文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

カテゴリ: 自作関係

ライブドアで開設したブログ「マダムNの純文学小説」で、ママカーストをテーマとした「地味な人」を連載中です。

カテゴリ(昇順): 地味な人(純文学小説)
https://litterature2023pure.liblo.jp/archives/cat_5087.html

ママカーストという言葉は当時はありませんでしたが、平成12年(2000)5月に脱稿した「地味な人」でわたしが挑んだのは正にそのテーマでした。

織田作之助賞で三次落ちの作品を周到に改稿しながらの連載です。

こうした問題は女性の社会進出が進み(お爺さんもお婆さんも柴刈に………)、転職が当たり前のようになった社会状況下では薄れたと考えていましたが、ググってみると、驚いたことにこの問題は今なお日本社会を蝕んでいるようです。

他にも、純文学作品を連載しています。どうぞご訪問ください。

マダムNの純文学小説
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田中保善著『泣き虫軍医物語』に見る第二次世界大戦の諸相
2021/05/10
56分51秒
MAKI NAOTSUKA

動画説明欄から引用します。

№14 田中保善著『泣き虫軍医物語』に見る第二次世界大戦の諸相

標準語話者せいじの朗読による、直塚万季のエッセイ・評論シリーズ第 7 回です。

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109 田中保善著『泣き虫軍医物語』に見る第二次世界大戦の諸相

執筆者: 直塚万季
公開中のブログ: はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」
ハンドルネーム: マダムN
公開日: 2021年02月17日
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動画作成に使用したソフト
 ・ナレーションソフト『かんたん!AITalk®3 5話者パック(標準語)』株式会社エーアイ(AI)

お借りした素材(ありがとうございます!)
 ・フリー音楽素材 H/MIX GALLERY(管理者: 秋山裕和) http://www.hmix.net/​
 ・甘茶の音楽工房 http://amachamusic.chagasi.com/
 ・フリー画像素材 Pixabay https://pixabay.com/ja/​
 ・写真素材 足成 http://www.ashinari.com/ 
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ライン以下の続きに掲載します。YouTube動画があります。https://youtu.be/9Bvfl3O-VaY(12分15秒)


・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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「マダムNの覚書」 に 2016年10月25日 (火) 00:52  投稿した記事の再掲です。
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前の記事でお知らせしたように、はてなブログ「マダムNの連載小説」で平成12年(2000)5月に脱稿した「地味な人」の連載を開始した。

100枚程度の短編小説なので、3枚強ずつ毎日更新したら、ひと月で完結する。

この小説をブログで公開するか、電子出版したいと思いながら、気が進まず、清書しかけては中断、を繰り返してきた。

要するに、ダークなテーマであるため、自分の小説であるのに、扱うのが嫌になってしまっていたのだ。

しかし、感熱紙の印字がいよいよ薄くなってしまった今、このまま主人公を失っていいのか、といううろたえる思いが自分の中で湧いた。

16年も前に書いた小説であるにも拘わらず、挑んだテーマは現代日本で流行語になっているママカーストと同じものである。尤も、当時は、そのような言葉はなかった。ママ友という言葉もなかった。

小説を連載しながら改めて、ママカーストの実態をリサーチしたいと考えている。物質主義社会のなれの果てといってよい現象なのか、反日勢力の工作が絡んだ現象なのか……

わたしのママ友関係には、幸いママカーストに当たるような出来事は起きなかった。

同じアパートで、夫が流通業に勤務する似た経済状態にある女性たちが子供を介して交際していた。個人的に合う合わないといった自然な感情は当然存在したが、それだけのことだった。遠く離れても、当時がなつかしく、葉書のやりとりがある。

そうした意味では幸福な子育てだった。ところが、落とし穴はあるもので、別の場所でママカースト現象に当たるような体験をした。だから、小説が書けたのである。

現在執筆中の歴史小説でモデルにしている萬子媛は江戸時代に生まれた方だが、彼女の小伝を書いた義理の息子が「大師ハ華冑ニ生ルルモ、富貴ノ籠絡スル所トナラズ、志ヲ斯ノ道ニ鉄ス」と書いたように、高貴な生まれでありながら(後陽成天皇の曾孫女で、左大臣・花山院定好の娘)、そのことに絡めとられることなく、求道者としての道を貫き、衆生救済のために断食入定した。

日本は、過去にこのような人物を生んだ国でありながら、何て情けない国になってしまったことか。

ママカーストなんてやっている人間は、畜生以下だろう。日本人なら、恥を知るがいい。自らの行いはすべて自分に返ってくる――仏教を通して古来、日本人にはそうした認識があった。

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純文学小説「地味な人」「救われなかった男の物語」「銀の潮」をはてなブログで連載することにしました。

はてなブログを現在二つ持っていますが、無料で三つまで作ることができるので、神秘主義的エッセー、それ以外のエッセーに続き、小説ブログとして残りの一つを作ることにしたのです。

といっても、作るのはこれからなのですが。


はてなブログに開設していましたが、ライブドアブログに移転しました(2024年2月13日)

 ライブドアブログ「マダムNの純文学小説
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実は、前掲三作は古い作品で、ワープロで清書していました。パソコンでフロッピーが開けなくなったこともあって、Kindle ダイレクト・パブリッシングで電子出版したいと考えています。

しかし、まずはパソコンで作品を打ち込むことから始める必要が出てきました。平成12年(2000)5月脱稿に脱稿した「地味な人」から打ち込むことにしました。

「地味な人」は感熱紙の原稿しかなく、印字が薄くなってしまっています。感熱紙原稿のコピーをとるか、パソコンで清書するかで迷い、再校正しながら清書することにしたのでした。

清書の作業と並行してブログで作品を公開して読んでいただこうと思い、2010年4月26日にそうしかけたところで、なぜか中断してしまっています(記事は下書きとなっていました)。

まだ専業主婦が多かった時代に執筆した小説を今読み返すと、さすがに時代を感じさせます。

ですが、現代の日本社会で「ママカースト」などという恐ろしい――ある意味では滑稽ともいえる――流行語が生まれていることから考えると、小説で描こうとした問題が決して古いものとはいえず、また小説に描いた時代はわが国が格差社会に突入した日本の転換期でもありました。

こうした作品の内容から、古い作品だからと切り捨てる気にはなれません。

「地味な人」のような小説は、今のわたしには書けません。

他の執筆作業の合間に行うことになるので、遅々として進まないでしょうし、また中断するかもしれませんが、とりあえず始めます。

気がむけば、当ブログでも連載することにしますが、まずはお試しで第1回。いずれにせよ、はてな小説ブログを開設、更新したときには当ブログでお知らせします。

ライン以下に、あらすじ、前書き、連載第1回があります。

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純文学小説『結婚という不可逆的な現象』をキンドルストアで販売中です。

無事にKDPから出版のお知らせが届いてホッとしました。というのも、基幹ブログで報告したようなトラブルが発生したからでした
  • 2016年4月11日 (月)
    新しい電子書籍を作成しましたが……
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/04/post-fc75.html
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以下が新しい本です。


結婚という不可逆的な現象(ASIN: B01E3UAZ3O)

以下は、アマゾンの商品紹介から。実は、同人誌の号のところに消し忘れの漢用数字がありました。後日訂正しておきます。

かけがえのない家庭で起きた予期せぬ出来事。世間ではありふれた出来事の一つにすぎなかったが、薫子にとっては全身全霊で対処する必要に迫られた大事件であった……精緻な心理描写と哲学的な考察で個人の背後に存在するこの国の流儀を浮かび上がらせ、人生のはかない美しさを描き出す。

「侵入者」は平成19年に執筆した短編小説で、同人誌「日田文学」56号(編集人・江川義人、発行人・河津武俊、平成20年)に発表。
「侵入者」は「文学界」7月号(文藝春秋、平成20年)・同人雑誌評蘭で今月のベスト5の一編に選ばれた。
「鶏の鳴くころ」は、「侵入者」の続編として平成27年に執筆した短編小説。

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以下は、他の純文学小説です。

昼下がりのカタルシス(ASIN: B00EJ7A5LY)

詩人の死(ASIN: B00C9F6KZI)

台風(ASIN: B00BI55HV8)

直塚万季 幻想短篇集(1)(ASIN: B00JBORIOM)

雪の二小篇(ASIN: B01CLKG4ME)


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純文学短篇小説を二篇収録した『雪の二小篇』をキンドルストアで販売中です。

たまたま提出者が少なかったのか、昨日の夜KDPに提出したばかりでしたが、今朝はもう出版のメールが届いていました。普段は数日かかることが多いのですが。

本のサムネイル画像が大きくなったような……。出版日は審査が行われたアメリカの日付です。本がタイムスリップしたみたい。

雪の二小篇 (純文学) [Kindle版] 
直塚万季 (著)
出版社: ノワ出版; 1版 (2016/3/4)

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キンドルストアで短編児童小説『花の女王』を販売中です。99円の短編児童小説シリーズに新しい本が加わりました。

花の女王 (児童書) [Kindle版] 
直塚万季 (著)
Kindle 価格:  ¥ 99 
ASIN: B01C7QWFHU
出版社: ノワ出版; 1版 (2016/2/24)

以下の内容紹介はAmazonから。

商品の説明

内容紹介

お稽古ごとというものは、子どもも親も頭を悩ます問題です。
この問題には、第一に経済的な問題があり、素質の問題があり、お稽古ごとに通う先の問題に地域の問題や親と子どもの社交性の問題が絡んできたりもして、そうした全てを含んだ環境を司るかに見えるある種の運命的な問題が潜んでいるようでもあります。

バレリーナを夢見ている姉の花音(かのん)とサッカーチームに入りたい弟の陽斗(はると)ですが、きょうだいは健康のためにスイミングスクールに通っています。
ある朝、陽斗は庭の石畳に落ちているミツバチを見つけました。
かれは、新米のだんご職人が花粉だんごを大きく作りすぎて体のバランスをうしない、ツツジの花から落ちたのだ――と推理します……

ファンタスティックなスパイスをふりかけた短編児童小説です。
小学三年以上で習う漢字にルビをふっています。

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■ 以下は、他の99円の短編児童小説です。サンプルをダウンロードできます。

子どもも大人も楽しめる、99円の短編児童小説シリーズ!

卵の正体

ぼくが病院で見た夢

ぬけ出した木馬

マドレーヌとわたし

マドレーヌとわたし(漢字使用)

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■ 以下は中編児童小説です。サンプルをダウンロードできます。

田中さんちにやってきたペガサス

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■ 以下は日記体児童小説です。サンプルをダウンロードできます。

すみれ色の帽子

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■ 以下はシリーズ物の第1巻です。冒険前夜の物語です。サンプルをダウンロードできます。

不思議な接着剤1: 冒険前夜

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ブログ「マダムNの覚書」に7月21日、投稿した記事の再掲です。lgp01a201308310500
Caspar David Friedrich,Woman before the Rising Sun (Woman before the Setting Sun) 


昨日、唐突に小説の構想が浮かび、それを書いても世に出られぬ身、書いてどうなるだろう、初の歴史小説もあるし……と思いながらも書き始め、徹夜してしまった。

若いころは、1~2時間の仮眠をとれば、3晩はいけた。今はだめで、朝になると、1時間だけと思いつつ、爆睡。

そして、何と本当に1時間で目が覚めた。「今日はママ、だめ。何も用意できないかもしれないから、早く起きて自分でやって」といって、早めに娘を起こした。

その娘は、まだシャワーを浴びていた。たっぷりとはいえなかったが、時間はまだあり、すばらしい幸福感に包まれていたお陰で、わたしは徹夜したにも関わらず、朝から元気いっぱい、目はぱっちり。

義祖父(夫の父方のおじいさん)の夢を見ていたのだった。わずか1時間の間に、とても長く感じる充実した夢だった。

夢の中で、わたしが義祖父を発見したのだった。義祖父はずいぶん長い間、部屋の隅で寝ていたらしい。まるでミイラになったみたいに。

誰もそれに気づかず、義父母なんかは薄情にも死んだことにしてしまって、しかも、親を亡くしたことすら忘れ、思い出しもしなかったようだ。

しかし、発見者のわたしも、自分の見つけた老人が、夫の父方のおじいさんなのか、母方のおじいさんなのか、区別がなく、ただ、おじいさんだと思っていた。正体がわかるまでは、怖かった。

夢の中で、おじいさんと一緒にいるうちに、わたしはおじいさんのことを大好きになった。

夢であろうとなかろうと、あんなに優しい人をわたしは未だ知らない。目覚めてから夫に尋ねると、優しい人だったそうだ。前にも夫はそういったが、わたしには信じられなかった。

本来が優しかったところへ、成仏して菩薩のような優しさが加わっていたのだろう。

この世の人で、あれほど無条件に優しい人はいない、この世の人の過剰な優しさは欠落を感じさせるが、充実した、実りのような優しさだった(うまく表現できない)。

そして、現実には義祖父を写真で観て、義祖父が夫にも夫のおとうさん(舅)にも似ていないと思っていたのだが、夢で会った義祖父には舅を想わせるところと、夫を想わせるところがあり、自然の造形の妙に打たれた。

