文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

カテゴリ:レビュー・文学論 > 海外文学

拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で連載していた、「トルストイ『戦争と平和』に描かれた、フリーメーソンがイルミナティに侵食される過程」が完結しました。
そのうち当ブログに転載したいと思っていますが、とりあえず、リンクを張っておきます。
目次 

    ① 映画にはない、主人公ピエールがフリーメーソンになる場面(80
    ② ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ(81
    ③ 18世紀のロシア思想界を魅了したバラ十字思想(82
    ④ フリーメーソンとなったピエールがイルミナティに染まる過程(83
    ⑤ イルミナティ創立者ヴァイスハウプトのこけおどしの哲学講義(104
    ⑥ テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界(105
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拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に2016年2月4日、公開した記事の再掲です。

   44 ヴァージニア・ウルフの知性美と唯物主義的極点
      http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/04/211114

Virginia_Woolf_1927
Virginia Woolf
1927年頃
原典: Harvard Theater Collection, Houghton Library, Harvard University 
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ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書)』(岩波書店、2002年)を読んだ。作品の評論的な部分は少ないが、ヴァージニア・ウルフという人物を知る上では好著だと思う。

ただ、落合恵子のあとがきが本の最後を飾っているのが嫌である。ヴァージニア・ウルフはフェミニズムの先駆者として有名であるが、落合恵子のフェミニズムとは本質が異なるという印象を受ける。

ヴァージニア・ウルフのフェミニズムは人類全体を高めるためのものだという美しさを感じさせるが、落合恵子のフェミニズムには人類をオスとメスに先祖返りさせるような嫌らしさを感じる。

落合恵子のあとがきから感じられるのは、オスが得ている特権に対する告発とその特権を奪いたいという目的意識で、単純ないいかたをすれば奪い合いの印象を与えるものであって、それ以上の崇高な意識が感じられない。彼女の政治活動にもそれはいえることではないだろうか。

マルキシズムもフェミニズムも劣化したものだと思う。

ヴァージニア・ウルフの作品から、わたしは何か制限及び限界のようなものを感じていた。シモーヌ・ヴェイユに感じた制限及び限界とどこか共通点があるような気もしていた。

ヴァージニアの宿痾であった精神障害という病気から来た制限及び限界とは別の何か思想的な性質のもので、それがなんであるかはわからなかった。

が、夏目漱石に影響を及ぼしたウィリアム・ジェームズの問題点を探る中で、彼の思想の問題点に気づいた今、「意識の流れ」という手法を接点としてヴァージニアがヴィリアム・ジェームズのどんな影響を受けたのかを調べる必要があると考えた。

シモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンの影響を受けていたことを知ってある謎が解けたように(前掲のブログ「神秘主義的エッセー」収録のエッセー2425を参照されたい)、何かがわかるかもしれないと考えたのだった。

ヴァージニア・ウルフ(西崎憲訳)『ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)』(筑摩書房、1999年)の解説によると、アデリーン・ヴァージニア・スティーブンは1882年1月25日ヴィクトリア朝の中流上層に生まれた。父レズリー・スティーヴンは作家・批評家で『十八世紀英国思想史』を著した。母ジュリア・ジャクソンは美貌で有名で、エドワード・バーン・ジョーンズの絵のモデルを務めたりした。

ヴァージニアは両親の4人の子供のうち3人目で、上からヴァネッサ、トビー、ヴァージニア、エイドリアンの順である。

両親は再婚で、父にはローラという連れ子がいた。ローラは精神薄弱児であった。母にはジョージ、ジェラルド、ステラという連れ子がいた。10名の大家族で、父の仕事柄さまざまな詩人や作家や画家がスティーブン家を訪れたという。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、詩人、作家ではメレディス、ヘンリー・ジェームズ、テニスン、マシュー・アーノルド、ジョージ・エリオットが父の友人だった。

しかし、ヴァージニアは6歳ごろから十代後半まで異父兄ジェラルドから性的虐待を受けた。ジョージからも同様の扱いを受けたとされる。

ヴァ―ジニアと彼女の姉は当時の風習からか男の子たちとは違って学校へは行かされず、両親、家庭教師から教育を受け、父の書斎の本を沢山読んだ。

ヴァージニア・ウルフ(神谷美恵子訳)『ある作家の日記(ヴァージニア・ウルフ‖コレクション)』(みすず書房、1999年)解説の「ウルフの略伝」によると、「ウルフの父レズリー・スティーヴンは初め聖職者への道に入ったが、のちに不可知論者となり、自分の子どもたちにも洗礼をうけさせず、一切宗教教育を施さなかった」(ウルフ,神谷訳,1999,p.525)という。

ヴァージニアの精神病が発症したのは1895年に13歳で母を喪った後であった。病相としては神谷の解説の「ウルフの病について」によれば、「罪障感、抑うつ、自殺企画、拒食、幻覚、妄想その他種々な身体症状を伴ううつ状態か、または異常に愉快になり、昂奮して誇大妄想や荒々しい行為などを示す躁状態に陥るものだったが、数ヶ月後または数年後にすっかり正常に復し、ふつうの生活ができるようになる。この正常な期間は中間期とよばれていて、ヴァージニアの作品も、主としてこの中間期に書かれている」(ウルフ,神谷訳,1999,pp.522-523
)という。

1912年にヴァージニアと結婚したレナード・ウルフによれば、ヴァージニアは「一生のうち四回、この病の大きな波におそわれた」(ウルフ,神谷訳,1999年,p.522)。

ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)によると、ヴァージニアに精神病との診断が下されたのは1913年だった。

彼女の強い理性と荒れ狂う妄想とが戦ったが、理性が妄想に組み伏された。言葉遣いが乱暴になり、ひどい頭痛襲われ、奇妙な声が聞こえ、眠れず、食べようとしなかった。一九一三年の三ヶ月、事態は悪化するばかりで、ついに精神病との診断が下され、レナードは彼女が二年前にいたことのあるトウィッケナムの療養所にふたたび送ったほうが賢明だと考えた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.57)
 

1915年2月にヴァージニアはまた精神錯乱に陥った。最悪といえるようなものだった。不眠症と食事拒否だけではすまず、レナードが「悪夢のような狂乱と絶望と暴力の世界」と表現するような状態に陥ったのだった。

自分でそうと意識できるような精神不調の境界を越えてしゃべりまくるという狂気の状態へ突入したのである。彼女は、支離滅裂なことを間断なく、時には何時間も、意識を失うまでしゃべり続けた。彼女が彼に話しかけることはなく、ののしるだけだった。(……)彼らは、まだ狂っているヴァージニアをホーガス・ハウスに移動させた。そして、なんとか四人の住み込みの看護人をつける費用を捻出した。(Nicoison,2000 市川訳,2002,pp.58-59)
 

1915年9月にアッシャムに戻って来られ、リハビリテーションを始めた。ヴァージニアの狂気の発作はレナードに大きな精神的打撃をもたらし、政治ジャーナリストとして国際関係においては権威となっていた彼がヨーロッパでの戦争の勃発にほとんど気づいていなかったほどだった。

第二次大戦が始まった。ドイツ軍の侵攻の脅威の中、レナードはユダヤ人であり――ユダヤ人に対してヴァージニアは複雑な感情を持っていたようである――、反ナチ活動をしていたために二人共ゲシュタポに捕われたときのために致死量のモルヒネを常備していた。

ロンドンの二つの家が崩壊し、サセックス州ロドメルのモンクス・ハウスで最晩年となる1941年の数ヶ月を過ごした。

ヴァージニアは3通の遺書を残した。レナード宛の遺書を書いてからも十日間生きていたという。3月18日にずぶぬれで帰ってきて、間違って水路に落ちたといった。

3月28日、「正午頃、ウーズ川まで半マイル歩き、毛皮のコートのポケットに大きな石を詰め込み、水中に身を投げた。彼女は泳げたが、強いておぼれるよう務めた。恐ろしい死であったに違いない」(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.193) 

59歳だった。

レナードにヴァージニアが宛てた最後の手紙は悲痛だが、ヴァージニアの人となりをよく表していると思うので、引用しておく。
火曜日
最愛の人へ。私は狂っていくのをはっきりと感じます。またあの大変な日々を乗り切れるとは思いません。今度は治らないでしょう。声が聞こえ始めたし、集中できない。だから最良と思えることをするのです。あなたは最高の幸せを与えてくれました。いつでも、私にとって誰にもかえがたい人でした。二人の人間がこれほど幸せに過ごせたことはないと思います。このひどい病に襲われるまでは。私はこれ以上戦えません。私はあなたの人生を台無しにしてしまう。私がいなければあなたは仕事ができる。きっとそうしてくれると思う。ほら、これをちゃんと書くこともできなくなってきた。読むこともできない。私が言いたいのは、人生の全ての幸せはあなたのおかげだったということ。あなたはほんとに根気よく接してくれたし、信じられないほど良くしてくれた。それだけは言いたい。みんなもわかっているはずよ。誰かがわたしを救ってくれたのだとしたら、それはあなただった。何もかも薄れてゆくけど、善良なあなたのことは忘れません。あなたの人生をこれ以上邪魔しつづけることはできないから。
 私たちほど幸せな二人はいなかった。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.192)
ヴァージニアの作品には短文も長文もあるが、同じような形式で書かれていることが多い。散文詩というべきなのか、詩的な散文というべきなのかはわからないが、いずれにしてもストーリーを重視しない詩のような文体で綴られ、「意識の流れ」という手法が用いられている。

今回ヴァージニアの数編の作品を再読し、彼女の作品からは流れるような、とりとめのない印象を受けるが、よく読むと、断片を縫い合わせたパッチワークキルトを連想させられるところがあった。

物事の描写に強弱がない。例えば1個の果実の落下も、戦争のような重大な社会現象も均等の重さでもって描かれるという風に。情報を無意識的に優先順位をつけて選択している凡人の意識からすれば、創作上の意識的な作業によるものだとはいえ、これは大変独創的なことであるし、また不自然なことでもある。

キルトはどんどん仕上がっていく。ある限定された空間を埋め尽くさんばかり。

分析の確かさや機知の閃きから躍動感や浄化のイメージが生まれるが、全体にどこか演技がかっているといおうか、書き割り風だ。若いころに比べると読者としてより自然体となったせいか、読んでいて息苦しさを覚えた。

日記でもそうした向きがある。こうした精緻であり、刺激的であると同時に単調でもあるような独特な思考傾向の中からこそ、評伝の著者であるナイジェル・ニコルソンが九つだったときにヴァージニアから受けたようなユニークな質問も出てくるのだろう。
「子どもでいるってどんな感じ?」 (Nicoison,2000 市川訳,2002,p.1)
わたしは評伝を読むとき、次のことを知りたいと思っていた。

  • ヴァージニアの狂気の発作とはどのようなものだったのか。
  • 性的虐待を受けたというが、相手は誰でどんな虐待内容だったのか。
  • ブルームズベリー・グループのメンバーたちとその活動。
  • 友人関係を超えた母とも、恋人ともいえる女性だったというヴィタ・サックヴィル=ウェストとはどんな人物なのか。
ブルームズベリー・グループについては、ウィキペディアから引用したほうが手っ取り早い。
ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。
もともとは、姉妹であるヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフを含む4人のケンブリッジ大学生によって、結成された非公式な会合がきっかけであり、メンバーたちの卒業後もこの集いは存続した。
(……)
ブルームズベリー・グループの意見や信念は第二次世界大戦を通して話題を呼び、広く非難されたが、次第に主流となりそれは終戦まで続いた。ブルームズベリー・グループのメンバーであった経済学者ジョン・メイナード・ケインズの著作は経済学の主要な理論となり、作家ヴァージニア・ウルフの作品は広く読まれ、そのフェミニズムの思想は時代を超えて影響を及ぼしている。他には伝記作家リットン・ストレイチー、画家のロジャー・フライ、作家のデイヴィッド・ガーネット、E・M・フォースターがいる。また早くから同性愛に理解を示していた。イギリスの哲学者で熱心な反戦活動家であったバートランド・ラッセルも、このグループの一員と見なされることがある。
ブルームズベリー・グループは組織一丸となっての活動成果よりも個々人の芸術的な活動成果が主に評価されているが、20世紀の終わりが見えた頃から、組織内での複雑な人間関係が、学問的注目を集め研究対象となっている。(ウィキペディアの執筆者. “ブルームズベリー・グループ”. ウィキペディア日本語版. 2014-10-27. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97&oldid=53352032, (参照 2016-02-02).)
ブルームズベリーとは場所である。
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Pixabay

要は両親亡き後、ブルームズベリーのゴードン・スクエア46番地に引っ越したスティーブン家の兄トービーがケンブリッジの友人たちを連れてくるようになり、その集まりにはスティーブン姉妹もいたのだった。

彼らはまじめな若者の集まりで、ブルーズベリーでの討論会は当初はケンブリッジでのセミナーの延長のようなものだった。彼らは新聞記事を互いに読み聞かせ、真理や美といった抽象的な理念を論じ合った。出されるものといえばココアやわずかなウィスキーだけだったが、それが彼らに買える全てであった。ケンブリッジとの違いは女性が二人いることだった。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.23) 
 
メンバーに経済学者ケインズがいることに注目してしまうが、こうしたブルームズベリーにおける知的で軽妙な集まりが社会的な影響を及ぼすようになったということのようである。

ヴァージニアは兄たちの自由な雰囲気に溶け込んでおり、物を書く場にも恵まれているという風で、ヴィクトリア朝の中流上層階級から出なくとも作家として知的扇動できる境遇にあった。

ヴァージニアのフェミニズムには性的虐待という悲痛な体験から出た部分、逆に当時の女性としては環境的に恵まれている部分から出たところがあるのではないかと思うが、彼女はいわゆる社会活動家という感じではない。

作家として女として人間として思ったことを自然体で主張したところ、その主張は時宜を得ていて世に受けた――という感じを評伝からは受ける。

ブルームズベリーの先駆者の一つとして、フェビアン協会が挙げられている。ヴァージニアと比較すれば、のちに神智学協会2代会長となったアニー・ベザントのフェビアン協会での活動のほうが抑圧されていた労働者側に徹底して立とうとした情熱と心情の純粋さでは勝っている気がする。

ヴァージニア・ウルフ(川本静子訳)『自分だけの部屋』(みすず書房、1988年初版、2013年新装版)の本のカバー裏面には次のように書かれている。

「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」(V・ウルフ) 
 経済的自立と精神的独立を主張し、想像力の飛翔と軽妙な語り口によって、女性の受難史を明らかにしたフェミニズム批判の聖典。
 
講演の草稿が元となったこのエッセーは、フェミニズム運動にとって、大変有名な本なのである。

わたしの読後感は時代の変化によるものなのか、自身の変化によるものなのか、若いころに読んだときと違ってきている。昔はぼんやりと読み、漠然とした疑問を覚えた程度だった。わたしの母が社会で働く女性だったから、あまり興味が湧かなかったのかもしれない。

今、ヴァージニアの主張をその通りとは思うが、そのような環境で書かれる作品は年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋の傾向を帯びると思えるし、ある意味で、そのような女性は男性だと思うのである。田舎を出て都会に行った男性が都会の人間になってしまうように。
勿論、女性の環境を向上させることは大事であるが、社会に出て働くことが好きな女性も本当なら家庭に入りたい女性も、育児を他人にほぼ丸投げして社会で働かざるをえない現代日本の異常な状況を見るとき、フェミニズム運動の方向性に疑問が湧くのである。

家庭に入った女性たちがどれだけ暮らしを多彩なものにし、弱いものを保護し助け、貴重な文化の継承をなしてきたことか。こうした業績は無視されるべきでも軽んじられるべきでもない。

ヴァージニアの知性美は彼女の政治がかった意見以上の発言力を持ち、両性の相克を遥かに凌駕している。一方、社会改良だけではどうにもならないと悟ったベザントは人類の根源的なテーマを求めて神智学へ向かった。

この時代の女性達は肉体的に動的であれ静的であれ、スケールが大きく、徹底している。

ヴァージニアのような知性の勝った乾いたタイプはヴィタのような潤いのある女性を必要としたようだ。

ヴィタ・サックヴィル=ウェストは評伝『ヴァージニア・ウルフ 』を執筆したナイジェル・ニコルソンの母だった。ヴァージニアの異色作『オーランドー』のモデルとなった女性である。
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Vita Sackville-West
Studio portrait presented by Esther Cloudman Dunn to the Smith College Library.
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Vita_in_1916
Vita in 1916
The Life of V.Sackville-West by Victoria Glendinning
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ヴィタはといえば、あるときは大いに大胆だが、次の瞬間には非常に内気になる性格で、十歳年上のヴァージニアに恋する半面、彼女を恐れてもいた。ヴィタにとってブルームズベリーは頭がよすぎるうえ、故意に威圧感を与えていると感じられた。(Nicoison,2000 市川訳,2002,p.86) 
 

ヴィタは魚座ではないかと思って調べたら1892年3月9日に生まれ、1962年6月2日に亡くなっているから、やはり魚座である。

わたしも魚座で、獅子座上昇宮に天王星が入り、水星と金星が水瓶座に入っているから、魚座のヴィタの気質も水瓶座のヴァージニアの気質もどちらもわかる気がするのである。

ヴィタも作家・詩人であったからヴァージニアの物の考え方は新鮮であっただろうし、自分より十歳年上であったとはいえ人間的にはどこか不器用な彼女を庇護してやりたいような母性愛が湧いたに違いない。

