まれると推測してはなぜいけないのだろうか?(ウルフ,吉崎訳,1999年,p160)
 
ヴァジニア・ウルフ(鈴木幸夫訳)『波(角川文庫)』(角川書店、昭和29年初版、平成元年3版、p.291)の結末のような激しい、美しい表現をとっても、思索の翼をそれ以上広げることはせずに、慎ましくこちら側に留まっている。それは思索にとって自然なことだろうか。もしかしたら、病気のために、翼を広げることが恐ろしかったのかもしれない。

死こそ敵だ。槍を構えて、若者のように髪を後ろになびかせ、印度を疾駆したパーシバルのように、わたしは死に向つて馬を乗り入れるのだ。いまこそ馬に拍車を加えるぞ。汝に向かって突進する、征服されることなく、屈服することなく、おお死よ。
     *
 波が渚に砕けた。(ウルフ,鈴木訳,昭和29年,p160)
 
なぜかわたしにはヴァージニアが工場労働者だったようなイメージが湧く。過酷な知的流れ作業の果てに倒れたのだと思える。

わたしは「詩人」と呼んでいた女友達を連想していた。象徴主義的な美しい詩を書いたが、彼女は意外にも唯物主義的な人で、わたしは彼女には一切神秘主義的な話ができなかった。統合失調症に高校時代から最晩年まで悩まされ、奇しくもヴァージニアと同じ59歳で逝った。(直塚万季『詩人の死』Kindle版、2013年、ASIN: B00C9F6KZI)

芸術の歓びはあちらからやってくるのではないだろうか。もっと翼を広げ、もっと享受できたはずなのに、翼を広げかけたままのつらい姿勢に終始し、あまりにも少ししか受けとらなかったヴァージニア・ウルフ。

神秘主義的に見れば、それは霊的な餓死に見える。
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ブログ「マダムNの覚書」に4月12日、投稿した記事の再掲です。

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アメリカ哲学の創始者といわれ、その影響は哲学、心理学、生理学、文学など多岐に及ぶとされるウィリアム・ジェームズ。

こうした評判の高い人物とブラヴァツキーを苦しめた心霊現象研究協会(SPR)とがわたしの中で結びつかず、歴史小説執筆のために漱石研究を棚上げしようとしたまさにそのとき、気づいた。

そして、夏目漱石の研究からウイリアム・ジェームズの哲学プラグマティズム、さらにSPRに辿り着いたことで、SPRが異様なまでに権威を帯びた団体であったことを知った。

心霊現象研究会:Wikipedia

心霊現象研究協会(しんれいげんしょうけんきゅうきょうかい、英: The Society for Psychical Research)は、1882年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの(フレデリック・マイヤーズを含む)心霊主義に関心のあった3人の学寮長によって設立された非営利団体である。この組織は頭文字をとって SPR と略称される。
「心霊研究協会」と訳されることも少なくないが、本来科学的研究を意味する Psychical Research(心霊現象研究)と、元はその訳語でありながら日本独自に心霊主義的に発展した「心霊研究」とは異なる。

概要
初代会長は哲学・倫理学者でもあったヘンリー・シジウィック教授である。一般に、これをもって超心理学元年と目されている。
協会の目的は、心霊現象や超常現象の真相を究明するための科学的研究を促進することであった。当初、研究は6つの領野に向けられていた。すなわち、テレパシー、催眠術とそれに類似の現象、霊媒、幽霊、降霊術に関係した心霊現象、そしてこれら全ての現象の歴史である。
1885年にはアメリカ合衆国でもウィリアム・ジェームズらによって米国心霊現象研究協会(英語版) (ASPR) が設立されて、1890年には元祖 SPR の支部になった。有名な支持者には、アルフレッド・テニスン、マーク・トウェイン、ルイス・キャロル、カール・ユング、J・B・ライン、アーサー・コナン・ドイル、アルフレッド・ラッセル・ウォレスなどである。
協会は、1884年のブラヴァツキー夫人と神智学協会のトリック暴き(後にこれは協会手続上の瑕疵により、協会としての行動ではなかったと表明)で名をあげ、設立後30年間とりわけ活動的だったが、霊媒のトリックを次々に暴いたりしたため、アーサー・コナン・ドイルなど心霊派の人々が大挙して脱退したこともあった。

主な歴代会長のリスト
1882-1884 ヘンリー・シジウィック、哲学者
1892-1894 A・J・バルフォア、イギリスの首相、バルフォア宣言で有名
1894-1895 ウィリアム・ジェイムズ、心理学者、哲学者
1896-1897 ウィリアム・クルックス卿、物理学者、化学者
1900 F・W・H・マイヤース、古典学者、哲学者
1901-1903 オリバー・ロッジ卿、物理学者
1904 ウィリアム・フレッチャー・バレット、物理学者
1905 シャルル・リシェ、ノーベル賞受賞生理学者
1906-1907 ジェラルド・バルフォア、政治家
1908-1909 エレノア・シジウィック、超心理学者
1913 アンリ・ベルクソン、哲学者、1927年にノーベル文学賞受賞
1915-1916 ギルバート・マリー、古典文学者
1919 レイリー公、物理学者、1904年にノーベル賞受賞
1923 カミーユ・フラマリオン、天文学者
1926-1927 ハンス・ドリーシュ、ドイツの生物学者、哲学者
1935-1936 C・D・ブロード、哲学者
1939-1941 H・H・プライス、哲学者
1965-1969 アリスター・ハーディ卿、動物学者
1980 J・B・ライン、超心理学者
1999-2004 バーナード・カー、ロンドン大学の数学、天文学の教授

歴代会長のリストを見ると、錚々たる顔ぶれだ。イギリスの首相に、ノーベル賞受賞者が3人もいる。こんな仰々しい連中をブラヴァツキーは相手にしていたわけである! 

