文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

カテゴリ:レビュー・文学論 > シネマ

マダムNの覚書」に 2016年7月 7日 (木) 16:02 投稿した記事の再掲です。
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月一回、家族でカルディコーヒーファームへコーヒー豆を買いに行くことが恒例の行事となっている。そのときに観たい映画があれば、観ることにしている。

夫に比べたらあまり観たい映画がないわたしと娘は商業施設内をブラついたり、お茶を飲んだりすることのほうが多いが、今回はあった。『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』。
『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』は『アリス・イン・ワンダーランド』の続編である。

2本の映画はうまい具合につながっていた。続編となる本作は、ルイス・キャロルの原作からはますます遠ざかっていたけれど、楽しめた。上映方式は2Dと3D。3Dで観たかったが、映画代のことを考え、2Dで我慢した。

映画については少し触れるだけにしておこうと思うが、ネタバレあり
アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅 

原題……Alice Through the Looking
監督……ジェームズ・ボビン
脚本
……リンダ・ウールヴァートン
原案
……ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』
製作総指揮
……ティム・バートン
出演者
……ミア・ワシコウスカ,ジョニー・デップ,ヘレナ・ボナム=カーター,アン・ハサウェイ,サシャ・バロン・コーエン
音楽
……ダニー・エルフマン
主題歌
……『ジャスト・ライク・ファイア』 - P!nk
撮影
……スチュアート・ドライバーグ
編集
……アンドリュー・ワイスブラム
製作年
……2016年
製作国
……アメリカ
配給
……ディズニー
上映時間
……113分
上映方式
……2D/3D

マッドハッターと家族の再会、女王姉妹の絆の回復のためにアリスが時間を超えて働く……手短にいえば、そのようなお話。

前編では結婚を拒否したアリス。本作のアリスは未亡人となった母親が切実な思いから娘に押し付ける世間体及び女性らしい安定した生き方を冒険後に受け入れかけるが、土壇場で母親のほうがそれらを蹴飛ばす。

母娘で意気揚々と、手放さなかった船に乗り込む結末は清々しい。嵐が来たらひとたまりもないかもしれないリスクを恐れない強さがあって。続々編も観たいものだ。

前編を観たとき、赤の女王の頭の形はなぜハート形に膨張しているのかと不思議に思っていた。その謎が本作で解ける。

前編ではアン・ハサウェイ演ずる白の女王の存在感が際立っていた。本作ではオーストラリア出身の女優ミア・ワシコウスカ演ずる主人公アリス・キングスレーが存在感を増していた。

わたしは帽子職人マッドハッター演ずるジョニー・デップが好きで、デップ独特の物柔らかに訴えかけるかのような人懐こい表情にはほろりとさせられるのだが、今回もその表情を見せてくれて安心した。

サシャ・バロン・コーエン演ずるタイムもなかなか魅力的で、目が離せなかった。ヘレナ・ボナム=カーター演ずる赤の女王は今回も弾けた、味のある演技をしていた。

子役達が素晴らしい演技をしていた。前編と本作がよくつながっていたように、子役と大人の役者もよくつながっているように見えた。それにしても、日本の子役のようなわざとらしさが全くないのはどういう工夫によるのだろう?

映像が美しくて、夢のようだった。海賊とやり合う航海シーンや遊園地のような楽しいシーンがあったので、『パイレーツ・オブ・カリビアン』や『チャーリーとチョコレート工場』を連想した。

嫌な事件がよく起きる昨今、こういう映画を観るとホッとする。以下にディズニー公式YouTubeチャンネルの予告編を貼っておく。

そういえば、原作者のルイス・キャロルに関することだが、神智学の影響を受けた人々を探している中でルイス・キャロルが神智学に関心を持っていたことがわかった。

神智学ウィキによると、彼は心霊現象研究協会の会員で、神智学に何らかの関心を持っていた(A・P・シネットのEsoteric Buddhism(『エソテリック ブディズム』)のコピーを所有していたといわれている)。→Lewis Carroll,http://www.theosophy.wiki/en/Lewis_Carroll(2016/7/7アクセス)

心霊現象研究協会(SPR)は神智学協会の会員だったフレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが友人達とつくった会だった。

心霊現象研究協会の会員によって公開されたホジソン・リポートはブラヴァツキーが誹謗中傷される原因を作ったが、ホジソン・リポートの虚偽性は1977年に心霊現象研究協会の別の会員ヴァーノン・ハリソンによって暴かれた。

ブラヴァツキーが生きていたそのころ、神智学協会はロンドンの社交界の流行になり、指導的な知識人や科学者、文学者達が訪れていた。→ハワード・マーフェット(田中恵美子訳)『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(神智学協会 ニッポンロッジ、1981、p.265)参照。

サロンのようなオープンな雰囲気があったようだから、様々な人々が神智学協会に興味を持ち、訪れたようである。ルイス・キャロルもその中の一人だったのだろうか。あるいは、神智学協会との接触のある心霊現象研究協会の会員を通じて神智学論文のコピーを入手したのかもしれない。

ホジソン・リポートを根拠に、心霊現象研究協会を神智学協会の上位に位置付けて対立構造を煽るような書かれかたをされることも多いが、実際には心霊現象研究協会は神智学協会の知的で自由な、開かれた雰囲気のなかから生まれた会であった。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月15日、投稿した記事の再掲です。
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録画しておいた、BS2プレミアムシネマ『バベットの晩餐会』を観た。

