文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

カテゴリ:レビュー・文学論 > 児童文学

マダムNの覚書」 に 2017年12月27日 (水) 23:04 投稿した記事の再掲です。

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

マダムNの覚書」 に 2017年10月12日 (木) 20:14 投稿した記事の再掲です。

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクについて書いた。
63 心霊主義に傾斜したメーテルリンクの神智学批判と、風評の原因
  http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/09/15/161504
わたしが前掲エッセーで採り上げたのは復刻版『マーテルリンク全集――第二巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)の中の「死後の生活」で、1913年にこの作品が刊行された翌年の1914年、メーテルリンクの全著作がカトリック禁書目録に指定された(禁書目録は1966年に廃止されている)。

「死後の生活」を読んだ限りでは、メーテルリンクが神智学的思考法や哲学体系に精通していたようにはとても思えなかった。

上手く理解できないまま、恣意的に拾い読みして自己流の解釈や意味づけを行ったにすぎないような印象を受けた。一方、SPR(心霊現象研究協会)の説には共鳴していた節が窺えた。

『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960年初版、2006年改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

「あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)と母親にいわれてチルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、青い鳥は逃げてしまった……

ファンタスティックな趣向を凝らしてあるが、作品に描かれた世界は、神秘主義的な世界観とはほとんど接点がない。

登場する妖精たちは作者独自の描きかたである。

これまで人間から被害を被ってきた木と動物たちが登場し、兄妹の飼いネコは人間の横暴に立ち向かう革命家として描かれている。ネコは狡い性格の持ち主である。

それに対立する立場として飼いイヌが描かれており、「おれは神に対して、一番すぐれた、一番偉大なものに対して忠誠を誓うんだ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)という。イヌにはいくらか間の抜けたところがある。

木と動物たちがチルチル・ミチル兄妹の殺害を企む場面は、子供向けに上演されることも珍しくない作品にしては異様なまでに長く、具体的で、生々しい。

木と動物たちの話し合いには、革命の計画というよりは、単なる集団リンチの企みといったほうがよいような陰湿な雰囲気がある。

チルチルはナイフを振り回しながら妹をかばう。そして、頭と手を負傷し、イヌは前足と歯を2本折られる。

新約聖書に出てくる人物で、裏切り者を象徴する言葉となっているユダという言葉が、ネコ革命派(「ひきょうもの。間抜け、裏切り者。謀叛人。あほう。ユダ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)からも、イヌ(「この裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.114)とチルチル(「裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.123)の口からも発せられる。

危ないところで光が登場し、帽子のダイヤモンドを回すようにとチルチルを促がす。チルチルがそうすると、森は元の静寂に返る。

「人間は、この世ではたったひとりで万物に立ち向かってるんだということが、よくわかったでしょう」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.127)という光の言葉は、如何にも西洋的な感じがする。

『青い鳥』の世界をキリスト教的世界と仮定すると、『青い鳥』の世界を出現させた妖女ベリリウンヌは神、妖女から次のような任務を与えられる光は定めし天使かイエス・キリスト、あるいは法王といったところだろうか。
さあ、出かける時刻だよ。「光」を引率者に決めたからね。みんなわたしだと思って「光」のいうことをきかなければならないよ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.53)
ただ、『青い鳥』の世界は第一にチルチルとミチルが見た夢の世界として描かれているということもあって、そこまで厳密な象徴性や構成を持ってはいない。

そこには作者が意図した部分と、作者の哲学による世界観の混乱とが混じっているようにわたしには思われた。その混乱については、前掲のエッセー 63 で触れた。

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.196)という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ほくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.236)は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。
医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)
娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。

訳者である堀口大學氏は「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」とお書きになっている。一般的に、そのような解釈がなされてきたように思う。

しかし、観客に呼びかけるチルチルの最後の台詞からすると、その日常生活の中にある幸福が如何に不安定なものであるかが印象づけられるし、森の中には人間を憎悪している木と動物たちがいることをチルチルは知っている。家の中にさえ、彼らに通じるネコがいるのだ。

そもそも、もし青い鳥が日常生活の中にある幸福を象徴する存在であるのなら、その幸福に気づいたチルチルの元を青い鳥が去るのは理屈からいえばおかしい。

いずれにせよ、わたしは青い鳥に、何か崇高にして神聖な象徴性があるかの如くに深読みすることはできなかった。戯曲は部分的に粗かったり、妙に細かかったりで、読者に深読みの自由が与えられているようには読めなかったのだ。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

拙ブログ「マダムNの覚書」に2016年3月17日、公開した記事の再掲です。

cooks-842244_640

最近、グーグル先生の翻訳を頼りに海外版ウィキペディアをあれこれ閲覧するようになったが、アストリッド・リンドグレーン『長くつ下のピッピ』の挿絵を最初に担当したイングリッド・ヴァン・ニイマンについて何も知らなかったことに気づき、スウェーデン語版でニイマンについて閲覧して自殺との記述に衝撃を受け、次いでデンマーク語版でも閲覧した。

イングリッド・ヴァン・ニイマン(Ingrid Vang Nyman)、1916年8月21日生まれのデンマークのイラストレーター。<Ingrid Vang Nyman. (2014, maj 3). Wikipedia, Den frie encyklopædi. Hentet 22:36, marts 16, 2016 fra https://da.wikipedia.org/w/index.php?title=Ingrid_Vang_Nyman&oldid=7586312.

デンマーク王立美術アカデミー中退。画家・イラストレーター・詩人のアルネ・ナイマンと結婚、息子が生まれる。一家は42年にストックホルムに移住。1944年に離婚。

45年からリンドグレーンの「長くつ下のピッピ」シリーズの挿絵を手がける。59年12月13日に経済、健康問題から自殺した。

初めて、ニイマンの挿絵でピッピを見たとき、それまでに馴染んできたピッピの落ち着きのある挿絵と比べて幼くて、天真爛漫、とてもパワフルな印象であることに驚かされた。

このピッピなら、地球を持ち上げることだってできそうだ(逆立ちしたら誰にだってできる?)。

こんにちは、長くつ下のピッピ
アストリッド・リンドグレーン (著),イングリッド・ニイマン (イラスト),いしいとしこ (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2004/2/17)

ピッピ、南の島で大かつやく
アストリッド・リンドグレーン (著),イングリッド・ニイマン (イラスト),いしいとしこ (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2006/06)

ピッピ、公園でわるものたいじ
アストリッド リンドグレーン (著),イングリッド・ヴァン ニイマン (イラスト),いしいとしこ (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2009/05)

ピッピ、お買い物にいく
アストリッド リンドグレーン (著),イングリッド・ヴァン ニイマン (イラスト),いしいとしこ (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2015/6/11)

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログ「マダムNの覚書」に10月17日、公開した記事の再掲です。
little-girl-reading-912380_640

前掲の記事で、わたしは次のように書いた。

わたしは過去記事で、感動した那須田稔氏の本のことを書いています。
この方が児童文学界のトップにずっといらっしゃたとしたら(どうしてそうではないのか、事情は知りませんが)……わたしは文学界を糾弾するような、こんな記事を書いていたでしょうか。

それは、山中恒のオンライン論文「課題図書の存立構造(完全再録)」を閲覧していたからであった。

それによると、那須田稔は昭和47年(1972年)当時、日本児童文学者協会の理事、著作権問題委員長、機関誌『日本児童文学』の編集長を務めていた。

また、「過去三回、全国学校図書館協議会(略称SLA)主催の青少年読書感想文コンクールの『課題図書』の選定を受けた、いわば当代一の売れっ子作家」であったという。

ところが、その那須田稔が盗作事件を起こした。8月10朝日新聞(朝・夕刊)、11日読売新聞(朝刊)で報じられたと論文にはある。

この事件は、「那須田の日本文学者協会退会を報じた読売の記事だけで、それに関する児童文学者の公的な論評もないままに終止符を打ってしまった感がある」そうだ。

昭和47年というと、わたしは14歳である。幸運にも、那須田稔の全盛期に小学校から中学校にかけて過ごしたことになる。

山中恒の論文では課題図書批判がなされていたが、「課題図書」は少なくとも読書嫌いの皮肉っぽい1人の子供を本好きにした。

わたしは初めは無理に本を読まされることが嫌で、「あとがき」を読んで選者の大人心をくすぐる感想文を器用に書いた。それで読書感想文コンクールでよいところまで行って全校生の前で褒められたため、すっかり大人を見下すところまで行った。それからは、世の中が本当につまらないところになった。

それでも課題図書や児童文学全集を買って貰ったりして仕方なく読んでいるうちに、次第に文学のすばらしさがわかるようになり、中学1年生では立派な文学少女になって自分でも書くようになっていた。

読書感想文コンクールと文学賞は似ている。文学のよさが真にわかったわたしにはもう、文学賞の選者心をくすぐる作品は書けなくなってしまった。

わたしは課題図書だった『チョウのいる丘』を覚えている。

悲しいお話だったにも拘わらず、読後に何か大きな、温かいものに包まれる快さを味わった。表面上はよい子を装いながら、どこかしらひねくれていたわたしは、『チョウのいる丘』を読んで「更正」したように思う。人間の世界を信じるようになったのであった。

那須田稔の盗用は信じられなかったが、どのような盗用であったのかが知りたいと思い、図書館から、中学校の国語の教材に採用された『少年』が掲載されている晶文社発行『長谷川四郎作品集』第4巻「子供たち」(晶文社、昭和44年1月30日)と那須田稔『文彦のふしぎな旅 <すばらしい少年時代・第一部> (ポプラ社の創作文学 1)』(ポプラ社、昭和45年2月25日)を借りてきた。 
20151017131012a

物語に合った鈴木義春の絵が素敵だ。

『文彦のふしぎな旅』には昭和47年(1972年)8月11日金曜日付朝日新聞が挟まっており、新聞では「子ども文学にも盗作」のタイトルで盗作事件を報じていた。

朝日新聞には「一方、那須田さんの『文彦のふしぎな旅』はこの6月30日(昭和47年)に出版されたとあるが、わたしが借りたのは昭和45年出版の初版だから、新聞記事にある『文彦のふしぎな旅』は版が違うのだろう。

長谷川四郎のコントからの盗用で、前掲の朝日新聞記事に「長谷川さんの原文は、約15年前、小さな雑誌に発表されたもので、その後、晶文社刊行の作品集に収録された」とある。

確かに『文彦の不思議な旅』64頁から65頁までが、長谷川四郎のコントにそっくりである。

少年がジュウシマツを飼う。父親は小鳥をカゴに入れて飼うのは性に合わないという。母親がとりなす。翌朝、少年は父親に「おとうさんはなにも知らないんだな、ジュウシマツは箱の外には住めないんだよ」(長谷川、昭和44、p.136)という。

1羽のジュウシマツが少年が水をとり替えていたときに、箱から飛び出してしまう。少年は追いかけたが、上空からモズがさっと降りてきて、ジュウシマツをさらっていった。

コントでは次のように締めくくられている。

 父親が言った。
 ――箱の中にしか住めない鳥なんて、もう飼うのはよしたほうがいいな。
 少年は黙っていた。父親というものは、なんて心配症なものだろう、と思って。(長谷川、昭和44、p.136)

那須田稔の作品の舞台は1945年夏の満州なのだが、コントの少年は文彦とニーナ(革命後に祖国を追われた人々の子孫である白系ロシア人)に、母親は澄子先生(ニーナを託されている)に、父親がおじさん(澄子先生の夫)に替えられ、次のように締めくくられている。

 おじさんがいった。
「箱の中にしか住めない鳥なんて、もう飼うのはよしたほうがいいな。」
 ニーナはだまっていた。
 文彦は、おじさんってあんがい心配症なんだなと思った。(那須田、昭和45、p.62)

コントはジュウシマツのか弱く、はかない一生を捉えて一筆書きのように描かれ、秀逸である。そして、コントはそれだけのものとして完結している。

那須田稔はコントから霊感を得て、作品を描いたのだろうか。それとも、温まっていた構想をコントが象徴しているように感じたのだろうか。

いずれにしても、最後まで読めば、ジュウシマツがニーナの可憐ではかない一生をシンボライズするものとして、不吉な前奏曲となっていることがわかる。

戦争がもたらす複雑なお国事情に翻弄される少年少女の話はこの作品以外にもあり、構想としてはそれらは似ているが、それは那須田稔がこれら少年少女に戦争によって損なわれた、かけがえのない何かを象徴させたかったからではないだろうか。

だから少年少女はこの世のものであって、この世のものではないものの化身のようで、はっとするような美しさ、透明感を漂わせている。

那須田稔がコントから盗用してしまったのは、魔が差したのだと想像するしかない。

那須田稔ほどの力量があれば、ここに長谷川四郎のコントとは別のオリジナルな、ニーナの人生をシンボライズする断片を挿入するくらいのことはできたはずだ。

当時の那須田稔が執筆に追われていたとの情報が山中恒の論文にあることから考えると、魔が差して、その労を惜しんでしまったのだろうか。

朝日新聞の那須田稔の釈明に「私は長谷川さんの古くからのファンで、好きな文章をよく書き写した経験がある」とある。

プロではないわたしでも同じ経験があり、文豪の作品を読んで参考にしたり、ヒントを得たりすることはあるので、よくわかる。だからといって、勿論このような盗用は許されるものではない。

ただ、それまでの那須田稔の業績が葬り去られてしまう事態になったことに同情のかけらもなく、この一件を権力闘争に利用でもするかのような雰囲気が山中恒の論文から感じられることに、むしろわたしはゾッとさせられた。

当時、課題図書を推進した勢力とそうでない勢力があったようである。

わたしにはどちらも赤い人々に見えるのだが(詳しいことは知らないので、誤解かもしれないが)、同じ赤でも一方は芸術性とヒューマニズムに特色があり、他方はイデオロギー色の強い、子供の自由を謳うようでありながら抑圧的な印象である。

那須田稔の盗用の罪は、芥川龍之介に比べると、こういっては何だが、ささやかといってよいくらいに軽い。わたしはあくまで芥川に比べると、といっている。重大な不祥事に比べると、如何にも軽い不祥事でありながら、失脚させられる政治家が珍しくないように。

那須田稔は主題を空高く羽ばたかせるために盗用したが、芥川龍之介は羽ばたいていたものを捕まえるために盗用した。

例えば、『蜘蛛の糸』はドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』第七篇第三「一本の葱」を盗用したものだ。

小話の背後にあるドストエフスキーの思想に対する配慮もないままに無造作に盗られているため、一幅の絵となる短編となってはいても、それはあくまで装飾的な、深い内容を伴わない張りぼて作品でしかない。

那須田稔は盗用したコントをパン種に加えて、単行本1巻の分量の児童文学小説へと香ばしく膨らませた。

芥川龍之介の盗用癖はこれに留まらないというのに、芥川の作品はあちこちの出版社から出ているばかりか、日本の文豪の一人ですらあり、純文学の登竜門とされる芥川賞には彼の名が冠されている。

芥川の盗用――材源と書かれている――については、『芥川龍之介全集別巻』(吉田精一編、筑摩書房、昭和52年)の中の「芥川龍之介の生涯と芸術」(吉田)に詳しい。そこには、62もの「ほぼ確実と思われる出典」がリストアップされている。