病身に鞭打って、寸暇を惜しみ執筆していた無抵抗なブラヴァツキーをSPRは猫が鼠を狙うように狙い、追い詰めた。さすがは植民地大帝国を築いだけのことはある、執拗さ、残酷さで。

ウィリアム・ジェームズはブラヴァツキーが1891年に亡くなったあとの1894年から1895年にかけて会長を務めている。

偏見抜きでW・ジェームズの代表作『プラグマティズム』を読むことができて、幸いだった。SPRとブラヴァツキーの間で起きたいざこざを、わたしは心情的にどうしてもブラヴァツキーの側から見てしまうからである。

そして、プラグマティズムに興味を持つこともないまま、ブラヴァツキーがどんな人々と、どんな風潮と闘っていたかを把握できず、またそうする必要性にも気づかなかっただろう。

欧米諸国や日本が経済的物質主義に染まってしまう前に、SPRとブラヴァツキーの一騎打ちがあった。それはブラヴァツキーからすれば、相手側の陣中に引き摺り込まれた不利、不当な戦いだった。

それは、SPRの一方的な勝利宣言に終わり、やがてSPRに象徴されるような唯物論の潮流は、一気に神秘主義の砦ともいえた――「霊的な意味での唯物論」*1を展開する――神智学協会を押し流した。

 *1 『新時代の共同体 一九二六』(日本アグニ・ヨガ協会、平成5年)の用語解説「唯物論」(pp.275-276)を参照。

 唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」(本書123)は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質の法則と現象を研究する。近代の唯物論は、紛れもない物質現象を偏見のために否定するので、「幼稚な唯物論」(121)と呼ばれる。「物質」の項参照。(pp.275-276)

 物質 質料、プラクリティ、宇宙の素材。「宇宙の母即ちあらゆる存在の大物質がなければ、生命もなく、霊の表現もあり得ない。霊と物質を正反対のものと見なすことにより、物質は劣等なものという狂信的な考え方が無知な者たちの意識に根づいてきた。だが本当は、霊と物質は一体である。物質のない霊は存在しないし、物質は霊の結晶化にしかすぎない。顕現宇宙は目に見えるものも、見えないものも、最高のものから最低のものまで、輝かしい物質の無限の面をわたしたちに示してくれる。物質がなければ、生命もない。(p.275)

尤も、SPR事件を境として神智学協会が衰退したわけではなかった。実際には、ブラヴァツキーの死後も1920年代までは、神智学協会の強い影響力は洋の東西を問わず及んだ*2

*2 以下のオンライン論文を参照。
2010 杉本良男「比較による真理の追求―マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」出口顯・三尾稔(編)『人類学的比較再考』(国立民族学博物館調査報告90): 173-226
URL:http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/4459/1/SER90_009.pdf(最終確認日:2015年4月12日)

神智学協会第2代会長アニー・ベザントの死後、協会から活気が失せたのには協会内部の問題もあったのだろうが、第二次世界大戦やマルクシズムの影響など、外部的な要因も無視できないのではないだろうか。

前掲の杉本論文(2010)に、参考資料として「神智協会の目的 Objects の変遷[Ransom 1938: 545‒553]」が挙げられ、三つの目的のうち、2番目の英文の邦語訳について注意が促されている。

2 .比較科学[ママ],比較哲学,比較科学の研究を促進すること。(比較宗教,哲学,科学の研究を促進すること)。
  To encourage the study of comparative religion, philosophy and science.

 邦語訳については現行の「神智学協会ニッポン・ロッジ」の邦語訳をかかげるが,訳自体2種類あるので,タイトル・ページにかかげられている訳を初めにあげ,括弧内に入会案内のページでの訳をかかげておいた。個人的には後者の方がこなれた訳のように思う。それはともかく,第2項の「比較omparative」が,この訳のように哲学,科学までかかるのか,宗教だけにかかるのかについては大きな問題をはらんでいる。科学史的には,1896年時点で比較哲学,比較科学という概念はありえないようであるが,協会自体も明確ではないようである。(……)[杉本 2010]

翻訳技術上の問題もあるだろうが、まずは内容から「比較omparative」が哲学、科学までかかるのか、宗教だけにかかるのか、ブラヴァツキーの主要著作『The Secret Doctrine シークレット・ドクトリン』『Isis Unveiled ベールをとったイシス』ぐらいはざっとでも読んで、判断してみようとするのが常識ではないのかと学術的慣わしに無知なわたしなどは思ってしまう。

英語が堪能で羨ましいが、その英語力を駆使しながら肝心のものを読まないという姿勢がよくわからない。

ブラヴァツキーの代表作を読まずしてブラヴァツキーを語ろうとする人々による、ブラヴァツキー批判の無責任な孫引きが執拗に繰り返されて、彼女の畢生の大作は泥だらけにされたのだ。

内容からすれば、比較宗教、比較哲学、比較科学でいいんじゃないかと個人的に考える。

オカルトブームやニューエイジムーブメントの先駆者としてブラヴァツキーの名が挙がることはよくあるが、そこには概ね、蔑視的、批判的な意味合いが籠められている。

そして、その根拠としてSPR事件がよく使われるのである。

具体的にどのようなことが起きたかというと、SPRは、神智学協会の結成とブラヴァツキーの執筆がアデプト*3と呼ばれる――マハトマ、マスターと呼ばれることもある――方々の直接的な指導下で行われたという評判やブラヴァツキーが大衆向きに披露したサイキックな実験などについて調査し、否定的な報告書を作成して、それを公表したのだった。

 *3 H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年改版)の用語解説(用語解説p.14)を参照。

 アデプト(Adept:Adepts,羅) オカルティズムでいうアデプトは、イニシエーションの段階に達し、秘教哲学という科学に精通された方を指す。(用語解説p.14)