わたしは夢の中で夫と喧嘩して、義祖父の背中の後ろに隠れ、義祖父に甘えたりした。

「おじいさんがもっと早く目を覚ましてくれていたら、わたしは婚家でいじめられることも、夫と喧嘩することもなかったのに。おじいさん、おじいさん、大好き……」と、わたしは夢の中で、おじいさんにそういったようでもあり、思っていただけのようでもあった。

どうして、長くあんなところで眠っていたのだろう、とわたしは不思議だった。わたしの知らない親戚の人々――現実に会ったことのある夫の親戚の人々とは異なる、知らない人々――がいて、皆で何となく御祝いをしようとしていた。

わたしはただ、おじいさんの優しい雰囲気にうっとりとし、甘えていた。

結婚して34年になるが、新婚時代から、わたしはこの義祖父の成仏を願ってきた。成仏していないと確信していた。

想像の義祖父に反発したり、悪霊扱いしたり、妄想だろうか、とわが脳味噌を疑ったりしながら。

これが、わたしの今生の課題の一つだと感じていた。

おじいさんの夢は、雑念が作り出した条件反射的、生理的な夢ではなく、霊的な夢だと感じている。おじいさんは成仏したのだ。この世に囚われていたために、あの世の人としては昏睡状態にあったのだと思う。

自分の生きているうちに、義祖父を成仏させることに成功しなければ、わたしは自分が死ぬときに彼を連れて行くつもりだった。もし、それに失敗して、自分も成仏できなかったらと思うと、怖かった。そこまでつき合うつもりはないが、何せあの世の細かいことはもう一度死んでみなくてはわからない。

毎日ではないけれど、心の中で語りかけたり、あの世の魅力を語ったり、夫の嗜好に依存(憑依)しないよう、夫の依存体質を改善しようと、いろいろやってみたが、どうもおじいさんが成仏できたようには思えなかった。

義祖父が幸福でいるという感じが伝わってこなかった。

義祖父は酒好き、遊び好きな人であったという。映画や競輪が好きで、蛍狩りにも夫は連れて行って貰った。

あの世はもっと壮大な遊び場であることを、わたしは義祖父に心の中で説いた。死んだばかりの人のために、あの世にもお酒に似たものはあると思うと語りかけた。

孫を愛するあまり、心配してくれているのだとしたら、あの世からのほうがもっと効果的に見守れるはず、といって安心させようとした。

義祖父の成仏を確信できないまま、何年も経ったが、今日、確信した。

たぶん、義祖父は成仏した。おめでとう!

義祖父の夢を見たのは初めてだった。

まあ、全てがわたしの妄想と思っていただいたらよいと思う。本当にこれまでのわたしの努力は妄想の中で行われ、すばらしい夢もただの夢だったのかもしれないので。

ただ、わたしは神秘主義者で、神智学協会の会員でもある。きちんと書き残しておきたいと思うのだ。

またわたしは自称作家でもあるので、結末が決まらないまま、義祖父をモデルに小説を書き始めていた。執筆計画が充分でないまま書き始めたものなので、つまらない冒頭となっている。いずれ、書き直すつもり。


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ブログ「マダムNの覚書」に6月9日、投稿した記事の再掲です。

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キンドル本にしたいと思っている電子書籍のこと。

『神秘主義者のカフェテラス』というタイトルがしっくりこないので、変えることにした。

表紙用のフリーフォントをGIMPにいくつか入れたが、それでなくともGIMPには沢山のフォントが入っているので(使わないフォントは消してしまおうと思ったりもしている)、追加したフォントについては、フォント名やダウンロードさせていただいたサイトなどをメモしておかないと、使うときになって、どれをどこから追加したのか、わからなくなる。

表紙の作成に、商用・非商用を問わず完全フリーで使える画像検索サイトの写真素材を利用していたが、パブリックドメインの絵を利用できないかと思い、調べたりしていた。

例えば、「グーテンベルク21」から出ているキンドル本に、グスタフ・クリムト「ユディト(Judith)」1901が使われている。

毛皮を着たヴィーナス [Kindle版]
マゾッホ (著), 小野武雄 (翻訳)
出版社: グーテンベルク21 (2015/5/15)

紙の本も含めれば、いろいろと見つかりそう。
ちなみに、クリムトは、「接吻」(1908年)などは一度観ると、忘れられないが、わたしは「メーダ・プリマヴェージ」(1912年)なんかが好き。

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以下のサイトで、パブリックドメインの絵が沢山公開されている。

国立国会図書館のサイト「カレントアウェアネス・ポータル」の2015年1月5日付記事「2015年から著作がパブリック・ドメインとなった人々」によると、
没後70年(カナダ、ニュージーランド、アジア等では没後50年)を経過し、2015年1月1日から著作がパブリックドメインとなった人物に、画家ではワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)がいる。

・カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/about

  2015年から著作がパブリック・ドメインとなった人々
  http://current.ndl.go.jp/node/27741

カンディンスキーについては②で書きたい。

以下は、電子書籍作りとは無関係なところで、パブリックドメインの絵の鑑賞時に目に留まった絵。

ヒューゴ・シンベリ(Hugo Simberg)「傷ついた天使」(1903年)。

The Wounded Angel - Hugo Simberg

次の動画はヒューゴ・シンベリ。

アルノルト・ベックリン(Arnold Böcklin)、バーゼル版「死の島」(1880年)。5枚の「死の島」が存在する。

Isola dei Morti IV (Bocklin)

同じく、ベックリン、「聖なる森」(1882年)。

Arnold Böcklin Il bosco sacro

ヒューゴ・シンベリ「傷ついた天使」、アルノルト・ベックリン「死の島」「聖なる森」、どれも美しく、興味を覚えるが、怖い。

ヒューゴ・シンベリの絵では、傷ついた天使が2人の少年に運ばれていく。天使が出てくるが、ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude)が新約聖書に出てくる出来事を日常生活の中にさりげなく置いたのとは、全く違う印象を受ける。

ブリューゲルが描いた絵の中には新約聖書の中の惨劇が置かれていることもあるが、そうしたものを含めて、現実世界が聖なる世界を映し出す鏡となっているように思える。

みじめな、危機的状況を孕んだ人間社会を鳥瞰する、意志的な画家の透徹した眼が感じられるのだ。

ヒューゴ・シンベリ「傷ついた天使」の場合は、その逆に、聖なる価値観は現実世界に抵抗できないことを強調しているかのようだ。

ヒューゴ・シンベリの動画に出てくる絵には、死や暴力、あやまち、俗悪または悪を想わせるものが滑稽な形姿で描かれたりもしているが、これらの絵から、それ以上のものをわたしは読みとることができない。

アルノルト・ベックリンの2枚の絵も、美しいが魔性を感じさせる。この人の絵には、ずいぶん怖ろしいものがいろいろとある。

ウィキペディアによると、ベックリンの絵は「第一次世界大戦後のドイツでは、非常に人気があり、一般家庭の多くの家に、複製画が飾られていた。中でも代表作の『死の島』は特に人気が高かったと言われ、複製画の他にポストカードの題材としても盛んに使用された。また『死の島』を真似て描く画家も現れた。アドルフ・ヒトラーも彼の作品を好み、収集していた(代表作である『死の島』の第3作を始め、11点所有していたと言われる)」という。

死の島 (ベックリン):Wikipedia

第一次大戦後のドイツで、ベックリンの「死の島」がインテリに受けただけではなく、一般家庭の多くにこの絵の複製が飾られていたというエピソードは、当時のドイツ市民の単純でない感性と鑑賞眼の高さを教えてくれるが、ドイツ市民が置かれた、ただごとではない――袋小路的な――状況を物語ってもいるかに思われる。

全く性質を異にする、別の絵が飾られていたら……と、想像したくなる。

ベックリンの絵には催眠的なところがあるが、当時のドイツ市民の感性はある面で鈍化していたのか、その危険性が見抜けなくなっていたのかもしれない。催眠性の危険性は、人を霊媒的にしてしまうところにある。

わたしは村上春樹の小説に、同様の催眠性があるのを感じてきた。 

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基幹ブログ「マダムNの覚書」で公開してきた記事の中から、神秘主義者としての体験が映し出された記事をセレクトしたエッセー集の電子出版を計画しています。

このようなエッセー集は他にいくらでもありそうで、案外ないのではないかと思います。

ところで、表紙に使うロゴを作ってみようと思ったまではよかったのですが、GIMPで何気なく使っていたフォントにもライセンスの問題があることを知り、慌ててしまいました。

わたしのお気に入りで、ロゴに使用しようとしたフォントは、どうやら自由に使ってはいけないらしいことがわかりました。他のフォントを使おうとして調べても、よくわからないことが多く……

仕方がないので、商用利用可との確認ができたフリーフォントをGIMP――を構成しているファイルのうち、フォントのファイル――にダウンロードして使うことにしました。

ググってみると、参考になりそうな記事が出てきました。


フォントって、オリジナルを作るのは大変でしょうね。美しいフォントを見ると、感嘆のため息が洩れます。

前掲の記事の最初に紹介されていたのが、サイト「ドットコロン」の「Aileron」というフォントでした。

  • ドットコロン
    http://dotcolon.net/
    ドットコロンのフォントは CC0ライセンスの元、OpenType形式のファイルで公開しています。Webサイトや印刷物、ロゴタイプなどへの使用はもちろん、改変・再配布等も自由に行って頂いてかまいません。商標登録が必要なものに関しても同様です。

と書かれていて、わあ、ありがたいと思いました。さっそく使用させていただき、作ってみました。

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ノワ出版のノワはNOIXです。

フランス語で、胡桃という意味です。わたしは子供のころから自覚のあった神秘主義者でしたが、オーラが見え始めたのはだいたい『枕許からのレポート』の体験後(「マダムNの覚書」サイドバーに記事へのリンクがあります)でした。

枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)


人間が光でできた球体――卵の形そっくりです――のなかに生きているという神秘的な現象は、真善美の実在を感じさせるだけの気品を伴っています。

最初は全体を黄色にしていたのですが、空の色でもあり、霊的な太陽の色でもある――太陽の色は神秘主義的には青色です――青にして、文字を包み込ませました。

Oの中の黄身のように見える黄色が人間です。Oの白色は清らかな意識状態のときに放射される白色のオーラを表しています。Nの菫色はナイーヴで愛を求めずにいられない心を、Iの赤はプラスにもマイナスにも働く情熱や欲求を、茶色のXは煩悩や人間の苦悩、あがきを表しています。

黄身のような、点のような人間はやがて育ち、大きく羽ばたいていくのでしょう。

実は半分以上後付けなのですが、卵型は最初から考えていました。それから、なぜ胡桃が出てきたかというと、胡桃はわたしの好物だからですが、あの外観が何となく脳味噌を連想させるからです。そこから、知性をシンボライズする食べ物に見えるのですね。

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表紙に埋め込むと、こんなにちっちゃくなります。

タイトルなどに使用させていただいたのは、商用利用も可能のフリーフォント「ほのか丸ゴシック」です。


「マダムNの覚書」を始めたのは、2006年4月です。記事数は19日の記事で4,970本になりました。

ブログに記事を公開することで、書く技術を磨き、自身の体験を客観視する姿勢が保たれていると思います。

当ブログは「マダムNの覚書」から主に文学関係の記事をセレクトしたまとめブログですが、ご訪問くださるあなた様には感謝の気持ちでいっぱいです。

今後共、マダムNのサイト、直塚万季の電子書籍をどうかお見守りくださいますよう、お願い申し上げます。
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「善五郎に捧げるレクイエム」は単なるオカルト小説になるはずでしたが、書き始めると、善五郎の半生を時代と共に浮かびあがらせたいという欲望が芽生えてきました。

善五郎は、連載第1回に書いたような以下のようなことに関わった人物です。

善五郎は、村の青年団で作った芝居一座の中心人物であったが、それにすっかりはまり、旅芸人となってしまったのである。伊万里川の川縁にある旅館を譲り受けたのは、後年の話であった。 

芝居小屋があちこちにあり、旅芝居一座が沢山あって、村の青年団による芝居なども盛んだった古い時代。

本格的に取り組むとなると、資料漁りが必要になり、他に書かなくてはならない小説との間で時間の奪い合いが始まります。

執筆計画を練り直した上で、あくまでこの小説は書きたい――気分の――ときに少しずつ書き進めるというスタイルでいくしかありません。

何といっても、この小説の本質はオカルト小説です。純文学的書き方なので、エンター系的面白さは求められてもありませんが、より深く生と死の謎に迫ることは可能かと。自分に可能な限り迫りたい思いです。

尤も、初の歴史小説もオカルト小説ともいえ、キンドルストアに並べている本を眺めても、オカルト的でないのは評論2冊と純文学小説『台風』くらいです。

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 港がすたれ、旅館街に客が来なくなった。客が来なくなっても、善五郎[ぜんごろう]は毎日、帳場に座っていた。旅館街には、みうらや、いろは、水月[すいげつ]、七福、みゆき――といった旅館があった。

 善五郎が座っていた帳場は、水月の帳場だった。旅館は細々と続いていた。善五郎が亡くなると、旅館はその歴史を閉じた。

 善五郎はなにがしかの想いを残して亡くなったのだろう。亡くなったあと、お迎えを拒んだようだから。

 善五郎は律儀に仏壇を住居としていた。といっても、そこは現住所であって、よほど帰りたいときに帰るだけで、彼はお客になるほうが好きだった。

 見えない体となってからも、善五郎は一番仲良しだった孫と多くの間を過ごしていた。幽霊になってからも、孫は彼にとって可愛い男の子であった。男の子が青年となり、中年となっても、依然として彼には可愛い男の子であったのだ。