那須田稔はこのような事件さえ起こさなければ、日本を代表する児童文学作家として世界に羽ばたいていたのではないだろうか(それに続く作家も多く出ただろう)。

いや、今からでも遅くはない。そのために中止となった那須田稔選集が上梓されればいいのにと思う。

わたしは前述の『チョウのいる丘』が忘れられない。中古で購入した人々の心打たれるレビューがAmazonで閲覧できる。

傍観者の一見方にすぎないのかもしれないが、那須田稔の失脚で、日本の児童文学の質が大きく変化したことは間違いないように思われる。

純文学的色調が主流だったのが、ほぼエンター系一色となってしまったのだ(翻訳物を除いて)。恐ろしい話である。

このままでいいはずがない。

ひくまの出版から出ていたアンネ・エルボーの絵本も2冊、図書館から借りた。
20151017130656 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

不思議な接着剤1: 冒険前夜

  直塚万季 (著), yomi (表紙絵)
  出版社: ノワ出版; 1版 (2014/9/15)
  ASIN: B00NLXAD5U

内容紹介

本文より次巻で、中世ヨーロッパへ、時間旅行をすることになる3人の子どもたち。
本巻では、それを可能にしてくれる不思議な接着剤と子どもたちとの出あいをえがきます。
不思議な接着剤「クッツケール」は賢者の石100パーセントの超化学反応系接着剤、発売元はアルケミー化学工業株式会社。
「クッツケール」の背後には時空をこえて商売の手をひろげる企業連合の存在がありますが、この作品ではまだほんのり、すがたを感じさせるていどです。

不思議な接着剤に出あった子どもたちの心の動きを鮮やかにえがき出し、生きることの美しさ、せつなさを訴えかけます。


本文より

{ 瞳は、竹ぐしとパレットナイフを用いて、ケーキを型から取り出す作業を進めながら、しずかに話を聞いていました。

 ですが、翔太に起こったこと――いえ、弟に自分がしでかしたあやまちを紘平が話したとき、瞳は身をふるわせて作業をやめました。

「ねえ、紘平くん。それって、夢とか、ゲンカクとかじゃないの? わたし、しんじられない」

 瞳は、かしこそうな目をすずしげに見開いて、それ以上、紘平が話しつづけることを拒否するかのようでした。}
 

もくじ

1 おとうさんの部屋で
2 くっついたピアノ協奏曲
3 どうすればいいのか、わからない
4 青い目のネコ
5 明日は、しあさって
6 冒険へのいざない
あとがき
 

本書は縦書き、小学4年以上で習う漢字にルビをふっています。

サンプルをダウンロードできます。
     ↓

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

スタジオジブリ作品・米林宏昌監督『思い出のマーニー』を観た。
girl-562157_640

とても美しい映像とマーニーの魅力に惹かれたが、いつもジブリ作品に感じるように、今回も違和感があった。

原作をわたしは岩波少年文庫版、松野正子訳で読んでいたので、原作とどう違うか、比較したくなった。というのも、原作には全く違和感がなかったので。

今ここでそれを丹念にやっている時間がない(今月中に仕上げたい小説があるので)。で、書きかけになるが、少しだけでもメモをとっておこう。

以下、ネタバレあり、注意

児童小説『思い出のマーニー』は、イギリス児童文学の伝統を感じさせる作品だと思う。

『マーニー』を読みながら、わたしはエリナー・ファージョン『銀のシギ』を連想した。イギリス最大の入江であるザ・ウォッシュがあるというイングランド東部、北海に面したノーフォーク州がどちらにも出てくるからかもしれない。

また、タイム・スリップといってよいと思うが、主人公アンナの生きている時間がマーニーの時代にたびたび入り込むところはフィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』を連想させた。発表年を調べてみると、『トム』は1958年、『マーニー』は1967年となっている。

アンナの内面描写からは、少年少女の内面を豊かに描いたイギリスの児童文学の中でも、キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』を連想させられた。ニュージーランドに生まれて、主にイギリスで純文学小説を発表した短編小説の名手キャサリン・マンスフィールドの繊細な心理描写なども連想させられる。

そして、マーニーが誰であるのか――という謎解きの場面で、皆が話し手のまわりに集まって話を聞くところは、アガサ・クリスティの推理小説を連想させられるではないか。

お金持ちの家に生まれながらマーニーは孤独な子供時代を過ごし、幸せな結婚をするが、その暮らしは長くは続かず、娘との仲もうまくいかなかった。

娘は家を出て、結婚し、女の子をもうけたが、離婚。再婚後の新婚旅行中に交通事故で亡くなる。祖母のマーニーは孫を引き取って、懸命に育てたが、娘の死のショックを乗り越えることができず、病気が重くなって亡くなる。

残された3歳になる女の子は子供のためのホームへ送られ、やがて一組の夫婦に引き取られた。奥さんは女の子を可愛がるが、女の子はその奥さんをお母さんと呼ばず、おばちゃんと呼ぶ。

アンナはおばちゃんと呼んで、自分を引き取ってくれたミセス・プレストンにうまく打ち解けられないが、嫌いでは決してない。ミセス・プレストンの、アンナに愛されているかどうかといったことに関する自信のなさそうな様子や、不自然な態度に対して抵抗を覚えているだけなのだった。

そんな少女の内面が心憎いほど精緻に描かれている。アンナがマーニーと出会う場面は美しく、神秘的である。

なぜアンナが少女だったころのマーニーの世界に入り込むことができ、一緒に遊べたかは解釈によるのだろうが、どちらも愛情に飢えたところがあり、自然体で愛し、愛されることに強い欲求がある。どちらも繊細で共感能力が高い。

しかもふたりには血縁関係があり、共に過ごした時間があったのだ。それにも関わらず、大きな時間のずれがあったために、ふたりは共有した時間をうまく生かすことができず、一方は亡くなってしまい、他方は幼いまま取り残された。

同じ年齢で時間の共有ができさえしたら、ふたりは無二の親友になれたであろうに――その時間のずれという理不尽さを超えるほど、マーニーは残された時間を最大限に使って孫を純粋に愛した。

そのような愛情は決して消えることがないとわたしは神秘主義者として知っている。イギリスの神秘主義は児童文学に豊かに息づいているとわたしは考えている。マーニーの純度の高い、豊かな愛にジョーン・ロビンソンは作家として形式を与えたのだろう。

原作がすばらしかったために、映画では残念に思うところがいろいろとあった。

まず映画では構造上のいい加減さが目につく。映画の場合は死んでいるはずのマーニーのほうから積極的に関わってきているかのような幽霊譚の趣があるが、タイム・スリップに思える場面もある。

そうでなくては、アンナがマーニー以外の人々や当時の情景を一緒に体験することは不可能だろう。しかし、アンナがマーニーと会ったあとで眠ってしまったり、倒れたりするところを見ると、病的なアンナの白昼夢だろうかと思え……何でもありの手法に、こちらの頭の中は混乱してしまうのである。

神秘的な描き方をすればするほど、押さえるべきところはきっちり押さえ、守るべき法則は守らなくては鑑賞に耐えない、いい加減な作品だという誤解を生むだろう。

少女たちの内面や行動、それに対する大人たちの描き方にも不自然や非常識を感じさせるところがあって、手抜きを感じさせるところが多々ある。

映画は原作をなぞっているようで、肝心のところでそうではない。

原作では重要な役割を果たすワンタメニーじいさんだが、映画では存在感に乏しい。マーニーとアンナの双方を知っている、知恵遅れのように描かれているこの老人こそ、鍵となる人物で、異なる二つの時間帯を行き来する渡し舟の船頭なのかもしれない。

原作の最後のあたり、帰省する日にアンナが別れを告げに行ったのはワンタメニーじいさんだけだった。

映画では、引っ越しの挨拶に隣近所を回る大人みたいで、「ふとっちょぶた」にまで挨拶していた。「ふとっちょぶた」の描かれ方も違う。原作ではアンナは「ふとっちょぶた」と気が合わないため、思わず口喧嘩になった、それだけのことである

映画では、「ふとっちょぶた」といわれた少女は、アンナより1歳上なだけなのに、「おばさん」の縮小版のような外観で、親切なのだが、アンナは過剰反応する。アンナに別れの挨拶をさせることで、制作者は「ふとっちょぶた」を成長戦力のアイテムとして利用しているかのようだ。

そのような説教臭さ、縛りがこの映画にはあり、せっかくの映像の美しさや原作の神秘性を台無しにしている気がする。原作では時空を超えて拡がりを見せる人間愛が、映画では、孫を村社会に溶け込ませることに成功した幽霊のお話(お茶の間劇場)となってしまって、甚だ後味が悪い。

原作にある「内側」という言葉の意味を映画では矮小化している。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

図書館から借りてきた本、フィリパ・ピアス作『サティン入江のなぞ』(高杉一郎訳、岩波書店、2002年第6刷発行)

『サティン入江のなぞ』を読み出したのが零時を回ってからだったかどうかは覚えていないが、夢中で半分読んだ。

そして、つくづく感心して「さすがだ、イギリス文学の伝統を想わせる意識の流れを捉える手法……」とメモしたとき、胸の辺りから溢れてくるオーラの光で眩しくなり、メモを取る手を止めた。

部屋の中が白い虹色の光沢を帯びた、まばゆいオーラの光でいっぱいになった。

自分の中から出たものであっても、美しいものは美しい。

世俗にどっぷり浸かり、いろいろな不安でいっぱいの暮らしなので、自分の中にこれほど力強い光源が存在しているということをすっかり忘れていた。

この光源は誰にも内在しているはずだ

さあ、徹夜してでもあと半分読んでしまおう。

すばらしい文学作品がどれほど人間性を高めてくれる存在であるかが、自分のオーラを観察しているとよくわかる。

急いで読書しているのは、二つの図書館から合計20冊借りていて、どちらも返却日が迫っているため。

返却したらしばらく借りるのをやめ、初の歴史小説に没頭しよう。

もう逃げられない。書き始めるしかない。といってもまずは数編の短編から。

それを書くことで、萬子媛に関わりのある歴史の要所要所を可視化していきたいと思う
(2014/07/13 蒸し暑い深夜に)

  追記:

 後半部も読んだ。完読後の感想としては、物語が大団円を迎えるのはいいが、うまくまとまりすぎて、それまでは物語がシビアすぎるくらいシビアに進んできただけに、いささか不自然で、ピアスにしては……との意外な印象を持った。

 シビアすぎるくらいシビアだっただけに、これが児童文学であるため――大人の小説としても読めると思うが――明るい結末にしたいという作者の思いがあったのかもしれないと想像する。

 何にしても、心理劇といってよいくらいに少女を中心として登場人物全員の心理に気を配り、その変化する様を描いて文章を彫琢する作者の手腕に圧倒された。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

もうひとつの夏

那須田 稔 (著)

出版社: 木鶏社 (1993/11)

作りすぎのきらいがありはしないか?

以下、ネタバレあり、注意!

朝鮮人と日本人とのハーフの少年キムは炭鉱事故で父親を亡くし、失踪した母親を探して海辺の町にやってきた。そこで、彼は戦争で息子を亡くしたショックから頭のおかしくなった源じいと暮らしている。

源じいはキムがトランペットを吹いてやると、喜ぶのだった。源じいだけは、朝鮮人のキムをいじめなかった。

泳ぎの達者なキム。トランペットの上手なキム。黒い小イヌを連れているキム。キムは神出鬼没で、どこか透明感があって魅力的に描かれている。

主人公一郎の叔父は、引き揚げ船の中で知り合った金山と名のる朝鮮人の老人から、息子に会ったら渡してくれるようにとお守り刀を託される。戦争中に日本に渡ったまま行方不明になった息子を探すために密航した金山は、それが露見し、朝鮮へ強制送還されることになったのだった。

そのことを叔父が小学6年生のときに書いた作文で知った一郎は、金山の探していた息子というのはキムの父親ではないかと想像し始める(そうではないことが、あとでわかる)。

そのキムに、養殖魚泥棒の濡れ衣が着せられる。

どこかロマンティック、図式的な描き方で、わたしには違和感があった。

何より、日本で生まれ育ったキムが、際立って異邦人のムードを湛えているところに不自然さを覚えた。

キムが生まれ育ったと思われるような廃坑町に夫の転勤で長く暮らしたため、よけいにそう感じられるのかもしれない。

キムは炭鉱事故で父親を亡くしたそうだが、そこには朝鮮人が結構住んでいたのではないだろうか。

キムはあえてそこを出て、日本人の母親を探しに来た。

母親がキムを置いて家を出たのはなぜなのだろう? 母親は海辺の町で既に死んでいたというが、その辺りの事情は一切語られず、海辺の町で源じいが死ぬと、今度はキムは父の国に旅立つというのである。

放浪癖があるのかもしれないが、この辺りの展開が不自然で、キム少年が狂言廻し的に用いられているように感じられる。主人公の一郎がひと夏の思い出として美化するのに都合のよい展開であるような……。

キムを陥れる鈴木建は「ドラえもん」のジャイアンのように描かれている。そして、この鈴木健という中学生もある種の戦争被害者である。

太平洋戦争末期に日本兵が海辺に築いた小さな「とりで」で、若い兵だった健の兄は敗戦に自責の念を覚えて自殺した。それを知った日から、「とりで」に兄への草花を供えるようになったのだが、その「とりで」がリゾート計画のために壊されることになったのだった。

村会議員の父に「とりで」の温存を頼んだが、その願いははねつけられ、健はグレた。父親への反発はともかく、署名活動でもする方がわたしには自然な展開に思え、ここでも登場人物が狂言回し的に使われている印象を拭えない。

一郎が小学6年生なのだから、従妹の由紀子も小学生なのだろうが、エビフライ、黒ダイの刺身まで作る料理上手である。おさんどんに追われて気の毒なのに、ずいぶん活動的で、作者に塩づくりまでさせられそうになる。

一郎との間に生まれた友情はキムを日本につなぎ止めえない。キムを父の国に帰すことで、戦争加害者としての日本人の罪意識を浄化しようとする作者の意図が隠れてはいないだろうか?