ブラヴァツキーを詐欺師に仕立てて、神智学協会の評判を失墜させたSPRは、1986年になって、その原因をつくったホジソン・リポートはSPRの正式な手続きに基づくものではないことを表明したそうだ(ヘレナ・P・ブラヴァツキー:Wikipedia)。

SPRによってブラヴァツキーの名誉回復が図られたともいえるが、あまりに遅すぎた。

『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(田中恵美子訳、神智学協会 ニッポンロッジ、昭和56年)を再読し、神智学協会の創立者たちは純真で、お人好しすぎた、との印象が残った。一般に形成されてしまったイメージとは対照的である。

神智学協会にサイキック調査の希望を申し出たSPRに対するブラヴァツキーの協力者たちは、次に引用するような反応を示した。

 一般にインド人達は、秘伝をうけた僅かな人達だけに、秘教的知識を限定した方がよいと思っていましたが、モヒニは創立者達が望んでいた通りにしようとしました。シネットは神智学というものは大衆のためのものではなく、知性的な人達の学ぶものと考えていましたので、サイキック研究会(S・P・R)の学者や科学者と協力するのを大変、幸福だと思いました。心の広いアメリカ人の大佐はいつも自分の発見したよいものを誰とでも頒ち合おうとしていました。事実、彼はその研究をすばらしい万全の機会だと思いました。S・P・Rは「学者の団体」という高い基準を維持することを目ざしていました。もしもこの団体が研究の末、神智学現象の真正さを公言できたなら――その筈だと大佐は考えていました――西洋の物質的思考形式に完全な革命をもたらすことでしょう。大佐は一生懸命、協力しました。(p.266)

SPRの申し出を拒絶するどころか、期待さえ寄せる協力者たちに対して、さすがにブラヴァツキーには懸念があった。

 HPBの考えでは、大佐は熱心なあまり、研究員達の懐疑的な慎重な心に、自分の奇跡的な体験をあまりに押しつけすぎていました。彼女はこの研究全体に懸念をいだいていました。S・P・Rの高慢な英国の知識人達は現象の背後にある人間についての深いヴェーダの考え方については何も知りませんし、自分の徳性の全傾向を変える放棄のヨガや自己放棄については何も知りませんでした。彼等にとっては、推理的な心が最高の神でした。彼等の心は非常に訓練されていたかもしれませんが、制限されており彼等がつかもうとしている超メンタル界にはとても及ばぬものでした。――間違った角度から本質的な謙虚さもなくとらえようとしていたのです。(pp..266-267)

SPRを疑っているように見られたくなかったブラヴァツキーは拒絶できなかった。それが1883年のことだった。そして、1885年12月31日の大晦日に、最悪の打撃がブラヴァツキーにふりかかった。

 伯爵夫人は次のように書いています。「一言の警告もなしに、サイキック調査に関する協会の報告の写しを、HPBは速達便で受け取りました。その日のことも、彼女が私を見た、生気のない石のような絶望のまなざしも、私は決して忘れることは出来ません。私が居間にはいると、彼女は手に開いた本を持っていました。『私はこの時代の最大の詐欺師で、おまけにロシアのスパイだと言われてしまいました。これでは誰が私の言うことを聞き、シークレット ドクトリンを読んでくれるでしょう?』と彼女は嘆きました」(p.312)

よりによって大晦日に、何て礼儀知らずな連中だろう! 一体、どんな権利があって、そんなことができたのかと呆れる。まるで、魔女裁判のようではないか。 自分たちは恵まれた環境で、ぬくぬくと新年を迎えたに違いないと想像する。

わたしはつい自分の身に置き換えて、頭がおかしくなった父夫婦の訴えにより、地裁から訴状が届いた日の衝撃を連想してしまった。

訴状には、認めるか争うしか選択肢がないとあった。答弁書を提出せず、かつ、定められた期日に法廷に出てこられないときは、訴状に記載されていることをこちらが認めたものとして、即日、原告の請求通りの判決がされることがあるとあった。さらに、地裁では、弁護士以外の者を代理人とすることはできないとあった。

無視する手段もあったことをあとで知ったが、訴状の内容に何の覚えもなかったわたしにとって、その訴状はまさに青天の霹靂であり、ひどいダメージを受けた。

弁護士をつける金銭的な余裕などなく、大学は法学部だったといっても、答弁書を作成しようにももう法律的なことなど何も覚えていず、そもそもそのような実際的なことは学んだ覚えがなかった。

再婚したときから少し異常を感じさせた奥さんの影響があったとはいえ、父があそこまでおかしくなったのには加齢もあるだろうが、何より長年の飲酒癖にあった気がしている。外国航路の船員だった父の飲酒は豪快そのもので、吸っていた煙草も缶ピースだった。

日中は常に完全にしらふだったから、アルコール中毒を疑ったことはなかったけれど、脳に悪影響がなかったはずはない。それより、わたしは父が霊媒体質になってしまっているのではないかと疑っており、その原因がわからなかったが、それも飲酒の影響である可能性が大きいように今は思う。

父夫婦を案じてはいても、わたしにはどうしてあげることもできない。時々入ってくる情報によると、相変わらずのようだが、この先どうなるのかと思えば、心配で胸が痛くなってくる。

ブラヴァツキーの協力者たちの多くは神秘主義的能力の持ち主で、彼ら特有の世界を形作っていたといえるのかもしれない。それが当たり前の人間にとっては、ブラヴァツキーがそうした能力を最高度に発揮するのを目撃したからといって、特殊なことだとは思わないだろう。