ヴィタは恋多き人であったようだが、戦争の中で親密さが復活した。ヴィタがロドメルまで車を走らせてヴァージニアに最後に会ったのは2月17日だった。

ヴィタに捧げられ、変装した彼女のいろいろな写真入りで1928年に上梓されたヴァージニアの小説『オランドー』。

ジェンダーをテーマとする学術研究の対象によくなるらしいので、簡単に触れておくと、『オーランドー』は男性として生まれたオーランドーが7日間の昏睡後に女性へと変身し、やがて女性としての自覚と歓びに目覚め、完全に女性としての人生を全うしていくという物語である。

当時はこのような変身はあくまでファンタジーであったが、現代では手術によって性転換してオーランドーのように生まれたときとは異なる性として生きる人も珍しいことではなくなった。
もっとも、このファンタジーは、女であったがために父サックヴィル卿の形見の――ケント州セヴノークスにある――ノールの邸宅を継げなかったヴィタを慰めるために書かれたのだという。
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West Front, Knole, Sevenoak
1910
Alfred Robert Quinton (1853–1934)
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性転換といえば、魚などで見られることのある性転換は雌雄同体の様式の一つとされる。

神秘主義では魂は両性具有とされ、人間は男女どちらにも生まれ変わる。欠けている要素を学んで吸収してバランスを取り戻すために、どちらかの性を選んで生まれてくるとされる。神秘主義者であるわたしは、前世では男性の年取った修行者として死んだという自覚があるからこそ、粛々として女性として生きている。オーランドーのように女性を謳歌しているというよりは、前世で理解しなかった女性の人生について今まさに学んでいるのだ……という感慨深いものがある。

主婦業こそ、前世で男性性に傾きすぎたバランスを回復するための最も有益な修行となりうるということを今では自覚している。いざ社会に出るときになって就職の邪魔立てをするかのように母が倒れ、共稼ぎをするにはなかなか条件が整わず、作家になって社会的な活躍ができないのもそのためだ――などというつもりはないが。

ところで、前述したようにヴァージニア・ウルフは「意識の流れ」という手法を用いた。「意識の流れ」はウィリアム・ジェームズの心理学概念、心理学用語である。

それがどんな考えかたで、文学的手法としてどんな使われかたをしてきたのかを、ウィキペディアから引用する。
人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。(……)
この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を表す言葉として使われるようにもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の流れ」という言葉が用いられるようになる。(ウィキペディアの執筆者. “意識の流れ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-04. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C&oldid=58122749, (参照 2016-02-05).)
ヴァージニアの父の仕事関係でスティーブン家を訪れていたヘンリー・ジェームズはウィリアム・ジェームズの弟である。

ウィリアム・ジェームズについては漱石やブラヴァツキー関連でいくらか調べた。以下のリンク先は拙基幹ブログ「マダムNの覚書」。
2015年3月17日 (火)
#12 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ①古き良きアメリカの薫り『プラグマティズム』、漱石のおらが村
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2015年3月27日 (金)
#13 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ②W・ジェームズの疑わしい方法論
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2015年4月 2日 (木)
#14 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ③現金価値
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2015年4月12日 (日)
#15 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ④心霊現象研究協会(SPR)と神智学協会
アメリカ哲学の創始者といわれ、その影響は哲学、心理学、生理学、文学など多岐に及ぶとされるウィリアム・ジェームズ。

ウィリアム・ジェームズの代表作は、1906年11月および12月ボストンのロウエル学会において、また1907年1月ニューヨークのコロンビア大学において講述された講義録『プラグマティズム』である。

プラグマティズムが何であるかは、ウィリアム・ジェームズ(桝田啓三郎訳)『プラグマティズム(岩波文庫)』(岩波書店、2010年改版)からの以下の引用にいい表されていると思う。
「一つの観念ないし信念が真であると認めると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか? その真理はいかに実現されるであろうか? 信念が間違っている場合に得られる経験とどのような経験の異なりがでてくるであろうか? つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」
 プラグマティズムは、この疑問を発するや否や、こう考える。真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。偽なる観念とはそうできない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。それが真理が真理として知られるすべてであるからである。(ジェームズ、桝田訳,2010,pp.199-200)
現金価値という言葉が出てくるあたり、アメリカの哲学らしいといえばそうだが、わたしにはここでジェームズが馬脚を露わしたように感じられた。過去の哲学が最新科学ではないといって非難しているかのようだ。

験証とは、検証、実験の結果に照らして仮説の真偽を確かめることだが、最新の実験装置で験証できる観念だけが真の観念である、とジェームズはいっていることになる。

つまりそのときの科学で解明できることだけが真で、それ以外の仮説は全て偽ということになるわけだ。神秘主義者はそうやって切り捨てられたりするわけだが、それはつまり、哲学を科学に限定してしまうという話になるのではないだろうか。しかし、科学が仮説によって成り立っているところから考えると、科学的というわけでもない。

1882年に心霊現象の研究と検証を目的とした研究機関(SPR、英国心霊現象研究協会)、1885年にはASPR(米国心霊現象研究協会)が設立された。ウィリアム・ジェームズは1894年から1895年にかけてSPR会長を務めている。

SPRは「ホジソン報告」でブラヴァツキーに汚名を着せ、神智学協会の社会的信用を失墜させた。

H・P・ブラヴァツキー(加藤大典訳)『インド幻想紀行 下(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2003年)の解説で、高橋巌は次のように書いている。

一九八六年になって、SPR(ロンドンの心霊研究協会)は、HPBの欺瞞性を暴露したといわれた「ホジソン報告」(一八八四年)について亡き夫人に謝罪し、百年来の論争に終止符を打った、とのことである。(ブラヴァツキー,加藤訳,2003年,「解説 魂の遍歴」p.501)
 
だが、SPRの「ホジソン報告」の影響は現在にまで及んでいる。

ウィリアム・ジェームズは超常現象について、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」と発言し、コリン・ウィルソンはこれを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけたそうだ。(ウィキペディアの執筆者. “ウィリアム・ジェームズ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-30. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA&oldid=58429691, (参照 2016-02-03).)
  
このウィリアム・ジェームズの法則、わたしには意味がわからない。信じるとか信じないといったことが、事の真偽に何の関係があるのだろう? 

わからないことを端から色眼鏡で見たり、否定したりする態度が科学的だとはわたしには思えない。わからないことをわからないこととして置いておく態度こそ科学的といえるのではないだろうか。

ブラヴァツキーを誹謗中傷する人々は、コリン・ウィルソンの著作の影響を受けて引用していることが多い。

わたしが怪訝に思うのは、ウィリアム・ジェームズのような哲学者を会員として持ちながら、なぜSPRはブラヴァツキーの著作について学術的な論文を書かなかったのかということである。

もっとも、『ブラグマティズム』で「プラトン、ロック、スピノザ、ミル、ケアード、ヘーゲル――もっと身近な人々の名前をあげることは遠慮する――これらの名前は、わが聴講者諸君の多くには、それだけの数の奇妙なそれぞれのやりそこない方を憶[おも]い出させるに過ぎないと私は確信する。もしそういう宇宙の解釈がほんとうに真理であるとしたら、それこそ明らかな不条理であろう」(ジェームズ、桝田訳,2010,p.45-46)と、大哲学者たちをまず否定してかかることを何とも思わないウィリアム・ジェームズが、ろくに読みもせずにブラヴァツキーの著作を否定したことは充分考えられる。

聴衆や読者に先入観を植え付けるような態度が哲学的な態度でないことは、いうまでもない。

また、神秘主義者によって拓かれた心理学の分野(エッセー39「魔女裁判の抑止力となった、暗黒の時代の神秘主義者たち」、詳しくは上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社、1998年)を参照されたい)がウィリアム・ジェームズのような唯物主義的、実利的な人物の影響を受けたことと、現代の精神医療が薬物過剰となっていることとは当然、無関係とはいえないだろうと思う。

ウィリアム・ジェームズより遥かに知的だったヴァージニアは自分にわからないことを否定したりはしなかったが、その思索は唯物論的世界に限定されていたような感じを受ける。プラトンなど読書した形跡は日記にあるが、ざっと読んだだけという印象を受ける。
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Lytton Strachey and Virginia Woolf.
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生と死は頻りにモチーフとなっているが、死のことを書くにしても、『ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)』所収「」壁の染み」で書くように控えめである。

結局のところ人はここで生まれるのと同じようにあちらで生まれると推測してはなぜいけないのだろうか?(ウルフ,吉崎訳,1999年,p160)
 
ヴァジニア・ウルフ(鈴木幸夫訳)『波(角川文庫)』(角川書店、昭和29年初版、平成元年3版、p.291)の結末のような激しい、美しい表現をとっても、思索の翼をそれ以上広げることはせずに、慎ましくこちら側に留まっている。それは思索にとって自然なことだろうか。もしかしたら、病気のために、翼を広げることが恐ろしかったのかもしれない。

死こそ敵だ。槍を構えて、若者のように髪を後ろになびかせ、印度を疾駆したパーシバルのように、わたしは死に向つて馬を乗り入れるのだ。いまこそ馬に拍車を加えるぞ。汝に向かって突進する、征服されることなく、屈服することなく、おお死よ。
     *
 波が渚に砕けた。(ウルフ,鈴木訳,昭和29年,p160)
 
なぜかわたしにはヴァージニアが工場労働者だったようなイメージが湧く。過酷な知的流れ作業の果てに倒れたのだと思える。

わたしは「詩人」と呼んでいた女友達を連想していた。象徴主義的な美しい詩を書いたが、彼女は意外にも唯物主義的な人で、わたしは彼女には一切神秘主義的な話ができなかった。統合失調症に高校時代から最晩年まで悩まされ、奇しくもヴァージニアと同じ59歳で逝った。(直塚万季『詩人の死』Kindle版、2013年、ASIN: B00C9F6KZI)

芸術の歓びはあちらからやってくるのではないだろうか。もっと翼を広げ、もっと享受できたはずなのに、翼を広げかけたままのつらい姿勢に終始し、あまりにも少ししか受けとらなかったヴァージニア・ウルフ。

神秘主義的に見れば、それは霊的な餓死に見える。
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ベルンハルト・シュレンクの短編集『夏の嘘』(松永美穂、新潮社、2013年)を図書館から借りていたので、『最後の夏』を1編だけ読みました。

夏の嘘 (新潮クレスト・ブックス)
ベルンハルト シュリンク (著), Bernhard Schlink (原著), 松永 美穂 (翻訳)
出版社: 新潮社 (2013/02)


全く無駄のない、ハイセンスな、職人技を感じさせられる短編でした。が、ストーリー的にここまで徹底していると、逆にいえば不自然さがありました。

じっくり感想を書く時間がないので、内容には触れませんが、実際にも日本人のような甘いところがなく、これくらいクールな人々が存在するということなのか、問題を際立たせるためにあえてデフォルメしてあるのかが、これ1編読んだだけではわかりませんでした。

他の作品も読んで、何か書きたいことが出てくれば、また書きます。小説を読む時間がとれないので、比較的気軽に読めそうな本を借りたのですが、この作家の本質に手っ取り早く触れるには『朗読者』『帰郷者』などを先に読むべきだったかもしれません。

急がば回れですね、読書も往々にして。

ジャーナリストの生理学 (講談社学術文庫)
バルザック (著),  鹿島 茂 (翻訳)
出版社: 講談社 (2014/12/11)

娘が感心して読んでいたバルザックの『ジャーナリストの生理学』も読みたいのですが、時間がありません。

そういえば、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」シリーズの『夢想』と『生きる歓び』を読みましたが、どちらも凄かったです!

生きる歓び (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ  (著),  小田 光雄 (翻訳)
出版社: 論創社 (2006/03)

何がって、『夢想』では、『黄金伝説』というキリスト教の伝説集を読んで空想するヒロイン、アンジェリックの怒濤のような妄想ぶりがです。もう圧倒されてしまいました。

『生きる歓び』では何といっても出産のシーンが抜群の筆致で、わたしも出産に立ち会ったような気分になり、どっと疲れて読後は横になったほどでした。

産婆だけでは無理な状況となり、医師が呼ばれ(医師がなかなか来ない)、赤ん坊の手が先に出てしまうのですが(そこに辿り着くまでが相当に長い)、医師がそれをどう処置するのか、産婆になる勉強をしているみたいでした。

最後は汚物が迸って赤ん坊が出てくるところまで(今の日本では下剤など使って、あらかじめ腸管内の排泄物を除去していることが多いと思いますが)、微に入り細を穿ち……読んでいて気分が悪くなるほど、専門的であり、また写実的でした。後産のことまで詳しく書いてあるのです。昔は出産で亡くなる人も多かったというのが、何か産婆的観点から(?)理解できました。

出産がどんなものか知りたいかたにはオススメです。たぶん、人間も牛も同じです。わたしも2人産みましたが、出産ってこんなものなのだと初めて知りました。勿論出産は小説の中の一出来事にすぎません。

赤ん坊の描写の生々しさ。下手をすれば、ちぎれた肉の塊になるところだった赤ん坊は何とか無事に生まれました。そして生まれてみると、何事もなかったかのように……。

ゾラの作品にしてはどちらも気軽に読めると思って借りたのですが、ゾラはそんなに生やさしい御方ではありませんでした。ゾラの筆力に改めて参りました。

論創社から出ている「ルーゴン=マッカール叢書」シリーズに関しては、いずれちゃんと書きたいと思っています。

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ブログ「マダムNの覚書」に7月18日、投稿した記事の再掲です。

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月曜日、久しぶりに書店に行きました。本の香り……どんなフレグランスよりもわたしにはすばらしい香りです。

持っていなかったタブッキの『逆さまゲーム』を1冊、購入しました。アマゾンには現在、中古しか出ていないようです。

タブッキの本で、女性におすすめしたいのは『いつも手遅れ』。大人っぽさを感じさせる、お洒落なムードが漂っていて、ベッドの中で読むのによさそう。シックな男性にもおすすめです。

いつも手遅れ
アントニオ・タブッキ (著), 和田 忠彦 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2013/9/26)

わたしのタブッキ研究は中断中……

孤独感を、ほどよく沈鬱な、落ち着いたムードで和らげてくれる『ペンギンの憂鬱』。

ペンギンの憂鬱  (新潮クレスト・ブックス)
アンドレイ・クルコフ (著), 沼野 恭子 (翻訳)
出版社: 新潮社 (2004/9/29)

孤独感を、圧倒的な存在感で吹き飛ばしてくれる『冬の犬』。

冬の犬  (新潮クレスト・ブックス)
アリステア・マクラウド (著), 中野 恵津子 (翻訳)
出版社: 新潮社 (2004/1/30)

過去記事でレビューを書きました。

そのうち図書館から借りて読みたいと思ったのは、以下の本。

オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集 (光文社古典新訳文庫)
ゾラ (著), 國分 俊宏 (翻訳)
出版社: 光文社 (2015/6/11)

ルーゴン・マッカール叢書で有名なゾラですが、上記2編の作品タイトルは初めて見ました。

地上界を中心に、地獄界から天上界まで描き尽くした感のあるバルザックほどの満足感は望めませんが、ゾラの綿密な取材に裏打ちされた、人間社会の断面図をまざまざと見せてくれるエネルギッシュな諸作品は、これまで読んだどの作品も重量感ある見事な出来映えでした。

これまでに読んだゾラの作品の中では、『制作』『ボヌール・デ・ダム百貨店』が印象的でした。

制作 (上) (岩波文庫)
エミール・ゾラ (著), 清水 正和 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1999/9/16)

制作 (下) (岩波文庫)
エミール・ゾラ (著), 清水 正和 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1999/9/16)

印象派が世に出ようと苦闘していたころのフランス美術界を連想させる迫力のある作品で、芸術の深淵とその怖ろしさをも印象づけられ、読後呆然となりました。

ただ芸術を描いたにしては、この作品には肝心のものが欠けている気もします。

バルザックがペンで捉えることに成功した高級霊性とそこから来る恩恵ともいうべき芸術の醍醐味そのものがきれいに抜け落ちているために、芸術家の真摯な苦闘もどこか馬鹿馬鹿しい徒労としか映らず、戯画的にしか読めない物足りなさがあるのです。

ここのところがゾラの限界を感じさせるところでもあるように、わたしには思えます。

ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生 (ゾラ・セレクション)
エミール ゾラ (著), 吉田 典子 (翻訳)
出版社: 藤原書店 (2004/02)

デパートの魅惑的かつ危険な生態(?)を見事に捉えた作品。

1883年(明治16年)もの昔に発表されたとは思えない新しさを感じさせる作品です。このときゾラは既に、資本主義社会の問題点を分析し尽くしていたのですね。

ところで、わたしが学生だったころ、シュールレアリズムはまだ人気がありました。モラヴィアは読んだことがありませんが、タイトルに惹かれ、読んでみたくなりました。

薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集 (光文社古典新訳文庫)
モラヴィア (著), 関口 英子 (翻訳)
出版社: 光文社 (2015/5/12)

第三の魔弾 (白水Uブックス)
レオ・ペルッツ (著), 前川 道介 (翻訳)
出版社: 白水社 (2015/7/8)

『第三の魔弾』の商品紹介には「16世紀のアステカ王国、コルテス率いる侵略軍に三発の弾丸で立ち向かう暴れ伯グルムバッハ。騙し絵のように変転する幻想歴史小説」とあって、激しく好奇心をそそられます。