また、戦争ロマンティシズム、ノスタルジーというと、語弊があるだろうが、戦争も文化を生んだのだと思わされるようなフグちょうちんや塩づくりが美しく再登場する描き方に、そう感じさせられるものがある。

図書館から借りた『シラカバと少女』を半分くらい読んだとき、注文した本が1ヶ月ほどして届くとの連絡があった。

あと半分は本が届いてから読もうと思っているのだが、『ぼくらの出航』『シラカバと少女』に比べると、この『もうひとつの夏』は作者の創作姿勢にやや甘さが感じられるように思う。

それでも、戦争に関する貴重なエピソードが散りばめられ、作品の随所に美しい描写があり、文章もすばらしいと思う。塩づくり、やってみたくなる。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

『不思議な接着剤 (1) 冒険への道』の表紙です。

絵を担当してくださったのはyomiさんです。
bg2_blog
サイト「足成」から写真素材をお借りして作成した最初の表紙は内容との食い違いが気になっていました。(2)の表紙だといいかもしれませんが。

yomiさんの絵は、時間旅行に入っていく前の変わった出来事を描いた(1)には合っていると思います。

yomiさん、貴重な絵をありがとうございます。

まだ目次やまえがきが残っていますが、公開までにそれほど時間はかからないと思います。

小学4年以上の読者を想定していますが、現実的に考えると、読んでくださるのは大人でしょう。

(2)では冒険活劇といってよいような場面も出てきますが、この(1)ではむしろ、学習教室を経営している母親をそれとなく助けて暮らしている兄弟と、彼らと幼いころから仲よくしている少女――といった子供たちの微妙な心理の動きに焦点を当てた児童小説になっていると思います。

過去記事で書いたかもしれませんが、わたしの両親も隣の家の子のご両親も共稼ぎだったので、わたしと妹、お隣の家の姉弟の4人で、それは楽しく、時には心細いことになったりしながら、助け合って暮らしていた日々がありました。

母親はどちらも電話局に勤めていて、夜勤、宿直がありました(母親たちはよく一緒に出勤していました)。わたしの父は外国航路の船員で、留守が普通のこと。家政婦さんが来てくれていたとはいえ、いつも彼女がいてくれるわけではなく、何でも相談できるというわけでもなく、両親が家にいなくて困ったことがよくありました。

隣の家の子のお父さんも仕事やおつき合いで遅いことがあったりと、子供たちで助け合う場面は結構あったのです。

例えば、大人たちが不在のときにひどい雷が鳴ると、どちらかの家に駆け込んで、薄暗い中、4人で布団に潜り込んだりね。妹と2人だと本気で怯えるだけでしたが、4人揃うとキャーキャーいって、怖いのも楽しくてたまらないようなところがありました。

おなかが空くと、皆でラーメンを作ったり、フライパンでソーセージを焼いたりして、腹ごしらえ。

作品に登場する3人の子供たちを描くに当たっては、自身の子供のころの思い出や、子育てしていたころの記憶、公文教室で働いていたころのことなどが参考になっています。

この(1)があってこそ、(2)での時間旅行が生きてくると考えています。 

『不思議な接着剤』の陰の主役、時空を超えて商売の手を拡げるアルケミーグループが関係する物語は、シリーズにしたいと考えている児童小説です。

『不思議な接着剤』(1)(2)は三人の子供たちが主人公。主人公の一人、瞳という少女の視点で描いた日記体児童小説を既に電子出版しています。『不思議な接着剤』とリンクする部分はあるのですが、カラーが異なります。

サンプルをダウンロードできます。
    ↓

(2)からは舞台がヨーロッパ中世に飛びます。創作ノートを公開していますので、異端カタリ派やマグダラのマリア伝説などに興味がおありのかたはどうぞ。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 以下のまだ下書きというべき記事で、那須田稔氏の作品に感動したと書いた。

 明日、以下の2冊が届く。

きつねの花火 (おはなし名作絵本 12)
那須田 稔 (著)
出版社: ポプラ社 (1972/06)

天馬のように走れ―書聖・川村驥山物語
那須田 稔 (著)
出版社: ひくまの出版 (2007/11)

『天馬のように走れ』は、50円の中古品ながら「美品!」とあったが、新品ではないし、何せ50円なのだから、本の外観についてはそれほど期待はしていない。

『シラカバと少女』は「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です」と表示されたまま。配送予定日のお知らせメールが届かない。キャンセルになるのだろうか。

 早く読みたいので、図書館から借りてきた。他にも――。

シラカバと少女
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1993/06)

もうひとつの夏
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1993/11)

砂漠の墓標―ある十五歳の物語
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1994/05)

ぼくと風子の夏―屋久島かめんこ留学記
那須田 稔 (著)
出版社: ひくまの出版 (2005/08)

忍者サノスケじいさんわくわく旅日記〈21〉魔女がやってきたの巻
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2009/07)

忍者サノスケじいさんわくわく旅日記〈35〉やさしいおひめさまの巻
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2010/09)

ぼくのちいさなカンガルー (おはなしキラキラシリーズ)
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2009/12)

『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記』〈21〉は佐賀県が舞台で、吉野ヶ里遺跡が出てくる。わたしは佐賀県出身なので、どうしても読みたかった。

 その本も昨日借りてきた。借りた本全部をざっと確認するつもりでその本を開いたら、読み耽ってしまい、次に当然のように、大分県が舞台で姫島[ひめしま]が出てくる〈35〉も夢中で読んでしまっていた。低学年から読めそうな本だ。

 平易でとっつきやすいエンター系作品として読めるが、文学に心得のある人間が読めば、伝統的な純文系の書き方であることがわかる。何気ない描写がとても美しい。

〈35〉でサノスケじいさんは、一郎太、ゆかりちゃんと大分県に飛ぶが、やがて見えてきた石仏をサノスケじいさんはこう説明する。

「むかしのひとが、みんなが、しあわせになるようにと、岩[いわ]に仏[ほとけ]さまをほったのだよ。この大分県には、たくさんの岩の ほとけさまがあるよ」

 姫島はアサギマダラという蝶が飛来することで知られ、その蝶が皆を大分県にいざなったのだった。本の中ではアサギマダラがいつ、どこから姫島に来て、何という花の蜜を吸うのか、そして南へはいつ帰るのかが書かれている。

 それによると、アサギマダラという蝶は春、遠い南のほうからやってきて、スナビキソウの花の蜜を吸い、夏が近づくと北の涼しいところへ避暑(?)に向かう。秋にはまたやってきて、今度はフジバカマの花の蜜を吸って南へ帰って行くという。

 今、姫島村役場のホームページ「詩情と伝説の島 大分県 姫島」を閲覧してみたら、トピックスに「2014年06月15日 お知らせ アサギマダラ飛来中」とあった。

 また、本では姫島伝説が語られ、「おひめさま」が出てくる。最後は島は祭で盛り上がり、矢はず岳の山の上にまるいお月さまがのぼる。そんな中、えりちゃんが、突然、空を指さして「一郎太ちゃん、ほら、みて みて」という。

 えりちゃんが指さした先には、「そらにうかぶ べにいろの 雲のあいだを あの やさしいおひめさまが、ながいころもを  ひるがえして、たのしそうに とんでいるのでした」。

〈35〉も面白かった。わたしは卑弥呼に興味があった一昔前に色々と調べ、奈良や佐賀の吉野ヶ里遺跡にも出かけたが、そこでの大昔の暮らしというのがなかなか見えてこなかった。

 それが、本を読んで見えた気がしたのだった。一郎太、えりちゃんと完全に一体化していたので、わたしにも見えた気がしたのだろう。田んぼで働く昔の人々が、こちらを見て手を振ってくれた。川でしじみをとっている子供たちの楽しそうな声が聴こえてきた。子供たちの一人と一緒に「火きりうす」で火をおこした。

 嬉しかったのは、染色の話が出てきたことだった。わたしが吉野ヶ里遺跡を調べて一番印象に残ったのは、甕棺墓から出土した銅剣と貝製腕輪に、茜、紫草、カイムラサキで染めたと思われる布片が付着していたという情報だったからだ。

 現在56歳のわたしが30代で書いた未完の小説「あけぼの―邪馬台国物語―」は現代タッチで、少女小説風のあまい語り口をもつ、粗いところのある、ちょっと恥ずかしい作品なのだが、以下で登場する卑弥呼にカイムラサキ染めの衣装を着せた。

 那須田稔氏の本を読んでいると、物識りになった気がしてくる。居ながらにして旅ができ、日本列島に詳しくなるだろう。

 思えば、子供の頃に読んだ本にはどの本にも豊かな知識が花の蜜のように蓄えられていた。子供には旺盛な知識欲がある。

 わたしは那須田氏の本を読みながら、世界の児童文学全集に囲まれていた子供時代の精神状態に戻っていた。

 健全な読書を可能にしてくれる沢山の本が、那須田氏のような良識ある大人たちによってもたらされていたことを改めて思った。そこは、何て幸せな世界であったことか!

 今の子供たちはどうだろう? 刺激の強い、信頼のおけない、低俗な感じのする沢山の本が子供たちを囲んでいないだろうか? 過激な少女漫画は表現の自由なのだという。

 何にしても、学校が大いに推薦するのは『はだしのゲン』。もう少し大きくなってからは村上春樹か……絶句。可哀想に! そう思ってはいけないのだろうか。どうしても、そう思ってしまうのだけれど。

 そういえば昨日だったか、「ノルウェーの森 中学生 村上春樹 読書感想文の必要性」という検索ワード」でお見えになったかたがあったようだ。

 わたしの考えは当ブログと以下の電子書籍で書いている。

 図書館へ行けば、まだ豊かな世界が広がっているはずだから、図書館で良書に触れてほしいと願わずにはいられない。

 わたしは那須田氏の本で花の蜜をたっぷり吸い、アサギマダラのように「さあ、飛び立とう」という気分になった。

 図書館にある「忍者サノスケじいさん」シリーズは全部読破するつもりだ。子供の頃にこのシリーズを読んでいたら、もっと頭のよい子になったかも……(?)。

 ところで、ネット検索中にたまたま、ある文書を閲覧した。児童文学界の変化の原因を物語るような、少なくとも児童文学界全体に影響したと想像される出来事に関係する文書である。

 そのことを今ここに書いてよいのかどうか、わからない。

 図書館からは以下の3冊も借りた。

サティン入江のなぞ
フィリパ・ピアス(著)
出版社: 岩波書店 (1986/7)

ふしぎな家の番人たち
ルーシー・M. ボストン (著)
出版社: 三陽社 (2001/7/12)

やねの上のカールソンとびまわる (リンドグレーン作品集 (17))
リンドグレーン(著)
出版社: 岩波書店; 改版 (1975/9/26)

 リンドグレーンの「やねの上のカールソン」シリーズは全部子供の頃に読んだが、持っていないので、なつかしくなり、借りてきた。

 そういえば、リンドグレーンのアルバムについて書くといっておきながら、まだ書いていなかった。

 昨夜は『不思議な接着剤 (1)冒険への道』のルビ振りを少しやり(ちっとも終わらないのは数行ずつしかやっていないため)、初の歴史小説のことを考えていた。

 初の歴史小説では、いきなり中長編を書くのは無理なので、まず短編を数編書くことにしたのだが、萬子媛に関係する歴史のどのあたりを崩して第一作に持ってくるのかを考えていたのだった。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 数日間セキュリティ関係の補強に追われたが、昨日は少し『不思議な接着剤  (1)冒険への道』のルビ振りをし(まだやっている)、那須田稔著『ぼくらの出航』を読んでいた。

『シラカバと少女』『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記 35 やさしいおひめさまの巻』 をAmazonとは別のところに注文しているが、入荷するかどうかはわからないとメールが来た。購入できないかもしれない。

『ぼくらの出航』からは、最近の日本人によって書かれたものからはめったに嗅げない、本物の児童文学の薫りがするので、胸いっぱいにそれを吸い込む。

 全体をざっと見、ちゃんと読んだのはまだ半分くらいなので、完読後に――この記事を合わせた――きちんとしたレビューを書きたいが、初の歴史小説も進めなくてはならないので、遅れるかもしれない。

 作品は、まばゆいほどの初々しさ、歴史の断面を見せてくれる確かな描写力、人間の真性に対する明るい信頼に満ちている。

 終戦の混乱のハルビンで、子供たち、そして大人たち、動物たちまで、何て生き生きと描かれていることか。情景描写も美しい。

 わたしは読みながら、伯父たちのことを思い出した。

 満鉄勤務だったわたしの母方の伯父も、手広く製麺業を営んでいた伯母夫婦も満州からの引き揚げ者だった。伯父の奥さんは終戦のとき、既に病気だった。従兄は3歳、その妹である従姉はまだ赤ん坊だった。

 病気のおかあさんを助けて3歳の従兄は御飯を炊いていたというが、一家が引き揚げる途中でその人は亡くなった。

 伯父と再婚した女の人も、やはり満州からの引き揚げ者で、日本に向かう船が嵐に遭い、負んぶしていた赤ん坊が背中からすっぽ抜けて波に攫われたと聞いた。

 彼女は帰国後しばらく、気が触れたようになっていたという。伯父は再婚後一児を儲けて亡くなり、彼女ももうとっくに癌で亡くなったが、一緒にお風呂に入ると、首から背中にかけて一面に火傷の痕があった。綺麗な人だったのに。戦争の傷痕に違いないと子供のわたしは思った。

 それでも、伯父たちの体験がぴんとこなかったけれど、『ぼくらの出航』を読んでいると、それがどのようなものであったかが目に見えるような気がしてくる。

  以下、ネタバレあり。

 作品の中で、主人公タダシの父親がシベリアへ行くトラックに乗せられる場面からあとは悲痛な出来事の連続である。そうしたことがまるで川が流れるように、淡々と書かれている。

 寝込むようになった母親を看病する少年。ソビエト軍の命令で家を立ち退かなくてはならなくなり、着替えをしてばったり倒れた母親をリヤカーに乗せて郊外に出るが、小高い丘に来たとき、母親は息絶えた。

 涙が出てきて、しばらく先が読めなくなった。どんなに無念だったろう。タダシは下手をすれば、残留孤児になっていただろう。

 作品から、勢力図の混乱に伴う複雑な諸相が読みとれる。

 国際都市ハルビンで、終戦や各国の混乱の中、もう敵味方の区別さえつかなくなっているようでもある。それでいて、日本の子供、満人の子供、中国の子供、朝鮮の子供、ロシアの子供……それぞれのお国事情と立場がよく書き分けられている。

 このような作品がなぜ、わが国の文学の主流であり続けなかったのか、そのことを疑問に思うと同時に本当にもったいない、残念なことに思う。どの観点から見ても、見事としかいいようのない文学作品ではないか! 

