ブログ「マダムNの覚書」に3月27日、投稿した記事の再掲です。
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第八講まである『プラグマティズム』のうち、わたしには第一講も第二講も疑問が噴出したが、第三講になってスコラ哲学やロックが出てきたとき、わたしの疑問はいよいよ大噴火を起こすに至った。

というのも、わたしは大学時代、『プラグマティズム』に出てくる哲学者や宗教家ヴィヴェーカーナンダの著作をいくらか読んだことがあり、どんな内容だったかはほとんど記憶が失せている今も、その残り香のようなものは忘れがたい印象として残っているので、ウィリアム・ジェームズの要約に甚だ違和感が生じたのだった。

まだちゃんと『プラグマティズム』を読んだわけではないので、再読時に考えが変わるかもしれないが、そのためにざっと疑問点をメモしておくことにしよう。

第三講の冒頭で、W・ジェームズは「私はいまプラグマティズムの方法を特殊な問題に適用した実例を二つ三つ挙げてこの方法をいっそう諸君になじみ深いものにしたいと思う。私はまずはじめにごく無味乾燥なもの、すなわち実体の問題を取り上げることにしよう」と切り出す。

ここで早くもW・ジェームズは実体=ごく無味乾燥なもの、と定義づけている。第一講と第二講にそう定義づけるに至った根拠が書かれていたっけと思い、目を皿のようにして読み返してみたが、実体という哲学用語はまだ出てきていなかった。

とすれば、この第三講でその根拠が示されるに違いない。そうでなければ、おかしい。

実体という用語は、哲学作品にはよく出てくる。アリストテレスは家にはないが、アリストテレスの哲学では重要な用語だったはずだ。

アリストテレスが嫌いだからといって、アリストテレスくらいは家に置いておくべきだと後悔している。

W・ジェームズが3頁に渡って実体について述べていることはアリストテレスの哲学作品『カテゴリー論』のW・ジェームズ的要約ではないかと思うが、おぼろげな記憶しかないので、あとで確認しておきたい。

ひとまず、ウィキペディアのウーシア「実体」から、アリストテレスによる実体の定義を引用しておこう。

ウーシア:Wikipedia
ウーシア(希: οὐσία, 英: ousia)とは、「実体」(英: substance)や「本質」(英: essence)を意味するギリシャ語の言葉。ラテン語に翻訳される際に、この語には「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なる二語が当てられたため、このような語彙の使い分けが生じた。

アリストテレスによる定義

この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)という語に、「substantia」(スブスタンティア)、「essentia」(エッセンティア)という異なるラテン語の二語が当てられるようになったのは、偶然ではなく、アリストテレスによる多様な定義・用法に由来している。

『範疇論』

アリストテレスは、『オルガノン』の第一書である『範疇論』にて、実体概念を、
第一実体 : 個物 --- 主語になる
第二実体 : 種・類の概念 --- 述語になる

の2つに分割している。

アリストテレスは、「イデア」こそが本質存在だと考えた師プラトンとは逆に、「個物」こそが第一の実体だと考えた。

こうして実体概念はまず2つに大きく分割された。

『形而上学』

アリストテレスの『形而上学』中のΖ(第7巻)では、アリストテレスの実体観がより詳細に述べられている。

そこではアリストテレスは、第一実体としての「個物」は、「質料」(基体)と「形相」(本質)の「結合体」であり、また真の実体は「形相」(本質)であると述べている。
第一実体 : 「個物」(結合体) --- 主語になる 「質料」(基体)
「形相」(本質)

第二実体 : 種・類の概念 --- 普遍 --- 述語になる

また、用語集である第五巻(Δ巻)第8章においては、この「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、
1.単純物体。土、火、水のような物体や、それによる構成物、及びその部分。述語(属性)にはならず、主語(基体)となるもの。
2.1のような諸実体に内在している、そのように存在している原因となるもの。例えば、生物における霊魂。
3.1のような諸実体の中に部分として内在し、それぞれの個別性を限定・指示するもの。これが無くなれば、全体も無くなるに至るような部分。例えば、物体における面、面における線、あるいは全存在における数など。
4.そのものの本質が何であるかの定義を言い表す説明方式(ロゴス)それ自体。

といった列挙の後、
1.(上記の1より)他の主語(基体)の述語(属性)にはならない、窮極(究極)の基体(個物)。
2.(上記の2・3・4より)指示されうる存在であり、離れて存在しうるもの。型式(モルフェー)、形相(エイドス)。

の2つの意味を持つ語として、定義されている。

このように、「ウーシア」(希: οὐσία, ousia)(実体)という語は、今日における
「物理的実体」「物質」(physical substance)
「化学的実体」「化学物質」(chemical substance)

それも「究極基体的な物質」(今日の水準で言えばちょうど「素粒子」(elementary particle)に相当する)を含む、「実質」(substance)という意味から、それをそれたらしめていると、人間が認識・了解できる限りでの側面を強調した(観念的・概念的・言語的な面も含む)「本質」(essence)という意味までを孕んだ、多義的な語であった。