オルハン・パムクが文庫で出ていますね。高校生くらいから読めると思うので、過去記事でもオススメしましたが、重厚感があり、ミステリー仕立ての面白さもあるので、読書感想文によいと思います。

イスラム芸術の絢爛豪華な世界に迷い込んで、エキゾチックな感覚を存分に味わいながら、細密画の制作に従事する人々の生々しい生きざまに触れることができますよ。

勿論、大人のかたにもオススメです。

わたしの名は赤〔新訳版〕(上)  (ハヤカワepi文庫)
オルハン パムク (著), 宮下 遼 (翻訳) 
出版社: 早川書房; 新訳版 (2012/1/25)

わたしの名は赤〔新訳版〕(下)  (ハヤカワepi文庫)
オルハン パムク (著), 宮下 遼 (翻訳)
出版社: 早川書房; 新訳版 (2012/1/25)

子供のころに魅了された本が、岩波少年文庫から出ていました。『ジャングル・ブック』と『バンビ――森の、ある一生の物語』です。どちらも、「小学5・6年より」とあります。

岩波少年文庫の本は、単行本に比べると、リーズナブルですし、持ち運びにも便利ですよね。

ジャングル・ブック  (岩波少年文庫)
ラドヤード・キプリング (著),  五十嵐 大介 (イラスト), 三辺 律子 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2015/5/16)

バンビ――森の、ある一生の物語 (岩波少年文庫)
フェーリクス・ザルテン (著),  ハンス・ベルトレ (イラスト), 上田 真而子 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2010/10/16)

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ブログ「マダムNの覚書」に2月18日、投稿した記事の再掲です。
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ISILが15日、リビアの海岸でキリスト教の一派であるコプト教徒のエジプト人21人を殺害したとする動画を公開した。

コプト教は原始キリスト教(最初期のキリスト教)の流れを汲むキリスト教である。アフリカには、古くからキリスト教があるのだ。

コプト正教会:Wikipedia

伝承では1世紀(42年頃)にマルコがエジプト(アレクサンドリア)に立てた教会(アレクサンドリア教会)である。451年のカルケドン公会議の後、カルケドン派(現在のキリスト教多数派)から分かれた。

ナグ・ハマディ文書などの初期キリスト教文書についての本を読んでいると、よくコプト語というのが出てくる。ギリシア語からコプト語に翻訳されたと考えられているものが多いようだ。

ナグ・ハマディ文書ではないが、初期キリスト教文書の中に『マリア福音書』と呼ばれる文書がある。ここでのマリアはマグダラのマリアで、マリアを愛弟子として薫育するイエスのありし日の面影や、ペトロとの衝撃的なやりとりを伝える文書で、コプト語版とギリシア語断片が知られている。

考え方が違うからといって、無造作に相手を殺せるような宗教がこの世にあるとは信じたくない。それが宗教の名に値するとは思えない。わたしは昔コーランをざっと読んだにすぎないが、砂漠の民にふさわしい格調高い宗教書であると思った。

要するに、どんな名著、名言でも、解釈を間違えば、とんでもないことになるという例証ではないだろうか。全てが国語力、読解力にかかっているとさえ、思えてくる。

アフリカといえば、わたしは映画を観て原作者に興味が湧き、カーレン・ブリクセン『アフリカ農場』(渡辺洋美、筑摩叢書、1992年)を図書館から借りて読んでいた。ペンネームのイサク・ディーネセンで出ている『バベットの晩餐会』(桝田啓介訳、ちくま文庫、1992年)も借りている。

初の歴史小説のための資料読みも、気分転換に書き始めた短編も、後回しにして。

英領東アフリカ(現在のケニア)で、ブリクセンは夫と共に農場を経営するが、コーヒー園事業と結婚が破綻してのちも、そこでの荘園風の生き方を続けることを望んで、経営の立て直しに奮闘。結局のところ、うまくいかず、帰国するに至った。

ブリクセンは離婚した夫から梅毒をうつされていたのだが、「梅毒をもらってでも、〈男爵夫人〉になるだけの価値はある」といった彼女は、古色を帯びた封建的な、ある種の理想世界をアフリカの一角に形成しようとしたのだった。

わたしは以下の記事で、書いた。

  • 2015年2月15日 (日)
    シネマ『バベットの晩餐会』を観て 追記:文学の話へと脱線「マッチ売りの少女」とリンドグレーンの2編
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/02/post-cdaf.html

    晩餐会が終わったあと、台所で1人コーヒーを飲むバベットの凜々しく、美しい、どこか勝利を収めた将軍のような安堵の表情を見ると、彼女はパリの居場所をとり上げられた代わりに、デンマークの寒村をまるごと贈られたのではないかと思えてくる。彼女は見事にそれを料理したのではないだろうか。

まだ映画の原作となった『バベットの晩餐会』は読んでいないが、農場を荘園に見立てて、その土地を掌握しようとしたブリクセンを『アフリカ農場』で知ると、わたしの映画解釈が間違ってはいなかったのだと思える。

ブリクセンの描写はくっきりとした、わかりやすいもので、状況がよく掴め、光景が頭の中に自然に浮かんでくる。

過酷な生活環境だが、内面世界との境界がなくなっているかのような幻想的でもあるアフリカでの日々の記録は、圧巻である。

それにしても、白人の女性の矜持と胆力は凄いなあと思う。

原住民の二人の子供が銃を玩具にして、発砲事故を起こしたときの凄惨な光景。子供の一人は死亡し、もう一人は顎を撃ち砕かれるが、何とか元気になった。

牛に襲いかかった二頭の雄のライオンを、夜間、ブリクセンがぶるぶると震える手で懐中電灯を持ち、照らす中で、恋人デニスが撃ち殺す場面があった(デニスは自家用機の事故で亡くなる)。

あれはBBCの番組だったか、ライオンの群れの観察記録を観ていたので、そのときのライオンたちの事情がわたしには呑み込めた。それで痛ましく感じたが、一つ間違えば、ブリクセンたちが餌食になることもありえたのだった。

ライオンは、一頭あるいは複数の雄ライオンを中心に雌と子供のライオンたちが集う、ハーレムのようなグループを作って暮らすと番組ではいっていた。雄の子供ライオンは、成長すると群れを追い出される。

雄が警備を司り、雌が育児と狩りを行う。雄を王様に迎えるときは、見立てのベテランである数頭の雌が、何ヶ月もの時間をかけてじっくりと決めていた。迎えられて王となった雄は、自分で苦手な狩りをする必要がなくなる。

雌たちは連係プレーで狩りを行い、獲物は一番に王様に行く。その代わり、雄が群れを守る役割を果たせなければ、追い出されるのだ。

二頭の雄が農場の牛を襲ったのは、なかなか王様になれない、狩り慣れのしない二頭(兄弟かもしれない)が空腹を我慢できなかったからだろう。動物の世界は厳しい。その厳しさと魅力をブリクセンは克明に描いている。

イグアナを撃つ場面も忘れがたい。なぜ、彼女がそうしたかといえば、イグアナの皮でいろいろな綺麗なものを作りたいと思ったからだという。美へのあこがれと執着には強烈なものがあったようだ。

『アフリカ農場』には、最後の方に訳者のブリクセン小伝がある。ブリクセンの外観について「アメリカに招かれたとき、数多くの視聴者を驚かせた異様できらびやかな風貌と言動」とあり、その記述を物語るかのような写真も付されている。

彫りの深い、どこか謎めいた深みのあるまなざしが印象的だ。ブリクセンが過剰なまでにお洒落であることや、際立って知的であるだろうことは、その写真を見ればわかる。

イグアナのことを書いた場面を食い入るように見た、否読んだのは、以前ペットショップで大型の檻に入れられたイグアナのあざやかな色彩を思い出したからだった。

目に染むようなグリーンだった。ペンキ塗り立て。触れば、手にグリーンがつきそうな。そのような色をした生物がいるということが、ちょっと信じられないくらいだった。独特な風貌で木に寄り添ったまま、わたしがお店にいた間、イグアナは化石のように動かなかった。

アフリカの強い光を浴び、イグアナはえもいわれぬ色彩を放っていたのだろう。「山と積んだ宝石、あるいは古い教会のステンドグラスの一隅のように燦然と輝いている。人が近づいてさっと逃げたあと、イグアナのいた石の上を空色、緑、真紅の光線が流れて、一瞬、色のスペクトル全部が彗星のように宙に漂って見える」(p.262)

イグアナがまるで鱗粉でも放ったかのような描写だが、そんなイグアナが死ぬと一気に灰色になってしまうとは……。蝗の大群に農場が襲われたときの描写も凄い。

そういえば、いくらか前に、象に襲われる危険に晒されながら、長時間かけて学校に通う兄妹の出てくるドキュメンタリー番組を観た。あれは、確かケニアだった。ググってみよう。

NHK番組『世界の果ての通学路』だった。「世界には、何時間もかけて道なき道を学校に通う子どもたちがいる。なぜ彼らはそこまでして学校に通うのだろう?4か国の子どもたちの通学に密着したドキュメンタリー映画」と、番組内容が紹介されている。

ところで、娘がアリステア・マクラウドの『冬の犬』を注文したという。わたしの話を聴いて、読みたくなったのだそうだ(娘は図書館の本に手を触れない)。娘から借りて、いつでも再読できると思えば、嬉しい。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月15日、投稿した記事の再掲です。
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録画しておいた、BS2プレミアムシネマ『バベットの晩餐会』を観た。

1987年度アカデミー賞外国語映画賞受賞

原題:Babettes Gaestebud
監督:ガブリエル・アクセル
原作者:カレン・ブリクセン
脚本:ガブリエル・アクセル
音楽:ペア・ノアゴー
製作年/製作国/内容時間:1987年/デンマーク/104分
出演:
バベット=ステファーヌ・オードラン、マーチーネ=ビルギッテ・フェダースピール、フィリパ=ボディル・キュア、娘時代のマーチーネ=ヴィーベケ・ハストルプ、娘時代のフィリパ=ハンネ・ステンスゴー、ローレンス=ヤール・キューレ、青年時代のローレンス=グドマール・ヴィーヴェソン、アシール・パパン=ジャン=フィリップ・ラフォン

以下、気ままな感想ですが、ネタバレありですので、ご注意ください!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

デンマークの漁村に、牧師と、その娘である姉妹が暮らしていた。

清貧といってよい暮らしで、牧師一家と同じように貧しく慎ましく暮らす信者たち相手に、姉妹は奉仕の日々を送っていた。姉妹は美しく、優しかったが、敬虔、信仰という言葉が服を着て動いているような、教条的なところもあった。

姉妹に、ロマンスが芽生えかけたことはあった。姉マーチーネは士官ローレンスとの間に、妹フィリパはオペラ歌手アシール・パパンとの間に。だが、姉妹は牧師館の奉仕に生きて老いた。

1871年9月のこと、パリ・コミューンを逃れた女性がオペラ歌手の紹介で、父亡きあと、姉妹だけで暮らす牧師館にやってきた。パリは市街戦の様相を呈し、女性の夫と子供は殺されたと紹介状に書かれていた。

女性は料理人で、名はバベットだという。

最初は受け入れを拒んだ姉妹だったが、無給で家政婦として雇って貰って構わないという言葉に、バベットを牧師館に置くことにした。

バベットのお陰で姉妹は家の仕事から解放され、信者たちに尽くす時間がたっぷりとれるようになる。

14年経ったとき、天の配剤のように宝籤が当たった。バベットは宝籤の購入を、フランスとのただ一つのつながりと冗談めかしていっていた。

大金らしいので(1万フラン)、彼女はそのお金でパリに帰り、料理人に復帰することもできたのではないだろうか。

しかし、バベットはそうしなかった。

姉妹が企画している牧師の生誕100周年を祝う記念日に、本格的なフランス料理を一度だけ、作らせてほしいと申し出るのだ。姉妹はコーヒーと簡単な夕食を出すだけのつもりだったが、バベットの切なる懇願に、譲歩した。

海亀は直前まで生きていた。それがスープとなる。まとめて購入されたウズラも籠の中で生きていたが、ウズラのパイになる。パイにスライスして入れられていた黒いものはトリュフだろうか? 料理に合わせて出される様々な、由緒ありそうなワイン、シャンパン。ケーキはモロゾフで食べたアーモンドケーキに似て見える。すばらしい果物。イチジク、美味しそう。食後のコーヒーはデミタス・カップに注がれる。対のように、小さなグラスのワイン。

かつて姉に恋したローレンスは将軍となり、経験を積んで料理も評価できる人間となっていた。晩餐会の席で、彼は料理をなつかしむように絶賛し、バベットの経歴を明かす。

「パリにいた頃、競馬大会で勝ち――、騎兵隊の仲間が祝ってくれた。場所は高級レストラン、カフェ・アングレ。驚いたことに料理長は女性でね。そこで食べたウズラのパイは創作料理だった。主催者のガリフェ将軍が料理長のことをこう話してくれた。特別な才能があるんだと。料理を恋愛に変身させる才能さ。恋愛となった料理を食べれば、肉体の欲望と精神の欲望は区別できない」

台所でてんてこ舞いのバベットには、将軍の絶賛が伝わったようだ。12人分で1万フランになるフランス料理のフルコースに、バベットは宝籤で得たお金を使い切ったのだった。

それは彼女の選択であり、将軍が晩餐会でいったように、選択が問題ではなく、神の恵みは無限だと悟ったからだろう。

バベットは、政変のために家族を亡くし、高級レストランの料理長の地位を失い、パリを追われた。料理の腕を発揮する場もない他国の寒村に生きる羽目になった、何とも気の毒な境遇であった。

ところが、晩餐会が終わったあと、台所で1人コーヒーを飲むバベットの凜々しく、美しい、どこか勝利を収めた将軍のような安堵の表情を見ると、彼女はパリの居場所をとり上げられた代わりに、デンマークの寒村をまるごと贈られたのではないかと思えてくる。

彼女は見事にそれを料理したのではないだろうか。

村の信者たちは14年経つうちに、バベットの価値観をどこかで受け入れるようになっていたのだと思う。 

14年もバベットと一緒にいたのだから、彼らは元のままの彼らではないはずだ。棺桶に片足を突っ込む年齢に達して怒りっぽくなっている信者たちではあったのだが、気づかないうちにバベット色に染まっていたのではないだろうか。晩餐会は、その集大成といってもよいひとときだったと思える。

現に、バベットの味に慣れた老人が描かれていた。老人は夕食を牧師の館から届けて貰っていた。バベットが食材の調達のためにパリに帰省していた間、老人には以前のような食事が届けられるのだが、彼はその味に耐えがたい表情をするのである。

バベットは牧師館の屋根裏部屋を提供され、家政婦として料理も任されてきたのだが、彼女は清貧にふさわしい食事の意義を崩さないまま、目立たないように食生活の改善、革命を成し遂げていたのである。

牧師館で食べる料理について、初めてマーチーネに教わり、それを食べてみたときのバベットの表情は印象的だった。

無造作に切って茹でた干しヒラメ。ちぎったパンをビールでどろどろになるまで煮る、おかゆのようなビールパン。バベットの口には合わなかったに違いないが、その表情は分析的、プロフェッショナルなものだった。

次の場面で、早くもバベットは買い物に出ていた。オニオンとシュガーを買っていた。その次の場面では、姉妹にお茶を出しているバベットがいた。シュガーは、お茶のためのものだったのだろうか。オニオンはどう使われたのだろうか。

寒空の下、野に出てハーブを摘むバベットの姿はとうてい忘れられないものだった。その姿からは、厳しい境遇となった彼女の失意、孤独感、また意志力と内に篭もった祈りなどが感じられるような気がした。

バベットは14年間、料理人としての華の舞台が得えられないまま、黙々と生き、ハーブを摘んできたのだろう。ハーブは慎ましやかな料理を活気づけたに違いない。

夕刻の鐘の音を1人聴きながら、涙を流すバベットも描かれていた。

漁村で魚を売る男も、食料品店を営む男も、バベットの影響は免れられない。腐った魚、傷んだベーコンを売ると、見破られるのだ。彼女は人知れず、村全体の意識を高めていったのではないだろうか。

フィリパが嘆くようにいう。「私たちのためにお金を全部使うなんて」
バベットは毅然と答える。「私のためでもあります」
マーチーネが心配そうに、不思議そうにいう。「一生貧しく暮らすなんて」
バベットは誇らしげに答える。「芸術家は貧しくありません」

バベット役のステファーヌ・オードランは、知的で、意志的で、美しかった。

適当なストーリー紹介とまとまりのない感想になってしまったが、わたしはこの映画を観て、勇気づけられたような気がした。バベットのように強くなりたい。

結婚して長い時が経ち、独身時代親しかった人々との絆が一つ、また一つと壊れていく気がしている。人は望む、望まないに拘わらず、影響し合って、一緒にいる相手に合った人間になっていく。

昔ながらのなつかしい感覚が継続していることを感じられる関係もあるが、違和感を覚えるようになった関係の方が多い。影響を与え合う機会の減ったことが一番の原因だろう。

昔、彼女はこんなに無神経なことはいわなかったのに……などと思うわたしがいる。お互いさまなのだろうが。

世間の人々は経済力や社会的地位で相手を見ていることが多いと思うときが、いつごろからか、よくある。わたしも無意識的にそうしているのだろうが、親しい間柄でありながら、そうした上下関係で見るというのがわたしにはよくわからない。