1987年度アカデミー賞外国語映画賞受賞

原題:Babettes Gaestebud
監督:ガブリエル・アクセル
原作者:カレン・ブリクセン
脚本:ガブリエル・アクセル
音楽:ペア・ノアゴー
製作年/製作国/内容時間:1987年/デンマーク/104分
出演:
バベット=ステファーヌ・オードラン、マーチーネ=ビルギッテ・フェダースピール、フィリパ=ボディル・キュア、娘時代のマーチーネ=ヴィーベケ・ハストルプ、娘時代のフィリパ=ハンネ・ステンスゴー、ローレンス=ヤール・キューレ、青年時代のローレンス=グドマール・ヴィーヴェソン、アシール・パパン=ジャン=フィリップ・ラフォン

以下、気ままな感想ですが、ネタバレありですので、ご注意ください!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

デンマークの漁村に、牧師と、その娘である姉妹が暮らしていた。

清貧といってよい暮らしで、牧師一家と同じように貧しく慎ましく暮らす信者たち相手に、姉妹は奉仕の日々を送っていた。姉妹は美しく、優しかったが、敬虔、信仰という言葉が服を着て動いているような、教条的なところもあった。

姉妹に、ロマンスが芽生えかけたことはあった。姉マーチーネは士官ローレンスとの間に、妹フィリパはオペラ歌手アシール・パパンとの間に。だが、姉妹は牧師館の奉仕に生きて老いた。

1871年9月のこと、パリ・コミューンを逃れた女性がオペラ歌手の紹介で、父亡きあと、姉妹だけで暮らす牧師館にやってきた。パリは市街戦の様相を呈し、女性の夫と子供は殺されたと紹介状に書かれていた。

女性は料理人で、名はバベットだという。

最初は受け入れを拒んだ姉妹だったが、無給で家政婦として雇って貰って構わないという言葉に、バベットを牧師館に置くことにした。

バベットのお陰で姉妹は家の仕事から解放され、信者たちに尽くす時間がたっぷりとれるようになる。

14年経ったとき、天の配剤のように宝籤が当たった。バベットは宝籤の購入を、フランスとのただ一つのつながりと冗談めかしていっていた。

大金らしいので(1万フラン)、彼女はそのお金でパリに帰り、料理人に復帰することもできたのではないだろうか。

しかし、バベットはそうしなかった。

姉妹が企画している牧師の生誕100周年を祝う記念日に、本格的なフランス料理を一度だけ、作らせてほしいと申し出るのだ。姉妹はコーヒーと簡単な夕食を出すだけのつもりだったが、バベットの切なる懇願に、譲歩した。

海亀は直前まで生きていた。それがスープとなる。まとめて購入されたウズラも籠の中で生きていたが、ウズラのパイになる。パイにスライスして入れられていた黒いものはトリュフだろうか? 料理に合わせて出される様々な、由緒ありそうなワイン、シャンパン。ケーキはモロゾフで食べたアーモンドケーキに似て見える。すばらしい果物。イチジク、美味しそう。食後のコーヒーはデミタス・カップに注がれる。対のように、小さなグラスのワイン。

かつて姉に恋したローレンスは将軍となり、経験を積んで料理も評価できる人間となっていた。晩餐会の席で、彼は料理をなつかしむように絶賛し、バベットの経歴を明かす。

「パリにいた頃、競馬大会で勝ち――、騎兵隊の仲間が祝ってくれた。場所は高級レストラン、カフェ・アングレ。驚いたことに料理長は女性でね。そこで食べたウズラのパイは創作料理だった。主催者のガリフェ将軍が料理長のことをこう話してくれた。特別な才能があるんだと。料理を恋愛に変身させる才能さ。恋愛となった料理を食べれば、肉体の欲望と精神の欲望は区別できない」

台所でてんてこ舞いのバベットには、将軍の絶賛が伝わったようだ。12人分で1万フランになるフランス料理のフルコースに、バベットは宝籤で得たお金を使い切ったのだった。

それは彼女の選択であり、将軍が晩餐会でいったように、選択が問題ではなく、神の恵みは無限だと悟ったからだろう。

バベットは、政変のために家族を亡くし、高級レストランの料理長の地位を失い、パリを追われた。料理の腕を発揮する場もない他国の寒村に生きる羽目になった、何とも気の毒な境遇であった。

ところが、晩餐会が終わったあと、台所で1人コーヒーを飲むバベットの凜々しく、美しい、どこか勝利を収めた将軍のような安堵の表情を見ると、彼女はパリの居場所をとり上げられた代わりに、デンマークの寒村をまるごと贈られたのではないかと思えてくる。

彼女は見事にそれを料理したのではないだろうか。

村の信者たちは14年経つうちに、バベットの価値観をどこかで受け入れるようになっていたのだと思う。 

14年もバベットと一緒にいたのだから、彼らは元のままの彼らではないはずだ。棺桶に片足を突っ込む年齢に達して怒りっぽくなっている信者たちではあったのだが、気づかないうちにバベット色に染まっていたのではないだろうか。晩餐会は、その集大成といってもよいひとときだったと思える。

現に、バベットの味に慣れた老人が描かれていた。老人は夕食を牧師の館から届けて貰っていた。バベットが食材の調達のためにパリに帰省していた間、老人には以前のような食事が届けられるのだが、彼はその味に耐えがたい表情をするのである。

バベットは牧師館の屋根裏部屋を提供され、家政婦として料理も任されてきたのだが、彼女は清貧にふさわしい食事の意義を崩さないまま、目立たないように食生活の改善、革命を成し遂げていたのである。

牧師館で食べる料理について、初めてマーチーネに教わり、それを食べてみたときのバベットの表情は印象的だった。

無造作に切って茹でた干しヒラメ。ちぎったパンをビールでどろどろになるまで煮る、おかゆのようなビールパン。バベットの口には合わなかったに違いないが、その表情は分析的、プロフェッショナルなものだった。

次の場面で、早くもバベットは買い物に出ていた。オニオンとシュガーを買っていた。その次の場面では、姉妹にお茶を出しているバベットがいた。シュガーは、お茶のためのものだったのだろうか。オニオンはどう使われたのだろうか。