 人として生きていた頃は、孫が小学三年生になったとき、離ればなれになった。息子一家は孫と一緒に、老夫婦を伊万里に残して引っ越してしまった。旅館を継がなかった息子の仕事の都合によるものだった。

 旅館の帳場に座り続ける善五郎の姿が、パソコンの前に座り続ける今のわたしの姿に重なる。自己出版した電子書籍が売れるのを待つわたしは、泊まり客を待つ善五郎にそっくりではないか。

 わたしは夫に、自分が如何に彼の祖父の善五郎に似てきたかを話した……

  第一章

 結婚後、初めて北九州の婚家に泊まった晩、わたしは善五郎と心霊的な対面をした。

 霊的という高級な霊的現象を指す言葉をわたしは使い慣れているが、その言葉では表現できない不純物を含む現象に想われたので、心霊的と表現したい。

 里帰り出産をするために帰省していた義妹りか子とその夫匠平[しょうへい]、義父母が、居間でくつろいでいた。その空気に馴染めないものを感じていたわたしは、義母に二階に上がって布団を敷いてくるようにいわれたとき、ホッとした。

 そこで寝るようにいわれた二階の部屋に、仏壇があった。驚いた。

 仏壇のある家として連想されるのは父の実家で、仏間は、家中で一番明るく、綺麗な客間でもあった。壁の高いところにはご先祖様の写真がずらりと並び、大きな仏壇は季節の花々で彩られ、お盆には分家の者たちが勢揃いするという、農村ではありふれた光景が見られた。

 仏壇の前で親戚一同、食べたり飲んだりしながら談笑し、歌った。

 父が帰宅していれば、こうした集まりではエンターテイナーとなるのが常なので、喉を震わせて歌声を披露したことだろう。耳につく、その黄色い歌声がわたしは恥ずかしかったが、皆を存分に楽しませ、座を盛り上げている姿は芸能人のようで、自分の父親ながら、ちょっと魅力的だと感じたりもした。

 が、船員の父は不在であることが多かったから、わたしと妹は母に連れられてお盆に父の実家を訪れ、まず仏壇の前で手を合わせた。そのように躾けられた。

 いつからか、手を合わせていると、仏壇が輝いてくる錯覚を覚えていた。それがわたしにとっての仏壇のイメージだった。

 婚家にある仏壇は簡素だった。たまたまだろうか、花はなく、御飯が添えられていた。

 仏壇にはどなたが祀られているのだろうと思いながら、線香を点じ、手を合わせた。
「お初にお目にかかります。彰[あきら]さんの嫁となった絢子[あやこ]です。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした……」

 そのとき、仏壇の奥の暗がり――暗がりと感じられた――から、卑しい、好奇心に満ちた目の光を感じたような錯覚を覚え、「えっ?」と思った。戦慄を覚えた。

 わたしには自身を神秘主義者と分類できるだけの内的な体験があったが、それは美しいと感じられる性質を帯びたものだったから、そのような心霊的な初体験に戸惑い、どうしたらよいのかわからなかった。

 気のせいだろうか?

 幽霊を見たわけではなかったので、気のせいだと思い込むことはそう難しいことではなかった。

 わたしは一旦階下へ行き、団欒に加わった。

 時折、義妹りか子の賑やかな声が響くが、団欒はなぜか陰気だった。わたしは頃合いを見計らって話題づくりに挑戦してみるが、そのたびに浮いてしまう。わたしの話題には、誰も積極的に加わらなかった。

 義父は寡黙な人であった。義母は性格の強[こわ]いタイプで、わたしが話し出すと、あからさまに顰めっ面をするような人。その反面、世話好きで、何をさせてもできるタイプといえた。

 元来おしゃべりで、笑いをとるのが好きなわたしは、途方に暮れた。何か気に障ることをいったかしら、と当たり障りのない話題のつもりだった話の中身を総点検してみたが、わからなかった。

 夫の彰は、匠平と並んでテレビの前にいた。それぞれが一人用ソファに身を預けている。彰は酔っ払ったとろんとした顔で、満足げな表情にも見える。

 りか子も匠平も彰より二歳下、わたしより五歳上で、共に九大卒だった。匠平は商社マンだった。

 彰から、彼の妹のりか子が大学で考古学を専攻したことや音大を目指した時期があったことなど前もって聞いたとき、嬉しかった。早く話してみたかった、

 しかし、実際に話してみると、福大卒の彰とわたしはりか子と匠平から、完全に下の階級の人間と見られていることを感じないわけにはいかなかった。

 わたしには、真理子[まりこ]ちゃんという幼馴染みがいた。そばかすのある可愛い顔をしていて、強[こわ]い髪の毛を三つ編みしていた。講談社の「世界の名作図書館」で、『長くつ下のピッピ』を読んだとき、挿絵を見て「真理子ちゃんだ!」と思った。

 賢くて、三つ年下のわたしに優しかった真理子ちゃんは九大の文学部に進み、高校の先生になった。小学校で盛んに相合い傘を書かれた相手の男子は母親が友達同士で、彼とも幼馴染みといってよかったが、彼も九大に行った。

「九大に行った人」のイメージが彼ら子供のころの幼馴染みで出来上がっていたわたしには、そのイメージが壊れてしまった。 

 自分が誰からか下の階級の人間と見られていると感じたことなど、初めてだったが、彰が同じことを感じているのかどうかは、わからなかった。

 仮に感じていたとしても、意に介していなかったのかもしれない。この家で最高に優遇されていた匠平は、義理の兄に対するそれなりの敬意は払っていたし、義母は「彰ちゃん」をちやほやしたから、それで満足なのだろうとわたしは解釈していた。

 義母に先に寝るように促され、わたしは仏壇のある部屋に戻った。もう仏壇のことなんか、気にせず、布団にもぐった。下から爆笑が起きた。

 何だろう?

 わたしがいたから、あんな陰気なムードになっていたということなのだろうか。腹立たしいというより、哀しいというより、訳がわからなかった。こんな扱いを受けることは初体験だったので、どう解釈してよいのかわからなかったのだ。

 わたしはしくしく泣き出し、泣き疲れて寝てしまった。眠りが浅かったのか、彰が階段を上がってきた足音で目が覚めた。

「今、何時?」
「三時すぎ」
「楽しそうだったわね。わたしがいないほうが、皆、楽しめるみたい。なぜ?」
「そんなことない、気のせいだよ」

 布団に滑り込んできた彰の手を払いのけて、訊いてみた。

「あそこにある仏壇には、どなたがいらっしゃるの?」
「先祖の誰や彼やだと思うよ。戦死した伯父さんとかさ」

 誰や彼やって……と、わたしは彰の言葉を心の中で繰り返し、再び驚いていた。

「あの淋しそうな仏壇に、そんなに沢山いらっしゃるというの? あなた、昨夜ここに着いてから、お参りした?」
「ああ……いや」
「仏壇があるのに、お参りしないの?」

 わたしには驚くことばかりだった。

 のちに聞いたところによると、仏壇の位牌は彰の父方の祖父母のものだそうだ。唐津にある本家で本格的に祀られているが、祖母の最期を看取った縁で、祖父母の位牌があるのだという。

 こちらでも、お坊さんを呼んで、供養はなされているのだそうだ。

 婚約中に彰のほうの親戚回りをしたときに行った唐津のことは覚えていた。唐津では二箇所行ったが、本家がどちらだったかはわかった。

 父方の祖父――すなわち善五郎は、彰が中学一年のときに伊万里で亡くなった。

 善五郎には五人の息子があったが、末の男子は後妻の子であった。その末の男子が彰の父であり、善五郎に死なれて未亡人となった母親を引き取ったのだった。

 いずれにしても、先妻の四人の息子は自分たちを捨てて唐津の家を出て行った善五郎を許さず、善五郎が生きているうちから、面倒を見る気はないと明言していた。

 善五郎は、村の青年団で作った芝居一座の中心人物であったが、それにすっかりはまり、旅芸人となってしまったのである。伊万里川の川縁にある旅館を譲り受けたのは、後年の話であった。 

 仏壇が二階にあるのは、仏様の上に寝ないためだという話だった。

 あの仏壇に彰の祖父母の位牌しか存在しないのならば、男性的な卑しい目の光と感じられたものの正体は、彰の亡くなった祖父であるはずだ。そんなことがあっていいのだろうか?

「お祖父さんの名前を教えてちょうだい」
「善五郎」

 やがて、わたしたちの新居には彰の祖父の善五郎が同居しているらしいことが、わたしには嫌でも感じられた。

 姿は見えず、時々その存在が「心霊的に」感じられ、彰を観察してそれと感じられるだけだったから、これを空想譚に分類することはそう難しいことではない。

 空想譚にするほうが気が楽である。

 善五郎、この小説をわたしは書きたくて書くわけではない。一日も早く成仏して貰いたいがために、情けを込めて書くのだ。

 この小説は、善五郎に捧げるレクイエムである。(連載第2回に続く)

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商用・非商用を問わず完全フリーで使える画像検索サイト「Pixabay」から画像をお借りしました。

クリスマスイブをどうお過ごしですか?

書店勤めの娘は、クリスマスイブにも残業(サービス残業が通常化)です。

クリスマスイブを楽しく過ごせるくらいの生活のゆとりがほしいと思います。

せめて美味しい夕食を用意して、帰宅を待ちましょう。

クリスマスといえば、どうしてもマグダラのマリアを連想してしまうわたしですが、過去記事でも紹介した以下の本は面白いですよ。『マグダラのマリアと聖杯』。

マグダラのマリアと聖杯


リンドグレーンの本もクリスマスに読みたくなります。せつない本と底抜けに愉快な本の2冊。『ミオよ わたしのミオ』、『エーミールとクリスマスのごちそう』。

ミオよわたしのミオ (岩波少年文庫)

エーミルとクリスマスのごちそう (岩波少年文庫)


わたしの電子本も宣伝させてください。どれも児童小説で、クリスマスが出てきます。『田中さんちにやってきたペガサス』、『すみれ色の帽子』、『卵の正体』。

田中さんちにやってきたペガサス

すみれ色の帽子

卵の正体

わたしはクリスチャンにはなりませんでしたが、昔から新約聖書を愛読しています。

ヨハネの中の受難後のイエスがマグダラのマリアに現れる場面、ルカの中のやはり受難後のイエスがエマオへと向かう2人の弟子に現れる場面が好きです。

何回読んでも、みずみずしい美しさで魂を打たれる気がします。

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わたしの夢では、創作意欲、作品傾向をシンボライズしていると思われるプードルが時々出てきます。

昨夜の夢では、登山家か冒険家のような重装備で現れました。あのアトムのような足に、紐のついた靴も履いていました。

前回プードルの夢を見たときから服を着ていて(それまでは裸でした)、何を意味しているのだろうと考えたくなります。前回はバーバリ風の茶色い立派な服と洒落た帽子を被っていました。

今回重装備で現れたのは、初の歴史小説を構成する第一作目の短編を書こうとしている自身の意気込みを表現しているのではないかと。

わたしの夢ではしばしば、作品は赤ん坊、電子書籍は馬、賞は公衆便所(家のトイレの場合は家計)をシンボライズしています。

夢占いの本では、大便はお金をシンボライズしていると書かれています。夢では、トイレが経済活動と関係しがちであることは間違いありません。尤も、トイレへ行きたい場合、それがそのまま出てくることがあります。

公衆便所の様子、そこにズラッと並んで順番を待っている人々は、賞の性質、応募者を表現していて、これがなかなか絶妙な表現をしてくれます。

手洗い場もないような田舎の農家風なひどく臭う、汚いトイレ(個室は3つ)。民宿風の廊下から庭に出たところにある、小鳥の声なども聴こえて、長閑だけれど、子供の嘔吐痕がこびりついているトイレ(個室は1つしかない)。比較的小綺麗で、長い手洗い場が印象的なトイレ(個室は4つ)。

あまり賞に応募しなくなったので、それを意味していると思われる夢を見る回数は減りましたが、以前見た夢では、凍てつくような広場一面に、沢山の犬が横たわっていました

ゴールデン・レトリーバー、シベリアン・ハスキー、ドーベルマン、ダルメシアンのような大型犬。秋田犬、紀州犬、柴犬のような日本犬。それに、いろいろな室内犬がいました……

そこへ、飼い主が自分の犬を探しにやってくると、犬はむっくり起き上がり、飼い主と一緒に帰宅していきました。犬たちは落選の通知でトーンダウンした応募者たちの創作意欲をシンボライズしていたのでしょうね

夢を見た当時、応募仲間(?)のうちの1人の女性の犬は、ちょっぴりお尻が垂れたパンダ風の犬でした。体力のありそうな大型犬。実際にその人は多作する人で、そのあと某賞で佳作をゲット。

当時は張り合ったために互いに神経過敏で、よくくっついたり絶交したりしました。その人とは今はおつきあいがありません。それがたまたま、その人のブログを発見してしまいました。

感じのいい、面白いブログで、ああ賞狙いさえしていなかったら、互いにあんなにぴりぴりすることもなく、よいおつき合いができていたかもしれないのにな、と思ったりします。

賞がヨットレースになって、夢に出てきたこともありましたっけ。海の色合いは日本の海というより、エーゲ海。様々なヨットがありました。晴天なのに、風が強く、次々に難破していくのですが、その難破する様子もいろいろで、興奮しました。

賞では数人の受賞者を残して(「該当作なし」だけのこともありますね)、あとは全部落選するわけですが、創作という行為自体がミューズに愛でられているんだろうな、とすばらしいヨットの夢を見たあとで思いました。

1度落選した作品を他へ応募してはいけないという文学界のムラ的習わし、わたしには世俗的な理由としか思えません。

作品は、落選したからといって紙屑と同じではないのです。その賞の観点からは如何に不出来に見えようと、作者にとっては生命の宿った、かけがえのないものです。丹精こめたものです。

印象派のアンデパンダン展を想えば、わかるでしょう?