親しくないからなのかもしれない。親しいと思っているのは、わたしだけだったのかもしれない。

もう昨年の出来事になるのだが、「昔は、大きな家で暮らしていたのにね」と、いった女友達。

確かに結婚してからは夫の転勤もあったし(家賃を払うくらいなら買おうかという話が出たこともあったが、転勤を断ってまで落ち着きたいと思える場所には行かなかった)、わたしは外で仕事をしなかったから、いつもお金がなく、住まいでは苦労してきた。それでも、ちょっといい気味という気配が彼女から漂って驚いた。

別に喧嘩をしていたわけではない。賑やかに会話しているときの一コマにすぎなかったので、「えっ?」と思ったものの、忘れていたほどなのだが、時間が経つほどに気にかかる出来事として甦る。

友人関係を解消すべきか。

といっても、連絡しなければ、消えていく関係にすぎず、おそらく、わたしのほうで執着があるだけなのだ。昔、彼女が書いた童話を忘れられないのである。そのころの彼女のそうした一面に、いつまでも執着がある。だから、創作を始めたと聞いたときは本当に嬉しかった。しかし……その彼女は、わたしの知らなかった彼女だった。

彼女にとって、今のわたしは人生の敗残者と映っているようだ。才能もないくせに、文学なんかやって馬鹿ね、文学なんてやれるような経済力のある相手との結婚だったの、と彼女はいいたいようだった。

いってやれば、よかった。文学に生きすぎて、貧乏であることに気づかなかった、と。否、いってわかるような人であれば、あんなことをいいはいないだろう。清貧に生きているマーチーネの言葉とは違う。

友人は努力家で、早期退職する前から創作を始めているが、最初から賞をとりたいようだった。そして、社会的地位を得て退職した夫を見返したい様子。

純粋に文学に打ち込む反面、世に出たいとか、いろいろ打算的なことをずっと考えてきたわたしではあるが、彼女は大学時代にはもっと純粋に童話を書き、わたしに見せてくれた。

元々それほど読書の習慣のある人ではなかった。創作を本格的に始めたわりには、ほとんど読まないらしい。

打算的な(現実的な、というべきか)、冷たい言葉を平気で口にするようになった彼女の変化がショックであるが、逆から考えれば、大学時代、わたし――というより文学――の影響で彼女は繊細で純粋だったのかもしれないと思える。

また、わたしが友情を、作品を、純粋に歓迎したので、彼女は昔、そうしたのではないだろうか。彼女の夫は、花より団子の人なのだろう。

文学は、芸術は、やはりいいものだと思う。彼女は書く以前に読む必要がありそうだ。文学を何かの手段にする前に、文学を知り、楽しんでほしいと願うが、それは彼女次第だ。

原作者カレン・ブリクセンには興味が湧いたので、図書館から借りて読んでみたい。

追記:

ウィキペディアによると、カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表する小説家。作家活動は1933年に48歳からと遅いが、翌1934年にアメリカで出版したイサク・ディーネセン名義の作品「七つのゴシック物語」で早くも成功を収めている。

作家として成功するまでは、「父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻(夫に移された梅毒は生涯の病になった)し、離婚。単身での経営を試みるがあえなく失敗し、1931年にデンマークに帰国した」とウィキにあり、紆余曲折あった様子が窺える。

「バベットの晩餐会」は1958年に出版された『運命譚(Anecdotes of Destiny)』の中の一編。

同じ物書きとして思うのは、「バベットの晩餐会」が無名の物書きによって書かれた作品ではなく(そもそも、そのような人物の作品が世に出て残ることはほぼないだろう)、功成り名遂げた作家によって書かれたという事実だ。

映画に感動しながらも、物書きの一人としてはそのことが引っかかり、物にならない物書きの人生――どうやら、それはわたしの人生らしい――が一層つらいものに感じられる気もしている。

そのこととは違うことかもしれないが、アンデルセンが「マッチ売りの少女」を書いたのは滞在中のお城であったこととか、極貧の少年少女が描かれた短編「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」は、セレブのリンドグレーンによって書かれたこととかを思うとき、わたしは複雑な気持ちになる。

『小さいきょうだい-四つのものがたり(Sunnanäng ) 1959年』に収録されている作品。日本では1969年に大塚勇三訳『リンドグレーン作品集 14 小さいきょうだい』として出版されている。

石井登志子訳『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』(ヤコブ・フォシェッル監修、岩波書店、2007年)を読んで初めて、それまで断片的にしか知らなかったリンドグレーンの人生全体を鳥瞰できた。

両親は農場が軌道に乗るまで苦労したかもしれないが、あのころのスウェーデンの時代背景を考えると、彼女は何しろ農場主の娘で、父親は酪農業組合、雄牛協会、種馬協会を結成した活動的な事業家でもあり、娘のリンドグレーンが苦労した様子はアルバムからは窺えない。

ラッセを産んだ件では苦労しただろうが、一生を共にしたくない男の子供を妊娠し、その男と一生を共にしない選択の自由がともかくもあり、女性の権利拡張運動の闘士(職業は弁護士)エヴァ・アンデンの援助も受けられて……と、確かに一時的な苦労はあったようだが、自由奔放な女性がしたいようにしたという印象を強く受ける。ラッセは、実父から3万クローナの遺産を受けとっている。

ちなみに、ラッセが大学受験資格に合格したときの写真を見ると、どちらかというと、いかつい男性的な容貌のリンドグレーンとは対照的な、女性的といってよいようなハンサムボーイだ。

それまでに読んだリンドグレーンの作品解説や伝記的なものからは地味な境遇が想像されていたが、いや、とんでもなかった!

想像とは違っていたが(違っていたからこそ、というべきか)、リンドグレーンや周囲に写っているものがとっても素敵なので、昨年、娘に誕生祝いに何がほしいかと訊かれたとき、迷わず、リンドグレーンのアルバムを挙げたのだった。

だから勿論、わたしは、アンデルセンやリンドグレーンが有名だったり、お金持ちだったり、自由奔放だったりしたからどうのとケチをつけたいわけではない。

無名で貧乏だと、取材もままならないから、有名でお金持ちのほうがいいに決まっているし、自由でなくては書きたいように書けないから、環境的に自由なムードがあり、気質的にも自由奔放なくらいがいいと思う。

ただ、「マッチ売りの少女」にも、「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」にも、どことなく貼り付いたような不自然さを覚えていたので、つい、どんな環境で書かれたかを探りたくもなったのだった。

アンデルセンの「マッチ売りの少女」はよく読めば、不思議な話なのである。

このことについては、YouTube(聴く、文学エッセイシリーズ)の最初の動画「マッチ売りの少女」のお話と日本の現状 2014/02/07」の中で触れているので、以下に抜粋してみたい(このシリーズ、続けるつもりが頓挫している。あまりに話すのが下手なので。まあ、その練習の意図もあって始めたわけではあるが)。

「マッチ売りの少女」を読んでいました。このお話をご存知ない方は少ないんじゃないかと思いますが、アンデルセンの童話です。アンデルセンは1805年に生まれ1875年に亡くなったデンマークの作家です。日本でいえば、生まれたのは江戸時代で、亡くなったのは明治8年ということになります。

貧しい少女が雪の降る大晦日に、マッチを売りに出かけます。マッチを売ってお金を持って帰らないと、お父さんからぶたれてしまうのですね。ところが、マッチは売れませんでした。夜になってしまって、とても寒いんです。風がピューピュー吹いて、雪も降っていますから。

少女は、マッチを擦って、その炎で温まろうとしたわけです。そうしたときに、美しい幻がいろいろ見えました。ストーブや、美味しい食べ物、クリスマスツリーなんかが見えて、終いには亡くなったお祖母さんが見えたのです。その幻が消えそうになったとき、少女はお祖母さんに、自分も連れて行ってちょうだい、といって、お祖母さんと一緒に天へと昇っていきました。翌日、街の人々は、少女が凍えて亡くなっているという現実を見るわけですね。

そういう救いのないお話ですけれど、今の世の中にはこういう現実は、残念ながら沢山あって、この日本ですら、起きるようになってきたのが怖ろしい話です。

わたしは昔は、こういう悲惨な出来事というのは――こういうお話を読むと、ひじょうに心が痛みますけれど――遠い昔の外国のお話という捉え方をしていたわけですが、日本もだんだんと社会的に難しい状況となってきて、時々ニュースで餓死したとかね、目にしますよね。〔略〕

改めて思ったんですけれど、この少女は――まだ小さいということもあるのかもしれませんが――気立てがいいですよね。お母さんがこの間まで履いていたスリッパを少女が履いて無くしたとありますから、お母さんはどうしたんでしょう。この間までお母さんに可愛がられた雰囲気が少女にはありますよね。マッチ売りにも慣れていないみたいだし。お母さんが亡くなったとしたら、幻にお母さんが出て来ないのは不自然ですから、家を出たとかで、お父さんはやけっぱちなんでしょうか。それにしては家があばら屋みたいなのは変で、何にしてもお父さんは廃人っぽいですね。

夫に愛想をつかしたお母さんが少女もそのうち引き取るつもりで、下の子だけ連れて家を出たとか、想像したくなりますが、そこまでの情報をアンデルセンはここでは書き込んでいません。

アンデルセンがどういう意図で書いたかは知らないが、「マッチ売りの少女」が少女の貧しさ、恵まれない子の悲惨を訴えた物語にしては、その肝心のマッチ売りの少女が貧しさにも、商売にも慣れていず、すれた感じがないという不思議さがあるのだ。

そういえば、カレン・ブリクセンもアンデルセンも、同じデンマークの作家である。

リンドグレーンの2編についても、不可解な点や解釈に迷うところがあるので、いずれ考察してみたいと考えている。

『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』には作品解釈の手がかりになるようなことが多く書かれている。「はるかな国の兄弟」の謎はそれで大部分が解けた。

わたしが深読みしたより、単純に――シンプルにというべきか――書かれていた。それでも、まだ謎の部分がある。これについても、いずれまた。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月10日、投稿した記事の再掲です。
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アリステア・マクラウドはすばらしい。厳寒の地に生きる人間と動物の物語。

厳寒の地といっても、季節はあり、あの赤毛のアンで有名なプリンス・エドワード島の東隣の島、ケープ・ブレトン島が舞台なのだ。

冬は「ビッグ・アイス」と呼ばれる流氷の群れが接岸し、見渡す限りの氷原がひろがるという。

流氷はお宝を運んでくる。難破船からの流出物で、酒樽、家具、釣り道具、船のドア……人間や馬の死体なども。

ある冬、少年は1匹の犬に曳かせた橇で氷原に出かけ、お宝を見つける。それは、アザラシの死体だった。アザラシを犬橇で持ち帰る途中、少年は氷の割れ目に落ち……最初は犬橇ごと。次は少年ひとりで。

犬は、ジャーマン・シェパードの血が何分の一か混じった家畜用コリー犬だ。すごい力持ちだったが、家畜の群れをまとめ役としては役立たずの犬だった。しかし、このとき、犬は頑張る。

引き具が犬の肩から前へずり落ちはじめたが、犬は私を引っぱりつづけ、私はつかまりつづけた。とうとう肘が堅い氷の上についた感じがした。私はその氷の端に両肘をかけ、自力で這い上がった。全身ずぶ濡れで、暗い水面から白いどろどろの氷の上にあがってきたもう一頭のアザラシのようだった。上に出たとたん、着ているものが凍りはじめた。肘や膝を曲げると、まるでSFの国から抜け出したロボットのようにギーギー音がし、しばらくして自分を見おろすと、ワニスを塗ったように全身が透明な氷でコーティングされていた。〔pp.70-71〕

『冬の犬』(新潮クレスト・ブックス)という短編集に収録された「冬の犬」と、灯台守として生きる女性の過酷すぎて幻想性をすら帯びた人生を描く「島」が、とりわけ印象的だった。

燈台守として長年、孤独に暮らすうち、知らぬ間に「島の狂女」伝説をつくりあげていた女性は、燈台が閉鎖され、島を去らなければならなくなったとき、胸の痛みを覚える。

ひょっしたらそれは、ひどい場所や苦しい状況やつらい結婚から去ってゆく者の心情に似ていたかもしれない。最後にもう一度肩越しにふりかえって、「ああ、私は人生の大半をここにささげてきたんだ。たいした人生ではなかったけれど、それを生きたのはたしかに私だった。これからどこへ行こうと、もう前と同じ私ではない」と静かに自分に言い聞かせる人々の心情に。〔p.226〕

見たこともなかった孫が島に迎えにきて、その若者は、事故死したために結婚できなかった恋人とそっくりのセリフを吐く。「もう、行かなくちゃ」「戻ってくるから」「戻ってくるって言ったよね」「いっしょに行こう。どこかほかの土地に行って、いっしょに暮らそう」

こうした場面は、老いた彼女に現実に起きたことなのだろうか、幻想なのだろうか。

短編小説「島」の主人公が、女性なのか、つかの間のロマンスが生んだ遺伝子の奇跡〔p.229〕なのか、島そのものなのかわからなかったが(渾然一体となっているようでもある)、読み終わったとき、呆然としてしまった。

アリステア・マクラウドは寡作な作家で、生涯に短編小説16を収録した短編集1冊、長編1冊残しただけという。

原題『Island』の短編小説は、日本では8編ずつに分けられ、前掲の『冬の犬』と『灰色の輝ける贈り物』という邦題で出版されている。長編小説の邦題は『彼方なる歌に耳を澄ませよ』。訳者は中野恵津子。

行き届いた、無駄のない描写は、ドキュメンタリーを観るような緊迫感をもたらす。

そして、作家の内面的な豊かさ、卓越した人生観は、作中の人間や動物を明晰な光で照らし出し、大自然の懐の然るべき一点に結晶させる。

生き物たちが醸し出す叙情味は、尊厳美を伴って、読む者を魅了せずにはおかない。

短編集2冊は宝物となりうる本だが、図書館からの借り物なので、返さなくてはならないのが残念だ。

長編はまだ借りていないが、これも評判が高い。

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

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商用・非商用を問わず完全フリーで使える画像検索サイト「Pixabay」から画像をお借りしました。

クリスマスイブをどうお過ごしですか?

書店勤めの娘は、クリスマスイブにも残業(サービス残業が通常化)です。

クリスマスイブを楽しく過ごせるくらいの生活のゆとりがほしいと思います。

せめて美味しい夕食を用意して、帰宅を待ちましょう。

クリスマスといえば、どうしてもマグダラのマリアを連想してしまうわたしですが、過去記事でも紹介した以下の本は面白いですよ。『マグダラのマリアと聖杯』。

マグダラのマリアと聖杯


リンドグレーンの本もクリスマスに読みたくなります。せつない本と底抜けに愉快な本の2冊。『ミオよ わたしのミオ』、『エーミールとクリスマスのごちそう』。

ミオよわたしのミオ (岩波少年文庫)

エーミルとクリスマスのごちそう (岩波少年文庫)


わたしの電子本も宣伝させてください。どれも児童小説で、クリスマスが出てきます。『田中さんちにやってきたペガサス』、『すみれ色の帽子』、『卵の正体』。

田中さんちにやってきたペガサス

すみれ色の帽子

卵の正体

わたしはクリスチャンにはなりませんでしたが、昔から新約聖書を愛読しています。

ヨハネの中の受難後のイエスがマグダラのマリアに現れる場面、ルカの中のやはり受難後のイエスがエマオへと向かう2人の弟子に現れる場面が好きです。

何回読んでも、みずみずしい美しさで魂を打たれる気がします。

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最近「高校生の読書感想文 おすすめ」といった検索ワードで、当ブログをご閲覧になる方が増えました。

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わたしはこれまでに、高校生が読書感想文を書くのによいと思われる本の紹介記事を6本書きました。高校生の読書にふさわしいと思われるバランスのとれた、文学作品としての品格を備えた作品を紹介するように努めてきました。

アクセスが最も多いのは以下の記事です。

書店で目につく本は毎年変わるので、用事で中心街に出かけた帰りに書店に寄り、書棚で目についた3冊の本のタイトルと出版社名をメモ帳に書き留めてきました。

わたしが持っている本とは翻訳者、出版社などが違いますが、ざっと中身を確認し、おすすめできると思いました。

これまでにわたしが書いた記事では、高校生の理解力を考慮した、よくまとまった、定番的な作品を主に紹介してきました。

今回は、「この本が文庫で買えるなんて、何てすばらしい」と思った本を紹介することにしました。何年か経ってほしいと思っても、絶版になっていたりして思うように入手できないことがあるのですね。

ところで、あなたはフランス料理を召し上がったことがありますか? 

わたしは国内から一歩も外へ出たことがなく、フランス料理店にも入ったことがないので、縁がありません。欧風料理店でランチを注文したことがある程度です。

ですから、フランス料理のフルコースといわれても、漠然と想像できるだけですが、文学の世界でなら、この日本にいながらにして(翻訳されたものを通して)、数々のフルコース(長編)に舌鼓を打ちました。

「暗黒事件」は、そんなフルコース的な絶品小説をせっせと世の中に送り出したバルザックの長編小説です。長編ですが、それほど長くない手頃な長編で、フランスの文豪バルザックの諸作の中でも、とりわけ有名な歴史小説です。

暗黒事件: バルザック・コレクション (ちくま文庫)
オノレ・ド バルザック (著), 柏木 隆雄 (翻訳)
文庫: 443ページ
出版社: 筑摩書房 (2014/6/10)

この本を開くと、歴史の勉強で味もそっけもないものとして「フランス革命」「ナポレオン帝政」などと脳味噌に刻みつけられた歴史用語が突然香りを放ち、生き生きとした姿を見せ始めることでしょう。

わかりにくい箇所は飛ばして読んでもいいと思いますよ。あとで気になれば、ネットでなり、辞書、事典、年表でなり、調べればよいことです。

一番大事なのは、作品の香りを嗅ぐことですから。

勿論、わからないところを調べながら読めば、より読書を楽しめるでしょう。

そして、興味を惹かれた箇所をノートに書き出すことから、感想文の第一歩を始めてみては如何ですか?