心が綺麗でないと神秘主義的な、高級な能力は目覚めないから、ある意味で彼らは赤ん坊のように騙されやすい一面を持っている。自分を騙そうとしている相手の奥底にも美を透かし見てしまうから、その美の印象深さのためについ信じたくなり、結果的に騙されてしまう。

全てにおいてスケールの大きなブラヴァツキーは、騙され方や傷つき方も、半端ではなかったのだ。

ブラヴァツキーの伝記を読むと、若いころからアデプトと接触がありながら、試行錯誤し、実験を試み、幾度も試練に遭い、そうした体験の中で彼女が訓練され、磨かれ、霊的に開花していったことがわかる。それこそ、ブラヴァツキーが霊媒でなかった証拠である。

もちろん、霊媒になってしまう危険性はあっただろう。それは霊的に目覚めている人間にも、そうでない人間にも、どんな人間にも起こりうることである。

自分たちは霊媒性質とは無関係だと思っている、霊媒の定義すらブラヴァツキーの本で学んでいない人々は、霊媒、霊媒とブラヴァツキーを馬鹿にしてうるさいが、わたしが見る限り、世間は霊媒だらけで、彼らの吐く息で大気汚染がひどく、とかくに人の世は住みにくい(いけない、これ漱石の小説に出てくる言葉だった)。

父のことで前述したように、アルコール好きは自分で霊媒体質を作り出しているといえる。アルコールは脳や肝臓に悪いだけではないのだ。まともな宗教の教えに、飲酒をすすめるものなどない。

ブラヴァツキーの卓抜な神秘主義的な能力は前世までに得られたものであったに違いないが、生まれ変わる度に、その能力は再獲得されなければならない。それは本当につらい体験を伴う。

わたしにもいくらかは前世までに獲得した神秘主義的能力があって、それを今生で目覚めさせるのはそれなりに大変だった。今も試行錯誤や実験の最中であり、これはとりあえず死ぬまで続くのだろう。こうした能力は、どんな人間にもいつかは目覚める能力であるはずだ。

自分より遙かに進んでいるように思えるブラヴァツキーがわたしには霊媒、詐欺師に見えるどころか、輝かしく見えることは当然である。素晴らしい大先輩だと思う。この道をもっと進めばあんな試練が待っているのかと思うと、戦慄を禁じ得ないが……

ブラヴァツキーとSPR との間に起きた詳細は『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(田中恵美子訳、神智学協会 ニッポンロッジ、昭和56年)、『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成8年第3版)中、「『シークレット・ドクトリン』の沿革」に書かれている。

『シークレット・ドクトリン』の執筆中、ブラヴァツキーと共に住んだコンスタンス・ワクトマイスターによると、『シークレット・ドクトリン』執筆に際し、ブラヴァツキーはかなりな透視力を用いていたように見受けられたという。
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神秘主義的能力の持ち主だったワクトマイスターは、アデプトが精妙体で出現するのを度々見、言葉を聴くこともあったという。

このように『シークレット・ドクトリン』が複数のアデプトとの共作だったからこそ、ブラヴァツキーははしがきで、「今、しようとしていることは、最古の教義を集めて、一つの調和のとれた全体としてまとめることである。筆者が先輩達よりも有利な唯一の点は、個人的な推論や学説をたてる必要がないということである。この著作は著者自身がもっと進んだ学徒に教えられたことの一部であって、筆者自身の研究と観察による追加はごく僅かだからである」と、率直に書いたのだ。

ウィリアム・ジェームズは超常現象にかんして、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」と発言し、コリン・ウィルソンはこれを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけたそうだ(ウィリアム・ジェームズ:Wikipedia)。

このウィリアム・ジェームズの法則、わたしには意味がわからない。

信じるとか信じないといったことが、事の真偽に何の関係があるのだろう? W・ジェームズのこの言葉は、おそらく正しくは次のような意味である。「盲信したい人には盲信するに足る材料を与えてくれるけれど、(……)」

端から超常現象を馬鹿にしている言葉ではないか。この男はいつもこんな風だ。まず先入観ありきなのだ。神秘主義者のわたしは、この世界の物質レベルを超えた現象をこの世界の物質レベルの装置を使って証明したり、この世界の物質レベルの能力しか持たない人間にわからせることは不可能ではないかと思うだけだ。

そして、わからないことを端から色眼鏡で見たり、否定したりする態度が科学的だとはわたしには思えない。わかるときまで、仮説として、置いておけばいいことではないか。

ブラヴァツキーを誹謗中傷する人々はコリン・ウィルソンの著作の影響を受けたり、引用していることが多い。

わたしが怪訝に思うのは、ウィリアム・ジェームズのような哲学者を会員として持ちながら、なぜSPRはブラヴァツキーの著作について学術的な論文を書かなかったのかということである。

尤も、『ブラグマティズム』(桝田啓三郎訳、岩波書店[岩波文庫]、2010年改版)で「プラトン、ロック、スピノザ、ミル、ケアード、ヘーゲル――もっと身近な人々の名前をあげることは遠慮する――これらの名前は、わが聴講者諸君の多くには、それだけの数の奇妙なそれぞれのやりそこない方を憶[おも]い出させるに過ぎないと私は確信する。もしそういう宇宙の解釈がほんとうに真理であるとしたら、それこそ明らかな不条理であろう」(p.45-46)と、大哲学者たちをまず否定してかかることを何とも思わないW・ジェームズが、ちゃんと読む以前にブラヴァツキーの著作を否定したことは充分考えられる。

聴衆や読者に先入観を植え付けるような態度が哲学的な態度でないことは、いうまでもない。

また、神秘主義者によって拓かれた心理学の分野*4がウィリアム・ジェームズのような唯物主義的、実利的な人物の影響を受けたことと、現在の精神医療が薬物過剰となっていることとは当然、無関係とはいえまい。