賞の評価は、いうまでもなく絶対ではありません。落選したあとで別の選者を求めて、別の賞に応募するのがむしろ自然ではないでしょうか。

そんな賞ごとの使い捨て作品というのが、わたしには理解できません

複数の賞の下読みが同じ人達で構成されていることがしばしばあると、見聞きします。怖ろしい話です。あっちに行っても、こっちに行っても、同じ首斬り役人に出くわすのですね。

左派にのっとられているという日本の文学界らしい現象ですわ。

電子書籍の世界には落選者の作品も多いと思いますが、印象派のアンデパンダン展的世界を形成できたらいいですね。でも、電子書籍の世界は一頃に比べると、活気がなくなった気がします。

そういえば、過去にいろいろと教わった女性編集者から会おうとお誘いがありましたが、絶交の原因となった文学観の違いを、わたしはどうしても乗り越えることができそうになく、ありがたいと思いながらも断ってしまいました

なつかしかったし、お目にかかれば、またよい刺激を受けられるだろうと思うと残念ですが……

わたしの犬(創作意欲、作品傾向をシンボライズ)は、過去記事で書いたように、なぜかいつもプードルです。

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不思議な接着剤1: 冒険前夜

  直塚万季 (著), yomi (表紙絵)
  出版社: ノワ出版; 1版 (2014/9/15)
  ASIN: B00NLXAD5U

内容紹介

本文より次巻で、中世ヨーロッパへ、時間旅行をすることになる3人の子どもたち。
本巻では、それを可能にしてくれる不思議な接着剤と子どもたちとの出あいをえがきます。
不思議な接着剤「クッツケール」は賢者の石100パーセントの超化学反応系接着剤、発売元はアルケミー化学工業株式会社。
「クッツケール」の背後には時空をこえて商売の手をひろげる企業連合の存在がありますが、この作品ではまだほんのり、すがたを感じさせるていどです。

不思議な接着剤に出あった子どもたちの心の動きを鮮やかにえがき出し、生きることの美しさ、せつなさを訴えかけます。


本文より

{ 瞳は、竹ぐしとパレットナイフを用いて、ケーキを型から取り出す作業を進めながら、しずかに話を聞いていました。

 ですが、翔太に起こったこと――いえ、弟に自分がしでかしたあやまちを紘平が話したとき、瞳は身をふるわせて作業をやめました。

「ねえ、紘平くん。それって、夢とか、ゲンカクとかじゃないの? わたし、しんじられない」

 瞳は、かしこそうな目をすずしげに見開いて、それ以上、紘平が話しつづけることを拒否するかのようでした。}
 

もくじ

1 おとうさんの部屋で
2 くっついたピアノ協奏曲
3 どうすればいいのか、わからない
4 青い目のネコ
5 明日は、しあさって
6 冒険へのいざない
あとがき
 

本書は縦書き、小学4年以上で習う漢字にルビをふっています。

サンプルをダウンロードできます。
     ↓

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 姪の結婚式・披露宴も終わり、その雑感をエッセー風の記事にし、基幹ブログ「マダムNの覚書」にて公開していました。閲覧してくださったかたもあるでしょうね。

 その記事を夫に朗読してあげたら、彼がとてもよく書けていると褒めてくれたので(記事には夫も登場しましたからね、その部分が気に入ったのでしょう)、何かに使えそうな気がし、とりあえず非公開設定に切り換えました。

 創作に重きを置けば、どうしてもブログが痩せてしまう結果となります。記事を何かに使おうと思えば、用心のために公開を控えざるをえないからです。

 わたしが自分の記事を公開しようが、しまいが、ほとんどの閲覧者にはどうでもよいことだと思われますが、非公開にしてしまった場合、わたしという人間の書くものに一貫して興味を持ち続けてくださっている方々には読んでいただきたい記事を自ら封印してしまった――というジレンマに陥ります。

 それほど重大なことを書いているわけではなくとも、記事を書くことによってわたしは物書きとして日々成長しているわけで、非公開にしてしまった記事がある節目を物語っていることがあるのです。

 またわたしの記事から世相の断面が鮮やかに見えてくることはよくあることだと思います。プロが書いていない貴重なことを書いていることがしばしばあると感じています。

 いやー、素人にしておくのは実に惜しい……自分でいうのもナンですが プロが書いていない貴重なことを書いているからこそ、プロになれないのかもしれませんがね。ええ、世の中って、そんなものなんです。

 非公開設定にした記事が増えれば増えるほど、ブログはどんどん痩せていって、物書きとしてのわたしの魅力をアピールする場としての役目を果たすことができなくなります。

 そのうちエッセー集なり、小説の一部としてなり、電子書籍化してお目にかけることになるだろうとは思いますが、非公開のままになってしまうこともあるでしょう。現状としては、こんな風に記事の公開、非公開を切り換えながらやっていくしかありません。これってやはり、何といいますか、素人の物書きならではの不自由さ、情けなさですね。

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『不思議な接着剤 (1) 冒険への道』の表紙です。

絵を担当してくださったのはyomiさんです。
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サイト「足成」から写真素材をお借りして作成した最初の表紙は内容との食い違いが気になっていました。(2)の表紙だといいかもしれませんが。

yomiさんの絵は、時間旅行に入っていく前の変わった出来事を描いた(1)には合っていると思います。

yomiさん、貴重な絵をありがとうございます。

まだ目次やまえがきが残っていますが、公開までにそれほど時間はかからないと思います。

小学4年以上の読者を想定していますが、現実的に考えると、読んでくださるのは大人でしょう。

(2)では冒険活劇といってよいような場面も出てきますが、この(1)ではむしろ、学習教室を経営している母親をそれとなく助けて暮らしている兄弟と、彼らと幼いころから仲よくしている少女――といった子供たちの微妙な心理の動きに焦点を当てた児童小説になっていると思います。

過去記事で書いたかもしれませんが、わたしの両親も隣の家の子のご両親も共稼ぎだったので、わたしと妹、お隣の家の姉弟の4人で、それは楽しく、時には心細いことになったりしながら、助け合って暮らしていた日々がありました。

母親はどちらも電話局に勤めていて、夜勤、宿直がありました(母親たちはよく一緒に出勤していました)。わたしの父は外国航路の船員で、留守が普通のこと。家政婦さんが来てくれていたとはいえ、いつも彼女がいてくれるわけではなく、何でも相談できるというわけでもなく、両親が家にいなくて困ったことがよくありました。

隣の家の子のお父さんも仕事やおつき合いで遅いことがあったりと、子供たちで助け合う場面は結構あったのです。

例えば、大人たちが不在のときにひどい雷が鳴ると、どちらかの家に駆け込んで、薄暗い中、4人で布団に潜り込んだりね。妹と2人だと本気で怯えるだけでしたが、4人揃うとキャーキャーいって、怖いのも楽しくてたまらないようなところがありました。

おなかが空くと、皆でラーメンを作ったり、フライパンでソーセージを焼いたりして、腹ごしらえ。

作品に登場する3人の子供たちを描くに当たっては、自身の子供のころの思い出や、子育てしていたころの記憶、公文教室で働いていたころのことなどが参考になっています。

この(1)があってこそ、(2)での時間旅行が生きてくると考えています。 

『不思議な接着剤』の陰の主役、時空を超えて商売の手を拡げるアルケミーグループが関係する物語は、シリーズにしたいと考えている児童小説です。

『不思議な接着剤』(1)(2)は三人の子供たちが主人公。主人公の一人、瞳という少女の視点で描いた日記体児童小説を既に電子出版しています。『不思議な接着剤』とリンクする部分はあるのですが、カラーが異なります。

サンプルをダウンロードできます。
    ↓

(2)からは舞台がヨーロッパ中世に飛びます。創作ノートを公開していますので、異端カタリ派やマグダラのマリア伝説などに興味がおありのかたはどうぞ。

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『直塚万季 幻想短篇集(1)』、『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays 2)』も出たばかり。絶賛発売中(?)です。

直塚万季 幻想短篇集(1) 』(ASIN:B00JBORIOM)に収録した作品は4編。

  • 杜若幻想
    ちょっとコミカルで耽美チックな幽霊譚。ショートストーリーです。
  • 茜の帳
    幼児の頃に母親が自殺したことからくる少女の葛藤を描いています。
    佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社がクライマックスの舞台で、著者はこれから創建者である萬子媛――江戸初期生まれの筋金入りの女僧で、現在もこの世界を見守っていらっしゃる御方なので、祐徳院様とお呼びするべきでしょうが――の人生を執筆します。
  • フーガ
    亡くなったばかりのピアノ教師の視点から描く師弟愛の物語。リリカルなショートストーリーです。
  • 牡丹
    ちゃらんぽらんな生き方をしてきた男の妻が末期癌になります。男の行動はますますタガが外れたものとなり……「杜若幻想」もそうですが、能楽に刺激されて執筆した作品です。神秘主義的美の世界をお楽しみください。

サンプルをダウンロードできます。
     ↓


気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays 2)』(ASIN:B00J7XY8R2)はレビュー&文学論です。

 日本の文学界の現状と問題点を鮮明にお伝えします。『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays 1 』(ASIN:B00BV46D64)と抱き合わせで、どうぞ。
 サンプルをダウンロードできます。
           ↓

 できれば、明日の深夜までに歴史エッセー『卑弥呼をめぐる私的考察(Collected Essays 3)』も出していまいたいところです。来月から初の歴史小説に入ると、それにかかりきりになると思うので、今のうちになるべく……。

 表紙は以下。本の登録時には削除します。今回、シンプルですが。追記:別の表紙になりました。
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 本格的に初の歴史小説に入る前に、「Notes:不思議な接着剤」をパソコンに保存しておこうと思いました。一太郎・PDF・ワード・テキスト形式で保存したあと、400字換算してみると、508枚にもなりました。

 このノートは、当分は続くはずですが、この先のいつの時点かで非公開とさせていただくことになると思います。ご了承ください。

 児童小説「不思議な接着剤」で仕上がっているのは冒険に入る前までですが、構成、ストーリーはできているので、ある場面が浮かぶとメモしておきます。以下は、登場人物の一人、紘平が異端審問官と対峙する場面です。

 紘平は、異端審問官に答えて、いいました。
「ぼくたちは、異教の地から来ました」
――少なくとも、キリスト教が国教というわけではないからね。

 異端審問官は眉根をぐっと寄せて、うっすらと微笑をうかべました。「異教の地だと? マニ教の地から来たというのだな?」

 紘平はマニ教ときいて、とまどいました。マ二の秘法は、紘平が熱中したことのあるゲームの必須アイテムだったからでした。

「えっと、そうですね。ぼくたちの国にはいろいろな宗教が存在しているんです。もちろん、あなたがたのキリスト教だってありますよ。キリスト教を国教と定めるまえのローマ帝国を想像していただくと、よいかもしれません。一つの宗教を信じている人もいますが、正月に神社へ行って願いごとをし、盆に寺の坊さんをよび、クリスマスにサンタクロースのプレゼントを待つ人がたくさんいるんです。信じられるのは、飼っている動物だけとか、お金だけとかって人もいます」

 もっとも、ザビエルによって日本にキリスト教が伝わったのは1549年、室町時代のことでした。13世紀のこの頃は、日本では鎌倉時代にあたります。仏教の革新運動が進んだ時代でした。元寇の勝利によって、日本は神の国であるという『神国思想』が生まれた時代でもありました。

 異端審問官の頭は、紘平のわけのわからない回答に、混乱していました。
「おまえは、何者なのだ? そして、どこから、何の目的で来たのか? わかりやすくのべよ」

 アジア、といえば、それだけでも、いくらかは通じたでしょうが、紘平は自分の国と身分を表現する、古風でわかりやすい言葉を記憶にもとめて、聖徳太子の飛鳥時代にまで、さかのぼってしまいました。

 ――そうだ、小野妹子だ。
「ぼくたちは、アジアの日出づる処から来た、親善使節の一行です。よきにおはからいのほどを。異端審問官さま」

 紘平はうまく答えたつもりでしたが、平静をとりもどしていた異端審問官は、眉根を寄せただけでした。

 異端審問官の頭のなかは、聖徳太子とも、また紘平とも、ちがっていたので、アジアの日の出るところから来た、という紘平の言葉は、異端審問官には特殊な印象をあたえました。