以下の2冊に収められた作品は、エッセイ的な要素の強い作品です。プロットのはっきりした小説に比べると、感想文が書きにくいかもしれません。

でも、こうしたタイプの本の読書では、気ままな散歩のような気楽さがあり、一部分を採り出して感想を書いても様になる――感想文らしいものになる――という強み(?)があります。

これらの作品を読んだことのある場合とない場合とでは、この世というところが違って見えてくると思います。洗練された、良識的な物の見方とはどういうものかを教えてくれることでしょう。

マルテの手記 (光文社古典新訳文庫) 
ライナー・マリア リルケ (著),  松永 美穂 (翻訳)
文庫: 394ページ
出版社: 光文社 (2014/6/12)

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫) 
ジョージ ギッシング (著), 池 央耿 (翻訳)
文庫: 331ページ
出版社: 光文社 (2013/9/10)

読書感想文を書くというイベント(宿題)を通して、ぜひすばらしい文学作品に触れてみてください。


※関連記事

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 過日、書店で村上春樹訳の『フラニーとズーイ』を目にし、パラパラとめくってみた。カタカナが多用されていてわたしには読みにくく、何のための邦訳だろう、と思わないでもなかった。

 これで、新潮文庫の野崎孝の名訳『フラニーとゾーイー』は村上春樹訳に置き換えられてしまったわけだ。

 わたしの年代(1958年2月生まれ)で、サリンジャーにはまった人は多かったのではないかと思う。

 J・D・サリンジャー:Wikipedia

 1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に、作品を発表しなくなったサリンジャーだったが、彼がいつ新作を発表するのか、しないのか、サリンジャーの作品の解釈といった話題で、わたしは文芸部の仲間と当時よく議論をした。楽しかった。

 サリンジャーはわたしにとってはまさに青春の書であった。

 発表週間でサリンジャーを採り上げたような気もする。

「ブルー・メロディー」に触発されて、「とても美しい劇」という掌編を書いた。荒地出版社から出ていたJ・H・サリンジャー『サリンジャー選集3 倒錯の森〈短編集Ⅱ〉』に収録されていた一編。
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 今でも、このシリーズをほしい人は結構いそうな気がする(カバーは外してしまった)。前出の「ブルー・メロディー」なんか、読み返したい人も多いのではないだろうか。

「ブルー・メロディー」に登場するリーダ・ルイーズは、ベッシー・スミスがモデルだといわれていた。わたしは高校時代にジャニス・ジョプリンを発見し、大学時代はジャニス漬けだったが、そのジャニスが影響を受けたベッシー・スミスである。

 どちらの方面からも、ベッシー・スミスは特別なシンガーとしてわたしの中で輝きを放った。以下はウィキペディアより抜粋。



ベッシー・スミス:Wikipedia

主に1920年代から1930年代にかけて活躍。 多大な成功を収め、「ブルースの女帝」とも呼ばれる。「建造物を揺るがす」ほどの圧倒的な声量と芳醇な情感を保つ歌唱力で聴衆を魅了し、偉大なブルース・シンガーとして現代でもその人気と名声は語り継がれている。

近代アメリカのポピュラー音楽史上、彼女の存在は後に活動する多くの歌手たちへジャンルを問わず幅広く巨大な影響を与えている。彼女を尊敬したという歌手にビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、ジャニス・ジョプリン、ノラ・ジョーンズ達が挙げられる。

作品では『セントルイス・ブルース』、『難破ブルース』などの録音が有名である。

彼女自身も作詞および作曲を行い、2006年7月現在日本音楽著作権協会 (JASRAC) には35作品がPD状態として確認、登録されている。

 でも、わたしはベッシー・スミス、ビリー・ホリデイより、オデッタ(Odetta Holmes, 1930年12月31日 - 2008年12月2日)のほうが好きかな。オデッタの歌声の柔らかさ。以下の動画では体調のせいか、もう満足に声が出なくなっているようだけれど。

Odetta at Governor's Island House of the Rising Sun / When I Was A Young Girl
https://www.youtube.com/watch?v=jsV0kTXgYXc


 なぜか第1巻が見当たらない。『サリンジャー選集1 フラニー ズーイー』を新潮文庫版の訳と比べた記憶があるから、持っていたはずだけれど、本棚の奥にあるのか、なくなったのか、少し時間をかけて調べてみなくてはわからない。

 愚作「とても美しい劇」を読み返してみたが、読める。大学1年のときのそれも戯れに書いた初期の作品に当たるのだが、当時読んでくれた――口うるさいはずの?――仲間がそれなりに感じ入ってくれた記憶がある。

 廃版にした『茜の帳』収録の幻想短編「茜の帳」などと一緒に、『初期短編集』というキンドル本を出すのもいいかもしれない。また☆一つ食らいそうだが。

 サリンジャーに関することなら、どんな断片にも目を走らせた。

 そして、わたしは「東洋思想を受容し損なったユダヤ系作家」という位置づけを行ったのちに、サリンジャーを離れた。

 それでも、のちになって出たサリンジャーの伝記、娘さんの告発本(?)もちゃんと読んだ。

 大学時代にはまった頃からサリンジャーの限界が感じられていたのだが、今思えば、あれほど惹きつけられたのはサリンジャーの真摯さが嫌でも伝わってきたからだろう。

 深淵をのぞき込まされるような、あの真摯さが村上春樹にはない。

「ブルー・メロディー」には手を出してほしくないが、多くの人に読んでほしいというサリンジャーの一ファンとしての思いはある。願わくは、同じ訳でなければ、春樹以外の優秀な翻訳家の訳で。

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『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012』(Collected Essays 2)の完成がようやく見えてきました。

 細かな脚注の作成がようやく終わり、やれやれといったところです。あとは頭が禿げてきそうな校正が待っていますが、何回も読み直しながらの脚注作成だったので、今度こそ近日公開できると思います。
 追記:販売中です 

気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays, Volume 2)

 と意気込んでいるのは本人だけで、買ってくださる方があろうとはあまり思えません。幸いキンドルストアの棚に並べておいても埃がつくでなし、追い立てられるでもなし、本当に恵まれた状況を享受できるのはアマゾンさまのお陰と感謝しています。

 この本は、内容の多くを(整理しないままですが)ブログで公開しているため、KDPセレクトには登録できず、従って無料でダウンロードして貰うというわけにはいかず、買っていただくことはそれ以上に望めないでしょう。

 わたしが図書館から借りる本は、地下の公開書庫に収められているものが多く、古びているという他は新品状態であったりします。最近ではハンス・カロッサ全集、アントニオ・タブッキの須賀敦子訳のものなども、そのような状態にあったのを借りました。

 自分のキンドル本をそのような貴重な本と比べてどうこういえるわけもありませんが、あのような本ですら地下で眠ることも多いのだと思えば、わたしもがんばろうという気持ちになれるのですね。

 ただ、未熟な自分の本は仕方がないとしても、本は面白ければよいという現在の日本の常識といいますか、風潮は明らかに異常で、そんな「常識」をわたしは中学三年生くらいのときから、感じ始めました。本を読む者は暗い、といわれ出したのです。中学三年生というと、1973年。

 1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までといわれる高度成長期。高度成長期が過ぎようとしている頃からの現象ということになります。

 本を読む者は暗い、本は面白ければいい、という価値観は商業主義やマルキシズムと関係があるとわたしは考えてきました。

 今回出す予定のキンドル本は、400字概算で100枚弱の芥川賞受賞作品のレビュー集ですが、関連する小論も収録しています。Collected Essaysの第2巻ということになりますが、Collected Essaysは日本の文学界を総合的に分析していこうという私的試みです。

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』(Collected Essays 1)がそうした試みの始まりの本です。

 わたしは『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012』(Collected Essays 2)を作成しながら改めて、マルキシズムの唯物論が日本の文学に及ぼした影響の大きさを思わないわけにはいきませんでした。

 新しい試みとしてYouTubeで始めた聴く、文学エッセイシリーズ№1「マッチ売りの少女」のお話と日本の現状でも、その点をほのめかしています。

 収録した小論の中の「バルザックと神秘主義と現代」は基幹ブログ「マダムNの覚書」で公開したものですが、キンドル本の公開に先駆けて、再度ここにご紹介しておきたいと思います。

 青字の漢数字は脚注、緑色は引用部分です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆


バルザックと神秘主義と現代

 わたしの大好きなバルザックは五十一歳で死んだが、眠気覚ましの濃いコーヒーのがぶ飲みが一因ともいわれている。

 わたしもコーヒーを飲みすぎることがある。目を覚ますためではなく、ストレスをまぎらわせるために。そのストレスの内容を分析してみれば、才能の乏しさや筆の未熟さに起因するストレスがあり、さらには、わたしの書きたいものと通念との乖離に起因する大きなストレスのあることがはっきりする。

 バルザックの『谷間の百合』十七ほど、わたしを酔わせた小説はない。抒情味ゆたかな、気品の高い恋愛物で、全編に百合の芳香が漂っているかのようだ。ここには見事なまでにバルザックの内的な世界観が打ち出されている。

 数あるバルザックの作品のうちこれがわたしを最も惹きつけたのは、この作品の華と神秘主義の華が甘美に重なりあっているためだろう。少なくともわたしは『谷間の百合』の魅力をそのように理解したのであった。

 『谷間の百合』の女主人公モルソフ夫人はカトリック教徒であるが他方、神秘主義哲学者サン=マルタン(一七四三 - 一八〇三)に親昵し、その教えに薫染した人物として描かれている。

 神秘主義思想はローマン・カトリシズムから見れば無論、異端思想である。『谷間の百合』は教会の禁書目録に含まれていた。

 バルザックという人間が神秘主義を頭で理解したつもりになっているだけの人物なのか、そうではなくて、それを感性でも捉え得ている人物なのかは、例えば次のような箇所を読めばおおよその判断はつく。

 引用はモルソフ夫人の臨終に近い場面からである。


        そのときの彼女からは、いわば肉体はどこかに消え去って、ただ魂だけが、嵐のあとの空のように澄みきったその物静かな顔を満たしていました。[略]そして、顔の一つ一つの線からは、ついに勝ちをおさめた魂が、呼吸とまじりあう光の波を、あたりにほとばしりださせているのです。[略]思念からほとばしり出る明るい光は、[略]


 肉眼では見えないはずのオーラや想念形態といったものを内的な視力で見る者であれば、こういった箇所を読むと、彼がそうしたものを実際に見ていたのだという感じを抱かずにはいられまい。

 学者、透視家であったスヴェーデンボリ(一六七七 - 一七七二)の著作の影響を感じさせる『セラフィタ』十八。バルザックは両性具有者を登場させたこの浮世離れした作品の中で、真の恋愛が如何なるものであるべきかを追究している。


        わたしたちのお互いの愛の多寡は、お互いの魂にどれほど天界の分子が含まれているかによるのです。


 さらに同著において、 神秘主義哲学とは切っても切れない「宇宙単一論」が展開され、バルザックは数について考察する。


        貴方は数がどこで始まり、どこで止まり、またいつ終わるのか知りません。数を時間と呼んだり空間と呼んだりしています。数がなければ何も存在しないと云い、数がなければ一切は唯一つの同じ本質のものになる、と云います。なぜならば数のみが差別をつけたり質を限定したりするからです。数と貴方の精神との関係は、数と物質との関係と同じで、謂わば不可解な能因なのです。貴方は数を神となさるのでしょうか。数は存在するものでしょうか。数は物質的な宇宙を組織立てるために神から発した息吹なのでしょうか。宇宙では数の作用である整除性なくしては何物も形相をとることはできないのでしょうか。創造物はその最も微細なものから最大なものに至るまで、数によって与えられた属性、すなわち量や質や体積や力によって、始めて区別がつけられるのでしょうか。数の無限性はあなたの精神によって証明されている事実ですが、その物質的な証明はまだなんら与えられていません。数学者たちは数の無限性は存在するが証明はされないと云うでしょう。ところが信仰する者は、神とは運動を恵まれた数で、感じられるが証明はされない、と云うでしょう。神は『一』として数を始めますが、その神と数とにはなんら共通なものはありません。数は『一』によって始めて存在するのですが、その『一』は数ではなく、しかもすべての数を生み出すのです。神は『一』ですが創造物とはなんら共通点を持たず、しかもその創造物を生み出すのです。ですから数がどこで始まり、創造された永遠がどこで始まりどこで終わるかは、わたしと同様に貴方もご存じないわけです。もし貴方が数をお信じになるのなら、なぜ神を否定なさるのです。


 『絶対の探究』十九には近代錬金術師が登場して、「絶対元素」を追求する。バルザックはこれを執筆するにあたって、前年に完訳されたスウェーデンの化学者ベリセリウス『化学概論』全八巻を読破し、化学者たちの協力を仰いで完成させたという。

 主人公バルタザル・クラースはアルキメディスの言葉「ユーレカ!(わかったぞ!)」と叫んで死ぬ。『ルイ・ランベール』二十のごときに至っては、主人公ルイを借りて、バルザックその人の神秘主義者としての歩みを詳述し、思想を展開させ、さらには形而上的な断章まで加えた、一種とめどもないものとなっている。

 自らの思想と当時の科学を折衷させようと苦心惨憺した痕跡も窺える、少々痛々しい作品である。


        「われわれの内部の能力が眠っているとき」と、彼はいうのだった。「われわれが休息のここちよさにひたっているとき、われわれのなかにいろんな種類の闇がひろがっているとき、そしてわれわれが外部の事物について瞑想にふけっているとき、しばしば静けさと沈黙のさなかに突然ある観念が飛び出し、無限の空間を電光の速さで横切る。その空間はわれわれの内的な視覚によって見ることができるのだ。まるで鬼火のように出現したそのキラキラかがやく観念は消え去ったまま戻ってこない。それは束の間の命で、両親にかぎりない喜びと悲しみを続けざまに味わわせるおさなごのはかない一生に似ている。思念の野原に死んで生まれた一種の花だ。ときたま観念は、勢いよくほとばしって出たかと思うとあっけなく死んでしまうかわりに、それが発生する器官のまだ未知のままの混沌とした場所に次第に姿を現わし、そこでゆらゆらと揺れている。長びいた出産でわれわれをヘトヘトにし、よく育ち、いくらでも子供が産めるようになり、長寿のあらゆる属性に飾られ、青春の美しさのうちにそとがわでも大きくなる。[略]あるとき観念は群れをなして生まれる。[略]観念はわれわれのうちにあって、自然における動物界とか植物界に似ている一つの完全な体系だ。それは一種の開花現象で、その花譜はいずれ天才によって描かれるだろうが、描くほうの天才は多分気違い扱いにされるだろう。そうだ、ぼくはこのうっとりするくらい美しいものを、その本性についてのなんだかわからない啓示にしたがって花にくらべるわけだが、われわれの内部とおなじく外部でも一切が、それには生命があると証言しているよ。[略]」


 漸次、こうした神秘主義思想の直接的な表現は彼の作品からなりをひそめ、舞台も俗世間に限られるようになるのだが、そこに肉の厚い腰を据え、『ルイ・ランベール』で仮説を立てたコスミックな法則の存在を透視せんとするバルザックの意欲は衰えを知らなかったようだ。

 以上、『谷間の百合』『セラフィタ』『絶対の探求』『ルイ・ランベール』の順に採り上げたが、完成は順序が逆である。

 神秘主義的傾向を湛えた四作品のうちでも、わたしが『谷間の百合』に一番惹かれたのは、バルザックの思想が女主人公に血肉化された最も滋味のあるものとなっているからだろう。

 幼い頃から神秘主義的な傾向を持ちながら、そのことを隠し、まだ恥じなければならないとの強迫観念を抱かずにはいられない者にとって、バルザックの名は母乳のようにほの甘く、また力そのものと感じられるのだ。小説を執筆しようとする時、強い神秘主義的な傾向と、これを抑えんとする常識とがわたしの中でせめぎあう。こうしたわたしの葛藤には、当然ながら時代の空気が強く作用していよう。

 バルザックが死んだのは一八五〇年のことであるが、彼が『あら皮』――この作品もまた神秘主義的な傾向の強い作品である――を書いた年、一八三一年にロシアの貴族の家に生まれたH・P・ブラヴァツキーは、「秘められた叡智」を求めて世界を経巡った。インド人のアデプト(「達成した者」を意味するラテン語)が終生変わらぬ彼女の守護者であり、また指導者であった。

 インドの受難は深く、西洋では科学と心霊現象とが同格で人々の関心を煽り、無神論がひろがっていた。ブラヴァツキーは神秘主義復活運動を画する。アメリカ、インド、イギリスが運動の拠点となった。