 ソビエト軍の戦車隊があとからあとから続く場面や、満人の子供ヤンとロシア人の御者との会話などは、まるでドキュメンタリーを観るように生々しい。以下に引用してみたい(頁74-76)。

 戦車隊のうしろから、歩兵隊が行進してきた。どの兵隊も、あから顔で、サルのような顔に見えた。よごれた服、ズボン、みじかいゲートル、やぶれたくつ――。ヤンは、いままで、こんなうすよごれた兵隊を見たことがなかった。
 かれらは、駅まえのヤマト=ホテルのまえまでくると、どやどやと、さけび声をあげてはいっていった。
 まもなく、ヤマト=ホテルのてっぺんに、かまとつちのマークのはいった大きな赤い旗がひるがえった。
(ソビエト連邦共和国の旗だ。)
 スズメの一群が、さえずりながら旗をかすめて、中央寺院のほうへとんでいった。
 ホテルのまえにある肉屋のまどから、ロシア人のマダムの顔がのぞいて、あわててまどをしめた。
 戦車の横を、ひげを長くはやしたこれもロシア人の馬車が、すずを鳴らして、いそいでとおりぬけ、ヤンのかくれているポプラの木の横の小道にはいって、とまった。ロシア人の御者は、馬車からおりてきて、戦車隊をながめている。
(……)
 ヤンは、ロシア人の御者に中国語で話しかけた。
「おじいさん、あなたたちの国からきた兵隊だね。ロシアの兵隊がきたので、うれしいでしょう?」
 ところが、ロシア人の御者は、はきだすようにいった。
「あれが、ロシアの兵隊なものかね。」
「ロシアの兵隊じゃないって?」
 ヤンはけげんな顔をした。
 御者のじいさんは、白いあごひげをなでて、「そうとも。ロシアの兵隊はあんなだらしないかっこうはしていないよ。わたらのときは金びかのぱりっとした服をきていたものだ。」
「へえ? おじいさんも、ロシアの兵隊だったことがあるの……。」
「ああ、ずうっと、ずうっと、むかしな。」
「それじゃ、ロシアへかえるんだね。」
「いや、わたらは、あいつらとは、生まれがちがうんだ。」
 おじいさんはぶっきらぼうにいった。
「よく、わからないな。おじいさんの話。」
「つまりだ、生まれつきがちがうということは、わしらは、ちゃんとした皇帝の兵隊だったということさ。」
 ヤンは、まだ、よくわからなかったが、うなずいた。
「皇帝だって! すごいな。」
「そうとも。わしらは、あいつらとは縁もゆかりもないわけさ。あいつらは、レーニンとか、スターリンとかという百姓の兵隊だ。」
「ふうん。」
 ヤンが、小首をかしげて考えこんでいると、ロシア人の御者は、馬車にのっていってしまった。
(おもしろいおじいさんだな。おんなじロシア人なのに、じぶんの国の軍隊をけなしてさ。いろんな人がいるんだな。)
 ヤンは、そう思った。

 わたしもそう思う。おんなじ日本人なのに、いろんな人がいる。昔も今も。いろんな人がいる――そのことを教えてくれるだけでも、文学とは凄いものではないか。

 そのあとの場面で、わたしたち読者は酒場で再びソビエト兵に再会する。彼らはバラライカという楽器にあわせて、大声で歌をうたっている。彼らが大きな肉をちぎって口に放り込んでいるのを、タダシと一緒に見る。

 彼らはタダシを酒場に引っ張り込み、肉やじゃがいもをご馳走してくれる。「カリンカ カリンカ カリンカ マヤ ヘイ!」と繰り返し歌う、陽気でフレンドリーなソビエト兵たちをタダシは好きになる。

 似た場面を、わたしは林芙美子の旅行記の中で読んだ気がする。

 彼らが見せてくれる家族の写真やドイツの子供たちの写真を、わたしたち読者もタダシと一緒に見る。

 ぼろぼろのズボンを履き、裸足で立っているドイツの子供たち。その子供たちと笑って写真に写っていた年寄りの兵隊は、写真の子供たちを指して「おまえの友だちさ」といい、「あんたのおやじさんのために!」といって、ウォッカをぐっと飲む。傍らの若い兵隊の顔を見て、「世界のおふくろさんのために!」といって、また、ウォッカをあおる。

 明日は自分たちの国に帰っていくというソビエト兵。

 次に、また長い引用になるが(頁128-129)、そうせずにはいられない。この作品は、読み継がれるべきだ。世界中で読まれるべきだ。学校で子供たちに読ませるべき作品とは、こういう作品をいうのではないだろうか。

(じぶんたちの国!)
 タダシの国は、どこなのだろう……。にっぽん、日本はくろい海をこえていったところにういている四つの島。目のまえがかすんできて、日本の地図がうかんできた。地図の上に波がうちよせている。日本の地図がタダシのまわりでぐるぐるうずをまいてまわりはじめた。日本はいまにもちんぼつしそうだ。日本の地図にだぶって、おかあさんの顔があらわれた。むこうから、エンジンの音がきこえる。トラックだ。トラックの上におとうさんがのっている。おとうさんは、おかあさんをトラックにのせると、だんだん遠く走っていってしまった。
(どこへいくの!)
 タダシはさけぼうとしたが、のどがからからにかわいて、声にならなかった。
 波がザブンと立ち、タダシは、ふわふわ、およいだ。大きな波がやってきた! タダシはそのまま、暗い海の底へぐんぐんひきずりこまれてしまった。

 そのあとの感想はちゃんとしたレビューに書くことにして――、作品の最後を見ておくと、タダシら子供たちを救ってくれたのは新しい中国の軍隊であった。その軍隊とは中華民国の国民党だろう。
 Wikipedia:引揚者によると、「満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる」。

 そこからの中国の流れをWikipedia:中華人民共和国中華民国を参考、引用していえば、中国国民党率いる中華民国国軍は、ソビエトの支援を受ける中国共産党率いる中国人民解放軍に破れた。そして、1949年に、共産主義政党による一党独裁国家、中華人民共和国が樹立される。

 国民党政府は、日本の進駐中であった台湾島に追われるかたちで政府機能を移転した。1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において、日本は台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄。

 国際法上の領有権は未確定ともいわれる台湾島地域は、中華民国政府の実効支配下にある。中華民国政府も、中華人民共和国の中国共産党政府と同様に、自らを「『中国』の正統政府」であると主張している。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 目下、kindle本にする予定で『不思議な接着剤1 冒険への道』のルビ振りをしており、そのルビ振りの参考のために岩波少年文庫の本を何冊か傍に置いている。

 その中の1冊に、リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』(大塚勇三訳、岩波少年文庫、2001年)があったので、休憩をとったときに読み返していた。

 この作品の結末と作者の死生観がわたしには謎めいて思え、どう解釈すべきかわからず、もう何度も読んできた。


 以下、ネタバレあり、注意!

 長編児童小説「はるかな国の兄弟」は悲惨な場面から始まる。貧しい地区で火災が起こり、病気の10歳の弟を背負って窓から飛び降りた13歳の少年が亡くなるのだ。物語の語り手は兄を失った弟クッキーである。

 兄のヨナタンは弟にとって、お話の王子のように美しく、優しく、強くて、なんでもできた。弟思いの兄は、死期の迫った弟が死ぬことを恐がらないように、死んだらナンギヤラという「野営のたき火とお話の時代」に行くのだと語って聞かせていた。

 先にそこへ行くはずの弟が残り、弟には「この町じゅうにも、ヨナタンのことを嘆かない人はひとりもなく、ぼくが代りに死んだほうがよかったのに、と思わない人はひとりもいません」というつらい自覚がある。

 ヨナタンに先立たれた今、母親とクッキーにとってお互いはただ一人の家族なのだが、母親は存在感のない人物に描かれている。

 裁縫師として家計を支えている母親が多忙であるにしても、あまりにも描写に乏しいのだ。兄弟にスポットライトを当てるため、作者は故意に読者から母親を遠ざけているようにも思える。

 クッキーにとって、ヨナタンは理想的な兄というだけでなく、父母に代わる人間でもあって、唯一全き他者といってもよいくらいだ。別の見方をすれば、クッキーにとってヨナタンの影響は大きすぎる。クッキーはヨナタンに取り込まれてしまっているかに見える。

 そんな危険な匂いが、冒頭から漂う。

 ヨナタンはクッキーを自分のものとして可愛がりすぎるのである。我が子を溺愛する母親のように。クッキーという愛称もヨナタンが与えたものであって、母親はカッレと呼ぶのだ。

 兄の死から2ヶ月して、兄の待つナンギヤラに弟も行く。死んで他界に行ったと考えてよいのだろうか? 

 ナンギヤラで、星の明るい晩に、どの星が地球かをあててみようとしたクッキーにヨナタンが「地球ね。そう、あれはずっとずっと遠くの宇宙をうごいていて、ここからは見られないよ」というところからすると、彼らは別の星にテレポーションしたのかしらん。

 だが、この作品にSF的な要素はないので、何にせよナンギヤラは人間が死んだあとにいく他界なのだろう。だとすると、ナンギヤラは天国なのだろうか。

 ナンギヤラは中世の村社会を想わせるが、理想郷のようなナンギヤラのサクラ谷で、兄弟は谷の人々と交わりながら楽しく暮らす。暴君テンギルや竜カトラとの戦いが始まるまでは――。

 死後の世界であるにも拘わらず、この世と同じような暴力があり、流血があり、死があり、悲しみがあって、この世にはいない怪物までいるとなると、ナンギヤラは天国ではありえないが、地獄にしてはよいところなので、煉獄といってよい世界と思える。

 クッキーには秘密にされていたが、暴君テンギルに抵抗する地下組織が既にあって、兄はその一員だった。クッキーも一員となる。第一線部隊の目立つ地位にいる兄に対して、クッキーはどちらかというと、彼らを後方で支える側につく。

 クッキーは物語の初めから終わりまで、控えめな存在なのである。常に兄に追従し、兄を信心するよき信徒のようである。クッキーはいつまで経っても主人公にはなれない。兄依存症といってよいくらいだ。

 クッキーも歯がゆいが、その原因に兄ヨナタンの過度な保護や出過ぎたリードがあるように思われ、わたしにはそのことが不気味にすら感じられる。

 彼らがまだこの世にいたとき、弟をなぐさめるためだとしても、ヨナタンは死後の世界を弟に対して規定しすぎたのではあるまいか。クッキーが死んでも天国へ行けず、ヨナタンから借りた煉獄的世界で堂々巡りしなければならないのがヨナタンのせいとばかりはいえないにしても……。

 わたしは神秘主義者だから、死後の世界に関する情報と独自の考えをいささか頑固に持っているが、それをブログや電子書籍で語ることはあれ、他人に強要しようとは思わない。わたしは共鳴して神智学協会の会員になったが、家族を含めて、わたしの周囲に神智学協会の会員は一人もいない。

 人間には死後の世界を自分で想像し、創造する権利があると考えている(こんな考えかたは特殊だろうか)。その自由を、ヨナタンは弟から奪っているように思えるのである(こんな考えもまた、一つの思想であろうが)。

 そういう疑問はわくにしても、この冒険活劇には心に沁みる、美しい場面が沢山あり、ビアンカという伝書バトの出てくる場面などは忘れられない。

 ソフィアのハトたちがほんとに人間の言葉がわかるのかどうか、ぼくは知りませんが、ビアンカはわかっていたように思います。なぜってビアンカは、安心しなさいというように、ヨナタンの頬にくちばしをあて、それから飛び立ったのです。夕方の薄明りの中に、ビアンカは白くきらめきました。ほんとに危険なほど白く。

 戦いは暴君の敗北で終わり、竜カトラも死ぬのだが、この物語はそこでめでたし、めでたしとはならない。犠牲が多く出て、兄弟の馬たちも死に、兄は竜の火に触れたために体が麻痺してしまう。

 そして、この勝利と敗北が残酷に混ざったクライマックスで、奇妙なことに、作者リンドグレーンは物語のはじまりで起きた悲惨な状況を――兄弟の役割を入れ替わらせて――再現してみせるのである。

 場所は、夜のとばりが降りかけた山中。カトラの火――火災の火を連想させる――に触れて体が麻痺したヨナタンにクッキーが「また、死ななきゃならないの、ヨナタン?」と叫ぶと、ヨナタンは「ちがう! だけど、ぼくは、そうしたいんだ。なぜって、ぼくは、もうけっして体を動かせなくなるんだから。」という。

 このヨナタンの言葉には戦慄を覚える。自殺願望のように聴こえるからである。ヨナタンは弟に「ぼくたち、もう一ぺん、とんでもいいかもしれないと、ぼくはおもうんだ。あの崖の下へ。あの草原へね。」という。

 なぜリンドグレーンはこの場面を、火災の場面に似た設定に近づけようとしたのだろうか。実際には全然違う状況にあるのに、である。

 火災の場面では、弟を助けるために兄の犠牲があった。ヨナタンが弟を背負って飛び降りたのは古い木造家屋の三階からだった。

 が、ここでヨナタンが飛んでもいいというのは、クッキーが「ぼくは崖のへりまで出ていって、下をのぞきました。もう、あたりは暗すぎました。あの草原は、もうほとんど見えません。でも、それは目がくらむような深みでした。ぼくたちがここにとびこめば、すくなくとも、ふたりそろってナンギリマに行くことはたしかです。」と描写するような高所からなのである。

 兄ヨナタンの言葉は、どう考えても心中をそそのかす言葉なのだ。

 山を下りるつもりだった弟は、自分たちが別の世界ナンギリマに行ってしまったら、ソフィアとオルヴァルは兄さんなしでサクラ谷と野バラ谷の世話をしなけりゃならないよ、と懸念を口にする。

 それに対してヨナタンは、もうぼくは要らない、というだけだ。「クッキー、きみがいるじゃないか。きみがソフィアとオルヴァルを手伝えばいい」とはいわない。

 兄弟が山中で遭難する危険性がどの程度のものだったのかはわからない。クッキーが山を下りて助けを呼び、体の麻痺した兄を連れ帰って、介護しながらサクラ谷で生きていくこともできたのではなかったか。

 ふたりはもう充分に、サクラ谷や野バラ谷の人々の助けを当てにできるくらいの人間関係が築けていたはずである。

 しかし、あたかも心中でもするかのように兄弟は新たな他界ナンギリマを信じて崖から飛び降り、弟クッキーが「ああ、ナンギリマだ!(……)」と声をあげて物語は幕を閉じる。

 ふたりが飛び込んだナンギリマがどんな世界かというと、ヨナタンの話では「そこでは、まだまだ、たき火とお話の時代」であるという。ナンギヤラが「野営のたき火とお話の時代」だったのだから、その続編的世界ということだろうか。まるでエンドレステープのようである。

 リンドグレーンの死生観については、伝記など読んでもよくわからず、作品から探るしかないが、環境をいえば、リンドグレーンの国スウェーデンはルター派を国教としている。人口の8割がルター派の教会に所属しているという。一方では、エマーヌエル・スヴェーデンボーリのような神秘家を生んだ国としても知られている。

 作品に出てきたカルマ滝のカルマという言葉が気になった。竜カトラは、もう一匹の怪物である大蛇カルムと滅ぼし合ってカルマ滝へ消えていく。

  カルマをKarmaと綴るのだとすればだが、英語にカルマ、 因縁、 宿縁、 因果、 縁、 天命といった意味があるように、スウェーデン語にも宿縁という意味があるようだ。リンドグレーンの死生観にはもしかしたら、東洋的な死生観がいくらかは混入しているのかもしれない。

 Karmaは本来サンスクリット語で、因果応報の原則をいう。

 ところで、わたしはこの記事を書いている途中で病気の発作を起こした。ニトログリセリンを使って具合がよくなったあとで、以下のようなメモをとっている。

ミオコールスプレーをシュッするまでは「はるかな国の兄弟」が死んでから行ったナンギヤラのことが頭に浮かんだりして、怖くなり、あんなとこ、行きたくないとわたしは思った。

でも、物語の世界のしっとりと潤いのある空気が体に染み込んでくるようで、あの世界がリンドグレーンも共に息づく世界であることを確信した。

病人に寄り添うナイチンゲールのような空気だ。

あの世界は死後の世界として描かれてはいるが、この世界のことではあるまいか。

語り手であり、主人公でもあるクッキーはまだ生きていて、夢を見ているだけなのかもしれない。

それだと生きているクッキーの現状は苦しみが長引くだけで、希望がなさすぎるけれど、希望のない現実というものもあるということを、リンドグレーンは多く描いている。もう死にしか希望が見い出せないような過酷な状況を。

ナンギリヤラがいわゆる天国ではないのは、現実にはクッキーがまだ生きている証拠なのではあるまいか。

 ここままで書いてきたが、結論は出ない。疑問は解消しないながらも、この作品がわたしにとって、豊かな、魅力に溢れる物語であることは、どうにも否定しようがない。

 少しまとまりが悪いが、この記事をそのうち語り用の原稿にして、動画「聴く文学エッセイ№3」にしたいと考えている。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