 中世ヨーロッパでえがかれた『TO図』とよばれる世界地図では、大陸は3つにわけられていました。上半分がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカでした。世界の中心はエルサレムで、上のはしっこにはエデンの園があるとされていたのです。

 異端審問官は、きびしい口調でいいました。
「その親善使節の一行が、ローマ教皇のもとへはおもむかず、魔物がすみ、魔女のうたがいのかかる人物がとらわれている洞窟に、何の用があったというのか? その目的をのべよ」 

 2010年2月23日

 異端審問官の姿形、声、表情ははっきりとしたものがあるのですが、ここではまだ粗書きしているだけです。


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 電子書籍『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012(Collected Essays 2)』の巻末につける広告を作成したついでに(?)、基幹ブログ「マダムNの覚書」の電子書籍一覧を更新した。

 あとは目次をつけて、校正に念を入れればKDPに提出できるが、この本の作成はまるで鬼門に当たるみたいに気が重く、この本の作業に入ってから、電子書籍の出版が滞った。

 初の歴史小説に取り組んでいることも一因ではあるだろうが、わたしはこの本を作成するために改めて当ブログに書いた芥川賞受賞作品のレビューや文学界に関するエッセーを読み直した。

 その過程で、日本の文学界の未来像を想い描くことが全くできなくなった。

 そして、三島由紀夫や江藤淳の自殺の意味が生々しく迫ってくるようにすらなった。彼らは国家に殉じたのだ。それは確かだ。彼らの死は風化していってしまうのだろうか。

 また、最近、以下の記事を書くために、レビューや知恵袋などを閲覧した。

 サリンジャーの作品が難しいと訴える、若いと想像される人々の文章を読み、これも結構衝撃だった。

 サリンジャーの作品には求道的な深刻さがあるが、大学(福岡大学文芸部)時代、わたしも仲間も半分は娯楽気分で読んだように思う。

 しかし、改めて考えると、サリンジャーの本を読むには西洋思想、東洋思想(ヨガなど)の知識がある程度は必要で、そのあたりが欠落していると、読んでいてもぴんと来ないだろうし、読み終わっても、まるで読まなかったようなおかしな気分に襲われてしまうこともありえると思う。

 日本人の読解力が低下し、歴史、思想、文学などの教養に乏しくなったことは芥川賞受賞作品を読んでもわかるのだが、その自覚が彼らにあるのか、どうか。

 インターネットの普及で断片的な知識をあれこれ持っている人は多いのだろうが、重厚な思想書や文学書をまるごと読む人はわずかになったのではないだろうか。

 江藤淳についてはいつか評論を書いて、『三田文学新人賞』に出したいと考えているが、編集長の交替でカラーも変わるだろう。その変わり方によっては、その気がなくなるかもしれない。そういえば、まだ会費を送っていなかった!

 神智学協会ニッポン・ロッジからも会長選挙の選挙用紙が送られてきているのだが(ありがたいことに、ニッポン・ロッジで翻訳がつけられていた)、まだ送っていない。うーん、どちらの候補者がいいのだろう?

 お一人はフリーメーソンの会員でもあるそうな。フリーメイソンについて、日本ではまことしやかに色々なことがいわれているけれど、バッカみたい。

 キリスト教の教義には古色蒼然、荒唐無稽なところがあり、科学精神やキリスト教以前の文明を否定するので、いくら西洋人といっても、まともな知性の持ち主にはとてもやっていられないに違いない。

 一方、神秘主義には伝統が息づいており、神秘主義の辞書に「神秘」という言葉はなく、科学的であることが基本姿勢なので、神秘主義に逃げ出す人が多くても、何の不思議もない

 わたしは若い頃、キリスト教に接近して逃げ出した。イエスの言葉がどう読んでもすばらしいだけでなく、イエスには伝統の薫りがあるとわたしは感じたので、別の経路でイエスに、というよりイエスから薫る伝統的な思想に接近することも可能だと当時のわたしは考えたのだった。

 わたしも昔の西洋に生まれていたとしたら、迫害や誹謗中傷される危険があったとしても、地下に潜ってでも神秘主義の本を読んだり、研究をしたりしたに違いない。

 今の西洋で神秘主義御三家は、薔薇十字、フリーメイソン、神智学で、これらは姉妹関係にあるといってもよい。同じ原理原則、知識を共有しているから。そして西洋の神秘主義は東洋思想に似ている。

 これら西洋の神秘主義はピュタゴラス抜きでは語れない。

 サモス島(ギリシアの島)で生まれ、イタリアのクロトンで学派(教団)を形成したピュタゴラス(古代ギリシアの数学者、哲学者として有名)は、輪廻転生を説いた。

 ピュタゴラス学派に影響を与えたといわれるオルペウス教だが、オルペウスは北方シャーマニズムの文化からギリシア世界に入ったものと考えられている(参照:イアンブリコス『ピュタゴラス伝』、ポルピュリオス『ピュタゴラス伝』)。

 あれこれ検索していたら、神智学関係の動画が海外から結構アップされていた。

 何にしても早く電子書籍を出して、次へ進まなくては。この本は、とにかくわたしには鬼門だ。

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同じ主題を繰り返すアンデルセンの童話 2014 03 02

説明:
聴く、文学エッセイシリーズ№2。
自分が現在意識している場があり、そこからある範囲内に濃密に広がる世界(おらが村)があって、わたしたちは普段そこで喜怒哀楽を覚えながら暮らしているわけだが、アンデルセンは、このおらが村とは異なる世界があるということを、繰り返し語っている気がする。

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 56歳のわたしの進行の太陽のサビアンシンボル(西洋占星術)は、松村潔『決定版!! サビアン占星術』(学習研究社、2004年)を参考にすると、「天球の合唱隊が歌っている」。

 進行天体がこの位置にあるとき、精神的には非常に充実した時期とあるので、初の歴史小説に取り組むにはよい時期ではないかと思います。

 ちなみに55歳の進行の太陽のサビアンシンボルは「落胆させられた大聴衆」。本の解説には、「この牡羊座のシンボルは一見否定的ですが、『聴衆の期待には乗らない演奏者は、自分の音楽を力強く演奏する』とも読めます。著者はこのシンボルを読む時、ストラヴィンスキーがしばしば聴衆のブーイングを浴びていたことを思い出します」とあります。

 大衆受けしない内容のキンドル本をせっせと出した55歳のわたしを表現するには、的を射たシンボルです。

 Amazonでどんな本がよく売れているかを1年間見てきて、わが国の大衆は読解力、情操共にひどく劣化しているとわたしは感じました。
 それを裏付けるような日刊SPA!の記事に「図書館司書がこっそり教える 女性が借りる人気本BEST10」というのがあって、それによると、「図書館によく来る30代、40代の女性が最近よく借りていくのはボーイズラブ系のライトノベル。たとえば、漫画化もされている『茅島氏の優雅な生活』シリーズは、返却されてもすぐ貸し出されていきますね。好きな人はBL系だけを10冊、20冊とまとめて借りますよ。常連さんは堂々と借りて行きますが、たまに、子供に借りさせてるお母さんも。子供がBL読むわけないのに(笑)。あと、子育てに関する本もよく借りていかれますね。頭のいい子の育て方とか、稼げる男に育てるにはとか、そっち方面の“育てる本”は大人気」だとか。

 日本はどうなってしまうのだろうと背筋が寒くなります

 自分も大衆の一人だと思ってきましたが、わたしは大衆の一人ではなくなってきたのかもしれません。mamamaさんとの一件からも、大衆に自分を合わせようとすることは身を滅ぼすことだとつくづく悟りました。

 作品をキンドル本にしようと思ったのは、第一に作品の保管のためでした。初心にかえり、売れようと売れまいと、今後は本を出すことだけ考えます。従って、無料キャンペーンを行うこともないでしょう


 サビアンシンボルって、本当によく当たりますよ。

 そういえば、ストラヴィンスキーも、舞台デザインを手がけたニコラス・レーリヒ(ニコライ・リョーリフ)も神智学とは縁の深い人々です。

 ニコライ・リョーリフ:Wikipedia

 ちなみに、以下は神智学協会の創設者ブラヴァツキー。
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 如何にもロシアの貴族出身という感じの写真ですね。キリッとした表情。寄らば斬るぞ。ブラヴァツキーはキリスト教や心霊主義を批判したために、ひどい目に遭いましたからね。

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 わたしはこの写真が好きです。

 以下ははてなキイワードの「神智学」より。



神智学(Theosophy)とは、神々が持っているような神聖な智慧を意味している。その名称はアレクサンドリア哲学者中、真理愛好家といわれているフィラレーテイアン派(Philaletheian)から来ており、フィル(phil)は愛すること、アレーテイア(aletheia)は真理。

3世紀にアンモニオス・サッカス学派から始まった思想的潮流で、新プラトン派のプロティノスからヤコブ・ベーメに至るまで、多くの優れた哲学者、神秘家を輩出した。

神智学は、汎神論、アレゴリー的解釈法、折衷主義、直接の体験によって真理を知ろうとする神秘主義といった特徴を持つ。

 ――以上、H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、竜王文庫、平成7年)を参照。

1831年、帝政ロシア時代のウクライナ、エカテリノスラーフ(現ドニプロペトローウシク)に生まれたH・P・ブラヴァツキーは、若い頃からインドの大師との深い結びつきがあり、西洋における「神聖な智慧」の伝統と東洋の秘教思想から、すべての宗教のエッセンスを抽出しようと試みた。様々な宗教体系はもともとそこから湧き出て、あらゆる秘儀、教義が成長し、具体化したのだという。1875年、神智学協会を創立して、近代における神秘主義復活運動を興す。1891年、ロンドンに没するまで、多くの著作を世に送り出した。代表作は『シークレット・ドクトリン』。

 プラトンとプロティノスには大学時代に夢中になりました。流れを辿って行くと、キリスト教に迫害されたために、神秘主義は地下に潜らざるをえなかったとわかりました(尤も、キリスト教は神秘主義の影響を受けているのですが)。そして、何とかブラヴァツキーの神智学に辿り着きました。

20140221212336
 ヤコブ・ペーメも持っていますが、これはわたしにはわかりづらいものでした。今読んだら違うかもしれませんが。

 ところで、Amazon著者ページのプロフィールを、誕生日の記念に(?)更新しました。以下。

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キンドル本の出版、ブログの管理(http://elder.tea-nifty.com/blog/)、動画作成(MAKI NAOTSUKA - YouTube)を通して文学活動を行っています。

神秘主義者でもあるので、作品に神秘主義的インスピレーション、イマジネーションの反映するのがわたしの作品の特徴といえるでしょう。
神智学(Theosophy)協会の会員で、ブラヴァツキー派。

プラトン、紫式部、世阿弥、バルザック、リルケ、ジョージ・マクドナルド、リンドグレーンのファンです。
著作に神智学の影響が認められるアントニオ・タブッキ、カロッサ、ガブリエラ・ミストラル、オルダス・ハクスリーに関する研究を行っています。

佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社を創建した女性をモデルとした歴史小説にチャレンジしているところです。優秀な郷土史家から貴重な資料を沢山提供していただいたので、それを生かせなければ物書きとして情けないことと思い、奮闘中です。
この初の歴史小説に集中するため、マグダラのマリアに関する歴史ミステリーを絡めた長編児童小説『不思議な接着剤』は導入部の120枚(400字概算)で中断しています。

直塚万季は筆名。
〔2014年2月21日更新〕

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 初の歴史小説に没頭するために、基幹ブログ「マダムNの覚書」(連動的に当ブログも)の休止を考えたりもしています。でも、基幹ブログを書かなくなったら健康の記録や日々の記録がおざなりになるでしょうね。で、迷っているところなのですよ。

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 キンドルストアで販売していた『茜の帳』は、まことに勝手ながら、出版停止とさせていただきました。

『茜の帳』は、以下のような本でした。

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    『 茜の帳』目次

    本書について
    第一部 小説・〔付録〕エッセー
     茜の帳
     萬子媛抄
    第二部 俳句
    第三部 ブログ「マダムNの覚書」からセレクトした記事
     祐徳稲荷神社 ①初詣
     祐徳稲荷神社 ②石の馬と「うま」くいく御守り
     祐徳稲荷神社 ③萬子媛ゆかりの石壁神社にて
     石の馬の夢
     不思議なこと
     萬子媛の美麗なオーラ
     同人雑誌と萬子媛のこと
     宗教の違いなんていうけれど……マグダラのマリア伝説と萬子媛
     萬子媛のお社
     母親として偉大だった萬子媛
    あとがき