アリストテレスのいう実体がこうした複雑なニュアンスを含んでいるとなると、第三講でW・ジェームズがまず取り上げるという実体を、彼が最初から「ごく無味乾燥なもの」と安直にいい切る姿勢に、これから哲学的なお話が深まっていくとは思えない違和感を覚えるのだ。

この人の哲学はまず先入観を聴衆や読者に植え付けることから始まるのか、とすら疑ってしまう。

アリストテレスにおける実体と関係がありそうな説明に続けて、W・ジェームズは「スコラ哲学は実体の考えを常識から採り入れて、それを甚だ専門的な理路整然たるものに仕上げた。ここで言う実体ほどわれわれにとってプラグマティックな効果の乏しいものはあまり見あたらないであろう」(p.93)という。

スコラ哲学の代表的神学者といえば、トマス・アクィナスである。

トマス・アクィナスは特にアリストテレスを神学に導入しようとして苦慮した人(カトリック教会と聖公会では聖人)であったので、アリストテレス主義者といわれたりもするが、『神学大全』には様々な哲学者の説が出てくるし、アリストテレスが批判したプラトンのイデアについてもトマスは一章(第一部、第十五問)を割いて神学に採り入れようと頑張っている。イデアは神の精神のうちに存在する――と結論づけて、トマスはホッとしたようである。

『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)の注にトマスが実体という名称を――第三問第五項で――どんな意味に用いているのかが注でわかりやすく解説されているので、引用しておく。

「実体」substantiaという名称は二つの意味で用いられる。一つは「自体的独立的な存在者」ens per se substennsである。この意味では神は最高度に実体的であるといえる。一つは、「独立に存在することがそれに適合する本質」essentia cui competit per se esseを意味する。いま問題とされる「顔」としての実体はこれである。かかる類としての実体であるものは、その本質と存在とが区別されたものでなければならない。しかるに神においては、本質と存在とは同一である。ゆえに神は第一の意味では実体といってよいが、だからといって「実体」の類のうちに含まれるとはいえない。

W・ジェームズの「実体」とトマス・アクィナスの「実体」が別物であることは明らかで、W・ジェームズのスコラ哲学の要約や解説は、スコラ哲学の理解に役立つよりは、ジェームズのスコラ哲学に対する蔑視を聴衆や読者に印象づける。

権威に依存しやすい単純な人間には偏見を植え付けて、スコラ哲学は知るに値しないと思わせるだろうし、わたしのように疑い深い人間にはジェームズ本人に対する警戒心を起こさせる。

このような独断的な要約や解説からなるW・ジェームズの哲学が、プラグマティックな価値はともかく、どのような学問的価値を持つのか、わたしは疑う。 

ちなみに、本棚からデカルト(1596年 - 1650年)、スピノザ(1632年 - 1677年)、ライプニッツ(1646年 - 1716年)、カント(1724年 - 1804年)を引っ張り出して開いてみると、どれにも「実体」が頻繁に出てくる。

スピノザの『エティカ』では第一部が「神について」(『中公バックス 世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』責任編集 下村寅太郎、中央公論社、1980年)となっており、三で「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」、六で「神とは、絶対無限の存在者、言いかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである」と定義づけられている。そこからのスタートである。

『エティカ』の中で実体という用語は「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである」という意味で使われるのであって、「実体」という用語自体に、「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは与えられていない。

ライプニッツの『モナドロジー』は、「一 これからお話するモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である」と始まる。

実体という用語が出てくるが、これも「ごく無味乾燥なもの」という意味合いは含んでいないと思われる。

「実体」一つとっても、W・ジェームズと他の哲学者たちとではニュアンスが異なる。

それにも拘わらず、何の説明もないまま、ジェームズは好き勝手なところから、好き勝手な方向へ話をどんどん進めて平気である。

W・ジェイムズ『プラグマティズム』で、 哲学者およびその作品に対して「えっ?」と驚くようなことが書かれているので、本棚から哲学書を引っ張り出して読んでいるうちに、2~3日があっという間に潰えた。
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これらを読んだ当時、どこまで理解できていたのか怪しいながら、『プラグマティズム』でひどい書かれ方をしている哲学者の本を引っ張り出して、再読してみなくてはならなかったのだ。

読んだが、家にはない哲学者の本も結構ある。図書館から借りて読んだロックは、好きになったので買いたかったが、当時お金がなく買わなかった。買っておけばよかった。ヴィヴェーカーナンダの評伝は探せば、出てくるのではないかと思う。ヴィヴェーカーナンダの先生だったラーマクリシュナの本は今もたまに読む。

尤も、今でもよく読んでいるプラトンの著作は別として、詳しい内容までは拾い読みしたくらいでは思い出せないのだが、本のあちこちに引いている線や書き込みを読んでいると、当時の高揚感が甦ってくる。

スコラ哲学の代表的神学者、トマス・アクィナスの本は2冊持っている。一冊は中央公論社の「世界の名著」シリーズの中の一冊で、『世界の名著 続5  トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)。 