 なぜ、ロシア出身の女性の中に神秘主義がかくも鮮烈に結実したのかは、わかるような気がする。ロシアの土壌にはギリシア正教と呼ばれるキリスト教が浸透している――ロシア革命が起きるまでロシアの国教であった――が、ギリシア正教には、ギリシア哲学とオリエント神秘主義の融合したヘレニズム時代の残り香があることを想えば、東西の神秘主義体系の融合をはかるにふさわしい媒介者がロシアから出たのも当然のことに思える。

 大きな碧眼が印象的な獅子にも似た風貌、ピアノの名手であったという綺麗な手、論理的で、素晴しい頭脳と火のような集中力と豊潤な感受性に恵まれたブラヴァツキーはうってつけの媒介者であった。

 ちなみに彼女には哲学的な論文のシリーズの他に、ゴシック小説の影響を感じさせる『夢魔物語』二十一と題されたオカルト小説集がある。変わったものでは、日本が舞台で、山伏の登場する一編がある。

 彼女の小説を読みながらわたしは何度も、映像的な描写に長けたゴーゴリの筆遣いを思い出した。また内容の深刻さにおいてギリシア正教作家であったドストエフスキーを、思考の清潔さにおいてトルストイを連想させる彼女の小説には、ロシア文学の強い香がある。

 ブラヴァツキーは大著『シークレット・ドクトリン』二十二の中で、バルザックのことを「フランス文学界の最高のオカルティスト(本人はそのことに気付かなかったが)」といっている。

 そして、ブラヴァツキーより少し前に生まれ、少し前に死んだ重要な思想家にマルクス(一八一八 - 一八八三)がいる。一世を風靡したマルクス主義の影響がどれほど大きいものであったか、そして今なおどれほど大きいものであるかを知るには、世界文学史を一瞥すれば事足りる。

 史的唯物論を基本的原理とするマルクスが世に出たあとで、文学の概念は明らかに変わった。


        従来バルザックは最もすぐれた近代社会の解説者とのみ認められ、「哲学小説」は無視せられがちであり、特にいわゆる神秘主義が無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている現代においてその傾向が強かろうと想われるが、バルザックのリアリズムは彼の神秘世界観と密接な関係を有するものであり、この意味においても彼の「哲学小説」は無視すべからざるものであることをここで注意しておきたい。


 以上は、昭和三十六年に東京創元社から出された、『バルザック全集』弟三巻における安土正夫氏の解説からの引用である。解説にあるような昭和三十六年当時の「現代」を用意したのは、誰よりもマルキストたちであった。

 エンゲルスは、バルザックが自分の愛する貴族たちを没落の運命にあるように描いたというので彼を「リアリズムの最も偉大な勝利の一つ」と賞賛した。バルザックが自らの「階級的同情」と「政治的偏見」を殺して写実に努めたこと、また、そうした先見の明を備えたリアリスティックな精神を誉めたのである。

 わたしなどにはわかりにくい賞賛の内容だが、それ以降バルザックは、マルキストたちの文学理論――リアリズム論――にひっぱりだことなる。次に挙げるゴーリキー宛のレーニンの手紙なども、わたしには不可解な内容である。  

 だが、宗教を民衆のアヘンと見るマルクスのイデオロギーに由来するこの神のイメージは――階級闘争うんぬんを除けば――今では、日本人の平均的な神の概念といってよい。


        神は社会的感情をめざめさせ、組織する諸観念の複合体だというのはまちがいです。これは観念の物質的起源をぼかしているボグダーノフ的観念論です。神は(歴史的・俗世間的に)第一に、人間の愚鈍なおさえつけられた状態、外的自然と階級的抑圧とによって生みだされた観念、このおさえつけられた状態を固定させ、階級闘争を眠り込ませる観念の複合体です。二十三


 神という言葉には人類の歴史が吹き込んだおびただしいニュアンスが息づいているにも拘らず、この問題をこうも単純化してしまえるのだから、レーニンはその方面の教養には乏しかったと思わざるを得ない。

 神秘主義は、宗教自身の自覚のあるなしは別として、諸宗教の核心であり、共通項である。従って、マルキストによって宗教に浴びせられた否定の言葉は何よりも神秘主義に向けられたものであったのだ。

 マルキストたちが招いた文学的状況は、今もあまり変わってはいない。

 日本には今、心霊的、あるいは黒魔術的とでも言いたくなるような異様なムードが漂っている。娯楽の分野でも、事件の分野(サリン事件、酒鬼薔薇事件)でも、純文学の分野ですら、こうしたムードを遊戯的に好むのである。


        言葉の中身よりも、まず声、息のつぎ方、しぐさ、コトバの選び方、顔色、表情、まばたきの回数……などを観察する。するとその人の形がだんだん浮かんでくる。オーラの色が見えてくる。/彼のオーラは目のさめるような青だった。/風変わりな色だったが、私は彼が好きだった。/「また、おまえ、変なモノ背負っているぞ」/「重いんです。なんでしょう」/「また、おまえ、男だぞ」/「また男……って、重いです」/私は泣きそうになった。/(略)/「前のは偶然くっついただけだから簡単に祓えたけど、今度のは生霊だからな。手強いぞ」/笑いだしたいほど、おもしろい。ドキドキする。/「おまえ、笑いごとかよ。強い思いは意を遂げるって、前に教えたろう?」/わたしは彼がしゃべったことは一字一句違えず記憶していた。しぐさや表情や感情を伴って、すべての記憶がよみがえるのだ。/殺したいぐらい怒ると、わずかな傷でも死んでしまうことがあるって、言った」/「同じことだよバカ」/彼が心配しているのがわかってうれしくなった。若い女はどこまでも脳天気である。わたしの悩みは、彼が愛してくれるかどうかだけだった。/彼はその日の夕方、ホテルで私を抱いてくれた。/冷たい体を背負っているよりは、あたたかい下腹をこすり合わせながら彼のものを握りしめているほうがずっと楽しい。私の穴に濡らした小指を入れたり、口の中に互いの下を押し込んだり。(大原まり子『サイキック』、文藝春秋「文学界三月号」、一九九八年)


 このような文章は、神秘主義が涙ぐましいまでに純潔な肉体と心の清らかさを大切なものとして強調し、清らかとなった心の力で見たオーラをどれほど敬虔に描写しようとするものであるかを知る者には、甚だ低級でいんちきなシロモノとしか映らないだろう。

 現代のこうした風潮は、マルクス主義が産んだ鬼子といってよい。神秘主義が「無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている」ことからきた社会的弊害なのだ。

 つまり、そのような性質を持つものを神秘主義と見なすようになったことからくる混乱があるのである。時を得て世界にひろがったマルクス主義のその貴重な側面は、絶対に否定しさることはできない。だからこそこの問題は、今こそ充分に検討されるべきではないだろうか。 

一九九八年


十七 
石井晴一訳、新潮社、平成三年

十八 蛯原徳夫訳、角川文庫、一九五四年

十九 水野亮訳「『絶対』の探求」(『バルザック全集 第六巻』水野亮訳、東京創元社、平成七年)

二十 水野亮訳「ルイ・ランベール」(『バルザック全集 第二十一巻』加藤尚弘&水野亮訳、東京創元社、平成六年)

二十一 田中恵美子訳、竜王文庫、平成九年

二十二 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成八年)

二十三 川口浩、山村房次、佐藤 静夫『講座文学・芸術の基礎理論〈第1巻〉マルクス主義の文学理論』 (汐文社、一九七四年、第二部)

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 初の歴史小説にはあと1~2年かかりそうです。その間、他のことができにくい状況となるので、先の予定が立ちませんが、時間を見つけて今年は、注文のたびにAmazonのプリント・オン・デマンドで印刷されるというオンデマンドにチャレンジしてみたいと考えています。

 Kindle本とはまた違った入稿の仕方が求められるので、まとまった時間が要りそうです。わたしは思い立ってから腰を上げるまでに、だいたい1年くらいかかるのです。

 来年のことをいうと鬼が笑うといいますが(今日は豆まきだぞ~!)、来年は動画配信にチャレンジしてみたいです。

 昨晩、やり方を閲覧してみたら難しいものではなさそうだったので、週に1回、20~30分くらいのペースで、文学に関する私的発信をしてみたいと考えています。

 何しろわたしにはなまりがあるので(ここに引っ越してきてから、佐賀弁と博多弁のなまりがあるといわれました)、視聴に耐えられるような動画が作成できるかどうかはわかりませんが(自分の声を使わない方法もあるでしょう)、文明の利器を最大限に活用して自分にできる精一杯のことを文学のために行わなければ、日本の文学は本当に滅んでしまう――そんな危機感を覚えずにはいられません。

 今回の芥川賞作家の『穴』は未読ですし、『工場』も試し読みしただけですが[以下の基幹ブログの過去記事参照]、その『工場』をゴーゴリ、カフカと褒めちぎった記事を読みました。

 わたしはゴーゴリもカフカも翻訳でしか知りませんが、美しい文章を書く、深淵をすら描く力量のある彼らと同格であるかのような褒め方には、何というか、涙が出てきました。

 芥川賞作家を貶める意図はないのです。誤解しないでください。異常なのは馬鹿褒めする無責任な人々なのです。いくら何でも、子供の悪戯書きを「まるで、ピカソだ!」というような褒め方というわけではありますまいが。

 ゴーゴリは特に好きな作家です。そんな作家が日本にいれば、どんなにいいでしょう! もう人生も後半になっているにも拘わらず、これから本格的に茨の道を歩こうという未熟なわたしのどれほどの励み、助けとなることでしょう。

「肖像画」(『狂人日記 他二篇』所収、ゴーゴリ著、横田瑞穂訳、岩波文庫、1993年)より抜粋。

 彼の前にかかっていたのは、花嫁のように清らかで汚れのない、美しい例の画家の作品であった。その絵はいかにもつつましく、神々[こうごう]しく、あどけなく、天女のように素直に一同の上にかかげられていた。その神々しい画像は大勢の人の目に見つめられるので、恥ずかしそうに美しい睫[まつげ]をふせているように思われた。専門家たちは思わず驚嘆の眼を見はりながら、いままで見たこともない美しい筆触[タッチ]にじっと視線をこらした。そこではすべてのものがいっしょに凝結しているように見えた。ラファエロを研究した跡[あと]は気品の高い構図にあらわれ、コレッジオを学んだ跡[あと]は完璧な筆触[タッチ]にあらわれていた。だが、なによりも力強く見えていたのは、画家自身の魂のなかに、すでにしっかりと根をおろしていた創造力のあらわれだった。絵のなかのどんな微細な点にも画家の魂が浸透していて、どこをとっても法則がつらぬかれ、内的な力がこもっていた。いたるところに自然界に潜んでいる柔らかい曲線がとらえられていたが、これは独創的な画家の目にだけに見えるもので、模写しかできない画家が手がけたら、その曲線を角張った線にしてしまうところである。これはあきらかに、外界から引き出してきたものをぜんぶ、まず自分の魂のなかにとりいれて、それからあらためて一種の調子のととのった荘重な詩[うた]として魂の奥底から歌いあげたのにちがいない。とにかく凡俗の目にさえはっきりしたことは、ほんとうの創作と、たんなる自然の模写とのあいだには測り知れない大きな隔たりがあることであった。

 これがゴーゴリの文章です。ゴーゴリの芸術観です。思いつきで断片をつなげただけの、奇を衒った作品とは対極にあるのがゴーゴリの作品です。

 大手出版社の文学賞や話題作りが、日本の文学を皮相的遊戯へ、日本語を壊すような方向へと誘導しているように思えること、作家も評論家も褒め合ってばかりいること(リップサービスと区別がつかない)、反日勢力に文学作品が巧妙に利用されている節があること……そうしたことが嫌でも感じられ、16歳のときから40年間も文学の世界を傍観してきましたが、このまま行けば日本の文学は確実に駄目になってしまうという怖ろしさを覚えます。

 夫に、文学をテーマとした動画配信を考えている話をしてみました。てっきり、呆れられると思ったのですが、夫は感心したような静かな声で「へえ~」といい、「やってみたらいいんじゃない?」といいました。

 尤も、動画のアップ数は多く、ブログや電子書籍の世界と似たり寄ったりで、視聴して貰うことは難しそうです。まあ、来年腰を上げてスタートがそのまた1年後くらいだとすると、もうその頃には動画のブームが去っていたりすることも考えられますが、一応計画としてあることをご報告しておきますね。

 ゴーゴリの作品は高校生の読書感想文におすすめです。

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 わたしはこれまでに馬の出てくる作品を3編書きました。「田中さんちにやってきたペガサス」、「マドレーヌとわたし」、「ぬけ出した木馬」です。

「田中さんち…」でペガサスを描くためにお試し乗馬をしてからというもの、馬の虜となってしまったことは過去記事でくどいくらいに書きました

「田中さんち…」ではペガサスと馬。「マドレーヌ…」では人形と馬。「ぬけ出した…」では木馬と馬。

 馬を他のものと組み合わせて表現したのは、馬がそれら組み合わせたものの特徴を持っているように感じられたからでした。

 わたしは「マドレーヌとわたし」で、以下のように書きました

 馬は大きい動物ですが、とても静かな生き物です。
 馬には不思議なところもあるの。
 乗っている人間のことや周りのことやなんかも皆わかっていて、それでいてなにもわからないふりをしてくれているみたいに思えるんです。
 それって、なんだか人形みたい。

 ペガーズに乗っているときは、ほかにも人や馬が沢山いるのに、ペガーズと自分しかいないみたいに感じられるんです。
 まるで、森の中の泉のほとりに馬とだけいるみたいな、幸せな気分になります。

 あれは馬に乗ったときの神秘的な充足感でした。あんな思いに浸ったのは生まれて初めての体験だったのです。

 わたしはこれまでに馬といえば、シュペルヴィエルの詩「動作」を連想したものでした。好きな詩ですが、一箇所だけ引っかかるところがあるのですね。『日本の詩歌 28 訳詩集』(中公文庫、昭和51年)より。

「動作」
   ジュール・シュペメヴィエル、堀口大学訳

ひよいと後[うしろ]を向いたあの馬は
かつてまだ誰も見たことのないものを見た
次いで彼はユウカリの木陰で
また牧草[くさ]を食ひ続けた。

馬がその時見たものは
人間でも樹木でもなかつた
それはまた、木の葉を動かしてゐた
風の音でもなかった。

それは彼より一万世紀も以前
丁度この時刻に、他の或る馬が
急に後[うしろ]を向いた時
見たそのものだつた。

それは、地球が、腕もとれ、脚もとれ、頭もとれてしまつた
彫刻の遺骸となり果てる時まで経[た]つても
人間も、馬も、魚も、鳥も、虫も、誰も、
二度とふたたび見ることの出来ないものだった。

 神秘的な詩です。ただ、2行目に「まだ誰も見たことのない」とありますが、その先を読むと、一万世紀前の「他の或る馬」も見たのではないでしょうか? それとも、馬は見たことがあるけれど、人間はまだ誰も見たことがない、という意味なのでしょうか。引っかかるところです。 

 そして、ここに描かれた馬より、リルケの詩「牝鹿」では――描かれる対象は馬ではありませんが――わたしが感じた馬の神秘性に近いものが描かれている気がします。『新潮世界文学 32 リルケ』「果樹園」(新潮社、1971年)より。

「57 牝鹿[めじか]」
  ライナー・マリア・リルケ、山崎栄治訳

おお、あの牝鹿、――昔の森のなんと美しい内部が
おまえの目にたたえられていることだろう、
なんと大きなつぶらな信頼が
なんと大きな恐怖とまざりあっていることだろう。

それがみんな、おまえのその跳躍の
生気にみちたほそやかさにはこばれて。
だがなにごとも決して起りはしないのだ、
おまえのひたいの
非所有のその無知には。

 でも、一晩探しましたが、わたしが馬から感じとった印象をそっくり描いた詩は見つかりませんでした。で、短い詩ですが、自分で書きました(詩は駄目だと過去記事で書きました)。下手糞でもなんでも、とにかくこれが今年の初創作となりました。

「馬」

馬は
もう一人のわたしを見るように
わたしを見る。
馬は
わたしの魂を嗅ぐように
わたしを嗅ぐ。
そして、
プレゼントを置き去りにするように
行ってしまう。

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20130714053749


 携帯で撮ったので、よくは撮れませんでしたが、朝5時半頃、虹が出ていたので、思わず撮りました。晴れて見えましたが、ベランダに出てみると、とても細かな――絹糸のような――雨が降っていました。この写真、修正していません。

 肉眼で見ると、虹は雲の上の辺りまで延びていて、雲の隙間からスッと虹の女神イリスが片足を伸ばしたかのようにも見えました。47分に見たときはまだ出ていましたが、6時に見ると、消えていました(この記事を書いていたのです)。

 ギリシア神話に出てくる虹の女神イリスはヘラの使者です。仲裁役として優れていましたが、とても善良だったので、ゼウスがアフロディテとの情事をごまかすために、彼らの子であるエロスはイリスと西風の子――という噂をひろげたときも黙っていました。

 ヘラはそんなことではごまかされず、黙っているイリスを責めました。そのときの様子が『現代教養文庫 1000 ギリシア神話小事典』(バーナード・エヴスリン、小林稔訳、社会思想社、1979年)に美しく表現されているので、引用します。

……引用ここから……
イリスは自分を弁護しなかった。最初彼女はそっと泣き、それからヘラにほほえみかけた。そのほほえみは、あらしの雲の間から輝く虹の光のように、涙のなかにきらめき、そのさまがあまりにも心を魅了したので、ヘラは、オリュンポスの記録では始めて、叱ることを思いとどまったのである。
……引用ここまで……