    本書について

 創作時期と作品形式から、本書を三部構成としました。
 第一部に収録した「茜(あかね)の帳(ちょう)」は、平成四年一月三十日発行の個人誌『ハーモニー 10号』に発表した幻想小説です。「萬子媛抄(まんこひめしょう)」は、その付録としたもので、舞台のモデルとなった祐徳稲荷神社の創建者、萬子媛に関するエッセーです。
 小説「茜の帳」はその後、平成七年三月一日発行の同人誌『くりえいと 創刊号』(塚崎耕治 発行)に掲載していただきました。執筆者一同の後記にわたしは「タンスに仕舞いっぱなしの着物を点検したら、亡くなった母から貰ったものがいくらか傷(いた)んでいました。その傷みからうまれた空想を作品にしてみました」と書いています。
 実は、この小説は、神秘主義的傾向を持つわたしの思想を表した一面を持ちます。その一面については、神秘主義思想に不案内の方々にはこちらから説明しない限り、汲み取っていただくことも、想像していただくこともできないでしょう。
 勿論、それでも充分なのですが、興味があおりの方々のために、「あとがき」で解説を加えたいと考えました。ここでは、小説に出てくる《着物》をあるものの隠喩(いんゆ)として使っているとだけ申しておきましょう。種明かしはお楽しみのあとで、ということに致したいと思います。
 第二部に収録した俳句も前掲の『ハーモニー』に発表したもので、祐徳稲荷神社に参詣したときに詠んだ句です。
 第三部には、ブログ『マダムNの覚書』に二〇一二年から二〇一三年にかけて公開した記事の中から、萬子媛に関するものを収録しました。

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『茜の帳』を出したあとの昨秋、わたしは萬子媛――祐徳院様とお呼びするほうが正しいようですが――をモデルとした歴史小説を書くことにしました。

 優秀な郷土史家から貴重な資料を提供していただき、自身の調査も加わる中で、歴史認識が変化し、萬子媛に対する見方にも修正が加わりました。

 そして、『茜の帳』に収録した昔書いたエッセーとの食い違いが気になるようになり、この本を出版停止とすることにしました。

 ただ、昔書いたエッセーには当時のわたしにしか書けなかった貴重な部分が含まれており、基幹ブログ「マダムNの覚書」で公開したエッセーにも同様の部分があります。本のタイトルともなった幻想短編小説「茜の帳」にも、若書きながら棄てがたい瑞々しさがあります。

 当時掲載していただいた同人誌『くりえいと』のメンバーの方々が、問題点を鋭く指摘してくださる一方では、以下のような読後感を表白してくださったことに作者として悦びを覚えました。

  • 後半の幻想的描写で、それまでの日常から切り離され、母親への想いが昇華されて、彼女の遺した俳句で結実する――でも、私にとっての魅力は、前半の母親との記憶の下りでした。特に、『サリーちゃんが床で割れた』――この痛ましいほどに響く一節。……見事。
  • 雅な雰囲気が流れていて、ラストの茜さんのところなんてものすごく幻想的でした。
  • ひとつひとつのエピソートがドラマティックに書かれていて、小説作りの卓抜さを感じます。そして、母との確執、内省による自己嫌悪、ひたむきであろうとして不条理に打ち壊された精神。どんなに言葉を尽くすより、理屈を並べ立てるより、エピソートを作るより、ラストの四行でそれ等の昇華が美しく凝縮されていると思いました。小説における表現の深みを、初めて心底から感じることができました。

 幻想短編小説「茜の帳」は、他の幻想短編小説と一緒にした本の中で再度ご紹介する予定です。

 また昔書いたエッセーも、基幹ブログで公開したエッセーも、Collected Essaysの何巻になるかはわかりませんが、その中で再びお読みいただけることと思います。昔書いた萬子媛に関するエッセーには、注をつけて、その後に判明した史料的に明らかな事実を説明したいと考えています。

 それから、萬子媛をモデルとした歴史小説の創作メモをカテゴリー「初の歴史小説」「萬子媛 - 祐徳稲荷神社」に収録することで、基幹ブログをご訪問くださる歴史好きな方々と情報を共有したいと考えていましたが、そうすることは現段階では軽はずみなことではないかと思われ、非公開とさせていただくことにしました。

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 思いがけなくも、咲耶様から、わたしのKindle本『詩人の死』に対して、☆五つの高評価と、内容に丁寧に触れられた以下のレビューを頂戴致しました。



5つ星のうち 5.0 清涼感のある作品。, 2014/2/17
By 咲耶
レビュー対象商品: 詩人の死 (Kindle版)
私はレビューを書くのは初めてなのですが、こちらの本に興味を持たれた方に、清涼的な読後感の良さがあることをお知らせ出来ればと思い、書き込みました。
この作品は、主人公と統合失調症を患う友人について、日記形式で書かれたものです。
冒頭で、詩がニ篇あるのが印象的で、とても透明感のある綺麗な詩です。その後、主人公による日記が記されてあるのですが、文章が分かりやすいため、すらすらと読めました。
友人が病気と葛藤をする、高潔な生きざまは、人間とはどうあるべきかを考えさせられます。かといって、説教くさいものでは全く無いので、自然と思案します。
読んだ後は、新鮮な空気を吸ったかのような、清々しい気分になります。ので、色々と思い悩んでいる人に、お薦めしたいです。単行本化していたら、手元に置いておきたいと思いましたので、評価を5にしました。

 これは、わたしが初めてミューズから授与された勲章です! 茨の道を歩く売れない物書きにとっての大きな励ましです!

 Amazonで購入との表示がないので、無料キャンペーンのときダウンロードまたは有料で購入された方のご家族、知り合いの方、あるいは単行本にこそなっていないけれど、この作品は原稿の形で結構出回ってるので、そうした原稿を読んでくださった方かもしれません。

 わたしの作品は、思わぬところで人から人へ手渡され、読まれ、意外なところから感想をいただくことも珍しくないのですね。

 Kindle本にもする予定の作品ですが、純文学小説「銀の潮」、「白薔薇と鳩」、幻想短編小説「牡丹」、「杜若幻想」、歴史ファンタジー「曙」。Kindle本にした「枕許からのレポート」などは潜在した形(?)で、素人の未熟な作品にしては意外なくらい広く読まれました(そのわりには、Kindle本にしても売れないですね。Kindleストアに買い物に来る人々とわたしの本を好んでくれそうな人々とは重ならない気がKindle本の販売当初からしていました)。

 それを考えれば、無料キャンペーンに対して疑心暗鬼になっていたわたしですが、無意味ではないかもしれないと考え直したりもしています。でも、もうめったに無料キャンペーンを行うことはないと思います。

 mamamaさんの心ないレビューがわたしの心を凍りつかせてしまったのでした。

 ☆一つだなんて、本として、また作品としての体(てい)をなしていない商品に下される最低の評価ではないでしょうか。本の具体的な内容には一切触れない以下のような感想は、読まなくとも悪意さえあれば書けるレビューです。


5つ星のうち 1.0  うーん…, 2014/2/9

日記形式とあるが、本当にただの日記。
自己満足?読んでいても共感することもなく、なかなかページが進まなかった。

 それに対して、わたしは「ただの日記の特徴として、独り合点の書き方ということが挙げられると思います。ただの日記であれば、自分にさえわかればいいので、どうしても他人が読むと、当人にしかわからない事情が省かれていたりして、状況がよく呑み込めないということがあります。この作品は、その点はクリアできていると思います。さらに文学的表現、哲学的考察が加えられているという点で☆四つです」とコメントしました。

 この記事で、過去記事に書いたことと同じことを繰り返しているのは、事情を知らない初訪問者のために、そうしているのです。

 ブログを書くときですら「ただの日記」にならない配慮をなるべく行うようにしているのに、作品でそれを行ったようにいわれることはまことに心外で、事実に反した虚偽の評価です。

 共感した、しない――はレビュー主の主観にすぎませんし、「自己満足」と評価を下すのであれば、「自己満足」の定義と、どの箇所あるいはどういったところがそれに当たるのかの検証を当然行うべきです。

 本の具体的な内容には一切触れない、読まなくとも悪意さえあれば書ける☆一つという最低ランクの評価のために、よく読まなければ書けないような☆五つの高評価があったとしても、平均値が落ちてしまいます。☆の数で、検索を行うこともできるのですから、mamamaさんの行為はまさに営業妨害に当たる悪質な行為以外の何ものでもありません。

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 いやー、笑いが止まりません(爆)

 なぜって、Kindle本のレビューを著者自身が書き込めるとは知りませんでしたから。

 そんなことも知らなかったの、といわれそうですけれど。

 レビューに対するコメントを書き込めたので、本を購入すれば、レビューも書き込めるかもしれないと思ったのです。わたしだって、歴とした読者の一人ですからね。
 追記:アカウントがあれば、書き込めるようでもあります。すみません、あやふやな情報です。
 それが、ナンと、書き込めました。

 物書きとしてのわたしの最大の不幸は、わたしのような読者を持たないことです。

 ブログにおいても、Kindle本においても、わたしはいわゆるご近所づきあいというものをしないので、こんなときにブログのご近所さんとか、Kindle本のご近所さんとかの助けを求めることができません。

 自力でなんとかするしかないのですが、アマゾンは何しろアメリカの会社ですから、何か訴えたところで、訴えている内容自体をわかっていただけているのかどうかすら不明という有様です。

 わたしはmamamaさんというかたのレビューは、明らかに営業妨害だと思いました。

 mamamaさんがわたしの著作の社会的悪影響の大きさを憂え、危機感を覚えて、辛口のレビューをした――という風にはどうしても受けとれませんでした。

 思ったことを無邪気にレビューしたというだけの話なのでしょうが、その無邪気なレビューには、ささやかに営業している――儲けはないに等しい――ノワ出版局の本に、最低の評価づけを行うことによって、「なんだ、所詮は素人の本か。ろくに読めもしない作りなんだろうな。あばよ、二度とこの著者のKindle本を見に来ることはないだろうよ」という先入観を抱かせる誘導因子が含まれているのです。

 これを読んで、わたしが困っているところをもっと見ていたいという方は違反報告をどうぞ。削除されてしまえば、このブログでまたご報告し、本を作り直すまでです。

 mamamaさんというかたの無内容、最低評価レビューに困らされていることは基幹ブログ「マダムNの覚書」の過去記事でご報告してきました。


 以下がmamamaさんのレビューです。



5つ星のうち 1.0  うーん…, 2014/2/9


日記形式とあるが、本当にただの日記。

自己満足?読んでいても共感することもなく、なかなかページが進まなかった

 以下がNAOさんのレビュー。



5つ星のうち 4.0  mamamaさんのレビューに異議あり, 2014/2/17


mamamaさんは、「本当にただの日記」と書かれていますが、

ただの日記の特徴として、独り合点の書き方ということが挙げられると思います。
ただの日記であれば、自分にさえわかればいいので、
どうしても他人が読むと、当人にしかわからない事情が省かれていたりして、
状況がよく呑み込めないということがあります。
この作品は、その点はクリアできていると思います。
さらに文学的表現、哲学的考察が加えられているという点で☆四つです。

 このNAOさんは、これまでに以下の3件のレビューを行っています。



蒼い家 [Kindle版]  檀 純也 (著)

5つ星のうち 5.0 飾らぬ、時に軽妙とさえいえる語り口に救われる, 2013/9/30

統合失調症の妻、その事実をはっきりとは知らないままに結婚したシステムエンジニアの語り手。
妻の病気がもたらす混乱の中で、ストレスから同居の両親が病気に倒れ、本人もうつ病となり、息子は登校拒否……。
語り手の飾らぬ、時に軽妙とさえいえる語り口が重苦しい状況を照らし出す太陽のようで、最後まで読み通させてくれます。
登校拒否を克服し、有名大学にパスした息子さん、あっぱれです。
語り手の頑張りと、この家族本来の温かみがそのような形で結晶したように思えました。

ただ、最初の医者の対応、妻の実家の対応はちょっと解せません。
最初の医者と妻の実家の人から、病気について妻本人に、それが無理ならせめて語り手にきちんと説明がなされていたとしたら、
その後の展開が違っていたかもしれないと残念に思いました。

どんな病気でもそうでしょうが、よい医者と出会えるかどうかは大きいですね。
自分の病気に対する妻の自覚が、閉ざされた家族の雪解けと感じさせます。
家族に起きたことをシンプルに述べた作品で、わかりやすく、同じような困難に見舞われた人々には参考になることも多いと思います。

耳納連山 (季刊文科コレクション) [単行本]  河津 武俊(著)

5つ星のうち 5.0 『雲の影』『耳納連山』がすばらしい。, 2013/7/9

『雲の影』『野の花』『耳納連山』が収録されている。『雲の影』『耳納連山』がすばらしい。『雲の影』は、老齢となった恩師との交わりを丁寧に描いた作品で、美しいとしかいいようのない作品……。

恩師は、《私》が医学生だったときの外科学の先生で、その関係の域を出なかったが、《私》は先生を憧憬し、敬慕していた。

まるでそのときの思いが叶うかのように、恩師の退官後十年を経て、親しく交わる機会が訪れる。先生の人柄や趣味、家庭的な事情なども知るようになる。恩師との交際におけるエピソードが、次々と空を流れる雲のような筆致で書き連ねられていく。師弟を包む情景のため息の出るような美しさ。

『耳納連山』では、山の美しさに人間の心の機微が織り込まれて、リリカルな描かれかたをしている。何て陰影深い、ゆたかな筆遣いなのだろう……! 何枚もの山の絵画を観るようだ。まさに山に捧げる讃歌であり、山にこの作品を書かせて貰った作者は幸せであり、作者にこの作品を書いて貰った山は幸せだと思った。

本を殺したのは、無能編集者である [Kindle版]  赤羽達美(著)

5つ星のうち 4.0 本をモチーフとした文化論, 2013/3/4

『本を殺したのは、無能編集者である』というタイトルが示しているように、この著作は出版界における――特に編集者のありかたに焦点を絞った――問題提起の書といえるが、暴露本的な低俗さのない、読書の醍醐味を味あわせてくれる好著である。本をモチーフとした文化論としても読める。