寒空の下、野に出てハーブを摘むバベットの姿はとうてい忘れられないものだった。その姿からは、厳しい境遇となった彼女の失意、孤独感、また意志力と内に篭もった祈りなどが感じられるような気がした。

バベットは14年間、料理人としての華の舞台が得えられないまま、黙々と生き、ハーブを摘んできたのだろう。ハーブは慎ましやかな料理を活気づけたに違いない。

夕刻の鐘の音を1人聴きながら、涙を流すバベットも描かれていた。

漁村で魚を売る男も、食料品店を営む男も、バベットの影響は免れられない。腐った魚、傷んだベーコンを売ると、見破られるのだ。彼女は人知れず、村全体の意識を高めていったのではないだろうか。

フィリパが嘆くようにいう。「私たちのためにお金を全部使うなんて」
バベットは毅然と答える。「私のためでもあります」
マーチーネが心配そうに、不思議そうにいう。「一生貧しく暮らすなんて」
バベットは誇らしげに答える。「芸術家は貧しくありません」

バベット役のステファーヌ・オードランは、知的で、意志的で、美しかった。

適当なストーリー紹介とまとまりのない感想になってしまったが、わたしはこの映画を観て、勇気づけられたような気がした。バベットのように強くなりたい。

結婚して長い時が経ち、独身時代親しかった人々との絆が一つ、また一つと壊れていく気がしている。人は望む、望まないに拘わらず、影響し合って、一緒にいる相手に合った人間になっていく。

昔ながらのなつかしい感覚が継続していることを感じられる関係もあるが、違和感を覚えるようになった関係の方が多い。影響を与え合う機会の減ったことが一番の原因だろう。

昔、彼女はこんなに無神経なことはいわなかったのに……などと思うわたしがいる。お互いさまなのだろうが。

世間の人々は経済力や社会的地位で相手を見ていることが多いと思うときが、いつごろからか、よくある。わたしも無意識的にそうしているのだろうが、親しい間柄でありながら、そうした上下関係で見るというのがわたしにはよくわからない。

親しくないからなのかもしれない。親しいと思っているのは、わたしだけだったのかもしれない。

もう昨年の出来事になるのだが、「昔は、大きな家で暮らしていたのにね」と、いった女友達。

確かに結婚してからは夫の転勤もあったし(家賃を払うくらいなら買おうかという話が出たこともあったが、転勤を断ってまで落ち着きたいと思える場所には行かなかった)、わたしは外で仕事をしなかったから、いつもお金がなく、住まいでは苦労してきた。それでも、ちょっといい気味という気配が彼女から漂って驚いた。

別に喧嘩をしていたわけではない。賑やかに会話しているときの一コマにすぎなかったので、「えっ?」と思ったものの、忘れていたほどなのだが、時間が経つほどに気にかかる出来事として甦る。

友人関係を解消すべきか。

といっても、連絡しなければ、消えていく関係にすぎず、おそらく、わたしのほうで執着があるだけなのだ。昔、彼女が書いた童話を忘れられないのである。そのころの彼女のそうした一面に、いつまでも執着がある。だから、創作を始めたと聞いたときは本当に嬉しかった。しかし……その彼女は、わたしの知らなかった彼女だった。

彼女にとって、今のわたしは人生の敗残者と映っているようだ。才能もないくせに、文学なんかやって馬鹿ね、文学なんてやれるような経済力のある相手との結婚だったの、と彼女はいいたいようだった。

いってやれば、よかった。文学に生きすぎて、貧乏であることに気づかなかった、と。否、いってわかるような人であれば、あんなことをいいはいないだろう。清貧に生きているマーチーネの言葉とは違う。

友人は努力家で、早期退職する前から創作を始めているが、最初から賞をとりたいようだった。そして、社会的地位を得て退職した夫を見返したい様子。

純粋に文学に打ち込む反面、世に出たいとか、いろいろ打算的なことをずっと考えてきたわたしではあるが、彼女は大学時代にはもっと純粋に童話を書き、わたしに見せてくれた。

元々それほど読書の習慣のある人ではなかった。創作を本格的に始めたわりには、ほとんど読まないらしい。

打算的な(現実的な、というべきか)、冷たい言葉を平気で口にするようになった彼女の変化がショックであるが、逆から考えれば、大学時代、わたし――というより文学――の影響で彼女は繊細で純粋だったのかもしれないと思える。

また、わたしが友情を、作品を、純粋に歓迎したので、彼女は昔、そうしたのではないだろうか。彼女の夫は、花より団子の人なのだろう。

文学は、芸術は、やはりいいものだと思う。彼女は書く以前に読む必要がありそうだ。文学を何かの手段にする前に、文学を知り、楽しんでほしいと願うが、それは彼女次第だ。

原作者カレン・ブリクセンには興味が湧いたので、図書館から借りて読んでみたい。

追記:

ウィキペディアによると、カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表する小説家。作家活動は1933年に48歳からと遅いが、翌1934年にアメリカで出版したイサク・ディーネセン名義の作品「七つのゴシック物語」で早くも成功を収めている。

作家として成功するまでは、「父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻(夫に移された梅毒は生涯の病になった)し、離婚。単身での経営を試みるがあえなく失敗し、1931年にデンマークに帰国した」とウィキにあり、紆余曲折あった様子が窺える。

「バベットの晩餐会」は1958年に出版された『運命譚(Anecdotes of Destiny)』の中の一編。

同じ物書きとして思うのは、「バベットの晩餐会」が無名の物書きによって書かれた作品ではなく(そもそも、そのような人物の作品が世に出て残ることはほぼないだろう)、功成り名遂げた作家によって書かれたという事実だ。

映画に感動しながらも、物書きの一人としてはそのことが引っかかり、物にならない物書きの人生――どうやら、それはわたしの人生らしい――が一層つらいものに感じられる気もしている。