 *4 上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社、1998年)参照。

ところで、『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(田中恵美子訳、神智学協会 ニッポンロッジ、昭和56年)に、次のように書かれている。

 科学が原子は分割出来るということを確認した時より三年前に、ブラヴァツキー夫人はシークレット ドクトリンに次のように書きました。「原子は弾力があり、分割することが出来るものなので、分子即ち亜原子で構成されていなければならぬ……オカルティズムの全科学は物質の幻影的性質と原子の無限の分割性との理論の上に築かれている。この理論は、実質について無限の視界を開く。実質はあらゆる微妙さの状態にあり、その魂の真正な息によって生気を吹きこまれるものである。(p.405)

わたしは昔、物理学においてクォークを物質の最小単位とする説をわかりやすく紹介した本を読んだとき*5、神秘主義の理論に立てば、クォークが物質の最小単位だなんて、そんなはずはなく、それより小さな粒子が見つかるだろうと思った。

ブラヴァツキーの言葉は、神秘主義の理論を明快に要約したものだ。

 *5 そのとき読んだ本は、南部陽一郎『クォーク―素粒子物理の最前線』(講談社、1981年)だったと思う。『クォーク―素粒子物理の最前線』の第2版に当たる『クォーク第2版: 素粒子物理はどこまで進んできたか』が1998年に上梓されている。

「『標準模型の"基本的な"粒子のいくつか、あるいはすべては、実はさらに分割できるのではないか』と考える理論もある」(基本粒子:Wikipedia)そうだが、『クォーク―素粒子物理の最前線』では、そのようなことも示唆されていたような気がする。

物理学には全く無知ながら、ブレーン宇宙論(ブレーンワールド:Wikipedia)にも興味がある。『シークレット・ドクトリン』の中の記述を連想させるからだが、そのうち息子にブレーン宇宙論について講義して貰おう。畑違いかもしれない。

これは有名な話だが、アインシュタインは『シークレット・ドクトリン』を愛読していたそうだ。

ところで、わたしは神智学の影響を受けた作家、詩人にかんする研究に着手したが、『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』の再読で、ブラヴァツキーの時代に影響を受けた詩人にロバート・ブラウニング、作家にイェーツがいたことを再確認した。

前掲の杉本論文にも、1920年ごろまで協会の影響を受けた欧米の知識人の例が引用されていて、参考になる。ウィリアム・ジェームズの名のあるのが解せないけれど。

ラビンドラナート・タゴールと神智学の関係については、岩間浩『ユネスコ創設の源流を訪ねて - 新教育連盟と神智学協会 - 』(学苑社、2008年)第4章「インド新教育運動の源流―R・タゴールの教育思想と事業を中心に」に詳しい。

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ブログ「マダムNの覚書」に4月2日、投稿した記事の再掲です。
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W・ジェームズの『プラグマティズム』( 桝田啓三郎訳、岩波文庫、2010年改版)を読んでいると、過去の哲学が最新科学ではないといって非難しているかのようだ。

プラグマティズムが何であるかは、以下の引用にいい表されていると思う。

「一つの観念ないし信念が真であると認めると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか? その真理はいかに実現されるであろうか? 信念が間違っている場合に得られる経験とどのような経験の異なりがでてくるであろうか? つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」
 プラグマティズムは、この疑問を発するや否や、こう考える。真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。偽なる観念とはそうできない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。それが真理が真理として知られるすべてであるからである。
(pp.199-200)

現金価値という言葉が出てくるあたり、アメリカの哲学らしいといえばそうだが、わたしにはW・ジェームズが馬脚を露わしたように感じられた。

神秘主義者は、神秘主義的知識の有無で、この世でもそうだが、より一層死後の世界であるあの世での「現実生活」においていかなる具体的な差異が生じてくるかのデータを集めてきた。

かくいうわたしもほんの少しだが、今生でこれまでに少しは集めた。そのための装置作りをつらい体験によって今生でやり直さなければならなかった(その頂点というべき体験を『枕許からのレポート』で書いた)。この世的にそれを証明できないのが残念であるが。

2007年9月30日 (日)
手記『枕許からのレポート』
http://elder.tea-nifty.com/blog/2007/09/post_e32f.html

※Kindle版もあります。
枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)

験証とは、検証、実験の結果に照らして仮説の真偽を確かめることだが、最新の実験装置で験証できる観念だけが真の観念である、とW・ジェームズはいっていることになる。

つまりそのときの科学で解明できることだけが真で、それ以外の仮説は全て偽ということになるわけだ。神秘主義者はそうやって切り捨てられたりするわけだが、それはつまり、哲学を科学に限定してしまうという話になるのではないだろうか。

だが、科学の進歩を考えれば、現代のプラグマティストによって偽と見なされた観念も、未来のプラグマティストには真の観念と見なされることもありうるということになるのではないだろうか。

神秘主義がなぜ生き延びてきたのかというと、神秘主義がその方法論において無秩序ではなく、一つのスタイルを遵守してきたからだと考えられる。

H・P・ブラヴァツキー『実践的オカルティズム』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年)序文で、それがどんなものかが説明されているので、引用してみよう。

 ブラヴァツキーの言っている「オカルティズム」は当然、心霊現象や「超自然的なこと」を漠然と指す現代の「オカルティズム」とは全く違う意味である。夫人のいうオカルティズムは、人類と同じくらい古い「科学中の科学」で、人間の最高の成就である。神聖な科学は近代科学と同様に、普遍的真理を探求するために厳密な方法を用いるので、科学と言える。しかし、道具と教育と動機という面において、神聖な科学と世俗的な近代科学は大いに異なる。
 物理的な観察をするために近代科学は様々な装置に頼るが、神聖な科学は物理的及び非物理的な観察をするには、主に、清められた人間の心の認識に頼る。(一人の観察は幾代もの先輩達の観察と照らし合わせて真正さが確かめられる。)