 前掲の過去記事の一つで、わたしは以下のように書きました。



 わたしは賞狙いの年月が長かったので、実はこの程度のレビューは何ともない――とはいいませんが、一般人に高い読解力や適切なレビューの書き方を求めても仕方がないという思いはあります。
 もっと大きな問題として、文学賞の審査員がこのような書き方をすることが結構あるのですよ。
 内容に具体的に触れもしないで、「面白くなかった」で済ませる審査員。
 Kindle本にもした『台風』が「織田作之助賞」の最終選考に残ったとき、辻村登氏にそういった評価をされました。
  これは一例にすぎません。
 九州芸術祭文学賞の最終選考委員の中には、最終選考に残った作品のタイトルさえ出さない審査員も珍しくありませんでした。そんな中で、故白石一郎氏だけは短いながら全作品にきちんと触れてくださっていました。
 落とされても、何だか神様みたいに見えましたわ。
 最近の九州芸術祭文学賞については知りませんが。
 無内容評価を受けたり、タイトルが出されることすらなかったとしても、予選を通過し、最終まで残れることは、恵まれた話なのです。冒頭部分で落とされる、あるいはそれ以前に落とされることも珍しくない文学賞。
 文学賞の評価の仕方がこんな風であれば、生徒の書く読書感想文やアマゾンのレビューがそれに倣えをするのは自然の成り行きです。
 面白い、面白くない――は当人の主観にすぎないのですよ。

 今の文学界が作り出した風潮の中をmamamaさんも生きていて、その影響力が強く自分に及んでいるとは自覚せずにレビューを書いています。

 わたしは今のようではなかった文学界の影響を強く受け、今の文学界がつくり出した風潮にレジスタスしてきました。味方はあの世にしかいないという孤独な戦いです。今後もそれは続くのでしょう。

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 基幹ブログ「マダムNの覚書」の記事で、無内容、低評価のレビューに困っていると書きました。


2014年2月16日 (日)

Kindle本『詩人の死』に頂戴したレビューについて、削除を依頼

http://elder.tea-nifty.com/blog/2014/02/kindle-c1fc.html

 

 アマゾンに削除依頼をしていますが、ググってみたところでは、いくつかの要件に当てはまるかどうかの機械的な処理がなされた上で削除が決定されるようです。

 それからすると、無理かなあ。

 わたしは賞狙いの年月が長かったので、実はこの程度のレビューは何ともない――とはいいませんが、一般人に高い読解力や適切なレビューの書き方を求めても仕方がないという思いはあります。

 もっと大きな問題として、文学賞の審査員がこのような書き方をすることが結構あるのですよ。

 内容に具体的に触れもしないで、「面白くなかった」で済ませる審査員。

 Kindle本にもした『台風』が「織田作之助賞」の最終選考に残ったとき、辻村登氏にそういった評価をされました。

  これは一例にすぎません。

 九州芸術祭文学賞の最終選考委員の中には、最終選考に残った作品のタイトルさえ出さない審査員も珍しくありませんでした。そんな中で、故白石一郎氏だけは短いながら全作品にきちんと触れてくださっていました。

 落とされても、何だか神様みたいに見えましたわ。

 最近の九州芸術祭文学賞については知りませんが。

 無内容評価を受けたり、タイトルが出されることすらなかったとしても、予選を通過し、最終まで残れることは、恵まれた話なのです。冒頭部分で落とされる、あるいはそれ以前に落とされることも珍しくない文学賞。

 文学賞の評価の仕方がこんな風であれば、生徒の書く読書感想文やアマゾンのレビューがそれに倣えをするのは自然の成り行きです。

 面白い、面白くない――は当人の主観にすぎないのですよ。

 ☆一つなんてのは、内容以前の本としての体裁に欠陥がある場合に選択するのが普通ではないでしょうか。そうした本に☆一つつけ、注意を呼びかけているレビューを見ました。

 投稿されたレビューに、著者がコメントを書き込めるとは知りませんでした。試しにやってみたところ、できたので、書き込みました(違反で削除されたりして)。以下がレビューーに書き込んだわたしのコメント。

具体的に、内容に触れるということが全くなされていませんね。
「ただの日記」と「ただの日記ではない作品」の定義――、
作品のどういったところが、どういう理由で、自己満足に当たるのかの
具体的な指摘――、
どんな作品であれば共感できるのか――、
ここまで酷評するのであれば、最低、以上の三点を明確に述べた上で「ただの日記」「自己満足」と断定すべきでしょう。


 わたしがこの作品を日記体小説としたのには、理由があります。

 事実に基づいたこの作品を、本当はわたしはノンフィクションとして提出したかったのです。が、それをするには、そっとしておく必要がありそうなご両親の承諾を得なければならず、その計画を断念したという経緯がありました。

 なぜノンフィクションにしたかったかというと、統合失調症を患っていた友人は「わたしは完全に狂ってしまうのではないか。自分をコントロールすることが全くできなくなってしまうのではないか。知性のない生き物に成り果ててしまうのではないか」という絶え間ない恐怖と共に生きていて、わたしもその彼女の恐怖に巻き込まれていました。

 彼女がそうなり、わたしも一緒にそうなってしまうような恐怖。その一応の結論が彼女の晩年を描くことで、出たと考えています。その経緯をなるべくならそのままの形で、同じ恐怖に囚われている人々に一つの明るい材料として提供したいと思ったのでした。

 ご両親をそっとしておく、彼女の晩年をなるべくそのままの形で表現する――には日記体小説という形式しかないという判断でした。

 お手軽な作品を好む人向きの作品ではありません。時間があるときに、本の内容説明を書き直したいと思っています。

 同じレビュー主がやはり☆一つで無内容のレビューを書いていたのが、以下の単行本に対してでした。

 総合☆四つで、長文の丁寧に書かれたレビューも多く、羨ましくなりました。小川真由美は嫌いではないので、読んでみたくなりました。

 困らされるレビューを少なくするには(防ぐことはおそらく困難)、無料キャンペーンを行わないことでしょう。今まで通りにするかどうするかは、しばらく考えてから結論を出したいと考えています。

 書いているうちに、レビューに腹を立てたこと自体、忘れかけてしまっています。その単純さが、わたしの欠点といおうか、弱点です。レビュー主の孤独が透けて見える気がしたのはわたしの錯覚でしょう。

 わたしの感情を司る月は牡羊座にあり、パッと燃えて鎮静化してしまうのですわ。愛情を司る金星はクールといわれる水瓶座にあるし、執念深くはなりにくいのです。

 いや、でも、無内容の評価をした文学賞の審査員たちのことは死んでも忘れないでしょうね。

 こんなことに囚われているくらいなら、今すべき大事なことに貴重な時間を注ぐほうが賢明です。

 アマゾンには時間があるときに、セルフ・パブリッシングをさせていただいている者の意見として、今回のことからわたしが改善してほしいと思ったことをメールしたいと考えています。
 サンプルをダウンロードできます。
       ↓ 

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『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012』(Collected Essays 2)の完成がようやく見えてきました。

 細かな脚注の作成がようやく終わり、やれやれといったところです。あとは頭が禿げてきそうな校正が待っていますが、何回も読み直しながらの脚注作成だったので、今度こそ近日公開できると思います。
 追記:販売中です 

気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 - 2012(Collected Essays, Volume 2)

 と意気込んでいるのは本人だけで、買ってくださる方があろうとはあまり思えません。幸いキンドルストアの棚に並べておいても埃がつくでなし、追い立てられるでもなし、本当に恵まれた状況を享受できるのはアマゾンさまのお陰と感謝しています。

 この本は、内容の多くを(整理しないままですが)ブログで公開しているため、KDPセレクトには登録できず、従って無料でダウンロードして貰うというわけにはいかず、買っていただくことはそれ以上に望めないでしょう。

 わたしが図書館から借りる本は、地下の公開書庫に収められているものが多く、古びているという他は新品状態であったりします。最近ではハンス・カロッサ全集、アントニオ・タブッキの須賀敦子訳のものなども、そのような状態にあったのを借りました。

 自分のキンドル本をそのような貴重な本と比べてどうこういえるわけもありませんが、あのような本ですら地下で眠ることも多いのだと思えば、わたしもがんばろうという気持ちになれるのですね。

 ただ、未熟な自分の本は仕方がないとしても、本は面白ければよいという現在の日本の常識といいますか、風潮は明らかに異常で、そんな「常識」をわたしは中学三年生くらいのときから、感じ始めました。本を読む者は暗い、といわれ出したのです。中学三年生というと、1973年。

 1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までといわれる高度成長期。高度成長期が過ぎようとしている頃からの現象ということになります。

 本を読む者は暗い、本は面白ければいい、という価値観は商業主義やマルキシズムと関係があるとわたしは考えてきました。

 今回出す予定のキンドル本は、400字概算で100枚弱の芥川賞受賞作品のレビュー集ですが、関連する小論も収録しています。Collected Essaysの第2巻ということになりますが、Collected Essaysは日本の文学界を総合的に分析していこうという私的試みです。

『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』(Collected Essays 1)がそうした試みの始まりの本です。

 わたしは『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007 - 2012』(Collected Essays 2)を作成しながら改めて、マルキシズムの唯物論が日本の文学に及ぼした影響の大きさを思わないわけにはいきませんでした。

 新しい試みとしてYouTubeで始めた聴く、文学エッセイシリーズ№1「マッチ売りの少女」のお話と日本の現状でも、その点をほのめかしています。

 収録した小論の中の「バルザックと神秘主義と現代」は基幹ブログ「マダムNの覚書」で公開したものですが、キンドル本の公開に先駆けて、再度ここにご紹介しておきたいと思います。

 青字の漢数字は脚注、緑色は引用部分です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆


バルザックと神秘主義と現代

 わたしの大好きなバルザックは五十一歳で死んだが、眠気覚ましの濃いコーヒーのがぶ飲みが一因ともいわれている。

 わたしもコーヒーを飲みすぎることがある。目を覚ますためではなく、ストレスをまぎらわせるために。そのストレスの内容を分析してみれば、才能の乏しさや筆の未熟さに起因するストレスがあり、さらには、わたしの書きたいものと通念との乖離に起因する大きなストレスのあることがはっきりする。

 バルザックの『谷間の百合』十七ほど、わたしを酔わせた小説はない。抒情味ゆたかな、気品の高い恋愛物で、全編に百合の芳香が漂っているかのようだ。ここには見事なまでにバルザックの内的な世界観が打ち出されている。

 数あるバルザックの作品のうちこれがわたしを最も惹きつけたのは、この作品の華と神秘主義の華が甘美に重なりあっているためだろう。少なくともわたしは『谷間の百合』の魅力をそのように理解したのであった。

 『谷間の百合』の女主人公モルソフ夫人はカトリック教徒であるが他方、神秘主義哲学者サン=マルタン(一七四三 - 一八〇三)に親昵し、その教えに薫染した人物として描かれている。

 神秘主義思想はローマン・カトリシズムから見れば無論、異端思想である。『谷間の百合』は教会の禁書目録に含まれていた。

 バルザックという人間が神秘主義を頭で理解したつもりになっているだけの人物なのか、そうではなくて、それを感性でも捉え得ている人物なのかは、例えば次のような箇所を読めばおおよその判断はつく。

 引用はモルソフ夫人の臨終に近い場面からである。


        そのときの彼女からは、いわば肉体はどこかに消え去って、ただ魂だけが、嵐のあとの空のように澄みきったその物静かな顔を満たしていました。[略]そして、顔の一つ一つの線からは、ついに勝ちをおさめた魂が、呼吸とまじりあう光の波を、あたりにほとばしりださせているのです。[略]思念からほとばしり出る明るい光は、[略]


 肉眼では見えないはずのオーラや想念形態といったものを内的な視力で見る者であれば、こういった箇所を読むと、彼がそうしたものを実際に見ていたのだという感じを抱かずにはいられまい。

 学者、透視家であったスヴェーデンボリ(一六七七 - 一七七二)の著作の影響を感じさせる『セラフィタ』十八。バルザックは両性具有者を登場させたこの浮世離れした作品の中で、真の恋愛が如何なるものであるべきかを追究している。


        わたしたちのお互いの愛の多寡は、お互いの魂にどれほど天界の分子が含まれているかによるのです。


 さらに同著において、 神秘主義哲学とは切っても切れない「宇宙単一論」が展開され、バルザックは数について考察する。


        貴方は数がどこで始まり、どこで止まり、またいつ終わるのか知りません。数を時間と呼んだり空間と呼んだりしています。数がなければ何も存在しないと云い、数がなければ一切は唯一つの同じ本質のものになる、と云います。なぜならば数のみが差別をつけたり質を限定したりするからです。数と貴方の精神との関係は、数と物質との関係と同じで、謂わば不可解な能因なのです。貴方は数を神となさるのでしょうか。数は存在するものでしょうか。数は物質的な宇宙を組織立てるために神から発した息吹なのでしょうか。宇宙では数の作用である整除性なくしては何物も形相をとることはできないのでしょうか。創造物はその最も微細なものから最大なものに至るまで、数によって与えられた属性、すなわち量や質や体積や力によって、始めて区別がつけられるのでしょうか。数の無限性はあなたの精神によって証明されている事実ですが、その物質的な証明はまだなんら与えられていません。数学者たちは数の無限性は存在するが証明はされないと云うでしょう。ところが信仰する者は、神とは運動を恵まれた数で、感じられるが証明はされない、と云うでしょう。神は『一』として数を始めますが、その神と数とにはなんら共通なものはありません。数は『一』によって始めて存在するのですが、その『一』は数ではなく、しかもすべての数を生み出すのです。神は『一』ですが創造物とはなんら共通点を持たず、しかもその創造物を生み出すのです。ですから数がどこで始まり、創造された永遠がどこで始まりどこで終わるかは、わたしと同様に貴方もご存じないわけです。もし貴方が数をお信じになるのなら、なぜ神を否定なさるのです。