そのこととは違うことかもしれないが、アンデルセンが「マッチ売りの少女」を書いたのは滞在中のお城であったこととか、極貧の少年少女が描かれた短編「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」は、セレブのリンドグレーンによって書かれたこととかを思うとき、わたしは複雑な気持ちになる。

『小さいきょうだい-四つのものがたり(Sunnanäng ) 1959年』に収録されている作品。日本では1969年に大塚勇三訳『リンドグレーン作品集 14 小さいきょうだい』として出版されている。

石井登志子訳『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』(ヤコブ・フォシェッル監修、岩波書店、2007年)を読んで初めて、それまで断片的にしか知らなかったリンドグレーンの人生全体を鳥瞰できた。

両親は農場が軌道に乗るまで苦労したかもしれないが、あのころのスウェーデンの時代背景を考えると、彼女は何しろ農場主の娘で、父親は酪農業組合、雄牛協会、種馬協会を結成した活動的な事業家でもあり、娘のリンドグレーンが苦労した様子はアルバムからは窺えない。

ラッセを産んだ件では苦労しただろうが、一生を共にしたくない男の子供を妊娠し、その男と一生を共にしない選択の自由がともかくもあり、女性の権利拡張運動の闘士(職業は弁護士)エヴァ・アンデンの援助も受けられて……と、確かに一時的な苦労はあったようだが、自由奔放な女性がしたいようにしたという印象を強く受ける。ラッセは、実父から3万クローナの遺産を受けとっている。

ちなみに、ラッセが大学受験資格に合格したときの写真を見ると、どちらかというと、いかつい男性的な容貌のリンドグレーンとは対照的な、女性的といってよいようなハンサムボーイだ。

それまでに読んだリンドグレーンの作品解説や伝記的なものからは地味な境遇が想像されていたが、いや、とんでもなかった!

想像とは違っていたが(違っていたからこそ、というべきか)、リンドグレーンや周囲に写っているものがとっても素敵なので、昨年、娘に誕生祝いに何がほしいかと訊かれたとき、迷わず、リンドグレーンのアルバムを挙げたのだった。

だから勿論、わたしは、アンデルセンやリンドグレーンが有名だったり、お金持ちだったり、自由奔放だったりしたからどうのとケチをつけたいわけではない。

無名で貧乏だと、取材もままならないから、有名でお金持ちのほうがいいに決まっているし、自由でなくては書きたいように書けないから、環境的に自由なムードがあり、気質的にも自由奔放なくらいがいいと思う。

ただ、「マッチ売りの少女」にも、「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」にも、どことなく貼り付いたような不自然さを覚えていたので、つい、どんな環境で書かれたかを探りたくもなったのだった。

アンデルセンの「マッチ売りの少女」はよく読めば、不思議な話なのである。

このことについては、YouTube(聴く、文学エッセイシリーズ)の最初の動画「マッチ売りの少女」のお話と日本の現状 2014/02/07」の中で触れているので、以下に抜粋してみたい(このシリーズ、続けるつもりが頓挫している。あまりに話すのが下手なので。まあ、その練習の意図もあって始めたわけではあるが)。

「マッチ売りの少女」を読んでいました。このお話をご存知ない方は少ないんじゃないかと思いますが、アンデルセンの童話です。アンデルセンは1805年に生まれ1875年に亡くなったデンマークの作家です。日本でいえば、生まれたのは江戸時代で、亡くなったのは明治8年ということになります。

貧しい少女が雪の降る大晦日に、マッチを売りに出かけます。マッチを売ってお金を持って帰らないと、お父さんからぶたれてしまうのですね。ところが、マッチは売れませんでした。夜になってしまって、とても寒いんです。風がピューピュー吹いて、雪も降っていますから。

少女は、マッチを擦って、その炎で温まろうとしたわけです。そうしたときに、美しい幻がいろいろ見えました。ストーブや、美味しい食べ物、クリスマスツリーなんかが見えて、終いには亡くなったお祖母さんが見えたのです。その幻が消えそうになったとき、少女はお祖母さんに、自分も連れて行ってちょうだい、といって、お祖母さんと一緒に天へと昇っていきました。翌日、街の人々は、少女が凍えて亡くなっているという現実を見るわけですね。

そういう救いのないお話ですけれど、今の世の中にはこういう現実は、残念ながら沢山あって、この日本ですら、起きるようになってきたのが怖ろしい話です。

わたしは昔は、こういう悲惨な出来事というのは――こういうお話を読むと、ひじょうに心が痛みますけれど――遠い昔の外国のお話という捉え方をしていたわけですが、日本もだんだんと社会的に難しい状況となってきて、時々ニュースで餓死したとかね、目にしますよね。〔略〕

改めて思ったんですけれど、この少女は――まだ小さいということもあるのかもしれませんが――気立てがいいですよね。お母さんがこの間まで履いていたスリッパを少女が履いて無くしたとありますから、お母さんはどうしたんでしょう。この間までお母さんに可愛がられた雰囲気が少女にはありますよね。マッチ売りにも慣れていないみたいだし。お母さんが亡くなったとしたら、幻にお母さんが出て来ないのは不自然ですから、家を出たとかで、お父さんはやけっぱちなんでしょうか。それにしては家があばら屋みたいなのは変で、何にしてもお父さんは廃人っぽいですね。

夫に愛想をつかしたお母さんが少女もそのうち引き取るつもりで、下の子だけ連れて家を出たとか、想像したくなりますが、そこまでの情報をアンデルセンはここでは書き込んでいません。

アンデルセンがどういう意図で書いたかは知らないが、「マッチ売りの少女」が少女の貧しさ、恵まれない子の悲惨を訴えた物語にしては、その肝心のマッチ売りの少女が貧しさにも、商売にも慣れていず、すれた感じがないという不思議さがあるのだ。