同じ主題を繰り返すアンデルセンの童話 2014 03 02

説明:
聴く、文学エッセイシリーズ№2。
自分が現在意識している場があり、そこからある範囲内に濃密に広がる世界(おらが村)があって、わたしたちは普段そこで喜怒哀楽を覚えながら暮らしているわけだが、アンデルセンは、このおらが村とは異なる世界があるということを、繰り返し語っている気がする。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


 慌てて作ったので、作り直すかもしれません。今度こそ、声が低すぎたような。前のはそうでもなかった……。

 このアバター、また借りてきたのですが、娘が自分に似せて作ったの、といいました。え、そんなわけは。キスするみたいに、よく尖るアバターの口がちょっと困ります。別にそんな口つきしているわけではないのです。エイリアンのアバターとどっちがいいかな。

 お試し版です。ともあれ、文学の動画第1号

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 幸いなことに日本では、小説を書くための基礎的な学力は義務学校で身につけることができます。創作の技法は独学できますし、文芸部などで学ぶこともできます。学ぶことができないのは、独自に育むしかない哲学で、それによって文学観が形成されるのです。

 そういった意味では物書きは求道者に似ており、一人一人が創業者であり、開拓者であって、外の世界に師匠を求めることはあっても、基本的には自分自身が先生であり、生徒のはずです。

 芸術家は皆そうではないでしょうか。

 出来上がった作品を出版社に持ち込み、出版社がそれに惚れ込んだら、契約が交わされます。出版社は印刷所に頼んで本にし、出版取次が流通させ、書店が売る――のはずが、日本の児童文学界ではよほどの経済力かコネでもない限り、そのやり方が通用しなくなっているのです。

 今の日本の児童文学界は日本の中の共産自治区ともいうべき、特殊な社会を形成しています。驚くべきことですが、日本の中に共産圏が存在するのですよ。

 共産主義が悪いとはいいません。日本では言論の自由が存在するのですから。しかし、それが児童文学という日本文化の一分野を占拠してしまうとなると、大いに問題ではないでしょうか。

 一派を形成するのであれば、いいのです。色々な派がある中の一派として存在するのであれば。でも、明らかにそうではなくなっています。いつからそうなのかは知りません。それが、カテゴリー「瀕死の児童文学界」を作り、そこに記事を投げ込み始めてから続けてきたリサーチと観察を通して得た結論です。

 最初、わたしは作品を出版社に売り込むつもりで、持ち込みできる出版社を探しました。10年くらい前には、対面式で持ち込める児童文学専門の出版社が結構ありました。

 今もないわけではありませんが、可能なのは郵送だけです。放置されるか、葉書でお祈りされるかのどちらかだと児童文学作家の卵の皆様はブログに綴っていらっしゃいます。わたしもどちらも経験済みです。

 コネもお金もない貧乏人にとっては、もう賞狙いしかありませんが、そこからの経緯は「瀕死の児童文学界」に書いてきた通りです。発端の記事は以下のようなものでした。児童文学の世界ではよく知られているらしいある賞に応募したところ、創作教室のチラシが送られてきたのにショックを覚えたのが始まりでした。

“2012年3月 4日 (日)
文学の危機――その発端を回想する

ねえ、考えてもみてください。

創作コースとか創作講座といったものは、アメリカ発祥のビジネスです。
アメリカははっきりいって、文学的には後進国ですが、だからこそ、不用意にそんなものがつくれたともいえます。

日本でその種のものができたのは、早稲田大学が最初ではなかったでしょうか? 
こんなものができるようになっちゃ、文学も終わりよね――と誰かと話した覚えがありますが、本当にそうなりつつあるという危機感をわたしは覚えています。

ヨーロッパの偉大な作家(児童文学作家も含めて)の一体誰が、そんなところの出身だというのでしょうか?
このことは、そんなものが必要ないことを示しています。
むしろ、文学という自由な精神を必要とする芸術活動にとっては有害であるとすら考えられます。”

 結論だけいえば、賞も同人誌も、異分子をいれないための関所なのです。さすが共産圏。

 内部でがんばっていらっしゃる方、指導に当たっていらっしゃる先生方の一人一人は一生懸命に善良になさっているのだとは思いますが、圏外から見ると、まことに異常な世界なのですよ。

 同人誌での体験学習を非礼を承知であえて公開記事とさせていただいたのは、おそらく他の同人誌も同じような傾向を持つと思われるからです。

 そこで起きたことは、日本の中における児童文学共産圏の特徴をよく表しています。

 そこは当初わたしが思ったより、遙かに有名かつ有力な雑誌でした。プロの作家、編集者が編集委員で、応募作品の全てにコメントがなされます。

 しかし、そもそも売り込むはずが、何でこんな教育を受けるはめになるのでしょうか。共産圏だからとしか考えようがありません。前述したように、そんな派があっても構わないと思うのです。児童文学全体の中の一部を占める限りにおいては問題ではありません。

 ここが違うと思えば、自分に合う出版社を見つけるなり、もう少し技術力を身につけたいと思えば、文学観の合う創作教室や同人誌を探せばいいのですから。

 でも、持ち込みはほぼ不可能。賞も、同人誌も、創作教室も、エンター系のジャンルに限られている上に特殊な文学観を感じさせられるものしかなく、そのどれもが再教育の必要性を謳っているかのようであり、仕方なくそこに身を置けば、否応なしに一から教育し直されるとなると……それは教育というより洗脳ですが、本来の自分を殺して洗脳に身をゆだねてその世界で生きるしかないとなると……それって、何のための文学でしょうか。それは文学といえるのでしょうか。

 同じような作品ばかり出ているのが不思議でしたが、今ではその原因が特定できました。

 大人の文学の分野では、まだしも、自分に合う同人誌や出版社を見つけることが可能でした。わたしが合うと思ったり、わたしの作品に魅力を感じたりしてくれた作家や何軒かの出版社は、上品で教養があるゆえに力がなかったり、貧乏だったりでした。

 わたしは純文学作品を書き続けるつもりですが、児童文学のほうを本格的に書き始めたいと思い、いわば下調べとして持ち込み、応募、同人誌をリサーチしてきたわけでした。

 しかし、これでは仮によい作品ができたとしても、電子書籍にするしかない現状です。作家の卵としては、ほぼ抹殺された状況といってよいでしょう。

 わたしのブログが抵抗文学ならぬ抵抗ブログ的であり、つい図書館からカロッサやケストナーといった抵抗文学を借りてしまうのは、わたしの執筆環境がそれによく似たものだからなのです。自由なはずの日本において。

 日本のメディアは中国、朝鮮、左翼にのっとられている……と警告するサイトを沢山見かけるようになりましたが、それは本当だと思いますよ。

 特に、子供の世界が危ないと思います。荒れるはずです。日本児童文学共産圏には陰湿なところがあるように感じます。そこで書くしかない人々には鬱憤が溜まっており、仲良しごっこの陰には自由行動を許さない雰囲気があります。子供たちのいじめ合いはその反映にすぎません。

 アンドレ・バーナード『まことに残念ですが… 不朽の名作への「不採用通知」160選』(木原武一監修、中原裕子訳、徳間文庫、2004年)はわたしの愛読書です。

 ひどい言葉で断られようと、作家は編集者と対等に扱われており、健康的な社会だと感じさせます。編集者の断り文句もなかなか独創的です。

 そういえば、一昨日、空間に金色の星のきらめくのが見えました。神秘主義者のわたしには時々、見えない世界からのエールがあります。あながち間違ったことは書いていないというエールではないでしょうか。以下は関連記事(「マダムNの覚書」)。

●2013年4月13日 (土)
 早朝に淡路島で震度6弱。前夜にぼんやりとした黄色い点3つ。
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2013/04/63-749a.html

 ところで、まだ夏休み前なのに(?)読書感想文の記事にアクセスが集中し始めました。新しい記事を書くつもりですが、以下は高校生のために書いた前年版の記事(「マダムNの覚書」)へのリンクです。

●2012年7月28日 (土)
 高校生の読書感想文におすすめの本 2012年夏
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2012/07/post-285f.html

2013年7月 3日 (水) 06:45

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「鬼ヶ島通信」へのわたしの書き込みに対して、編集長から丁寧なお返事と、応募者のお一人からご意見と友情エールをいただきました。

 鬼ヶ島通信HP
 http://onigashima-press.com/

  鬼の掲示板
  http://onigashima-press.bbs.fc2.com/
 
 以下は、それに対するわたしの書き込みです。

“那須田編集長

ご丁寧なお返事ありがとうございます。
那須田編集長にお目にかかったことはありませんが、お優しそうな雰囲気が伝わってきますので、このような書き込みをするに当たって迷ったのですが、どうしても気になったので、書き込みをさせていただきました。一般の人も購読なさることがあると思うので。
今後の編集、がんばってください。


こうやま様
ユニークそうなタイトルが多いので、どんな作品をお書きになるのだろうと思っていました。
「ももたろう」への昇格ですか?
うーん、わたしには難しそうです。ももたろうに昇格したら、きび団子をください。家来にはなりませんが、お団子は好き。
今後のご文運、お祈り致します。”

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 前に、どのアドバイスも参考になりましたと書きましたが、正直にいえば、それは「鬼の創作道場」のレベルがどの程度のものであるかを知る参考になったという意味も含んでいたのですね。

 今の日本では批評されたことは謙虚に受け止め、反論などしてはならないことが暗黙の了解のようになっていますが、これってヘンですよね。口封じのための方便としか思えません。

 バルザックにしても、ゾラにしても、今読んでいるカロッサにしても、様々な批評、批判に対して精力的に反論し、自作を弁護しています。双方の主張がぶつかり合う中で文学観が磨かれたりもするのではないでしょうか。

 わたしは現在本を出されているプロの児童文学作家のブログやレビューの書かれたアマゾンなどをちょくちょく見ますが、互いに褒め合い、宣伝し合っている場面しか拾えません。

 文学論も戦わせない作家なんて、本来の意味でいう作家とはいえないのではないでしょうか。

 で、上記批評を分析してみますと、全体に、これは文学賞への応募作品という水準にある作品に対する批評の仕方ではありませんわね。子供の作文に先生が一言だけ意見を添えるとしたら、こんな風になるのかもしれませんが。

 それでもこれじゃ、その子供が次の作文を書くときの助けとはなりえないでしょう。

 これ以上応募を続けたら、最後には花丸をねだるようになってしまうのではないかという危機感さえ覚えました。純文系雑誌の新人月評など見てもひどいものですが、それにしても、ちょっとひどくはありませんか。

 でも、頑張ってそれに耐え、できれば共産主義者にもなって、30年後ぐらいの作家デビューを目指せたらと真剣に考えたりもしました。

 30年後、わたしは85歳で、2013年、厚生労働省の発表によると、日本人の平均寿命は、男性79.59歳、女性86.35歳ですから、おお、ぎりぎりセーフ。

 自作の弁護に移りますが、わたしは『田中さんちによってきたペガサス』を書くために、乗馬体験をしてから馬が大好きになり、YouTubeで競馬観戦などするようになりました。

 そして、人間を楽しませてくれる馬のレース引退後の運命を知り、そこに思いを馳せたとき、人間の罪深さを思わずにいられませんでした。

 実は今わたしにはお気に入りの牝馬がいるのですが(わたしの想像するペガサスに似ています。優美なところがあるのです)、成績が揮わなくなり、調整のためにレースに出なくなりました。このまま調子が戻らないとなると……胸が潰れそうです。

 危ない運命の迫っている馬の一頭をせめて、架空の世界で助けたかったのです。

 メリーゴーランドから抜け出した木馬が窮地を救う、それも、飛び出したばかりで、外の世界が何が何だかわからない木馬の、他の馬と一緒に走りたいという衝動が他の馬を助けるきっかけとなる愉快な展開にしたいと思ったのでした。

 競馬の馬の過酷な運命を子供に向けて書くためらいは大いにあり、数日悩みましたが、知っておいてもいいのではないかという結論に達しました。

 子供の読者のショックを和らげるためにも、ユーモラスな、美しさもある展開にしたかったのです。メリーゴーランドの着飾った木馬を出したのは、華やかさを演出したいという意図もありました。

 火事の場面は、ちょうど作品を執筆する前に自身が体験したことでした。火元の真上のお宅は5月の連休明けには長かった改修工事が済んで、それを待っていたかのように鳩が戻ってきましたよ。うちにも遊びにやってきますが、糞をするので叱ります。

 あの火事のとき、わたしの想い描くような木馬がいれば、火事で犠牲になった男性も助かったかもしれないと思いました。

 神秘主義者のわたしは、火事の夜、男性がオロオロと見回っているのを感じ、この世のことはこの世に任せるようにとアドバイスしましたけれど(詳細)、まあそれについては、わたしの夢想ということにしておきます。

 子供の読者に対し火事を生々しく描写してみせることのデメリットも数日考えましたが、リンドグレーンの『はるかな国の兄妹』ではもっと悲惨な場面が描かれているのを読み、間近で火事が起きたときの参考になるのではないかという結論に至りました。

 序破急の構成でしたから、2回助けた木馬が最後に助けられる結末にしたいと考えました。

 わたしは自身がメリーゴーランドの木馬のように狭い家の中、限られた執筆環境の中でグルグル回っているような虚しさに囚われることがよくあります。

 いくらかの文学的才能と神秘主義者としての体験を持っているのに、このまま宝の持ち腐れで終わるのかしら。グルグル回っているだけで、何も世のためになっていないのではないかしら。

 その応えを、最後の「急」に求めたのでした。物事に行き詰まったとき、わたしはよくグーグルアースで世界を旅するのです。大きな世界のことを考えることで、救われる気がします。

「木馬にもっとよりそって」という意見がありましたが、ガイドブックを持たずに旅行に出たときのわたしがあんな風で、どこで何をしたらいいのかよくわからないまま、何か気を惹かれたり、誘われたりしたらそちらに行ってしまいますから、木馬だってそうではないかと思ったのですね。

 ところで、いじめを描いたティーンズものが流行っているようですが、少年少女にはそんなときこそ、いじめなどとは無縁なスケールの大きさを感じさせる作品に出合って貰いたいものだとわたしは思います。

「できれば共産主義者になって」と書きましたが、説明を加えますと、今の日本の児童文学界は共産主義者のための楽園というべきか、閉鎖社会になっているという現実が窺えるからです。

 尤も、福音館はプロテスタント系ですが、日本のプロテスタントと共産党は不思議なことに仲がいいそうです。

 知恵袋がその辺りを解説してくれています。


●「日本共産党の中にも基督(キリスト)教信者が居たりしますが、カトリック派が多いの...」
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088386090

 どの出版社のものも、すばらしいのは翻訳物ばかりではありませんか。

 日本の児童文学界自体やその作品群に漂っている閉塞感と暗さの一因は、今の日本共産党的考え方では、他国から攻められたときには滅ぶ以外にないという、未来像を描けないところからきているではないかと思います。武装中立国を目指した時期もあったようですが、まだしもそれだと納得がいきます。

 戦争を知らない子供たちの一人であるわたしは戦争のことなど、できれば考えたくなく、ましてや大日本帝国が行ったといわれるヒトラー並の侵略戦争などもってのほかだと思うのですが、あれはGHQ影響下の日教組による愚民教育の一つで、真実ではなかったという説が最近盛んですね。