今ある物理的な装置で験証できないことを全て偽とする態度が哲学的とは、わたしには思えない。験証できない仮説は仮説のままにしておくほうが愛智者にふさわしい態度に思えるし、そもそもそうでなければ――哲学の仮説がなければ――、哲学が科学の進歩に寄与する機会も乏しくなるのではあるまいか。

だからこそカントは、『純粋理性批判』の中で「どうか理念(イデー)という語をその原義に即して保存されることをお願いしたい」(『純粋理性批判(中)』篠田英雄訳、岩波文庫、1961年、p.37)といって、仮説は仮説のままの純粋さに置いておこうとした。

また、カントはプラトンの「イデア」とアリストテレスのいう「イデア」との違いについて書いている。

プラトンは、イデアという語を用いた。そして彼がこの語を、感覚から採らなかったばかりでなく、アリストテレスの論じた悟性概念を遙かに超出するものと解したことは明らかである。経験のなかには、これと合致するようなものはまったく見出せないからである。[……]表現の行き過ぎということを別にすれば、この哲学者が、世界秩序における自然的なものを理念の不完全な模写と見なすことから始めて、目的即ちイデアに従ってこの世界秩序の建築的〔体系的〕結合へ上昇していく精神の飛翔は、我々の尊敬と追従に値する努力である。また道徳、立法および宗教の原理に関するところのものについて言えば、イデアが経験において完全に実現されることは不可能であるにせよ、しかし(善の)経験を初めて可能にするのは、やはりイデアそのものなのである。従ってイデアは、これらの領域において実に独自の功績を有する。それだのにこの功績を認めないのは、かかる功績がまったく経験的規則によって判定されるためであるが、しかし原理としての経験的規則の妥当性は、当然イデアによって無効にせられた筈である。自然に関しては、我々に規則を与えるものは経験であり、経験が真理の源である。しかし道徳に関しては、経験は(残念ながら!)仮像を産む母であり、私がなすべきところのものに関する法則を、なされるところのものに求めようとし、或いは後者によって前者に制限を加えようとすることは、まことに以てのほかの沙汰である。 (『純粋理性批判(中)』pp.32-37)

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ブログ「マダムNの覚書」に3月27日、投稿した記事の再掲です。
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第八講まである『プラグマティズム』のうち、わたしには第一講も第二講も疑問が噴出したが、第三講になってスコラ哲学やロックが出てきたとき、わたしの疑問はいよいよ大噴火を起こすに至った。

というのも、わたしは大学時代、『プラグマティズム』に出てくる哲学者や宗教家ヴィヴェーカーナンダの著作をいくらか読んだことがあり、どんな内容だったかはほとんど記憶が失せている今も、その残り香のようなものは忘れがたい印象として残っているので、ウィリアム・ジェームズの要約に甚だ違和感が生じたのだった。

まだちゃんと『プラグマティズム』を読んだわけではないので、再読時に考えが変わるかもしれないが、そのためにざっと疑問点をメモしておくことにしよう。

第三講の冒頭で、W・ジェームズは「私はいまプラグマティズムの方法を特殊な問題に適用した実例を二つ三つ挙げてこの方法をいっそう諸君になじみ深いものにしたいと思う。私はまずはじめにごく無味乾燥なもの、すなわち実体の問題を取り上げることにしよう」と切り出す。

ここで早くもW・ジェームズは実体=ごく無味乾燥なもの、と定義づけている。第一講と第二講にそう定義づけるに至った根拠が書かれていたっけと思い、目を皿のようにして読み返してみたが、実体という哲学用語はまだ出てきていなかった。

とすれば、この第三講でその根拠が示されるに違いない。そうでなければ、おかしい。

実体という用語は、哲学作品にはよく出てくる。アリストテレスは家にはないが、アリストテレスの哲学では重要な用語だったはずだ。

アリストテレスが嫌いだからといって、アリストテレスくらいは家に置いておくべきだと後悔している。

W・ジェームズが3頁に渡って実体について述べていることはアリストテレスの哲学作品『カテゴリー論』のW・ジェームズ的要約ではないかと思うが、おぼろげな記憶しかないので、あとで確認しておきたい。

ひとまず、ウィキペディアのウーシア「実体」から、アリストテレスによる実体の定義を引用しておこう。

ウーシア:Wikipedia
ウーシア(希: οὐσία, 英: ousia)とは、「実体」(英: substance)や「本質」(英: essence)を意味するギリシャ語の言葉。ラテン語に翻訳される際に、この語には「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なる二語が当てられたため、このような語彙の使い分けが生じた。

アリストテレスによる定義

この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)という語に、「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なるラテン語の二語が当てられるようになったのは、偶然ではなく、アリストテレスによる多様な定義・用法に由来している。

『範疇論』

アリストテレスは、『オルガノン』の第一書である『範疇論』にて、実体概念を、
第一実体 : 個物 --- 主語になる
第二実体 : 種・類の概念 --- 述語になる

の2つに分割している。

アリストテレスは、「イデア」こそが本質存在だと考えた師プラトンとは逆に、「個物」こそが第一の実体だと考えた。

こうして実体概念はまず2つに大きく分割された。

『形而上学』

アリストテレスの『形而上学』中のΖ(第7巻)では、アリストテレスの実体観がより詳細に述べられている。

そこではアリストテレスは、第一実体としての「個物」は、「質料」(基体)と「形相」(本質)の「結合体」であり、また真の実体は「形相」(本質)であると述べている。
第一実体 : 「個物」(結合体) --- 主語になる 「質料」(基体)
「形相」(本質)