そういえば、カレン・ブリクセンもアンデルセンも、同じデンマークの作家である。

リンドグレーンの2編についても、不可解な点や解釈に迷うところがあるので、いずれ考察してみたいと考えている。

『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』には作品解釈の手がかりになるようなことが多く書かれている。「はるかな国の兄弟」の謎はそれで大部分が解けた。

わたしが深読みしたより、単純に――シンプルにというべきか――書かれていた。それでも、まだ謎の部分がある。これについても、いずれまた。

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インターステラー(Interstellar)は「星間の」という意味だとか。

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インターステラー

監督・脚本・製作 クリストファー・ノーラン

主なキャスト

  • マシュー・マコノヒー(主人公クーパー)
  • ジェシカ・チャステイン(クーパーの娘マーフ)
  • マッケンジー・フォイ(マーフの子供時代)
  • エレン・バーステイン(マーフの最晩年)
  • マイケル・ケイン(ブランド教授)
  • アン・ハサウェイ(アメリア・ブランド。ブランド教授の娘)

原題 Interstellar
製作年 2014年
製作国 アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 169分

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

以下、ネタバレあり、注意!
まだこの映画をご覧になっていない方、内容を知りたくない方は、お読みにならないでぐたさいね。

砂嵐に襲われるアメリカ中部の田舎町。砂嵐は頻繁に起きた。農作物がだめになり、人類は飢餓と窒息死を待つだけかと思われた。

予算の膨らむ宇宙開発は今では否定され、NASAは秘密基地で細々と研究を続けていた。

そこへ偶然に引き寄せられたクーパー。クーパーは農業を営む元パイロット兼エンジニアだったが、クーパーの過去の業績を買ったNASAの依頼で、人類の救出を賭けた宇宙探査プロジェクト・ラザロ計画に参加することになる。

クーパーには宇宙船を墜落させた過去があり、それは重力の乱れによるものだと説明を受ける。砂嵐も、重力の乱れによるものだという。

ブランド教授がラザロ計画の中心人物で、彼は理論物理学者だった。その娘アメリアも、ラザロ計画に参加していた。

ところで、クーパーの娘マーフの部屋では、本棚から本が勝手に落下した。マーフはその現象をもたらす何かを、ある種の親しみを込めて幽霊と呼んでいた。

実は、その本棚の裏側には異次元の空間が構築されているのだが、何かあると思いながらも、2人には謎のまま、父子の別れが来たのだった。

部屋に吹き込んだ砂模様が「ここに留まるように」というメッセージを送っているから、行かないで……と訴えるマーフ。それを振り切って宇宙へ行ってしまうクーパー。

ラザロ計画。ラザロは、新約聖書のヨハネ福音書に出てくる人物で、イエスが大声で「ラザロ、出て来なさい」と叫ぶと、生き返る。

太陽系から出て人類の生存を計るには、移住か、培養した卵子からコロニーを作るという種の存続を目指すかのどちらかだった。

先発隊が、三つの星から情報を送ってきていた。クーパーたちは宇宙船「エンデュランス」で、土星付近のワームホールを使い、そうした星へ向けて出発することになる。

ワームホールとブラックホールがよく出てくる。以下はウィキペディアより抜粋。

ワームホール:Wikipedia 

ワームホール (wormhole) は、時空構造の位相幾何学として考えうる構造の一つで、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道である。

由来
ワームホールが通過可能な構造であれば、そこを通ると光よりも速く時空を移動できることになる。ワームホールという名前は、リンゴの虫喰い穴に由来する。リンゴの表面のある一点から裏側に行くには円周の半分を移動する必要があるが、虫が中を掘り進むと短い距離の移動で済む、というものである。
ジョン・アーチボルト・ホイーラーが1957年に命名した。

第1の星は、生物学者ミラーが向かった星であるが、山と見紛うほどに物凄い津波の起きる海に覆われた星で、ミラーは既に死んでいた。

ここでのアクシデントで時間を食う。星での1時間が地球では7年間に相当し、地球時間にして23年もの時間が経過してしまったのだ。

第2の星は、最も優秀な科学者マン博士が向かった星で、そこは氷に覆われた星だった。

生きていたマン博士は功利心と自分だけが助かればいいという思いの塊になっていた。そこが住めない惑星と知りながら、住めるという嘘の情報を送って助けを呼び寄せたのだ

クーパーは、自分を殺そうとするマンと殴り合う。

マンはクーパーたちの母船エンデュランスを乗っ取ろうとするが、クーパーはそれを阻止した。マンは自業自得の形で、宇宙の藻屑と消える。

しかし、母船エンデュランスは傷つき、もはや地球に戻るだけの力はなかった。近くに存在したガルガンテュアという弱い、回転するブラックホールを利用した航行法で、アメリアの恋人エドマンズの待つ可能性のある第3の星へと向かうことにする。

が、クーパーは独自の判断で、輸送能力のある部分を母船から切り離し、アメリアのみエドマンズのもとへと向かわせた。残された燃料や食料では、1人生き延びるのが限界だと思われたからだった。驚くアメリア。

クーパーは、ガルガンチュアへと吸い込まれていく。

広がる漆黒の空間で、辿り着いたのはマーフの部屋にあった本棚の裏側だった。そこは、様々な時間軸が回線のように走る異次元の空間として存在していた。

マーフの部屋の中で起きる本棚や砂、そして腕時計が惹き起こしていた異常な物理現象は、その異次元世界に拘束されたクーパーが過去にいる娘マーフに送る合図やモールス信号だったのだ。

クーパーは、重力を利用したモールス信号(?)で、ブラックホールの解析データを腕時計の針に送る。

クーパーの必死の行動と、それを読みとらんとするマーフの行動は、実は5次元空間に住む未来人(未来のわれわれ)に導かれたものだった。少なくとも、クーパーはそう解釈した。