 わたしはそれについてリサーチを続けているところですが、共産主義者が大戦中の国難の時に国家転覆を企んで大日本帝国の足を引っ張り、あの戦争を一段と悲惨なものにしたことは間違いないでしょう。愚民政策の一つなのか、馬鹿に美化されていますが。

 攻められたときのことを考えると、防衛は本当に大事ですよね。

 純真な少女時代に、わたしは二人の男性から性的な悪戯を受けました。こちらが清く正しい生き方をしていても、犯される(侵略)ときは犯される(侵略される)わけです。殺されなかっただけでも、儲けものだったと思っています。

 わたしは日本が攻め込まれたら、竹槍ででも戦います。安手の平和論ほど、嫌らしいものはないと思っています。

 わたしの母方の祖母の家系を傍流から丹念に辿れば、やまとのあやに辿り着き、一番近い祖先は元冦の役の功で祖母の実家のあった辺りの土地を賜ったようです。そのとき松浦水軍の一員として戦ったらしい夫の祖先とわたしの祖先は、縁がありそうです。

 祖母は母が13歳のときに亡くなっています。聴いた話では、祖母は名のある軍人の仲人で結婚し、嫁いだときは沿道に見物人が詰めかけたといいますから、名のある軍人に仲人を頼めるような人が祖母の身内にいたのではないかと思い、ググってみました。

 すると、名のある軍人と直接に親しいと考えるには若すぎますが、身内かもしれないと思える軍人が見つかりました。祖母は結婚した年が明治41年で、女学校を出ていますから、明治21年生まれのその人は弟でしょうか? 兄かもしれません。祖母の生年がよくわかりません。

 本当に祖母の身内だったかどうかはわかりませんが、そこから離れて、その男性の一生を軍人の一サンプルとして(?)鳥瞰するとき、海での戦に明け暮れた大変な人生が浮かび上がってきます。

 その人は、明治44年(1911年)、大日本帝国海軍の筑波 (巡洋戦艦)に海軍少尉として勤務したのを始まりとしています。佐藤さとる先生の海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』にこの筑波が出てくるそうですね。

 中尉のときに一旦勤務を離れて、砲術校、水雷校に行っています。そして大尉になるまで巡洋戦艦、戦艦、海防艦、駆逐艦に乗り、海軍大尉のときから海軍少佐のときは主に駆逐艦長。海軍中佐のときは駆逐隊司令など。海軍大佐のときから出てくる鎮附って何でしょうか?  海軍提督府に勤務すること?

 まあ何にせよ、いろいろな軍船や海軍施設などでこの人は勤務して、昭和17年(1942)年に戦死53歳、海軍少将。戦死する前年は駆潜隊司令とあり、これは駆逐艦とは違って、漁船を改造したような小回りの利く小さな船? 

 海軍の船について今調べたばかりで、さっぱりわかりません。間違ったことを書いているかもしれません。 

 31年間もほとんど海に出っぱなしで、もう引退もしたかっただろう時期に、最後は危ない小船に乗って司令中に撃沈されたのかしら?

 その心は知りようがありませんが、お国を守るために必死だったのではないかと想像します。命をかけて守った国が戦後、こんなになるとは知らないで。

 原発反対だってね、わたしは原発は計画的に止めていくべきだと思いますが、急に原発がとまれば、石油や天然ガスに頼らざるをえませんよね。自然エネルギーは大した足しにはならないし、シェールガスは環境破壊や誘発地震がいわれており、結局手っ取り早く頼れるのは石油に天然ガスでしょう?

 タンカーの乗組員だった父は中東情勢が悪いときも、死ぬ覚悟でとりにいっていましたよ。2年近く帰れないこともありました。嵐のときなんか凄いらしくて、優秀な船長候補が狂ってしまったなんて話を聞いたことがあります。若いのに、わけのわからないことを口走って、垂れ流し状態になったんですって。

 西側諸国のこうした行動は中東を刺激し続けているのです。


●2011年6月15日 (水)
 村上春樹:カタルーニャ国際賞授賞式スピーチにおける論理のすり替え
 http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/06/post-5244.html

 反対するのであれば、優れた対案を出していただきたいものですが、共産党は国会じゃ、とりあえず反対するばかりですよね。綺麗事ばっかり。そして、共産党は日本では少数派なのに、児童文学界では多数派という異常な事態がありますわね。 

 鬼ヶ島の先生方にはすばらしい方が多いようですし(楽しみにしていた連載もいくつかありました)、そこに集う書き手も優秀な人々だと思いますが、体質改善が必要なところもあるのではないかと感じました。

マダムN 2013年7月 1日 (月) 01:09

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


 前の記事で、「鬼ヶ島通信」の掲示板に選評のことで書き込んだことをご報告しましたが、それが27日で、深夜に追伸を書き込ました。

“ 「気にかかったこと」の書き込みのあとに、お二方が楽しそうに書き込んでいらして(お一人は新しい編集委員の方ですよね)、ここは問題のあることを書くにはふさわしくない場所なのだろうか、ご多忙そうな編集長に直にメールすべきだったろうかとも思いましたが、とりあえず、追伸をここに書かせていただきます。

わたしの感じ方に偏りがあるのだろうかと自身を疑い、知り合いに電話をして選評を読み上げ、どう感じるかを訊いてみたところ、純文系の創作教室を主宰している男性は「盗作は落とすべきだろう! その漫画家に読んで貰ったら、盗作かどうかは一目瞭然だと思う」といいました。
中学校の校長先生は(児童文学の賞に応募を始めた奥さんの方に電話したら留守だったので、ご主人と話したのです)、「それは盗作かと思っちゃいますね。その類いのことは、あまりわからないけれど」との感想でした。書店員の女性(娘)は「それだけじゃ情報不足だけれど、盗作とまではいかないまでも、それに近いのかな。まぎらわしい書き方だよね」といいました。

わたしは物書きの立場で考えるので、偶然似てしまったのかと思いましたが、創作教室の先生が一番厳しく、一般人でもわたしより厳しい捉え方をするようです。盗作と偶然似てしまった場合では、第一に創作姿勢がまるで異なります。盗作は裁判沙汰になることだってありますよね。

この両極のどちらとも取れる書き方が問題だと思うのです。

作家の卵は弱い立場です。それは子供の立場と同じです。その多くが努力しても努力しても物にならないまま終わります。同人雑誌に掲載されることが一生の晴れ舞台であることだってあるのです。子供と同じく弱い作家の卵を保護できるのは、地位も才能もおありの先生方のような方々以外にありません。卵は簡単なことで潰れてしまいます。

一般の誤解を招きかねないこのようなことが、今後起こらないことをお願いします。事前に調査し、その必要もない程度のことであれば、書き方に注意すれば済むことだと思います。

 創作教室を主宰している男性は、こうもいいました。「掲示板に書き込んだのなら、議論が沸騰しているだろうね?」

 そうでもありませんよ

 わたしが「購読も応募もやめる覚悟で、追伸を書き込みたいと思っています」というと、彼は「ぼくらは、ひとりでやるしかないんだよね」といいました

 ひとりでやっている求道者みたいな仲間が点在し、何かのときにはすぐに意見が聞けるというのは嬉しいことです。これこそ、文学がもたらしてくれた友情です

 でも、編集者のMさんがこの記事をご覧になったら、「まーた、Nさんったら」と呆れられるでしょうね
2013年6月29日 (土) 11:09

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 購読している「鬼ヶ島通信」が届きました。

 購読会員は「鬼の創作道場」に作品の応募ができ、優れた作品は掲載、全応募作品について選考委員による講評が誌上で紹介されます。

 年2回発行で、次の締め切りは2013年8月31日となっています。自由部門と課題部門があり、応募作品は1人2点まで。自由部門の文字数は2000字~12000字以内。課題部門のテーマは「ひび」(タイトルは自由)、文字数は8000字以内となっています。

 投稿方法など募集要項について、詳しくは「鬼ヶ島通信」のホームページへ。
http://onigashima-press.com/
 全応募作品が講評を受けることができるのですから、「創作道場」はまことにありがたい賞だと思います。

  第10回の入選発表は以下の通りでした。
•課題部門 参考作品『夜明けのシーラカンス』


 以下は、ワタクシ的メモです。

 わたしは課題部門に『ぬけ出した木馬』を応募していましたが、12編中、選考会で評価の高かった作品――今回は3作品――に入ることはできませんでした。

 自由部門は20編で、評価の比較的高かったのは7作品だったそうですが、参考作品も掲載されていなかったのは一応募者、一読者としてちょっと残念でした。

 課題部門の参考作品『夜明けのシーラカンス』を拝読したので、これはわたしの簡単なレビューですが、書いておきたいと思います。

 中学二年生の不登校の少女麻衣は、夜明け前の深海に似ているような気のする町を散歩しているときに、軽やかに体操する男の人の姿にリュウグウノツカイのイメージを重ねます。コンプレックスを抱えた自分には、シーラカンスのイメージを重ねます。

 両親の離婚が、少女に起きた半年前の出来事としてクローズアップされます。

 海の生き物たちのイメージを借りる……それは、種類ごとに、また個体ごとにも違う生き物のイメージを限定してしまうことにもなるので、こうした表現法にやや疑問がわきますが、恋愛と友情のあわいにあるような心の交流は、この年齢域特有の心の動きとしてよく表現されていると思いました。

 意外性にはやや欠けるかなという印象でしたが、筆遣いが安定していますね。

 それ以外に、選評に気にかかったところがあったので、鬼ヶ島の掲示板に書き込みました。不適切な書き込みだったかもしれませんが。おまけに赤い字で表示されてしまいました~! 以下。

第50+11号をお送りくださり、ありがとうございます。
「波のそこにも」「ホッコ」を楽しみにしていたのですが、「ホッコ」は神秘性を保ったまま終わったのですね。痛痒感を伴うような、独特の神秘性ですね。物語の世界に引き込まれそうでした。購読が途中からだったので、最初から読んでみたいと思いました。

ところで今日は、気にかかったことがあったので、書き込みをさせていただいています。

「鬼の創作道場」課題部門の『夜明けのシーラカンス』の選評で、柏葉先生が川原泉のコミックに同じ設定のものがあるとお書きになっていましたが、こういった場合、事前に作者に確認をとることはできないのでしょうか?
応募者にとって、作品が掲載されるということは胸がときめくことだと思うのです。わたしでしたら、そうです。でも、選評を読み、「同じ設定のものがある」と書かれていたら、わたしでしたら、地獄に突き落とされた気持ちになりそうです(偶然似ていた場合、無意識的に真似ていた場合です。偶然似ていた場合は、不運としかいいようがありませんが)。
「同じ設定のものがある」「おもしろいと思わせていただきたかった」という意見にもかかわらず、他の先生方の高評価を得て作品が掲載されたのですから、この評自体は、柏葉先生の率直さや、鬼ヶ島の自由な雰囲気を感じさせてくれるものでもありますが、このように書かれると、わたしが作者であれば、相当にダメージを受ける気がします。そして、偶然似てしまう場合は防ぎようがないわけで、作品を応募するのがちょっと怖くなります。
事前に確認がとられ、ここで「同じ設定のものがあるとは知りませんでした」「前に読んだことを忘れており、無意識的に真似ていたかもしれません」「知っていましたが、それが何か?」「魔が差しました」といった真相を物語る作者の声が挿入されていれば、この件は、応募者にとって勉強になる一件となるのではと思います。
追伸

 わたしの『ぬけ出した木馬』に対する講評は以下のようなものでした。

木馬が逃げ出す発想は面白い(金沢)。ぐるぐる回ることにあきた木馬が空へとびたって競馬にまぎれこんだりおばあさんを助けたりする様子がたのしく書けている(末吉)。少年と馬のエピソードに絞ってもいいのでは?(岸井)。もりだくさんすぎて視点がさだまらない(柏葉)。木馬にもっとよりそって、なにをしたかったか書いてほしい(那須田)。

 どのアドバイスも参考になりました。応募するつもりであれば、もっと早く準備を始めて、できれば、次回は課題部門、自由部門の両方に応募したいのですが、文学観の違いは否めず、長居は失礼な気もしていて、応募しないかもしれません。

『ぬけ出した木馬』はワタクシ的には気に入っているので、また電子書籍化する予定です。自分の作品はだいたいどれも気にいってしまいます……子供と同じですから。夢では最近自分の作品が馬になって出てきます。

 最低価格99円になると思います(Kindleではただにはできないので)。そのうち、まとめてétudeというタイトルの作品集にするのもいいかもしれません……。
 
 2013年6月29日 (土) 11:09 

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

後日:申し訳ありませんが、無料キャンペーンは行わないことにしました
アマゾンのKindleストアで販売中の電子書籍『田中さんちにやってきたペガサス』(児童小説)の二回目の無料キャンペーン、題して「光よ風よ キャンペーン」を実施します。


無料キャンペーン期間は、日本時間6月13日午後5時~15日午後5時ごろの2日間となります。無料期間中はダウンロード画面で ¥0 と表示されます。

無料になるのは、ダウンロード画面で ¥0 と表示されている間だけです。くれぐれもお間違えのなきようお願いいたします。 

 一回目のキャンペーン時に、まるく堂様がレビューを書いてくださいました。

まるく堂の電子書籍やろうぜ!
http://marukudo.hatenablog.com/

 2013-04-21
 恐れながらのレビュー(二回目)、「田中さんちにやってきたペガサス」
 http://marukudo.hatenablog.com/entry/2013/04/21/014042 

以下のブログパーツはダウンロード画面・ショッピングカート画面へのリンクにすぎません。プログパーツの価格表示にはタイムラグがありますので、ご注意ください。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 Kindleストアから電子出版した『田中さんちにやってきたペガサス』。この作品は第20回小川未明文学賞に応募して、一次も通過できませんでした。ゼロ次止まりだったのです。
directory-466935_640

  このときの受賞作は『パンプキン・ロード』。以下にAmazonから内容紹介を引用しておきます。



“内容(「BOOK」データベースより)

三月十一日、大地震が起こった。―そしてそれに続く大津波で、早紀(小6)は母を失った。ひとりとなった早紀は、まだ会ったこともないおじいさんをたずねて、パンプキン・ロード(カボチャの道)へ向かった。―それは「目には見えないが、たいせつなもの」をさがすための旅立ちだった。第20回小川未明文学賞大賞受賞作品。”

 わたしは未読ですが、東日本大震災を背景にした手堅い作品ではないかと想像します。タイトルだけ見たときは、もっと軽い、ファンタジー系の作品かと思っていました。

単行本: 183ページ
出版社: 学研教育出版 (2013/2/19)
発売日: 2013/2/19

 ところで、わたしは賞応募のときは、だいたい規定枚数ちょうど書くことが多いので(賞応募も慣れてくると、自然にその枚数になるのですね)、『パンプキン・ロード』が出版に当たって加筆されているのかどうかはわかりませんが、わたしの『田中さんちにやってきたペガサス』も挿絵など入って単行本になるとすれば、だいたいそれくらいの枚数になるのでしょう。

 今確認したところ、わたしの『田中さん……』は応募時点で、400字詰換算枚数118枚になっていました。そうそう思い出しましたが、20回のとき、「募集は50枚からですが、100枚前後の作品の方が読み応えがあります」とあったので、100枚前後がいいとすれば、きっちりだと長すぎるだろうかと懸念しながら心持ち短くして118枚にまとめた覚えがあります。