 『絶対の探究』十九には近代錬金術師が登場して、「絶対元素」を追求する。バルザックはこれを執筆するにあたって、前年に完訳されたスウェーデンの化学者ベリセリウス『化学概論』全八巻を読破し、化学者たちの協力を仰いで完成させたという。

 主人公バルタザル・クラースはアルキメディスの言葉「ユーレカ!(わかったぞ!)」と叫んで死ぬ。『ルイ・ランベール』二十のごときに至っては、主人公ルイを借りて、バルザックその人の神秘主義者としての歩みを詳述し、思想を展開させ、さらには形而上的な断章まで加えた、一種とめどもないものとなっている。

 自らの思想と当時の科学を折衷させようと苦心惨憺した痕跡も窺える、少々痛々しい作品である。


        「われわれの内部の能力が眠っているとき」と、彼はいうのだった。「われわれが休息のここちよさにひたっているとき、われわれのなかにいろんな種類の闇がひろがっているとき、そしてわれわれが外部の事物について瞑想にふけっているとき、しばしば静けさと沈黙のさなかに突然ある観念が飛び出し、無限の空間を電光の速さで横切る。その空間はわれわれの内的な視覚によって見ることができるのだ。まるで鬼火のように出現したそのキラキラかがやく観念は消え去ったまま戻ってこない。それは束の間の命で、両親にかぎりない喜びと悲しみを続けざまに味わわせるおさなごのはかない一生に似ている。思念の野原に死んで生まれた一種の花だ。ときたま観念は、勢いよくほとばしって出たかと思うとあっけなく死んでしまうかわりに、それが発生する器官のまだ未知のままの混沌とした場所に次第に姿を現わし、そこでゆらゆらと揺れている。長びいた出産でわれわれをヘトヘトにし、よく育ち、いくらでも子供が産めるようになり、長寿のあらゆる属性に飾られ、青春の美しさのうちにそとがわでも大きくなる。[略]あるとき観念は群れをなして生まれる。[略]観念はわれわれのうちにあって、自然における動物界とか植物界に似ている一つの完全な体系だ。それは一種の開花現象で、その花譜はいずれ天才によって描かれるだろうが、描くほうの天才は多分気違い扱いにされるだろう。そうだ、ぼくはこのうっとりするくらい美しいものを、その本性についてのなんだかわからない啓示にしたがって花にくらべるわけだが、われわれの内部とおなじく外部でも一切が、それには生命があると証言しているよ。[略]」


 漸次、こうした神秘主義思想の直接的な表現は彼の作品からなりをひそめ、舞台も俗世間に限られるようになるのだが、そこに肉の厚い腰を据え、『ルイ・ランベール』で仮説を立てたコスミックな法則の存在を透視せんとするバルザックの意欲は衰えを知らなかったようだ。

 以上、『谷間の百合』『セラフィタ』『絶対の探求』『ルイ・ランベール』の順に採り上げたが、完成は順序が逆である。

 神秘主義的傾向を湛えた四作品のうちでも、わたしが『谷間の百合』に一番惹かれたのは、バルザックの思想が女主人公に血肉化された最も滋味のあるものとなっているからだろう。

 幼い頃から神秘主義的な傾向を持ちながら、そのことを隠し、まだ恥じなければならないとの強迫観念を抱かずにはいられない者にとって、バルザックの名は母乳のようにほの甘く、また力そのものと感じられるのだ。小説を執筆しようとする時、強い神秘主義的な傾向と、これを抑えんとする常識とがわたしの中でせめぎあう。こうしたわたしの葛藤には、当然ながら時代の空気が強く作用していよう。

 バルザックが死んだのは一八五〇年のことであるが、彼が『あら皮』――この作品もまた神秘主義的な傾向の強い作品である――を書いた年、一八三一年にロシアの貴族の家に生まれたH・P・ブラヴァツキーは、「秘められた叡智」を求めて世界を経巡った。インド人のアデプト(「達成した者」を意味するラテン語)が終生変わらぬ彼女の守護者であり、また指導者であった。

 インドの受難は深く、西洋では科学と心霊現象とが同格で人々の関心を煽り、無神論がひろがっていた。ブラヴァツキーは神秘主義復活運動を画する。アメリカ、インド、イギリスが運動の拠点となった。

 なぜ、ロシア出身の女性の中に神秘主義がかくも鮮烈に結実したのかは、わかるような気がする。ロシアの土壌にはギリシア正教と呼ばれるキリスト教が浸透している――ロシア革命が起きるまでロシアの国教であった――が、ギリシア正教には、ギリシア哲学とオリエント神秘主義の融合したヘレニズム時代の残り香があることを想えば、東西の神秘主義体系の融合をはかるにふさわしい媒介者がロシアから出たのも当然のことに思える。

 大きな碧眼が印象的な獅子にも似た風貌、ピアノの名手であったという綺麗な手、論理的で、素晴しい頭脳と火のような集中力と豊潤な感受性に恵まれたブラヴァツキーはうってつけの媒介者であった。

 ちなみに彼女には哲学的な論文のシリーズの他に、ゴシック小説の影響を感じさせる『夢魔物語』二十一と題されたオカルト小説集がある。変わったものでは、日本が舞台で、山伏の登場する一編がある。

 彼女の小説を読みながらわたしは何度も、映像的な描写に長けたゴーゴリの筆遣いを思い出した。また内容の深刻さにおいてギリシア正教作家であったドストエフスキーを、思考の清潔さにおいてトルストイを連想させる彼女の小説には、ロシア文学の強い香がある。

 ブラヴァツキーは大著『シークレット・ドクトリン』二十二の中で、バルザックのことを「フランス文学界の最高のオカルティスト(本人はそのことに気付かなかったが)」といっている。

 そして、ブラヴァツキーより少し前に生まれ、少し前に死んだ重要な思想家にマルクス(一八一八 - 一八八三)がいる。一世を風靡したマルクス主義の影響がどれほど大きいものであったか、そして今なおどれほど大きいものであるかを知るには、世界文学史を一瞥すれば事足りる。

 史的唯物論を基本的原理とするマルクスが世に出たあとで、文学の概念は明らかに変わった。


        従来バルザックは最もすぐれた近代社会の解説者とのみ認められ、「哲学小説」は無視せられがちであり、特にいわゆる神秘主義が無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている現代においてその傾向が強かろうと想われるが、バルザックのリアリズムは彼の神秘世界観と密接な関係を有するものであり、この意味においても彼の「哲学小説」は無視すべからざるものであることをここで注意しておきたい。


 以上は、昭和三十六年に東京創元社から出された、『バルザック全集』弟三巻における安土正夫氏の解説からの引用である。解説にあるような昭和三十六年当時の「現代」を用意したのは、誰よりもマルキストたちであった。

 エンゲルスは、バルザックが自分の愛する貴族たちを没落の運命にあるように描いたというので彼を「リアリズムの最も偉大な勝利の一つ」と賞賛した。バルザックが自らの「階級的同情」と「政治的偏見」を殺して写実に努めたこと、また、そうした先見の明を備えたリアリスティックな精神を誉めたのである。

 わたしなどにはわかりにくい賞賛の内容だが、それ以降バルザックは、マルキストたちの文学理論――リアリズム論――にひっぱりだことなる。次に挙げるゴーリキー宛のレーニンの手紙なども、わたしには不可解な内容である。  

 だが、宗教を民衆のアヘンと見るマルクスのイデオロギーに由来するこの神のイメージは――階級闘争うんぬんを除けば――今では、日本人の平均的な神の概念といってよい。


        神は社会的感情をめざめさせ、組織する諸観念の複合体だというのはまちがいです。これは観念の物質的起源をぼかしているボグダーノフ的観念論です。神は(歴史的・俗世間的に)第一に、人間の愚鈍なおさえつけられた状態、外的自然と階級的抑圧とによって生みだされた観念、このおさえつけられた状態を固定させ、階級闘争を眠り込ませる観念の複合体です。二十三


 神という言葉には人類の歴史が吹き込んだおびただしいニュアンスが息づいているにも拘らず、この問題をこうも単純化してしまえるのだから、レーニンはその方面の教養には乏しかったと思わざるを得ない。

 神秘主義は、宗教自身の自覚のあるなしは別として、諸宗教の核心であり、共通項である。従って、マルキストによって宗教に浴びせられた否定の言葉は何よりも神秘主義に向けられたものであったのだ。

 マルキストたちが招いた文学的状況は、今もあまり変わってはいない。

 日本には今、心霊的、あるいは黒魔術的とでも言いたくなるような異様なムードが漂っている。娯楽の分野でも、事件の分野(サリン事件、酒鬼薔薇事件)でも、純文学の分野ですら、こうしたムードを遊戯的に好むのである。


        言葉の中身よりも、まず声、息のつぎ方、しぐさ、コトバの選び方、顔色、表情、まばたきの回数……などを観察する。するとその人の形がだんだん浮かんでくる。オーラの色が見えてくる。/彼のオーラは目のさめるような青だった。/風変わりな色だったが、私は彼が好きだった。/「また、おまえ、変なモノ背負っているぞ」/「重いんです。なんでしょう」/「また、おまえ、男だぞ」/「また男……って、重いです」/私は泣きそうになった。/(略)/「前のは偶然くっついただけだから簡単に祓えたけど、今度のは生霊だからな。手強いぞ」/笑いだしたいほど、おもしろい。ドキドキする。/「おまえ、笑いごとかよ。強い思いは意を遂げるって、前に教えたろう?」/わたしは彼がしゃべったことは一字一句違えず記憶していた。しぐさや表情や感情を伴って、すべての記憶がよみがえるのだ。/殺したいぐらい怒ると、わずかな傷でも死んでしまうことがあるって、言った」/「同じことだよバカ」/彼が心配しているのがわかってうれしくなった。若い女はどこまでも脳天気である。わたしの悩みは、彼が愛してくれるかどうかだけだった。/彼はその日の夕方、ホテルで私を抱いてくれた。/冷たい体を背負っているよりは、あたたかい下腹をこすり合わせながら彼のものを握りしめているほうがずっと楽しい。私の穴に濡らした小指を入れたり、口の中に互いの下を押し込んだり。(大原まり子『サイキック』、文藝春秋「文学界三月号」、一九九八年)


 このような文章は、神秘主義が涙ぐましいまでに純潔な肉体と心の清らかさを大切なものとして強調し、清らかとなった心の力で見たオーラをどれほど敬虔に描写しようとするものであるかを知る者には、甚だ低級でいんちきなシロモノとしか映らないだろう。

 現代のこうした風潮は、マルクス主義が産んだ鬼子といってよい。神秘主義が「無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている」ことからきた社会的弊害なのだ。

 つまり、そのような性質を持つものを神秘主義と見なすようになったことからくる混乱があるのである。時を得て世界にひろがったマルクス主義のその貴重な側面は、絶対に否定しさることはできない。だからこそこの問題は、今こそ充分に検討されるべきではないだろうか。 

一九九八年


十七 
石井晴一訳、新潮社、平成三年

十八 蛯原徳夫訳、角川文庫、一九五四年

十九 水野亮訳「『絶対』の探求」(『バルザック全集 第六巻』水野亮訳、東京創元社、平成七年)

二十 水野亮訳「ルイ・ランベール」(『バルザック全集 第二十一巻』加藤尚弘&水野亮訳、東京創元社、平成六年)

二十一 田中恵美子訳、竜王文庫、平成九年

二十二 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成八年)

二十三 川口浩、山村房次、佐藤 静夫『講座文学・芸術の基礎理論〈第1巻〉マルクス主義の文学理論』 (汐文社、一九七四年、第二部)

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 慌てて作ったので、作り直すかもしれません。今度こそ、声が低すぎたような。前のはそうでもなかった……。

 このアバター、また借りてきたのですが、娘が自分に似せて作ったの、といいました。え、そんなわけは。キスするみたいに、よく尖るアバターの口がちょっと困ります。別にそんな口つきしているわけではないのです。エイリアンのアバターとどっちがいいかな。

 お試し版です。ともあれ、文学の動画第1号

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お試し動画を作ってみました。まだ慣れないので、聴き苦しいでしょうが、お許しを

追記:
動画の中でうっかり「敷居が高い」という言葉を使ってしまいました。「ハードルが高い」という意味で使ったつもりでしたが、気になって調べたら、これは「何か不義理なことや不面目なことがあって、その人の家に行きにくいことを表す」そうです。
文学の動画を作るというのに、最初からこの有様では先が思いやられますが、こんな風に勉強していきたいと思っています

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