初出=「第36回織田作之助青春賞 受賞作(丸井常春)『檻の中の城』を読んで。コロナ禍で人気の名作2編『ペスト』。」『マダムNの覚書』。 2020年5月 4日 (月) 03:32、URL: https://elder.tea-nifty.com/blog/2020/05/post-5b27bb.html


先に、第26回三田文学賞新人賞 受賞作(小森隆司)『手に手の者に幸あらん』を読んだ。

『手に手の者に幸あらん』は、純文学界でずっと流行が続いている作風で、南の国で行方不明になった熱帯植物研究会の副会長を務めている妻を探しに冒険の旅に出かけた男性を主人公とする冒険ファンタジー小説。

完全な空想小説でも、冒険小説でもない、曖昧な……ああ、またこの手の小説か、と思いたくなる作風だ。織田作之助青春賞とは異なり、応募者の年齢に幅のある三田文学新人賞。受賞者は応募時60歳とあり、年齢にふさわしい手練れの文章家である。

しかし、この作風ではその文章力がもったいない。純文学の書き手なら挑戦すべき内的探究をお預けにしたまま、ファンタジーに逃げているのが感じられるからだ。

純文学界に居座った集団マンネリズム。集団エゴイズムというべきかもしれない。それに忠実な作風で選考委員を安心させる者が仲間に加えられることが繰り返されてきた、純文学界の荒廃。仲間内で利益を分かち合うための巧妙な仕組み。

いつまでこれが続くのだろうか、許されるのだろうか? それに対する抵抗感よりも最近ではこの成り行きを見定めたい思いのほうが強くなった。

読者を内省の深みへと誘う小説と暇つぶしにしかならない小説とでは、月と鼈、生死を一つにする瞑想的読書と生死を分離させる単なる娯楽的読書との違いがある。

神秘主義者としていわせて貰えるなら、前者は後者に比べて、死後に味わえる世界が桁違いに違ってくるのだ、といいたい。なぜなら死後の世界とは、ある意味で、内的世界そのものだからである。

第36回織田作之助青春賞 受賞作(丸井常春)『檻の中の城』では、熊本地震がモチーフとなっている。

熊本地震(くまもとじしん)は、2016年(平成28年)4月14日(木)21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生した地震。
気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜(前記時刻)および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している。日本国内の震度7の観測事例としては、4例目(九州地方では初)および5例目に当たり、一連の地震活動において、現在の気象庁震度階級が制定されてから初めて震度7が2回観測された。また、熊本県益城町で観測された揺れの大きさは計測震度6.7で、東北地方太平洋沖地震の時に宮城県栗原市で観測された揺れ(計測震度6.6)を上回り、国内観測史上最大となった。また、一連の地震回数(M3.5以上)は内陸型地震では1995年以降で最多となっている。

「熊本地震 (2016年)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2020年4月16日 11:35 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

このとき、隣県に暮らすわたしのところも長期間揺れた。娘とわたしは寝室に寝るのが怖くて、すぐに逃げ出せるように玄関前の廊下に寝具を持ち込み、そこで2週間ほどだったか、寝ていた。

その後、熊本市に住む友達と会ったとき、マンションに入った亀裂の話を聞き、熊本城の写真を見せて貰った。熊本城の被災に対する彼女のショックは伝わってきたが、痛ましいお城の写真を目にしても、どこか他人事としてしか受け止められないことがもどかしかった。

『檻の中の城』にも被災した熊本城が登場する。

かつて緻密に並んでいたはずの石は崩れ落ち、意味を持たない塊[かたまり]となって散乱している。構造物という概念は失われ、まるで柄のないジグソーパズルのようだった。月明かりが瓦に鈍く反射して露呈した土塊[つちくれ]が輝く。そんな光景を包みこむように、春夜[しゅんや]の風が吹き抜ける。(三田文學2020年冬季号 №140,第36回織田作之助青春賞,196頁)

友人の見せてくれた写真よりも、この描写のほうが崩れた熊本城の雰囲気を伝えてくれる。冷たい石や土塊に触れ、それらの匂いを嗅いだような錯覚を覚えた。

作者はこのようなしっかりした文章が書けるのに、しばしば、稚拙な文章になる。冒頭でもそうで、読むのを止めようかと思ったほどだった。

ばあちゃんが、マンションの駐車場に集まる鳩に、パンくずをやっていた。その姿を見てホッとした。とても久しぶりの光景だったから。(三田文學2020年冬季号 №140,第36回織田作之助青春賞,193頁)

語り手の「タカ君」は小学生かと思っていたら、男子高校生なのである。そして、タカの祖母は「直角に曲がった腰」をし、「歯のない口」をしている。

老婆はこんなものだろうという既成の見方で設定された登場人物にしか思えないのは、熊本城に対するような独自の見方が欠落しているからだろう。

話もわかりづらく、短い小説ではそれは致命的である。

離婚している両親。タカは商社マンの父と暮らしていたが、小学二年生のときに父がアフリカのどこかに転勤になった。父は熊本の実家に息子を預け、ホームヘルパーを送り込んできた。

タカはヘルパーに対して、「祖父母に育てられた僕にとっては、キヨさんがお母さんみたいなもの」との思いを抱いているらしく、ガタイのよいキヨさんに違和感を抱くこともなかった。

しかし、キヨさんは実は男性であり、よくありがちなジェンダーの悩みを抱えてもいる。熊本城に過度に執着する祖母は、認知症の初期が疑われる状態にある。

熊本地震(熊本城)、ジェンダー問題、認知症といった今日的な材料を使って、作者がよくできた短編小説を書こうと頑張っているのが見てとれるわ、文章はしばしば稚拙になるわ、となると、うんざりしてしまう。

それでも読むのを止めなかったのは、4頁目に出てくる熊本城の描写に惹かれたからだろう。

そして、我慢して読んでいると、なぜタカが祖母ではなく男性であるキヨさんを母のように慕うのか、説得力があると思える場面に出くわした。

キヨさんは、濃やかな心配りをする人物として描かれている。それは気分的なものではなく、多分にプロフェッショナルな意識から来ている。タカの心情を汲み取る術に長けるキヨさんは、祖母のことでも優れた処理能力を発揮して彼の心配を和らげてみせる。

ヘルパーの中で一番優秀な人物を寄越させたのは、父だった。つまり、タカにとって冷淡に見えていた父がそうではないことがわかるようなストーリー展開となっている。

祖母は認知症の初期という要素があったとしても、あまりに地味で生彩を欠いている。それが祖母を差し置いて、キヨさんを母代わりとして立てるための作者の工夫なのか、単に描写力がないだけなのか、わたしにはわからない。

失恋したキヨさん、認知症の疑われる祖母、祖母の病気が気が気でないタカ。

それぞれに傷ついている三人は、熊本城が修復される様子をベランダから眺める。熊本城はこれまでに何度も壊れてきたのだが、その度に長い年月をかけて直してきたのだと祖母は二人に話して聞かせる。読者に希望を印象づける終わり方となっている。

モチーフにもテーマにも目新しいものは何もないのだが、作者が純文学界の集団マンネリズムに感染していないことが感じられた。それだけでも貴重であり、文体やストーリーの不安定さ、危うさが、逆に成長への期待を抱かせもする。

コロナ禍にあって、ほのかな希望の灯をともしてくれた作者に、文学愛好者の一人として感謝したい。