 以下は、応募当時、わたしが自分のための覚書として、上越市ホームページの小川未明賞「応募案内」「『小川未明文学賞』選考について」から抜粋したメモです(もっといろいろと書かれていました)。dangerこれらの規定は毎回変わるようですから、応募なさるかたはご自分で最新の応募規定を確認なさってくださいますよう。

第20回小川未明文学賞


締切り日……2011年10月31日(当日消印有効)
小学3~6年生を読者対象とした創作児童文学で、内容、形式は自由。
400字詰原稿用紙50~120枚。原稿2枚程度のあらすじを添える。


1.テーマ、切り口(書き出しや章の分かれめ)が新鮮である。
2.構成がしっかりしていて、メリハリが効いている。
3.正しくうつくしい言葉、読みやすい文章、個性的な魅力のある文体。
4.主人公はもちろん、登場人物がいきいき描かれている。
5.現代の子どもたちが共感し、心をひきつけられる作品。


☆募集は50枚からですが、100枚前後の作品の方が読み応えがあります。
  子どもたちを励ます明るい夢や元気が沸いてくる斬新な作品、かつ、小川未明の神髄であるヒューマニティーあふれる作品を期待してやみません。

 わたしの『田中さん……』は120枚弱。

 大人の小説ですと、わたしは150枚前後からが中編と理解しており、120枚は短編、あるいは中編に入れる場合もあるといったところではないかと思います。しかし、小学3~6年生を読者対象とした児童文学作品ですと、中編に入るのではないでしょうか。

 ところが、『田中さん……』は、Amazonの登録情報では以下のように表示されています。

フォーマット: Kindle版
ファイルサイズ: 259 KB
紙の本の長さ: 55 ページ
出版社: ノワ出版局; 3版 (2013/2/21)
販売: Amazon Services International, Inc.
言語 日本

 この紙の本の長さについては、以下のように説明されています。

推定の長さは、Kindle で表示されるページ数を使用し、印刷本に極力近い表現になる設定で計算されます。

 と言い切られると、うーん、Amazonさん、そうなんですか……というしかありませんが、差がありすぎますわね。紙の長さがたった55ページしかないのに、しかも電子書籍なのに、475円の価格は、どうしたって高すぎる印象を与えてしまうでしょう。

 サンプルを無料でダウンロードできますから、そのサンプルの長さで、全体がどの程度の長さのものであるかがおおよそ掴めるはずですが、普通の人はパッと枚数に着目して「何だ、55枚か。それにしては高い。素人の癖に」などと思い、ダウンロードまでいかずに通り過ぎてしまいそうです。

 このあたり、もう少し改善してほしいものです。ページ数の印象は、本を購入する場合の大きな手がかりとなるものですから。

『パンプキン・ロード』の出版日は2013年2月19日。わたしの『田中さん……』は偶然にも同じ頃の出版で2013年2月21日。わたしの誕生日が2月21日なので、初めての電子出版をそれに合わせたのでした。

 で、売れ行きを見てみると、『パンプキン・ロード』は、2013年4月24日14時24分の時点で、

Amazon ベストセラー商品ランキング: 本 - 260,665位
   3314位 ─ 本 > 絵本・児童書 > 読み物 > 童話・文学

 わたしの『田中さん……』は、

Amazon ベストセラー商品ランキング: Kindleストア 有料タイトル - 14,750位
   47位 ─ Kindleストア > Kindle本 > 絵本・児童書 > 読み物
   4957位 ─ Kindleストア > Kindle本 > 文学・評論 

 商業出版された単行本とセルフ・パブリッシングした電子本を、「本」と「Kindle本」という異なるランキングで比較したところで、あまり意味がないかもしれませんが、『パンプキン・ロード』、今のところはそれほど売れていないようです。

 受賞作でさえそうなのだから、ゼロ次止まりの『田中さん……』は、まあ自分にふさわしい場所に落ち着いているのかもしれないと思いました。

『小川未明賞』応募をお考えのかたは、第20回小川未明賞を射止めた森島いずみさんの単行本『パンプキン・ロード』と、ゼロ次止まりだった拙作の電子本『田中さんにやってきたペガサス』を合わせてご購入になっては如何? 

 わたしの本については、近いうちに2回目の無料キャンペーンを実施する予定ですので(キャンペーン中にダウンロードしそびれた方がいらっしやるようでして。世話が焼けますわ)、そのときを利用なさればよろしいかと。

 受賞作を研究することは勿論大事ですが、反面教師とするために、落選作を研究することは意外なメリットがあると思いますよ、ハイ。

 以下の本もおすすめです(お買い上げくださった方々のお陰様でランキングが上がりました。感謝の気持ちでいっぱいです!)。尚、この本は当ブログで一部を公開しているためKDPセレクトには登録できず、従って今後も無料キャンペーンはありません。

 サンプルをダウンロードできます。
    ↓

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 マーク・トウェイン『不思議な少年44号』(大久保博訳、角川書店、平成22年)を読み始めた。「トウェイン完訳コレクション」と名づけられたうちの一冊。

 河合隼雄の著作や当世風ファンタジー作家の作品を漁って読んでいるうちに、ミイラとりが半分くらいミイラになりかけた。

 過日書いた、自分のものらしからぬ短編がそのことを物語っている。

 それで、正気に返るために、伝統的な――といういいかたは適切ではないかもしれないが――昔馴染んだ作家の作品を読もうとしているわけなのだ。

 この作品は、過去80年近くも改竄版が出回っていたらしい。

 わたしは子供の頃にトウェインの『王子と乞食』を何度も読んだ。

 わたしが馴染んできた伝統的ファンタジーと、河合隼雄の影響を無視するわけにはいかない当世風ファンタジーとはどこがどう違うのだろうか?

 村上春樹、吉本ばなな、小川洋子、梨木香歩らの作品を読むと、わたしは最初は万華鏡とか玩具箱、あるいは宝石箱を覗き込んだようで、わくわくし、強く惹きつけられるのだが、そのうち、不安、閉塞感、倦怠感などを覚え出し、不安定な気分に陥ってしまうのが常だ。

 伝統的なファンタジーが自然の賜物である水、時には天与の甘露を感じさせるとしたら、彼らの作品はアルコール風といえる。悪酔いしてしまう。

 それに、彼らの作品は自由な作風のようでいて、案外説教臭い。奇妙な縛りがある。それでいて、人間的な何かを欠く(そんな書きかたがなされているという意味だ)。

 その何かの正体がわたしにはうまく掴めない。というのも、読んでいるうちに変になりそうで、なかなか読破できないからというのもその一因だ。

 現に今も、研究の一時中断が必要だと感じている。

 ジョージ・マクドナルドは3年間牧師をしていたことがあるせいか、彼の作品は説教臭い児童文学作品の代表のようにいわれることがあるが、わたしはその点は全然気にならない。

 マクドナルドの作品の持つ神秘性が印象に残るばかりなのだ。彼の作品ばかりではない、伝統的なファンタジー作家の作品には本物の神秘性が息づき、豊かに花開いているのが感じられる。

 そこに描かれた神秘は、作家の内的体験を経たものであることを感じさせるだけのリアリティがあるのだ。

 が、当世風作家の描く神秘はそれを感じさせない。紙のように薄っぺらだから、彼らが空想をほしいままにするとき、リアリティに欠ける神秘性では、それらを制御できない。

 空想には人を食い尽くす猛獣のような面もあることを、人は知っておくべきだ。作家に悪気がなくとも、飼い慣らされないまま巷に放たれた猛獣は人を餌食にしたりもするだろう。

 そう、彼らが空想を放縦に扱う様はまるで子供が危険物を扱うような見ていられなさなのだ。

 また、彼らの説教臭さはマクドナルドのような体験の裏づけがないので、説教臭いというよりは、イデオロギーのように響いたりもする。

 河合隼雄が『ファンタジーを読む』で行っている作品の分析は、恣意的であるだけでなく、しばしば言葉がうまくつながらない奇妙なものだが、彼は美食家のようによい作品を知っている。

 その美食家が同時に優れた料理評論家とは限らず、シェフの扱いを心得ているとは限らない。

 河合隼雄の影響を受けなければ、当世風ファンタジー作家は彼ら本来の作風を開花させ、その中で自らを成熟させていったかもしれないとわたしは思う。

 河合隼雄に教えられて、わたしはアンリ・ボスコを知り、あまり読んだことのなかったポール・ギャリコを読んだ。

 河合隼雄に教わって読んだアンリ・ボスコもポール・ギャリコも純文学的手法で書かれた伝統的ファンタジーであって、河合に育てられた当世風作家たちの作風とはやはり違う。大人と子供くらいに――創作の技術的な面というより、意識のありようが――違う。

2012年4月18日 (水) 02:23

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 河合隼雄についてググれば、色々と出てくる。

 特に目を引いたのは、教育界への影響として「心のノート」問題。精神医学界への影響として「臨床心理士」資格問題。

 わたしは心のノートなるものの存在すら知らなかったが、Wikipediaによると、
「心のノート・こころのノートは日本の文部科学省が2002年(平成12年)4月、全国の小・中学校に無償配布した道徳の副教材である」という。河合隼雄を中心として制作されたとのこと。

 この心のノートに異議を唱える教育関係者はかなりの数に上るのか、反対運動に膨れ上がったりしているようだ。民主政権下で廃止が求められたりもしたようだから、今頃知るのは、亀すぎると思われても仕方がない。反対派の理由も、一律とはいかないのかもしれない。

 臨床心理士の資格整備に貢献したのは河合隼雄らしいが、この資格に異議を唱える精神科医も少なくないようだ。

 4年前に、わたしが副甲状腺腫の精査のために入院したとき、同室だった女性の娘さんが大学院に社会人枠で入学し、臨床心理士の資格を取得したといっていた。

 カウンセラーとしての悩みなど話してくれたが、わたしは最初、大学院とは医学部の博士課程のことをいっているのかしら、と思い、訊くと彼女は医学部ではないという。

 色々と話しているうちに、臨床心理士とは精神科医の補助的役割を果たす人ということがわかったものの、精神科医と同じ資格を持った助手とは違い、看護師とも違うとなると、医師とも看護師とも違う一種独特のステータスを感じさせる彼女たちの出自が呑み込めないというか、彼女たちは一体どこから涌いて出るのだろうと不思議だった。

 今頃になって、臨床心理士がどうつくられ、どう活動しているのかがわかった次第。

 河合隼雄は教育界、精神医学界――そして、あまり顧みられず、軽んじられることすらあっただけに、ナイーヴな聖域でありえたともいえる児童文学界にも多大な影響を及ぼした、日本人の精神をある時期意のままにした怪物的存在であったことは間違いない。

 河合隼雄のおかしさに言及している専門家の記事も、ググると複数出てくる。例えば、ユング『ヨブへの答え』の訳者である林道義は、ホームページで、河合隼雄の方法論的な誤りを指摘している。

 林道義はWikipediaによると、経済学者、心理学研究者、評論家、日本ユング研究会会長だそうだ。

 作家で河合隼雄と関係の深かった人物を挙げると、村上春樹、小川洋子、吉本ばなな、梨木香歩……なるほど、という感じだ。

 いずれも、物語をつくることへの独特のこだわりを感じさせ、人物の描き方に共通した特徴がある。

 ところで、わたしはつい最近書いた短編で、素材を生かしたいあまり、物語をつくることに熱中しすぎた。

 その結果、登場人物の描き方や動かし方に作為性が目立ち、自分では考えもしなかった問題提起をしてしまい、しかも物語性の重視や細部へのこだわりという、自身の創作欲の流れに押し流されるかのように、その軽くはないはずの問題提起を見過ごしてしまっていたのだった。

 河合隼雄の影響を受けた作家たちには、同じ傾向がある気がする。彼らは文章を書くにも美意識と趣味性が強く働き、物語づくりも巧みであるだけに、登場人物に関するひずみや自身の意図しないところで発生する問題もまた、大きくなるのかもしれない。

 彼らはなぜそこまで、物語ることにとり憑かれているのか? 河合隼雄の鼓舞があったに違いない。

2012年4月16日 (月) 17:46

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 デイヴィッド・アーモンドが、肩胛骨は翼のなごり……というファンタスティックな俗説(All Aboutの解説によると、肩胛骨は鎖骨と背筋で支えられた背中に浮いている骨であるため、通称天使の羽と呼ばれている。翼のなごりとは、その構造から空想した説だろう)を創作の素材としたように、わたしもまた『卵の正体』で素材としたから、イギリスの作家がどんなものを書いたのだろうという好奇心が湧き、図書館から本を借りたまではよかったが、何かここ数日、落とし穴にでも墜落してしまったような心理状態でいた。

 肩胛骨、天使、鳥、恐竜と同じ素材から気ままに、無責任に空想を膨らませたことは同じだが、その捉えかたには(結びつけかたといったらいいだろうか)、強い違和感を覚えたのだ。

 アーモンドも恐竜について言及していたり、ギリシア神話、ウィリアム・ブレイクなど、わたしと興味の方向が似ている。似ているだけに、その感覚のずれに驚き、さらにはこの本が人気があるということに何ともいえない空虚な気分に陥ってしまったのだった。

 夫とはこの点、こうした根本的な感覚にはずれがないため、本の一部を朗読してどう感じるかを問うと、わたしと同じ反応だったことに深い安堵感を覚えた。

 この作品については後日ちゃんと書きたいと思っているが、ギリシア神話に出てくるペルセポネの話からの引用は――わたしが読んだAmazonのレビューにもあったが――間違っているのではないかと思うし、ウィリアム・ブレイクの詩の引用の仕方のおかしさには言葉が出なかった。

「出たり入ったりする魂」という表現に対する違和感――いや、言葉自体はそれより前のほうに出てくるブレイクの言葉なのだろうが(ブレイクの言葉としてまとまって読むと、おかしいと感じない)、それが人体解剖図にくっつけられることが不自然なのだ。ここでは洒落にはならない。

 ウィリアム・ブレイクの言葉や詩は、他の場面でも引用されているが、意味合いが違うと思うのだ。

 どうしても村上春樹を連想させられるアクセサリー的引用の仕方であり、複数の登場人物はアーモンドの思想を分かち、説教する代理人のようである。ファンタジーを装っているが、宗教書のようだ。

 この感覚はちょうど、プラトンとアリストテレス、原始キリスト教の文献とローマ・カトリック教の教義、ブラヴァツキーとシュタイナー、ユングと河合隼雄を比較したときに覚える違い、後者に覚える違和感と似たものがあった。

 一見、似ているだけに(後者は前者を部分的に引き継いでいるのだから、似ているところがあって当然だが)、その感覚的、意味合いの違いはショッキングなほどなのだ。

 ウィリアム・ブレイクの詩は率直なヒューマニズムを印象づけられるものであって、むしろアーモンドの作品とは対照的なところがある。含みやもったいぶったところを感じさせない。翻訳の問題もあるのか、詩によっては、解釈に苦しむ部分は出てくるのだが。

 以下にブレイクの「ハエ」というタイトルの詩を紹介しておく。アーモンドの『肩胛骨は翼のなごり』ではこの詩が素材としてあまりに直接的に使われているように思えるだけでなく(スケリグとあかちゃん、スケリグとマイケルとミナのダンス)、もしそうだとすれば、意味合いが変えられてしまっていることになる。