第二実体 : 種・類の概念 --- 普遍 --- 述語になる

また、用語集である第五巻(Δ巻)第8章においては、この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、
1.単純物体。土、火、水のような物体や、それによる構成物、及びその部分。述語(属性)にはならず、主語(基体)となるもの。
2.1のような諸実体に内在している、そのように存在している原因となるもの。例えば、生物における霊魂。
3.1のような諸実体の中に部分として内在し、それぞれの個別性を限定・指示するもの。これが無くなれば、全体も無くなるに至るような部分。例えば、物体における面、面における線、あるいは全存在における数など。
4.そのものの本質が何であるかの定義を言い表す説明方式(ロゴス)それ自体。

といった列挙の後、
1.(上記の1より)他の主語(基体)の述語(属性)にはならない、窮極(究極)の基体(個物)。
2.(上記の2・3・4より)指示されうる存在であり、離れて存在しうるもの。型式(モルフェー)、形相(エイドス)。

の2つの意味を持つ語として、定義されている。

このように、「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、今日における
「物理的実体」「物質」(physical substance)
「化学的実体」「化学物質」(chemical substance)

それも「究極基体的な物質」(今日の水準で言えばちょうど「素粒子」(elementary particle)に相当する)を含む、「実質」(substance)という意味から、それをそれたらしめていると、人間が認識・了解できる限りでの側面を強調した(観念的・概念的・言語的な面も含む)「本質」(essence)という意味までを孕んだ、多義的な語であった。

アリストテレスのいう実体がこうした複雑なニュアンスを含んでいるとなると、第三講でW・ジェームズがまず取り上げるという実体を、彼が最初から「ごく無味乾燥なもの」と安直にいい切る姿勢に、これから哲学的なお話が深まっていくとは思えない違和感を覚えるのだ。

この人の哲学はまず先入観を聴衆や読者に植え付けることから始まるのか、とすら疑ってしまう。

アリストテレスにおける実体と関係がありそうな説明に続けて、W・ジェームズは「スコラ哲学は実体の考えを常識から採り入れて、それを甚だ専門的な理路整然たるものに仕上げた。ここで言う実体ほどわれわれにとってプラグマティックな効果の乏しいものはあまり見あたらないであろう」(p.93)という。

スコラ哲学の代表的神学者といえば、トマス・アクィナスである。

トマス・アクィナスは特にアリストテレスを神学に導入しようとして苦慮した人(カトリック教会と聖公会では聖人)であったので、アリストテレス主義者といわれたりもするが、『神学大全』には様々な哲学者の説が出てくるし、アリストテレスが批判したプラトンのイデアについてもトマスは一章(第一部、第十五問)を割いて神学に採り入れようと頑張っている。イデアは神の精神のうちに存在する――と結論づけて、トマスはホッとしたようである。

『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)の注にトマスが実体という名称を――第三問第五項で――どんな意味に用いているのかが注でわかりやすく解説されているので、引用しておく。

「実体」substantiaという名称は二つの意味で用いられる。一つは「自体的独立的な存在者」ens per se substennsである。この意味では神は最高度に実体的であるといえる。一つは、「独立に存在することがそれに適合する本質」essentia cui competit per se esseを意味する。いま問題とされる「顔」としての実体はこれである。かかる類としての実体であるものは、その本質と存在とが区別されたものでなければならない。しかるに神においては、本質と存在とは同一である。ゆえに神は第一の意味では実体といってよいが、だからといって「実体」の類のうちに含まれるとはいえない。

W・ジェームズの「実体」とトマス・アクィナスの「実体」が別物であることは明らかで、W・ジェームズのスコラ哲学の要約や解説は、スコラ哲学の理解に役立つよりは、ジェームズのスコラ哲学に対する蔑視を聴衆や読者に印象づける。

権威に依存しやすい単純な人間には偏見を植え付けて、スコラ哲学は知るに値しないと思わせるだろうし、わたしのように疑い深い人間にはジェームズ本人に対する警戒心を起こさせる。

このような独断的な要約や解説からなるW・ジェームズの哲学が、プラグマティックな価値はともかく、どのような学問的価値を持つのか、わたしは疑う。 

ちなみに、本棚からデカルト(1596年 - 1650年)、スピノザ(1632年 - 1677年)、ライプニッツ(1646年 - 1716年)、カント(1724年 - 1804年)を引っ張り出して開いてみると、どれにも「実体」が頻繁に出てくる。

スピノザの『エティカ』では第一部が「神について」(『中公バックス 世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』責任編集 下村寅太郎、中央公論社、1980年)となっており、三で「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」、六で「神とは、絶対無限の存在者、言いかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである」と定義づけられている。そこからのスタートである。

『エティカ』の中で実体という用語は「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」という意味で使われるのであって、「実体」という用語自体に、「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは与えられていない。

ライプニッツの『モナドロジー』は、「一 これからお話するモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である」と始まる。

実体という用語が出てくるが、これも「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは含んでいないと思われる。

「実体」一つとっても、W・ジェームズと他の哲学者たちとではニュアンスが異なる。

それにも拘わらず、何の説明もないまま、ジェームズは好き勝手なところから、好き勝手な方向へ話をどんどん進めて平気である。

W・ジェイムズ『プラグマティズム』で、 哲学者およびその作品に対して「えっ?」と驚くようなことが書かれているので、本棚から哲学書を引っ張り出して読んでいるうちに、2~3日があっという間に潰えた。
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これらを読んだ当時、どこまで理解できていたのか怪しいながら、『プラグマティズム』でひどい書かれ方をしている哲学者の本を引っ張り出して、再読してみなくてはならなかったのだ。