 午前中の家事で中断。

 ここではエロスはゼウスとアフロディテとの間の子とされていますが、エロスの出自及び性質については諸説あるようです。

 プラトンは『饗宴』で、エロス(森進一訳で読み慣れているのでエロースといわなければ、感じが出ません)をめぐる賛美合戦を描いてみせています。

 ここで、エロース(愛の神)は策知の神ポロスと貧窮の女神ペニアーの間の子であるという説が表れます。それは、ソークラテースがかつてディオティーマという女性から聴いた話だそうです。

 わたしはこのくだりを読んでいると(『饗宴』『パイドーン』を何度読み返したことか)、ランボーの『わが放浪』という詩を必ずといってよいように連想してしまうのです。こんなにみずみずしい詩を書くランボーという人間がエロースのように想えてくるのですね。

 昔人間は球形の統一体で、男性(男男)、女性(女女)、両性者(男女)という三種類がいたが、傲慢さで神々の怒りを買い、ゼウスに真っ二つにされてしまった……それ以来、切断された半身は自らの半身をこがれるようになったのだ……という面白い話が出てくるのも、この『饗宴』です。

 昨年、わたしは基幹ブログ「マダムNの覚書」にて公開中の記事「高校生の読書感想文におすすめの本_2012年夏」で、『ソークラテースの弁明』をすすめましたが、『饗宴』とどちらにしようかと迷いました。どちらも読みやすく、とにかく面白いのです。2013年版おすすめも書きたいのですが、もし書いたら『饗宴』を入れるかもしれません。

 ところで、このときの宴で第一番に話し始めたのはパイドロスでした。彼はヘシオドスの説を引き、万物の初め、カオス(混沌)、ガイア(大地)、エロース(愛の神)の順に生まれたといいます。

 このギリシア最古の宇宙開闢神話を引いて、ブラヴァツキーはフォーハットという未顕現の宇宙では潜在的創造力、現象界では電気的生命力となる神秘的なエネルギーについて、興味深い説を展開しています。それについて、つい書きたくなってしまいましたが、興味のない人にとっては独り言になってしまうので、やめます。

 宇宙が話に出てくると、NHKスペシャル「地球大進化」を思い出します。母なる地球とわたしたちが呼んできたこの星は、46億年の間大異変を繰り返してきた荒ぶる星だというのです。

 地球大進化~46億年・人類への旅:ウィキペディア

 40億年前には、全ての海が干上がってしまうような大異変が実際に起きたそうで、その原因は巨大隕石の衝突。2億年前と6億年前には全てが氷に覆われてしまう全球凍結、2億5千万年前には地球内部のマントルが一気に吹き出すという大噴火。

 生命は何度も絶滅の縁に追い詰められましたが、一方でこうした大変動があったからこそ、わたしたち人類は誕生したのだとか。全球凍結は微生物だったわたしたちの祖先を大型生物に進化させたと考えられているそうです。

 何とも壮大な話ですね。

 高校生の読書感想文におすすめです。
     ↓

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 メモ程度の短い記事にするつもりだったが、カロッサの『指導と信徒』に出てくる神智学、人知学について触れるためには、ブラヴァツキーの神智学についてざっとでも触れないわけにはいかなくなり、今日のところはカロッサにまで行き着かずに終わりそうなので、記事を分けることにした。

 でも、分けてしまうと、わたしは後が続かないことがある。『ハムスター列伝』然り、『最愛の子にブッダと呼ばれたガブリエラ・ミストラル - その豊潤な詩また神智学との関りについて』然り。

 西洋の知識人にブラヴァツキーの影響は広く、深く及んでいるにも拘わらず、調査が進んでいない。誰のせいだろう? わたしも神智学協会の会員である以上は、その責任がある。

 といっても、頭の悪い、お金もない、普通の主婦には大したことができないので、せめて、文学書に目についた神智学の文字には注目して、記事にしておきたいと思った次第。

 以下はウィキペディアより、冒頭を引用。

Wikipedia:へレナ・P・ブラヴァツキー

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky)、1831年8月12日 – 1891年5月8日) は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。

著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーかヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。ドイツ/ロシア系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (Елена Петровна Блаватская, Eelena Petrovna Blavatskaya) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン (von Hahn)。

神智学はキリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。

ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァである。

 これ以降、特に在印期について書かれた思想的な部分は、ケチをつけるようで悪いけれど、わたしには執筆者がブラヴァツキーの主要著作さえ読んでいないのではないかと思わざるをえない。

 ウィキペディアには以下のように書かれている。

インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入されてゆくことになった。インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教や仏教から様々な教えがとりこまれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラーや新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。

 これでは折衷というより、ただの寄せ集めにすぎない。ブラヴァツキーがそんな甘い姿勢で協会の設立や執筆に取り組んだのではないことが『神智学の鍵』の序文や『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』のはしがきを読んだだけでわかるのだが……。

 折しも、『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(訳者:田中恵美子 、ジェフ・クラーク )が上梓されたそうだ。1989年に出版された『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論[上]』の改訂版で、「シークレット・ドクトリンの沿革」と「議事録」の章を抜いて再編集してあるとか。

 以下の出版社「宇宙パブリッシング」のホームページからメール注文により、送料無料で購入できるという(近いうちにAmazonからも購入できるようになるそうだ)。

 最初の20ページを、PDFファイルのダウンロードで読むことができる。この部分だけでも、ブラヴァツキーの神智学の薫りが伝わってくる。

 近代神秘主義、オカルティズムはブラヴァツキーのこの著作抜きでは語れないので(それなのに、彼女の著作を読みもしないで、やたらと語る人が多いのはどういうわけか)、480頁の重厚な内容で、4,000円(税別)はお得だと思う。

「シークレット・ドクトリンの沿革」と「議事録」の章が抜かれているため、安くなっているようだ。わたしが購入した初版、第3版は10,000円(税別)だった。紛失を畏れたのと、書き込みで汚くなってはいけないので、高価な本を2冊求めた。原書も一応持っている。

 日田市で台風被害に遭った夜、わたしはブラヴァツキーのこの邦訳版と、わたしにはサファイアのようなオーラが放射されて見える原書、それにバルザックの『幻滅』、着替え、通帳、ハムスターをケージごと持って、ホテルに避難した。

 『シークレット・ドクトリン』のはしがき(この部分はサンプルのダウンロードで読める)に、「この著作は著者自身がもっと進んだ学徒に教えられたことの一部であって」とあり、執筆にアデプト(大師)の助けがあったことをほのめかしているが、こうした部分が攻撃の的となってきたわけだ。

 そんなこと、確かめようのないことで、わたしにはどうだっていい。内容の高貴さは美しいオーラが証明していると思うし、「はしがき」に表れた著者の謙虚さ、志の高さ、ナイーヴさを知るだけで、わたしにとって、この著作はすぐに宝物になったのだった。

 平易な表現でブラヴァツキーの人生を素描したハワード・マーフェット『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(田中恵美子訳、竜王文庫)には、次のような箇所が出てくる。

或る日、伯爵夫人が書斎に入っていくと、床には棄てられた原稿用紙が一ぱい散らかっていました。
「どうしたのですか?」と彼女は聞きました。
「一頁を正確に書こうとして十二回もやって見ました。いつも大師は違っていると言われるのです。何度も書いて、気違いになりそうです。でも成功するまでは休みませんよ。たとえ夜中までかかってもやります。勝手にさせておいてください」
 コンスタンスはコーヒーを持って行き、そのうんざりする仕事をさせておきました。一時間すると、HPBが呼んでいるのが聞こえました。その頁は満足出来るよう、仕上がっていました。

 文中の伯爵夫人というのは、ブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』を執筆していたとき、協力者として生活を共にしたコンスタンス・ワクトマイスターという名のスウェーデンの伯爵夫人である。

 この如何にも貴婦人らしい気品に満ちた写真の残っているワクトマイスター夫人は、透視力が優れていて、大師が精妙体で現れるのを度々見たり、時には話しているのを聞くことさえできたという。

 わたしも、いわゆる透視力や透聴力といわれる能力が徐々に発達してきたせいで、子供の頃には前世修行者だったという霊的記憶と瞑想の習慣くらいしかなかったのが、大人になってから、いろいろな体験をするようになった。だから、伝記に書かれたようなブラヴァツキーの周囲で起きる様々な現象も、大して珍しいとも思わない。

 わたしにはなぜ、問題の本質――著作の性質――をそっちのけにして、今なお、ブラヴァツキーが霊媒だのペテン師だのと、それ以外のことばかり問題とされるのかがわからない。

 著作がすべてを語るのではないだろうか。「はしがき」で、ブラヴァツキーは著作の目的を次のように書く。

万物の存在は偶発的なものではなく、必然の結果であると証明すること、宇宙体系においての人間の正しい位置を明らかにすること、さらに、あらゆる宗教の基礎である太古の真理を忘却から救い、その基本的統一性を発見すること、最後に、これまで近代科学が取りあげなかった大自然の側面を示すことである。

 考古学の発見や古文書の解読、また科学の発達によって、当時は荒唐無稽に思われたブラヴァツキーの記述の中に、その正当性が明らかになったことがずいぶんあるのではないかと思う。大学の研究室のような専門機関で、ブラヴァツキーの著作は検証される時期に来ているのではないだろうか。

「はしがき」でブラヴァツキーは明かしている。

これらの真理は断じて、啓示としてもたらされたものではないし、筆者は、世界の歴史の中で今はじめて公けにされた神秘的な伝承の啓示者であると主張もしない。この著作の中にあるものは、アジアの偉大な宗教や太古のヨーロッパの宗教の聖典に表されているが、象形文字や象徴のヴェールにかくされて、これまで気づかれないままに散在していた何千巻にも及ぶものから得ている。今、しようとしていることは、最古の教義を集めて、一つの調和のとれた一貫した全体としてまとめることである。筆者が先輩達よりも有利な唯一の点は、個人的な推論や学説をたてる必要がないということである。というのは、この著作は著者自身がもっと進んだ学徒に教えられたことの一部であって、筆者自身の研究と観察による追加はごく僅かだからである。ここで述べられている沢山な事実の公表は、的はずれで空想的な推論が行われてきたために必要とされるようになったのである。つまり近年、多くの神智学徒や神秘主義の学徒が、自分に伝えられた僅かな事実をもとにして、自分だけが完全だと思い込む空想的な思想体系をつくり上げようと、夢中になっているからである。

 ブラヴァツキーは「多くの神智学徒や神秘主義の学徒が、自分に伝えられた僅かな事実をもとにして、自分だけが完全だと思い込む空想的な思想体系をつくり上げようと、夢中になっている」と書いているが、結局後継者であったアニー・ベサント、リードビーター、神智学協会ドイツ支部の分裂後アントロポゾフィー協会を設立したシュタイナーにしても、ブラヴァツキーの観点からすれば、彼女の死後も同様の事態が発生したことになる。

 アニー・ベザントも、シュタイナーも、それぞれに巨大な足跡を残した人々ではあったが。

 カロッサの『指導と信徒』には、神智学と人知学が出てくる箇所がある。区別して訳されているから、人知学とはシュタイナーのアントロポゾフィーのことだろう。

『指導と信徒』は1933年に出ている。シュタイナーは1925年に64歳で亡くなっている。カロッサは1878年に生まれ、1956年9月12日に亡くなっているから、シュタイナーが亡くなったとき、カロッサは47歳。カロッサが神智学やシュタイナーの著作を読んだことがあっただけなのか、神智学協会ドイツ支部あるいはアントロポゾフィー協会と関わりを持ったのかどうかは、『指導と信徒』の中の短い記述からはわからない。

 ただ、その記述からすると、仮にそうした場所へ足を運んだことがあったにせよ、それほど深い関わりを持ったようには思えない。だからこそ、当時のドイツにおける知識人たちに神智学やアントロポゾフィーがどんな印象を与え、影響を及ぼしたのか、探れそうな気がする。

 リルケを医者として診察したときの描写、友人づきあい、またリルケに潜む東方的な影響――ヨガの精神――について書かれた箇所は印象的である。リルケについても、改めてリサーチする必要を覚える。

 カロッサ全集の中から書簡集と日記を図書館から借りたので、それらに神智学、アントロポゾフィー、またリルケについて書かれた箇所がないか、探してみたい。

 ②では神智学、人知学が出てくる箇所を抜き書きしておこう。シュタイナーは第一次世界大戦、カロッサは第一次大戦とナチス下の第二次大戦を体験し、生き死に関する問題が重くのしかかったであろう過酷な時代を生きた。

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「現代アフリカ文学の父」として知られるナイジェリアの作家、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)氏が82歳で死去したという。22日、家族の発表によるもの。

 1958年に発表された代表作『崩れゆく絆(Things Fall Apart)』は世界で1000万部以上売れ、50か国語に翻訳されているそうだ。

 わが国では、門土社から1977年に出ているが、現在は入手できず、検索したところでは県立図書館にはなかった。

出版社: 門土社 (1977/11)
ASIN: B000J8R6EG
発売日: 1977/11

過去記事でも書いたように、本当に現代日本は文学的後進国に成り果てた。戦後、インテリ階級が消えたこの国では、文学的価値の高い本を出したところで、売れないのだろう。商業的価値の高い本なら売れる。

 文学的には限りなく怪しい村上春樹やデイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』のような本なら、馬鹿売れする。コンラッドだって、売れただろう、映画になりゃね。所詮、大衆は、お酒や煙草といった嗜好品のように読める本しか買わないのだ。

 いや、商業的にブランド的価値を煽れば、文学的価値の高い作品だって売れるはず。所詮、この国の大手出版社の編集者にそんな手腕、期待するだけ無駄というものだ。

 二十歳の若者に配るんなら、「現代アフリカの父」と呼ばれた作家の本を配りゃいいじゃないか。よりによって、ホームレス悲惨物語とまぎらわしいあんな……(絶句)。

 以下は、Wikipediaより抜粋。

Wikipedia チヌア・アチェベ

チヌア・アチェベ(Chinua Achebe、1930年11月16日 - 2013年3月22日【死去報道】)は、ナイジェリア出身のイボ人の小説家。アフリカに多い口承文学を題材にした小説を描く。

「生立ち」

アチェベは1976年以降のアナンブラ州にあたる地域の町オギディで生まれた。そして当時ロンドン大学のカレッジであった現在のイバダン大学で、英語と、歴史、神学を学んだ。BBCで放送について学んだ後、1961年にナイジェリア放送の最初の海外放送部ディレクターになる。ビアフラ戦争時にはビアフラ共和国の大使を務めた。この時の経験から「難民の母と子」と題した詩を書いた。

アチェベは英語でのアフリカ文学の父と考えられている作家であり、世界的に賞賛される作家の一人でもある。1958年に発表した『崩れゆく絆』は世界で一千万部以上売れ、50以上の言語に訳され、ノルウェー、イギリス、米国、アフリカなどで小説100選の1つに選ばれた。

アチェベは「あるアフリカのイメージ コンラッドの『闇の奥』にみる人種差別」と題した批評を発表し、世界的な議論を呼び、この文章がディベートの題材として用いられるようになった。アチェベはジョゼフ・コンラッドの帝国主義を描いた有名な小説がアフリカの背景や人物を歪めて非人間化し、人種差別的な文脈や語彙を潜ませていると断じた。彼は『闇の奥』の再評価についての議論で、非人間化された人々を偉大な地位に就けるべきでないとする前提で書かれたこの植民地主義の文章に与えられてきた神聖な地位を拒絶した。

アチェベはイングランド、スコットランド、カナダ、米国、ナイジェリアなどで、ダートマス大学 (1972年)、ハーバード大学 (1996年)、ブラウン大学 (1998年)、サウサンプトン大学、ゲルフ大学、ケープタウン大学 (2002年)、イフェ大学などの30以上の名誉学位を得た。また2007年国際ブッカー賞、英連邦詩人賞などの数々の賞を受賞した。

2013年3月22日、ロイター通信により死去報道がなされた。死因や死亡日時は不明。

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 わたしの大好きなバルザックは51歳で死んだが、眠気覚ましの濃いコーヒーのがぶ飲みが一因ともいわれている。

 わたしもコーヒーを飲みすぎることがある。目を覚ますためではなく、ストレスをまぎらわせるために。そのストレスの内容を分析してみれば、才能の乏しさや筆の未熟さに起因するストレスがあり、さらには、わたしの書きたいものと通念との乖離に起因する大きなストレスのあることがはっきりする。

 バルザックの『谷間の百合』ほど、わたしを酔わせた小説はない。抒情味ゆたかな、気品の高い恋愛物で、全編に百合の芳香が漂っているかのようだ。ここには見事なまでにバルザックの内的な世界観が打ち出されている。

 数あるバルザックの作品のうちこれがわたしを最も惹きつけたのは、この作品の華と神秘主義の華が甘美に重なりあっているためだろう。少なくともわたしは『谷間の百合』の魅力をそのように理解したのであった。

 『谷間の百合』の女主人公モルソフ夫人はカトリック教徒であるが他方、神秘主義哲学者サン=マルタン(1743―1803)に親昵し、その教えに薫染した人物として描かれている。