トマス・アクィナスと『神学大全』の解説に続いて、『神学大全』の一部分が訳出されている。

全体は膨大なものらしい。

  • 第一部「神」
    聖なる教
    一なる本質
    三位一体
    創造
  • 第二部「人間の神への運動」
    第二・一部 一般倫理
    第二・二部 特殊倫理
  • 第三部「神に向かうための道なるキリスト」
    御言の受肉
    キリストの誕生・生涯・受難・復活・昇天
    秘跡――洗礼・堅信・聖体・告解
    〔補遺〕

問答形式で書かれていて、第一問から第六十九問まで存在する。訳出されているのは、第一部「神」の「神の至福」(第一問から第二十六問)まで。

大から中タイトルまで紹介したが、小タイトルは小、小小、小小小タイトルまである。タイトルだけ見ていても楽しい。

例えば「一なる本質」の中の「神のはたらき」には「知性」「意志」「能力」とあって、「知性」には「神の知」「イデア・真・偽」とあるのだが、プラトン好きのわたしはイデアとあるのを見て、まず好奇心をそそられた。

また、「創造」の中の「被造物の区別」には「天使」「物体」「人間」という不思議な分類が示されていて、わたしは特に「天使」についてどう書かれているのか読んでみたかった。

第三部の〔補遺〕にある「終末――復活と審判」なんかも、如何にも面白そうに思えた。そのとき、ちょうど20歳。

それで翌21歳のときに『人類の知的遺産  20  トマス・アクィナス』(稲垣良典著、講談社、昭和54年)を買ったのではなかったか。

この本ではトマスの思想、生涯の紹介に多くの頁が割かれている。そしてトマスの著作については、著作の分類と解説、トマス著作抄となっている。全体が鳥瞰できる親切な構成になっていたが、一番読みたかった天使については、読めないままだった。

他にも多くの本を読んでいたので、わたしの トマス・アクィナスへの関心はそれきりになってしまった。トマスの著作が他の哲学作品への関心をそそったということもあった。

優れた著作というのは、そうだ。架け橋の役目を果たしているものなのだ。

昨年ローマに出張した息子が、お金を出してやるからローマを一度見てくるといい、と過日、あまりにも嬉しい、ありえないようなことをいってくれたが、息子が圧倒されたという大聖堂を、わたしは大学時代にトマス・アクィナスの『神学大全』を通して見ていたといってもいい。

壮麗な哲学大系に、文字通り圧倒されたのだった。その哲学には当然ながらキリスト教という制限があったが、そこにはギリシア哲学が豊かに流れ込んでもいた。

哲学のテーマはどうしても時代の制約を伴っている。しかし、「神は細部に宿る」という言葉があるように、哲学の美しさ、豊かさ、魅力は細部に宿っているとわたしは思う。要約してしまえば、その全てが損なわれてしまう気がする。

「神は細部に宿る」という言葉で有名なライプニッツについて、引用の少ないW・ジェームズにしては第一講で3頁も使って『弁神論』から引用し、「楽観主義的」「現実把握の薄弱なことはあまりにも明白」「冷やかな文筆の遊戯」と手厳しい。

それが批判的というよりは誹謗中傷的に響くのは、『弁神論』がどんな作品なのか、まともな紹介がなされていないからだろう。

中公バックス『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』に『弁神論』は収録されていないから、その批判については、引用文を読んだだけでは何ともいえないが、『モナドロジー』を読んだとき、自分の身の周りに宇宙が拡がるような錯覚を覚えた。いや、現にわたしも宇宙のただなかに棲まっているのだろうが、星雲のきらめく宇宙が映像として見える錯覚を覚えたのだった。

ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年改版)の用語解説によると、ラテン語のモナドはギリシア語のモナスからきた言葉で、「単一なるもの」であり、単元を意味する。ピタゴラスの体系ではモナスは第一原因である。

『シークレット・ドクトリン』ではライプニッツのモナドについて触れられ、神秘主義ではモナドという言葉をそれとは違った使い方をしているとの説明がなされている。

西洋の哲学、哲学論には、何か単純な価値観で、哲学は進歩するという暗黙の了解を含む一つの流れがある気がするが、そうした考え方自体がキリスト教進歩史観に基づいた考え方ではないだろうか。

昔書かれた哲学作品に対するW・ジェームズの何か不遜ともいえるような姿勢に、それを感じてしまう(今ではW・ジェームズも昔の人となっているが)。

バロック音楽は古いからつまらないと思う人は思うだろうが、不断の新しさを感じさせる、みずみずしい音楽だと感動を覚える人も少なくないだろう。哲学作品もそれと同じで、書かれた当時の時代背景を感じさせられながらも、作品の本質は少しも古びていないと感動させられるものは多い。

スピノザなども、悲しいときに読んでいると、ちょっと楽しくなってくるほどだ。

喜びとは、人間がより小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。
悲しみとは、人間がより大きな完全性からより小さな完全性へ移行することである。(『世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ』p.245)

漱石はW・ジェームズに似ているような気がしてきた。影響を受けたといえるのかもしれないし、性格が似ているために共鳴したといえるのかもしれない。そこのところは、もう少し調べてみないと、わからない。