 上に書いたように、後日、デイヴィッド・アーモンドについてはもう少しちゃんとした小論を書く予定。

  ハエ

    ウィリアム・ブレイク(高島誠訳)
    ※『世界文学全集――103 世界詩集』講談社、1981年


かわいいハエよ
おまえの夏の遊びを
ぼくの軽快な手が
払いのけてしまった

ぼくこそ
おまえのようなハエではないか
あるいはおまえこそ
ぼくのような人間じゃないのか

ぼくだって踊る
酒を飲む 歌をうたう だから
誰かの無知の手で
翼をもぎとられてしまうのだ

もしも思想というものが
生命、力、呼吸であるのなら
思想がないということが
死と同じであるのなら

生きていようと
死んでいようと
このぼくは
幸福な一匹のハエである

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』を電子書籍化していたのですが、疲れたので、すっかり順位の落ちたに違いない子供たち(これまでに出した6冊のKindle本)を見に行きました。

「文学・評論」のジャンルが変で、同じ作品が何度か出てきたりして……不具合なのか、疲れているわたしの目が変なのか。

『田中さんちにやってきたペガサス』を買ってくださったかたが2人ありましたが、それ以降は売れず、売れることを期待してはいけないわねと思いかけていたところでした。

 売れる売れない、あるいはランキングの順位などが気になり出すと、気が変になりそうで、一種のギャンブル中毒になりそうです。

 自分の作品が埋もれてしまうのは仕方がないとしても、優れた哲学や文学の著作がアダルトやエンター系の中であっぷあっぷしているのを見ると、本当におかしくなりそうでした。

 で、初心を忘れないようにしなければと思い、第一にはよりよき保管を求めた結果が作品の電子書籍化だったのだからと、その作業に集中することにしました。

 でも、今日はもう寝ることにし(といっても、もう朝ですが)、その前に、本の順位がどれもなぜかいつもと違う気がしたので、念のために売れたかどうかを確認しておこうと思いました。

 やはり売れていないわね、と思いつつ、何気なく、他の国のAmazonを見たところ、『マドレーヌとわたし』が「Amazon.com(インドを含む)」で1冊売れているではありませんか! 海外でも販売はしていましたが、実は売れるとは想像していませんでした。 

 アメリカにお住まいのかたかインドにお住まいのかたかは存じませんが、ありがとうございます。

 そういえば、一昨日くらいから、『マドレーヌとわたし』の著者表記がなぜかローマ字表記になってしまっています。ググってみたところ、同様の現象は時々発生しているようです。KDPに日本語表記に戻してほしいとお願いしたのですが、まだ直っていません。海外のKindleストアでは勿論、ローマ字表記でないと困るわけですが。

 本の登録のときに、タイトルをローマ字で書くようになっているところは、テキトーに英訳して、その英語タイトルを登録することにし、既にローマ字で登録していた本も、全部英語タイトルにしました。『マドレーヌとわたし』も海外では英語表記となっています。

 海外でも買ってくださるかたがあると思えば、英語タイトルにする意味もあるような気がします。英語版を売ってみたいなあ。わたしの作品は、日本ではもう売れないような気がするのです。息子と息子の女友達に期待したいところですが、なかなか難しいでしょうね。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 短編児童小説『病院で』をkindleストアで販売中です。

 本を登録するときに、本の詳細の項目でタイトル、フリガナ、ローマ字を入力するようになっているのですが、ここで入力したローマ字タイトルがそのまま、海外のKindleストアでタイトルとして表示されていました。

 ならば、いっそ英語タイトルを入力したほうがいいのかどうか。

 わたしは一時日本語版に英語タイトルの併記を考えたりしていましたが、息子と息子の女友達が、わたしが今日本語版として出している作品を英訳してくれる可能性が出てきました(あくまで可能性があるという程度の話です)。

 そうなると、わたしがテキトーにタイトルを英訳してローマ字登録した場合、将来出す可能性のある英語版のタイトルと違ってくるかもしれず、それはまずい気がします。

 ナンにしても、これまではタイトルをローマ字で入力するとき、無造作に入力していました。今後は、単語間に空白を設けるなどの読みやすい工夫をしなければと反省したところです。

 イタリアのKindleストアでもわたしの本はちゃんと出ていましたが、例えば娘が文通しているフィレンツェの書店主さんは日本語をローマ字で読み書きなさいます。少しずつ平仮名も勉強なさっているようですが、日本語の初心者でローマ字でなら読めるという人々もいるということを考えなければと思った次第。

 そうした人々が日本語が上達した暁には、買ってくださるかもしれないではありませんか。電子書籍に関しては長期的なスパンで見ていきたいと思います。ただで長く置いておけるのですから、今すぐに売れなくてもいいのです

『マドレーヌとわたし』の次に出版を予定している純文学小説『台風』については、海外在住の日本人だけではなく、日本語ができない人々にも台風について書いてある小説ということだけでもわかるように、タイトル自体に英語タイトルを組み込んで『台風(TYPHOON)』というタイトルにしようかな。

 いやー、色々と改善すべき点が出てきます。現在Kindleストアに出ているわたしの本はどれも第1版。よりよいものにしたいときは著者が自由に版を重ねることができるわけで、この自由度の高さはありがたい!

 とはいえ、あとで不備を直せるからといった気持ちの緩みにつながってはいけませんから、自戒が必要かと。

 iPhone、Android、iPadで読書できるKindle無料アプリを、Kindleストアでダウンロードできますよ。
 サンプルのダウンロードができます
   ↓

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 短編児童小説『卵の正体』をKindleストアで販売中です。一番に登録した『田中さんちにやってきたペガサス』より、出版完了までの時間が短かったような気がします。

 Amazonからのメールに、今回も著者セントラル利用のおすすめがありました。無料で利用できます。自著の宣伝にはありがたいページであるようなので、早く書かなければと思いつつ、つい後回しになっています。

 著者セントラルというのは、amazonで表示できる著者ページのことで、略歴、イベント情報、写真、ビデオ、Twitterを追加することができ、著者書籍一覧が表示されます。

 カテゴリー「絵本・児童書」は登録数が少ないほうだと思います。この記事を書いている時点では、399。この中には、パブリックである青空文庫のKindle本も含まれています。「すべての小説・文芸」は16,110で、このうち「日本の小説・文芸」は14,327。

 子どもは電子書籍リーダーで読むことは少ないでしょうし、特に絵本などは紙の本で読むほうがいいだろうなという気はします。

 校正に時間がかかりそうなので、今のところ放置状態の拙評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』はカテゴリー「文学・評論」に登録することになると思いますが、このカテゴリーの登録数は28,153。埋もれてしまいそうです。

「ノンフィクション」の登録数は1,636と意外に少ないので、拙手記『枕許からのレポート』を先に電子書籍化するのもいいかもしれません。

 このカテゴリーに一般人の自分史が溢れていないことは意外ですが、自分史の執筆をするほとんどが中年・高齢者でしょうから、電子書籍化は面倒と感じさせるのかもしれません。

 ちなみにコミックスのサンプルをダウンロードしてKindle Paperwhiteで読んでみると、色付きのページは白黒になってしまうのでしょうが、思ったより読めました。

 研究のために、目についたKindle本はサンプルをダウンロードしています。芥川賞受賞作品『abさんご』もサンプルをダウンロードして読んでみましたが、やはりわたしの印象としては趣味の文芸。宣伝がなければ、素人の作品と思ったかもしれません(ファンのかたにはすみません)。

 Paperwhiteで読むと、書店に並んでいるプロ作家の作品は本の装丁、広告の助けを相当に得ているということがわかりますわ。加えて素人の作品はどうしても校正不足が目立つので、そこのところをしっかりとやることで、素人のKindle作家の地位向上(?)に貢献することができると考えます。

 サンプルをダウンロードできます。
   ↓

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 ようやくkindleでの電子書籍出版に漕ぎ着けたという感じです。

 本を登録するとまず「レビュー」の表示が出ました。審査中ということのようです。次に「出版中」という表示に変わり、それから数時間後に「オンライン」という表示になりました。

 出版完了ということのようで、メールも届きました。下記はメールの冒頭部分です。

先日、KDPに提出された本 「"田中さんちにやってきたペガサス"」 がKindleストアで出版されました。読者はこちらから購入することができます。

現在、本はオンラインです

 メールにはkindleストアへのリンクがしてあり、行ってみると、自分で書いた紹介文以外は英語でした。販売地域を全世界に選択したのです。そのあとで、日本のkindleストアに行って確認しました。

 作品の冒頭部分をサンプルとして無料ダウンロードできます。

 中身を確認したところでは問題なし。著者セントラルに登録しましたが、それの中身はまだ書いていません。

 一昨年の今頃は単行本を出す予定でした。そして、昨年の今頃はというと、夫の定年後の継続雇用がふいになったことや、再就職の難航……と続いたため、わたしは自分の単行本を出すどころではなくなり、さらに単行本を出す代わりに娘と行くはずだった海外旅行(長編児童小説『不思議な接着剤』の取材旅行を兼ねていました)も諦めるという先の見通しのなさでした。

 その後、めでたく夫の再就職が決まりましたが、定年前と比べると(それまでも時折の気晴らし以外は倹約していたつもりでしたが)、緊縮財政が必要な暮らしになりました。加えて、別の試練などもあり……一体何なんでしょう?

 少ない額になったとはいうものの、初めて自分のものとなった、少しだけまとまりのあるお金をどう使うかで頭を悩ませ、海外旅行の代わりに娘と東京旅行(東京にいる息子との家族団欒も兼ねていました)、単行本を出す代わりにkindleで電子出版することにしたわけでした。

 電子出版するに当たっての投資としては、日本語ワープロソフト「一太郎2012承」とkindle Paperwhiteを購入しました〔過去記事で書きましたが、これらがなくとも、kindleから無料でダウンロードできるツールがあれば、電子書籍にでき、確認もできます〕。

 表紙絵作成のためには、無料グラフィック編集・加工ソフトウェア「GIMP」をダウンロード・インストールしました。

 本を登録する直前には、ごく近くで火事が発生するという、何だか困難続きの日々。だからこそ、この『田中さんちにやってきたペガサス』の電子書籍化が支えとなり、悦びともなりました。

 息子と息子の女友達がわたしの作品の英訳にチャレンジしてくれるそうなので、もしかしたら、そのうち、英語版を海外で販売することもできるかもしれません。

 電子書籍の出版を続けていく中で、よりよいものにしていきたいと思っています。

 今後共、マダムNのサイトをよろしくお願い致します。気が向かれたら、直塚万季(ペンネーム)の作品をサンプルだけでものぞいてみてくださいね

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック



 この作品に出てくる少年の心配をわたしも共有しています。人間はいつかは誰しも死にますが、死んだ後で自分が(浮かばれない、彷徨える)幽霊になりはしないかということ。書店の児童書のコーナーへ行くと、幽霊モノが氾濫していますが、正直いってわたしはぞっとしますね。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

C.G. ユング
みすず書房
発売日:1988-03

 まだ読みかけたばかりなのだが、明日が図書館の返却日。さすがはユングと思わされる著作であるので、予約が入っていなければ、続けて借り、読破したい。そこで、これはちょっとしたメモ。

 旧約聖書にある『ヨブ記』は大学時代からの愛読書だった。不運に打ちひしがれたときに、『ヨブ記』ほど、心に染み入る著作は少ない。ユングも大学時代に盛んに読み、夢日記はその頃からつけている。しかしユングが『ヨブ記』をどう解釈したのかまでは知らなかった。

 まだ読みかけたところで、全貌は掴めていないが、『ヨブ記』にアプローチしたものとしては異色の作といってよいことは間違いないだろう。

ジークムント フロイト
筑摩書房
発売日:2003-09

 異色の書といえば、ジークムント・フロイト『モーセと一神教』(渡辺哲夫訳、ちくま学芸文庫、2003年)もそうだ。ユダヤ人フロイトのモーセに関する自由な発想に呆然となり、レビューを書く段階にないまま放置状態なのだが、カテゴリー「Notes:不思議な接着剤」で扱っているテーマにリンクするところのある著作なので、ちゃんと書いておきたいとは思っている。

 このフロイトの著作を読むと、ヨセフスのことが連想される。イエスと同時代――紀元1世紀――のユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフスが、モーセを書く際に自由な描き方をしたことを。『ユダヤ古代誌』の訳者秦剛平氏によると、ヨセフスはモーセにスピーチさせる手法を採り入れた。この登場人物にスピーチさせる手法は、トゥキュディデースから継承したものらしい。

 ユングはユダヤ人ではないが、『ヨブへの答え』は、師であり後に袂を分かったフロイトの『モーセと一神教』を連想させる。『ヨブへの答え』においても、発想の自由さに驚かされるが、その自由さがどこから来るかというと、フロイトと同じように分析の厳密さから来るのだ。ユングは『ヨブ記』の神について、「ヤーヴェは現象であって、人にあらず」と書く。

[引用 ここから]……
 無意識のうちにあることは動物的 - 自然的である。あらゆる古代の神々と同様ヤーヴェもそのシンボル体系を持っており、しかもそれよりはるかに古いエジプトの動物の姿をした神々・とくにホールスとその四人の息子たちの姿・を紛れもなく拝借している。ヤーヴェの四つの《生き物》のうち一つだけが人間の顔をしている。それはおそらくサタン・精神的な人間の代父・であろう。エゼエキルの幻視は生き物の形をした神に、四分の三は動物の顔を、四分の一にだけ人間の顔を与えている。他方で「上位の」神、すなわちサファイアの円盤の上にいる神は、人の姿に似ているにすぎない。このシンボル体系はヤーヴェの――人間の立場から見て――我慢のならない振る舞いを説明してくれる。その振る舞いはすぐれて無意識な行生き物の振る舞いであって、それを道徳的に判断することはできない。すなわちヤーヴェは現象であって、「人にあらず」である*。

 * 《世界創造主》が意識的な存在であるという素朴な仮定はゆゆしい偏見と言わざるをえない。なぜならその仮定は後に信じがたいほどの論理的な矛盾を生みだしたからである。たとえば、意識的な善なる神は悪い行為を産み出すことができないと仮定する必要がなかったら、《善の欠如》などという馬鹿げた概念は必要なかったであろう。それに対して神が無意識であり無反省であると仮定すれば、神の行為を道徳的判断の対象とせず、善なる面と恐ろしい面とを矛盾とは見ない見方が可能になる。
……[引用 ここまで]

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

 ここからは、上に書いたこととはまったく別の事柄で、ファンタジーに関する覚書だが、当世風ファンタジーは、ユングの理論を踏襲して「真のアイデンティティー」を目指すつもりの一種の宗教となっているように思える。「真のアイデンティティー」を目指すのはあくまで作者であって、作品は手段にすぎない。登場人物は道具と成り果てている。読者が登場人物に安全に感情移入できた以前のファンタジーとは、別物なのだ。

 彼らは個人的無意識に潜入して集合的無意識に至り、そこで宝物(普遍的物語)を発見して持ち帰っているわけではない。そんな方法論が確立されたという話は聴いたことがない。彼らは、意識的に気ままな空想に耽って、意識的に気ままな物語を綴っているにすぎない。その創作姿勢がひどく不健康に、無責任なものに映る。

 この記事はまだ書きかけです。 

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