マーフはブランド教授の研究を継承していたのだが、父クーパーが送った情報により、重力に関する研究を完成させ、ユリイカ!と叫んだ。

最初に「ユリイカ!(わかった)」と叫んだのはアルキメデスだったが、バルザックも『絶対の探求』で主人公の化学者に「ユリイカ!」と叫ばせた。

クーパーはやがて、「クーパーコロニー」と名づけられた宇宙ステーションに救出される。

そこは土星の軌道上に建設された巨大なコロニーで、理論物理学者マーフ・クーパーにちなんで命名されたコロニーだった。

異なる時間の流れに身を置いてきたクーパーは124歳になっていたが、見かけ上は変わらない。年老いた娘のマーフは、死を迎えようとしていた。マーフの枕もとで果たされた父子の再会。マーフの病室では、沢山の親族がマーフを見守っていた。

クーパーはマーフに「親は子の死を看取るものではないわ」といわれ、アメリアに関する情報を得たクーパーは再び宇宙へ旅立つ。アメリアのいる星へ。

既に恋人エドマンズは死んでいたが、生存可能なその星でアメリアは孤独に生きていた。アメリアが愛の中で得た、恋人のいる星へ行きたいという切実な想いは、未来を孕んだインスピレーションでもあったのだ。

映画では、ディラン・トマスの詩“Do Not Go Gentle Into That Good Night”が使われていた。

穏やかな夜に身を任せるな
老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に
怒れ。怒れ。消えゆく光に

詩が映画に合っていたかどうかは微妙だが、独特の雰囲気をもたらしてはいた。ディラン・トマスの詩を収録した詩集があるので、あとでどれか紹介したい。

映画制作には、重力の権威キャップ・ソーンが協力しているとか。理論物理学者で、時空、ブラックホール、ワームホールに関する権威の一人らしい。

しかし、ワームホールはともかく、クーパーがブラックホールに呑み込まれた辺りから、SFがファンタジーになってしまった気がした。別々の科学理論が短絡的に結びつけられているような違和感を覚えたのだ。

そして、「愛は人類を救えるか?」的な単純なヒューマニズムがあぶり出されてくるところは、あまりにも、あまりにもアメリカの映画……尤も、だからこそ、娯楽映画として、安心して映画鑑賞できるというところもある。

「インセプション」で魅了されたクリストファー・ノーランには、今回も壮大な映像で楽しませて貰った。何よりノーランの考え方に、神秘主義者のわたしにも共鳴できるところがあるのは、嬉しい。

「インターステラー」で描かれる地球の荒廃した姿に、今自分が生きている世界の世界規模で起きるようになった異常気象と生活環境の変化、それに絡んで起きてくる外交問題、増えるばかりの国内問題、内憂外患の事態、揺らいでくるこれまでの価値観……といった社会現象が脳裏をよぎり、他人事ではないと感じさせられた。

映画を観ながら、2ちゃんねるの「未来人さんいらっしゃい」を連想してしまった。以下のサイトで、2062年から来たという未来人の言葉がわかりやすくまとめられている。

民主党政権時代に国会中継を観ていると、日本は他国にのっとられてしまうのではないかという戦慄を覚えずにはいられなかった。そんなとき、どうせ書き込んだのは現代人だろうと思いながらも、その言葉にどれだけ励まされたことか。

Q.次の日本の首相や政権交代の時期
A.首相は今の民主党議員が入れ替わりで就任する。それが終わると自民党に移る。
(2010/11/14)

Q.外国人参政政権、人権保護法は成立するか
A.外国人参政権人などない。
(2010/11/16)

今は、以下の言葉を励みとしている。書き込まれた日付を思えば、何にしても不思議な書き込みではある。

Q.現代の日本人に言っておきたいことは?
A.時に身を委ねることだ。2014年までは足掻いてもどうにもならない。
日本人の忍耐強さが試される時だ。
おそらく今は、他国を攻めるべきだ、強く対応すべきだ、守るべきだ、と色々考えはあるかもわからないがね。
(2010/11/14)

Q.私たちが未来のあなた達への財産として、残しておいてほしいものや、やっておいてほしいものはありますか 。
A.何もない。今の環境で十分すぎるからむしろ感謝しなければならない。
つくづく日本人に生まれて良かったと感謝している。
(2010/11/16)

追記:ライン以下に、映画に使われていた詩ではありませんが、ディラン・トマス「十月の詩」(安藤一郎訳)『世界文学全集――103 世界詩集』(1981)から一部を紹介しておきます。好きな詩なので1編全部を紹介したいのですが、長いのです。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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スタジオジブリ作品・米林宏昌監督『思い出のマーニー』を観た。
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とても美しい映像とマーニーの魅力に惹かれたが、いつもジブリ作品に感じるように、今回も違和感があった。

原作をわたしは岩波少年文庫版、松野正子訳で読んでいたので、原作とどう違うか、比較したくなった。というのも、原作には全く違和感がなかったので。

今ここでそれを丹念にやっている時間がない(今月中に仕上げたい小説があるので)。で、書きかけになるが、少しだけでもメモをとっておこう。

以下、ネタバレあり、注意

児童小説『思い出のマーニー』は、イギリス児童文学の伝統を感じさせる作品だと思う。

『マーニー』を読みながら、わたしはエリナー・ファージョン『銀のシギ』を連想した。イギリス最大の入江であるザ・ウォッシュがあるというイングランド東部、北海に面したノーフォーク州がどちらにも出てくるからかもしれない。

また、タイム・スリップといってよいと思うが、主人公アンナの生きている時間がマーニーの時代にたびたび入り込むところはフィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』を連想させた。発表年を調べてみると、『トム』は1958年、『マーニー』は1967年となっている。