 神秘主義思想はローマン・カトリシズムから見れば無論、異端思想である。『谷間の百合』は教会の禁書目録に含まれていた。

 バルザックという人間が神秘主義を頭で理解したつもりになっているだけの人物なのか、そうではなくて、それを感性でも捉え得ている人物なのかは、例えば次のような箇所を読めばおおよその判断はつく。

 引用はモルソフ夫人の臨終に近い場面からである。

そのときの彼女からは、いわば肉体はどこかに消え去って、ただ魂だけが、嵐のあとの空のように澄みきったその物静かな顔を満たしていました。(略)そして、顔の一つ一つの線からは、ついに勝ちをおさめた魂が、呼吸とまじりあう光の波を、あたりにほとばしりださせているのです。(略)思念からほとばしり出る明るい光は、(略)〔石井晴一訳〕

 肉眼では見えないはずのオーラや想念形態といったものを内的な視力で見る者であれば、こういった箇所を読むと、彼がそうしたものを実際に見ていたのだという感じを抱かずにはいられまい。

学者で透視家であったスヴェーデンボリ(1677―1772)の著作の影響を感じさせる『セラフィタ』。バルザックは両性具有者を登場させたこの浮世離れした作品の中で、真の恋愛が如何なるものであるべきものかを追究している。

わたしたちのお互いの愛の多寡は、お互いの魂にどれほど天界の分子が含まれているかによるのです。〔蛯原徳夫訳〕

 さらに同著において、 神秘主義哲学とは切っても切れない《宇宙単一論》が展開され、バルザックは数について考察する。

貴方は数がどこで始まり、どこで止まり、またいつ終わるのか知りません。数を時間と呼んだり空間と呼んだりしています。数がなければ何も存在しないと云い、数がなければ一切は唯一つの同じ本質のものになる、と云います。なぜならば数のみが差別をつけたり質を限定したりするからです。数と貴方の精神との関係は、数と物質との関係と同じで、謂わば不可解な能因なのです。貴方は数を神となさるのでしょうか。数は存在するものでしょうか。数は物質的な宇宙を組織立てるために神から発した息吹なのでしょうか。宇宙では数の作用である整除性なくしては何物も形相をとることはできないのでしょうか。創造物はその最も微細なものから最大なものに至るまで、数によって与えられた属性、すなわち量や質や体積や力によって、始めて区別がつけられるのでしょうか。数の無限性はあなたの精神によって証明されている事実ですが、その物質的な証明はまだなんら与えられていません。数学者たちは数の無限性は存在するが証明はされないと云うでしょう。ところが信仰する者は、神とは運動を恵まれた数で、感じられるが証明はされない、と云うでしょう。神は『一』として数を始めますが、その神と数とにはなんら共通なものはありません。数は『一』によって始めて存在するのですが、その『一』は数ではなく、しかもすべての数を生み出すのです。神は『一』ですが創造物とはなんら共通点を持たず、しかもその創造物を生み出すのです。ですから数がどこで始まり、創造された永遠がどこで始まりどこで終わるかは、わたしと同様に貴方もご存じないわけです。もし貴方が数をお信じになるのなら、なぜ神を否定なさるのです。

 『絶対の探究』には近代錬金術師が登場して、《絶対元素》を追求する。バルザックはこれを執筆するにあたって、前年に完訳されたスウェーデンの化学者ベリセリウスの『化学概論』全8巻を読破し、化学者たちの協力を仰いで完成させたという。

 主人公バルタザール・クラースはアルキメデスの言葉「ユリイカ!(わかった!)」と叫んで死ぬ。『ルイ・ランベール』のごときに至っては、主人公ルイを借りて、バルザックその人の神秘主義者としての歩みを詳述し、思想を展開させ、さらには形而上的な断章まで加えた、一種とめどもないものとなっている。

 自らの思想と当時の科学を折衷させようと苦心惨憺した痕跡も窺える、少々痛々しい作品である。

「われわれの内部の能力が眠っているとき」と、彼はいうのだった。「われわれが休息のここちよさにひたっているとき、われわれのなかにいろんな種類の闇がひろがっているとき、そしてわれわれが外部の事物について瞑想にふけっているとき、しばしば静けさと沈黙のさなかに突然ある観念が飛び出し、無限の空間を電光の速さで横切る。その空間はわれわれの内的な視覚によって見ることができるのだ。まるで鬼火のように出現したそのキラキラかがやく観念は消え去ったまま戻ってこない。それは束の間の命で、両親にかぎりない喜びと悲しみを続けざまに味わわせるおさなごのはかない一生に似ている。思念の野原に死んで生まれた一種の花だ。ときたま観念は、勢いよくほとばしって出たかと思うとあっけなく死んでしまうかわりに、それが発生する器官のまだ未知のままの混沌とした場所に次第に姿を現わし、そこでゆらゆらと揺れている。長びいた出産でわれわれをヘトヘトにし、よく育ち、いくらでも子供が産めるようになり、長寿のあらゆる属性に飾られ、青春の美しさのうちにそとがわでも大きくなる。(略)あるとき観念は群れをなして生まれる。(略)観念はわれわれのうちにあって、自然における動物界とか植物界に似ている一つの完全な体系だ。それは一種の開花現象で、その花譜はいずれ天才によって描かれるだろうが、描くほうの天才は多分気違い扱いにされるだろう。そうだ、ぼくはこのうっとりするくらい美しいものを、その本性についてのなんだかわからない啓示にしたがって花にくらべるわけだが、われわれの内部とおなじく外部でも一切が、それには生命があると証言しているよ。(略)」〔水野亮訳〕

 漸次、 こうした神秘主義思想の直接的な表現は彼の作品からなりをひそめ、舞台も俗世間に限られるようになるのだが、そこに肉の厚い腰を据え、『ルイ・ランベール』で仮説を立てたコスミックな法則の存在を透視せんとするバルザックの意欲は衰えを知らなかったようだ。

 以上、『谷間の百合』『セラフィタ』『絶対の探求』『ルイ・ランベール』の順に採り上げたが、完成は順序が逆である。

 神秘主義的傾向を湛えた四作品のうちでも、わたしが『谷間の百合』に一番惹かれたのは、バルザックの思想が女主人公に血肉化された最も滋味のあるものとなっているからだろう。

 幼い頃から神秘主義的な傾向を持ちながら、そのことを隠し、まだ恥じなければならないとの強迫観念を抱かずにはいられない者にとって、バルザックの名は母乳のようにほの甘く、また力そのものと感じられるのだ。小説を執筆しようとする時、強い神秘主義的な傾向と、これを抑えんとする常識とがわたしの中でせめぎあう。こうしたわたしの葛藤には、当然ながら時代の空気が強く作用していよう。

 バルザックが死んだのは1850年のことであるが、彼が『あら皮』(この作品もまた神秘主義的な傾向の強い作品である)を書いた年、1831年にロシアの貴族の家に生まれたH・P・ブラヴァツキーは、《秘められた叡智》を求めて世界を経巡った。インド人のアデプト(《達成した者》を意味するラテン語)が終生変わらぬ彼女の守護者であり、また指導者であった。

 インドの受難は深く、西洋では科学と心霊現象とが同格で人々の関心を煽り、無神論がひろがっていた。ブラヴァツキーは神秘主義復活運動を画する。アメリカ、インド、イギリスが運動の拠点となった。

 なぜ、ロシア出身の女性の中に神秘主義がかくも鮮烈に結実したのかは、わかるような気がする。ロシアの土壌にはギリシア正教と呼ばれるキリスト教が浸透している(ロシア革命が起きるまでロシアの国教であった)が、ギリシア正教には、ギリシア哲学とオリエント神秘主義の融合したヘレニズム時代の残り香があることを想えば、東西の神秘主義体系の融合をはかるにふさわしい媒介者がロシアから出たのも当然のことに思える。

 大きな碧眼が印象的な獅子にも似た風貌、ピアノの名手であったという綺麗な手、論理的で、素晴しい頭脳と火のような集中力と豊潤な感受性に恵まれたブラヴァツキーはうってつけの媒介者であった。

 ちなみに彼女には哲学的な論文のシリーズの他に、ゴシック小説の影響を感じさせる『夢魔物語』と題されたオカルト小説集がある。変わったものでは、日本が舞台で、山伏の登場する一編がある。

 彼女の小説を読みながらわたしは何度も、映像的な描写に長けたゴーゴリの筆遣いを思い出した。また内容の深刻さにおいてギリシア正教作家であったドストエフスキーを、思考の清潔さにおいてトルストイを連想させる彼女の小説には、ロシア文学の強い香がある。

 ブラヴァツキーは大著『シークレット・ドクトリン』の中で、バルザックのことを〈フランス文学界の最高のオカルティスト(本人はそのことに気付かなかったが)〉(田中恵美子・ジェフ・クラーク訳)と言っている。

 そして、ブラヴァツキーより少し前に生まれ、少し前に死んだ重要な思想家にマルクス(1818―83)がいる。一世を風靡したマルクス主義の影響がどれほど大きいものであったか、そして今なおどれほど大きいものであるかを知るには、世界文学史を一瞥すれば事足りる。

 史的唯物論を基本的原理とするマルクスが世に出たあとで、文学の概念は明らかに変わった。

従来バルザックは最もすぐれた近代社会の解説者とのみ認められ、「哲学小説」は無視せられがちであり、特にいわゆる神秘主義が無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている現代においてその傾向が強かろうと想われるが、バルザックのリアリズムは彼の神秘世界観と密接な関係を有するものであり、この意味においても彼の「哲学小説」は無視すべからざるものであることをここで注意しておきたい。

 昭和36年に東京創元社から出された、「バルザック全集」弟3巻における安土正夫氏の解説からの引用である。解説にあるような昭和36年当時の《現代》を用意したのは、誰よりもマルキストたちであった。

 エンゲルスは、バルザックが自分の愛する貴族たちを没落の運命にあるように描いたというので彼を〈リアリズムの最も偉大な勝利の一つ〉と賞賛した。バルザックが自らの《階級的同情》と《政治的偏見》を殺して写実に努めたこと、また、そうした先見の明を備えたリアリスティックな精神を誉めたのである。

 わたしなどにはわかりにくい賞賛の内容だが、それ以降バルザックは、マルキストたちの文学理論――リアリズム論――にひっぱりだことなる。次に挙げるゴーリキー宛のレーニンの手紙なども、わたしには不可解な内容である。  

 だが、宗教を民衆のアヘンと見るマルクスのイデオロギーに由来するこの神のイメージは――階級闘争うんぬんを除けば――今では、日本人の平均的な神の概念といってよい。

神は社会的感情をめざめさせ、組織する諸観念の複合体だというのはまちがいです。これは観念の物質的起源をぼかしているボグダーノフ的観念論です。神は(歴史的・俗世間的に)第一に、人間の愚鈍なおさえつけられた状態、外的自然と階級的抑圧とによって生みだされた観念、このおさえつけられた状態を固定させ、階級闘争を眠り込ませる観念の複合体です。(山村房次『マルクス主義の文学理論』弟2部)

 神という言葉には人類の歴史が吹き込んだおびただしいニュアンスが息づいているにも拘らず、この問題をこうも単純化してしまえるのだから、レーニンはその方面の教養には乏しかったと思わざるを得ない。

 神秘主義は、宗教自身の自覚のあるなしは別として、諸宗教の核心であり、共通項である。従って、マルキストによって宗教に浴びせられた否定の言葉は何よりも神秘主義に向けられたものであったのだ。

 マルキストたちが招いた文学的状況は、今もあまり変わってはいない。

 日本には今、心霊的、あるいは黒魔術的とでも言いたくなるような異様なムードが漂っている。娯楽の分野でも、事件の分野(サリン事件、酒鬼薔薇事件)でも、純文学の分野ですら、こうしたムードを遊戯的に好むのである。

言葉の中身りも、まず声、息のつぎ方、しぐさ、コトバの選び方、顔色、表情、まばたきの回数……などを観察する。するとその人の形がだんだん浮かんでくる。オーラの色が見えてくる。/彼のオーラは目のさめるような青だった。/風変わりな色だったが、私は彼が好きだった。/「また、おまえ、変なモノ背負っているぞ」/「重いんです。なんでしょう」/「また、おまえ、男だぞ」/「また男……って、重いです」/私は泣きそうになった。/(略)/「前のは偶然くっついただけだから簡単に祓えたけど、今度のは生霊だからな。手強いぞ」/笑いだしたいほど、おもしろい。ドキドキする。/「おまえ、笑いごとかよ。強い思いは意を遂げるって、前に教えたろう?」/わたしは彼がしゃべったことは一字一句違えず記憶していた。しぐさや表情や感情を伴って、すべての記憶がよみがえるのだ。/殺したいぐらい怒ると、わずかな傷でも死んでしまうことがあるって、言った」/「同じことだよバカ」/彼が心配しているのがわかってうれしくなった。若い女はどこまでも脳天気である。わたしの悩みは、彼が愛してくれるかどうかだけだった。/彼はその日の夕方、ホテルで私を抱いてくれた。/冷たい体を背負っているよりは、あたたかい下腹をこすり合わせながら彼のものを握りしめているほうがずっと楽しい。私の穴に濡らした小指を入れたり、口の中に互いの下を押し込んだり。(大原まり子『サイキック』、文藝春秋「文学界3月号」、1998年)

 このような文章は、神秘主義が涙ぐましいまでに純潔な肉体と心の清らかさを大切なものとして強調し、清らかとなった心の力で見たオーラをどれほど敬虔に描写しようとするものであるかを知る者には、甚だ低級でいんちきなシロモノとしか映らないだろう。

 現代のこうした風潮は、マルクス主義が産んだ鬼子といってよい。神秘主義が〈無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている〉ことからきた社会的弊害なのだ。

 つまり、そのような性質を持つものを神秘主義と見なすようになったことからくる混乱があるのである。時を得て世界にひろがったマルクス主義のその貴重な側面は、絶対に否定しさることはできない。だからこそこの問題は、今こそ充分に検討されるべきではないだろうか。〔了〕 1998年執筆 

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 このエッセーは、ホームページでもお読みになれます。こちら

 関連作品:マザコンのバルザック?
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 現代日本文学の動向及び流行に触れていたいという動機から、今年もまた某文芸雑誌の定期購読更新の手続きをした。

 

 そして今月も、数日前にその雑誌が届いて嬉しい気分になったが、いざ雑誌を開いて読もうとすると、とてもだめ。読めない。

 

 わが国の作家では、遠藤周作、円地文子あたりまでしか体質的に受け付けなくなってしまっている。わたしの感覚は古いのだろうか?

 

 だが、『竹取物語』や『源氏物語』といった昔々の作品の冴えを思うとき、文学作品の価値は書かれたときの時間的古さ、新しさでは測れないもので、よい作品は常にみずみずしいとの思いを新たにする。

 

 バッハやモーツァルトの音楽が今も第一級のものとして受け容れられているのと、事情は同じだろう。

 

 普段わたしが多く読むのは翻訳物なのだが、例えば、モーリアック著、遠藤周作訳『愛の砂漠』(講談社文芸文庫)の、何気なく装われた次の一場面の文章の香気は如何ばかりであることか。 食堂に漂うコーヒーの香り(嗅覚)。霧が立ち籠める外気の冷たさ(触覚)。古い車がきしませた砂利の音(聴覚)。ココアを飲んだ記憶(味覚)。部屋着の桃色(視覚)。 

 父が食卓から急に立ったあの晩の翌朝、夜が明けるやいなや、食堂でココアを飲んだことを覚えている。窓が外の霧に向かって開かれていたので、彼はひきたてのコーヒーの香りの中で寒さを感じて震えた。小径の砂利が古いクーペの車輪の下できしんだ。医師はその朝、出かけるのに手間どった。クーレージュ夫人は桃色の部屋着をはおり、夜、いつもそうする引っつめて編んだ髪のままで、中学生の額に接吻した。だが息子は食事をするのをやめなかった。

 どこにでもありそうな朝の情景、それでいて、この家庭だけに潜在する特殊な事情がおぼろげに見えてくるような描写だ。この父はあの晩、なぜ食卓から急に立ったのか?  この母親の接吻を気にも止めなくなった、この成長した息子。

 短い文章であるにも拘らず、作者の五感が隅々まで働いていることがわかる。

 

 ところが、今の文芸雑誌で読む作品は、これとは全く対照的で、五感のうちのどれかしか働いていない感じだ。効果をあげるために、あえて、どの感覚かに絞って書くという手法もあるだろうが、それほどの考えが読みとれる書き方でもない。

 

 描写された場面から、ある特殊な事情が浮かび上がってくるという書き方でもない。不自然に予告されるか、いきなり事が起きるかのどちらかなのだ。よほど計画的でないと、モーリアックのような書き方はできず、不自然なものになってしまう。

 

 汚い色で描き殴った、絵本のような作品がつくづく多い。

 

 すばらしい絵本は芸術作品以外の何ものでもないだろうし、大人向きの絵本というものもあるが、ただ絵本というものは、子供向きに制作されることが多いのではないだろうか。

 

 言葉の理解が不充分な子供に、絵で物事を理解させようとして。文盲の庶民が多かった時代の宗教書が、壁画や天井画に頼ったように。言葉の理解が進んだ子供は、文字の量が多くなった本に手を出すようになる。物事のもっと複雑な面を知ろうとして。

 

 絵本のような作品が巷の書店に溢れている現状は、日本人の子供返りを、五感や情操の低下を物語っているのかもしれない。

 


2007年10月 9日 (火) 

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