読んだが、家にはない哲学者の本も結構ある。図書館から借りて読んだロックは、好きになったので買いたかったが、当時お金がなく買わなかった。買っておけばよかった。ヴィヴェーカーナンダの評伝は探せば、出てくるのではないかと思う。ヴィヴェーカーナンダの先生だったラーマクリシュナの本は今もたまに読む。

尤も、今でもよく読んでいるプラトンの著作は別として、詳しい内容までは拾い読みしたくらいでは思い出せないのだが、本のあちこちに引いている線や書き込みを読んでいると、当時の高揚感が甦ってくる。

スコラ哲学の代表的神学者、トマス・アクィナスの本は2冊持っている。一冊は中央公論社の「世界の名著」シリーズの中の一冊で、『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)。 

トマス・アクィナスと『神学大全』の解説に続いて、『神学大全』の一部分が訳出されている。

全体は膨大なものらしい。

  • 第一部「神」
    聖なる教
    一なる本質
    三位一体
    創造
  • 第二部「人間の神への運動」
    第二・一部 一般倫理
    第二・二部 特殊倫理
  • 第三部「神に向かうための道なるキリスト」
    御言の受肉
    キリストの誕生・生涯・受難・復活・昇天
    秘跡――洗礼・堅信・聖体・告解
    〔補遺〕

問答形式で書かれていて、第一問から第六十九問まで存在する。訳出されているのは、第一部「神」の「神の至福」(第一問から第二十六問)まで。

大から中タイトルまで紹介したが、小タイトルは小、小小、小小小タイトルまである。タイトルだけ見ていても楽しい。

例えば「一なる本質」の中の「神のはたらき」には「知性」「意志」「能力」とあって、「知性」には「神の知」「イデア・真・偽」とあるのだが、プラトン好きのわたしはイデアとあるのを見て、まず好奇心をそそられた。

また、「創造」の中の「被造物の区別」には「天使」「物体」「人間」という不思議な分類が示されていて、わたしは特に「天使」についてどう書かれているのか読んでみたかった。

第三部の〔補遺〕にある「終末――復活と審判」なんかも、如何にも面白そうに思えた。そのとき、ちょうど20歳。

それで翌21歳のときに『人類の知的遺産  20  トマス・アクィナス』(稲垣良典著、講談社、昭和54年)を買ったのではなかったか。

この本ではトマスの思想、生涯の紹介に多くの頁が割かれている。そしてトマスの著作については、著作の分類と解説、トマス著作抄となっている。全体が鳥瞰できる親切な構成になっていたが、一番読みたかった天使については、読めないままだった。

他にも多くの本を読んでいたので、わたしの トマス・アクィナスへの関心はそれきりになってしまった。トマスの著作が他の哲学作品への関心をそそったということもあった。

優れた著作というのは、そうだ。架け橋の役目を果たしているものなのだ。

昨年ローマに出張した息子が、お金を出してやるからローマを一度見てくるといい、と過日、あまりにも嬉しい、ありえないようなことをいってくれたが、息子が圧倒されたという大聖堂を、わたしは大学時代にトマス・アクィナスの『神学大全』を通して見ていたといってもいい。

壮麗な哲学大系に、文字通り圧倒されたのだった。その哲学には当然ながらキリスト教という制限があったが、そこにはギリシア哲学が豊かに流れ込んでもいた。

哲学のテーマはどうしても時代の制約を伴っている。しかし、「神は細部に宿る」という言葉があるように、哲学の美しさ、豊かさ、魅力は細部に宿っているとわたしは思う。要約してしまえば、その全てが損なわれてしまう気がする。

「神は細部に宿る」という言葉で有名なライプニッツについて、引用の少ないW・ジェームズにしては第一講で3頁も使って『弁神論』から引用し、「楽観主義的」「現実把握の薄弱なことはあまりにも明白」「冷やかな文筆の遊戯」と手厳しい。

それが批判的というよりは誹謗中傷的に響くのは、『弁神論』がどんな作品なのか、まともな紹介がなされていないからだろう。

中公バックス『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』に『弁神論』は収録されていないから、その批判については、引用文を読んだだけでは何ともいえないが、『モナドロジー』を読んだとき、自分の身の周りに宇宙が拡がるような錯覚を覚えた。いや、現にわたしも宇宙のただなかに棲まっているのだろうが、星雲のきらめく宇宙が映像として見える錯覚を覚えたのだった。

ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年改版)の用語解説によると、ラテン語のモナドはギリシア語のモナスからきた言葉で、「単一なるもの」であり、単元を意味する。ピタゴラスの体系ではモナスは第一原因である。

『シークレット・ドクトリン』ではライプニッツのモナドについて触れられ、神秘主義ではモナドという言葉をそれとは違った使い方をしているとの説明がなされている。

西洋の哲学、哲学論には、何か単純な価値観で、哲学は進歩するという暗黙の了解を含む一つの流れがある気がするが、そうした考え方自体がキリスト教進歩史観に基づいた考え方ではないだろうか。

昔書かれた哲学作品に対するW・ジェームズの何か不遜ともいえるような姿勢に、それを感じてしまう(今ではW・ジェームズも昔の人となっているが)。

バロック音楽は古いからつまらないと思う人は思うだろうが、不断の新しさを感じさせる、みずみずしい音楽だと感動を覚える人も少なくないだろう。哲学作品もそれと同じで、書かれた当時の時代背景を感じさせられながらも、作品の本質は少しも古びていないと感動させられるものは多い。

スピノザなども、悲しいときに読んでいると、ちょっと楽しくなってくるほどだ。

喜びとは、人間がより小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。
悲しみとは、人間がより大きな完全性からより小さな完全性へ移行することである。(『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』p.245)

漱石はW・ジェームズに似ているような気がしてきた。影響を受けたといえるのかもしれないし、性格が似ているために共鳴したといえるのかもしれない。そこのところは、もう少し調べてみないと、わからない。 

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