アンナの内面描写からは、少年少女の内面を豊かに描いたイギリスの児童文学の中でも、キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』を連想させられた。ニュージーランドに生まれて、主にイギリスで純文学小説を発表した短編小説の名手キャサリン・マンスフィールドの繊細な心理描写なども連想させられる。

そして、マーニーが誰であるのか――という謎解きの場面で、皆が話し手のまわりに集まって話を聞くところは、アガサ・クリスティの推理小説を連想させられるではないか。

お金持ちの家に生まれながらマーニーは孤独な子供時代を過ごし、幸せな結婚をするが、その暮らしは長くは続かず、娘との仲もうまくいかなかった。

娘は家を出て、結婚し、女の子をもうけたが、離婚。再婚後の新婚旅行中に交通事故で亡くなる。祖母のマーニーは孫を引き取って、懸命に育てたが、娘の死のショックを乗り越えることができず、病気が重くなって亡くなる。

残された3歳になる女の子は子供のためのホームへ送られ、やがて一組の夫婦に引き取られた。奥さんは女の子を可愛がるが、女の子はその奥さんをお母さんと呼ばず、おばちゃんと呼ぶ。

アンナはおばちゃんと呼んで、自分を引き取ってくれたミセス・プレストンにうまく打ち解けられないが、嫌いでは決してない。ミセス・プレストンの、アンナに愛されているかどうかといったことに関する自信のなさそうな様子や、不自然な態度に対して抵抗を覚えているだけなのだった。

そんな少女の内面が心憎いほど精緻に描かれている。アンナがマーニーと出会う場面は美しく、神秘的である。

なぜアンナが少女だったころのマーニーの世界に入り込むことができ、一緒に遊べたかは解釈によるのだろうが、どちらも愛情に飢えたところがあり、自然体で愛し、愛されることに強い欲求がある。どちらも繊細で共感能力が高い。

しかもふたりには血縁関係があり、共に過ごした時間があったのだ。それにも関わらず、大きな時間のずれがあったために、ふたりは共有した時間をうまく生かすことができず、一方は亡くなってしまい、他方は幼いまま取り残された。

同じ年齢で時間の共有ができさえしたら、ふたりは無二の親友になれたであろうに――その時間のずれという理不尽さを超えるほど、マーニーは残された時間を最大限に使って孫を純粋に愛した。

そのような愛情は決して消えることがないとわたしは神秘主義者として知っている。イギリスの神秘主義は児童文学に豊かに息づいているとわたしは考えている。マーニーの純度の高い、豊かな愛にジョーン・ロビンソンは作家として形式を与えたのだろう。

原作がすばらしかったために、映画では残念に思うところがいろいろとあった。

まず映画では構造上のいい加減さが目につく。映画の場合は死んでいるはずのマーニーのほうから積極的に関わってきているかのような幽霊譚の趣があるが、タイム・スリップに思える場面もある。

そうでなくては、アンナがマーニー以外の人々や当時の情景を一緒に体験することは不可能だろう。しかし、アンナがマーニーと会ったあとで眠ってしまったり、倒れたりするところを見ると、病的なアンナの白昼夢だろうかと思え……何でもありの手法に、こちらの頭の中は混乱してしまうのである。

神秘的な描き方をすればするほど、押さえるべきところはきっちり押さえ、守るべき法則は守らなくては鑑賞に耐えない、いい加減な作品だという誤解を生むだろう。

少女たちの内面や行動、それに対する大人たちの描き方にも不自然や非常識を感じさせるところがあって、手抜きを感じさせるところが多々ある。

映画は原作をなぞっているようで、肝心のところでそうではない。

原作では重要な役割を果たすワンタメニーじいさんだが、映画では存在感に乏しい。マーニーとアンナの双方を知っている、知恵遅れのように描かれているこの老人こそ、鍵となる人物で、異なる二つの時間帯を行き来する渡し舟の船頭なのかもしれない。

原作の最後のあたり、帰省する日にアンナが別れを告げに行ったのはワンタメニーじいさんだけだった。

映画では、引っ越しの挨拶に隣近所を回る大人みたいで、「ふとっちょぶた」にまで挨拶していた。「ふとっちょぶた」の描かれ方も違う。原作ではアンナは「ふとっちょぶた」と気が合わないため、思わず口喧嘩になった、それだけのことである

映画では、「ふとっちょぶた」といわれた少女は、アンナより1歳上なだけなのに、「おばさん」の縮小版のような外観で、親切なのだが、アンナは過剰反応する。アンナに別れの挨拶をさせることで、制作者は「ふとっちょぶた」を成長戦力のアイテムとして利用しているかのようだ。

そのような説教臭さ、縛りがこの映画にはあり、せっかくの映像の美しさや原作の神秘性を台無しにしている気がする。原作では時空を超えて拡がりを見せる人間愛が、映画では、孫を村社会に溶け込ませることに成功した幽霊のお話(お茶の間劇場)となってしまって、甚だ後味が悪い。

原作にある「内側」という言葉の意味を映画では矮小化している。

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ただいま創作中で、60枚を予定しています。昨日5枚追加で、46枚。できたら、あと5枚進めたかったのですが、校正のほうに時間をかけたという感じです(わたしは校正しながらでないと、先に進めません)。

一応、賞に応募するつもりで書いていますが、応募を迷っています。

でも電子書籍にしてしまうと、本当にどこにも出せなくなるので、どこかへ出してみたい気がしてしまいます。60枚から100枚に増やして(それが可能な構想)、別のところを考えたりもしているのですが……どうしましょう。

ところで、レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』の映画(1966年、フランソワ・トリュフォー監督)を録画しておいてのを夫が観ていたので、わたしも少し観ました。なつかしい映画でした。

レイ・ブラッドベリは中学から高校にかけて結構読みましたが(高1のときのバレー部の合宿に1冊持っていったら、別の人が同じ本を持ってきていました。その人はスポーツ万能なクール美人で、慶應に行きましたが、今どうしているでしょう?)、ある日突然飽きました。

『華氏451度』は読んでいませんが、夫は読んだとか。

華氏451度というのは、本が燃え出す温度だそうです。思想管理が徹底している未来社会では本の存在自体が悪いこととされ、そこでは家は燃えない素材で作られているため、ファイアマンは消防活動をせず、書物の根絶を任務としています。

密告を受けたら直ちに出動し、隠された本を見つけ出しては焼却するのです。サマランダーがシンボルとなっていました。

そのファイアマンの一人が本に魅せられるようになり、追われる身となって、そして1人が1冊の本の内容を全て頭に記憶することで本が伝える思想や文化を継承しようとする人々がひっそりと暮らす村へ赴くという結末を迎えます。

昔観たとき、1人で1冊の本をまるごと、そのまま記憶するなんて、いくら未来人とはいえ、無理のある設定ではないかと思いました。コンピュータが活躍しない時代に制作された映画なので、現代から見ると、つい笑ってしまう未来設定もあるのですが、映像が綺麗で、トリュフォーらしいこだわりが感じられ、丁寧に作られている印象です。

映画に出てくるのは実際に存在する本ばかりで、SF、雑誌、美術書なども出てきましたが、プラトンなどの哲学書やチャールズ・ディケンズ、ジェーン・オースティンの純文学書など出てきて、わたしは今の日本の状況をふと重ねてしまいました。

燃やされこそしませんでしたが、日本では哲学書も純文学書も当時は考えられなかったような凋落ぶりです。昔は、哲学書も純文学書も、もっと読まれていましたよね。

大手出版社がエンター系ばかり派手に宣伝するようになり、村上春樹がよく売れ出した頃から「純文学なんてない」などと盛んにいわれていた時期がありましたが、あれは何だったのか。

書店員の娘に訊くと、芥川賞受賞作品は純文学に分類されるというので、日本でいう純文学のジャンルは依然生きているようですよ。

ただ、そこに分類されるらしい最近の芥川賞受賞作品の多くが、わたしには純文学とも思えません。

今わたしが応募を迷っている賞はジャンルを限っているわけではなく、「未発表小説一編」となっています。作品集を読むと、受賞作品の多くがエンター系(この場合は、大衆系といったほうが感じが出る気がしますが)か純文系といったところでしょう。

わたしは思うのですが、大衆系と純文系を同じ土俵で闘わせるのは無理があるのではないかと。ポピュラー音楽とクラシック音楽では形式が異なるように、大衆文学と純文学も形式が違うのですから。

その賞が芥川賞に一番近いとされる文芸雑誌を発表舞台としていることで、内容は大衆系といってよいのに純文学扱いされ、そのことで純粋な純文系(というと変ですが)作品のイメージと定義が崩れ、結果として純文学の衰退を招く一因になったではないかと思えるのです。

最近の芥川賞受賞作品の多くは、エンター系的面白さを追求しているわけでもなく、だからといって、人間や社会を分析し、洞察し、人間のすばらしいところを謳い上げるといった純文学ともいえず、日本語の壊れたような変な作品がどんどん生まれてしまっているように思います。

夏休みの課題図書に挙がっているのか、最近の芥川賞受賞作品のタイトルで当ブログにお見えになりますねえ。憂慮される事態です。最近の芥川賞受賞作品は日本語がおかしい作品が多いのですから、正しい日本語を身につけるべき生徒にはあまり読んでほしくない気がします。大人が趣味で読むにはいいのかもしれませんが。

読書感想文には、芥川龍之介の作品を読むほうがまだいいのではないかと思ってしまいます。

※関連記事

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お風呂映画『テルマエ・ロマエⅡ』を観に行ったときに、予告のチラシを貰ってきた。

その中で観たいと思った映画は、以下の3本。

『トランセンデンス』
監督: ウォーリー・フィスター
製作総指揮: クリストファー・ノーラン
主演: ジョニー・デップ
6月28日公開予定

デップ様の映画は観る。

『マレフィセント』
監督: ロバート・ストロンバーグ
7月5日公開予定

ディズニーのアニメ映画『眠れる森の美女』でオーロラ姫に呪いをかけた邪悪な妖精マレフィセントを主人公とする、ダークファンタジーらしい。

夫が観たいという。

ロバート・ストロンバーグは『アバター』などのプロダクションデザインを手掛けたという。『アバター』は魅力的だったので、ちょっと観たい。

『思い出のマーニー』(ジブリ映画)
監督: 米林宏昌
7月19日公開予定

ジブリ映画では、綺麗な映像を楽しめても、空疎な内容には疑問を覚えることが多い。左派的プロパガンダが骨格を成しているゆえの空疎さ。

児童文学の名作をどうジブリ的に映画化したのか、心配と興味があるのだ。繊細な作品を、別物に変えてほしくない。


『テルマエ・ロマエⅡ』。阿部寛は好きなので、それだけでも楽しめた。Ⅰのほうが内容的にはまとまっていた気がする。

ただ、夫と二人だと半額になるので高いとは思わなかったけれど、そうでなかったとしたら観たかなあ?

全体的に何とはなしに善意が感じられて、嫌みなところが少しもない映画というのは、それだけでも観る価値があるのかもしれないとは思う。

古代ローマ人の混浴シーンが出てきた。

白人を使っていた。その場面には――見た目の印象にすぎないのだが――、日本人の水墨画風(?)の混浴シーンとは異なるバタ臭さといおうか、濃厚に塗られた油絵風といおうか、何かしら危険な匂いのある気がして、平たい顔族――と、古代ローマ人技師という設定の主人公は日本人のことを心の中で呼ぶ――のほうが混浴情景には合っていると思った。

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