文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

2015年02月

ブログ「マダムNの覚書」に2月23日、投稿した記事の再掲です。
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鈴木大拙の自国の歴史観、宗教観には伝統の輝きがあり、それを継承せんとする意志が感じられる。

知的な把握なしではできないことで、そうすることで西洋など他国の歴史観、宗教観との比較も可能となる。悪戯に自国や自らを卑下したり、悲観したりといったことの以前に、自国の文化に、また他国の文化に興味を湧かせる生き方である。

一方、漱石の場合は、伝統や風土といったものが鋭い感性と観察眼によって捉えられ、魅力的な造形の一要素となっているものの、伝統や風土を形作る歴史や宗教が知的に捉えられた形跡というのは、あまり見られない。

『門』を例にとると、漱石は主人公に参禅させるが、主人公が禅を知り初めようとする段階で禅との関わりを早々に打ち切り、面倒臭そうに、禅あるいは宗教を否定してしまっている。

地の文に、禅や、当時の宗教界の動きなどに関する解説的、解釈的なものはない。一般の読者はそうした作者の心理や動機を分析したりはしないだろうから、文豪漱石の宗教観に容易に感染するだろう。

そして、主人公に、で引用したような、暗殺された伊藤博文に対して暴言を吐かせているが、地の文で、主人公の口吻に関する解説的、解釈的なものは見られず、読者は当時の日本が置かれた政治状況をこの作品から知ることはできない。

巷間の雰囲気を反映させた言動であるのか、主人公の特殊な言動であるのか、わからない。

主人公の言葉だけとれば、井戸端会議における誹謗中傷と変わりないともいえるわけであるが、それが風俗描写としての役割を持たせたものであるのか、作者の一方的な印象操作に終始した洗脳めいたものであるのかは、よく分析されなければならないところである。

いずれにしても、ここでも読者は、文豪漱石の歴史観に容易に感染してしまうわけである。

漱石の小説は、知的好奇心を陽気に、若々しく刺激してくるバルザックのような書き方とは、対照的な書き方なのだ。

漱石は、神格化されているといってもいいすぎではない。

学校で盛んに読まされ、書店で途切れることなく目にする漱石の諸著は、当然ながら日本人の考える指針、生きる指針となってきたわけだが、前掲のような漱石の作品の傾向からは、よく知り、深く考えようとすることには無精な、考え方や歴史観に偏りのある人間を作り出す畏れがあるばかりか、原因のはっきりしない虚無感を植え付けられてしまう懸念がありはしないだろうか。

このノートは、そのうち非公開にする予定の覚え書きにすぎないので、ここでこうした懸念の裏付けを丹念に行うつもりはない。

漱石には共産主義思想の影響があるようだが、それがどの程度の影響であるのか、それが彼に知的な抑圧として働いていないかを、よく調べる必要があるだろう。

鈴木大拙は小説家ではなく、仏教学者(文学博士)であるが、同じ文化の担い手として、鈴木大拙にあって漱石にないのは、文化の継承者としての責任感と、自国そして東洋の思想の特色や優れたところを海外に伝えると同時に、海外から伝えられたものを理解、了解して、調和的に共存せんとする情熱である。

鈴木大拙は神智学協会の会員だったようだが、折口信夫(釈迢空)も神智学協会の影響を受けているようだ。

鈴木大拙について、ウキペディアから拾ってみる。

鈴木大拙:Wikipedia

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (Daisetz Teitaro Suzuki)、1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。〔……〕

来歴
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。
第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より大拙の居士号を受ける(「大巧は拙なるに似たり」)。
1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。〔……〕

YouTubeに、鈴木大拙の動画があった。講演「最も東洋的なるもの」が1~4に分けて公開されている。

  1. https://www.youtube.com/watch?v=ULx4nJW5cXE&list=PL0184DE05416B2F19

  2. https://www.youtube.com/watch?list=PL0184DE05416B2F19&feature=player_detailpage&v=g8PxChBnTBU

  3. https://www.youtube.com/watch?v=-P419xY06E8&list=PL0184DE05416B2F19

  4. https://www.youtube.com/watch?v=M2QXF7qqzKg&list=PL0184DE05416B2F19


1の明治のころの悠長な日本の話、英語と日本語の違いの話が白い。西洋的な自由と東洋的な自由――の違い――について述べられた4は、圧巻。

鈴木大拙に影響を与えた神智学協会について、また明治期の宗教界の動きについて知る助けとなりそうなオンライン論文に、以下のようなものがあった。

過去記事で紹介した以下の本も、参考になる。

ユネスコ創設の源流を訪ねて―新教育連盟と神智学協会
岩間 浩 (著)
出版社: 学苑社 (2008/08) 

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21日の誕生日に、息子が贈ってくれたプリザーブドフラワーです。
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2~3年、持つそうです。リルケの『薔薇』を思い出します。

ライナー・マリア・リルケ 『薔薇』(山崎栄治訳、人文書院、1953年)は名訳です。

これはアマゾン検索でも出てきませんでしたが、わたしは『新潮世界文学32 リルケ』(1971年)で読みました。その本は現時点で、中古がアマゾンに出ています。

新潮世界文学 32 リルケ (32)マルテの手記・神さまの話・エーヴァルト・トラギー・美術論・小品・詩

詩がお好きな方は、前掲の中古本か、図書館ででもぜひ、読んでみてください。
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造花とは異なる繊細さがあります。
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娘が仕事帰りに買ってきてくれた二つのプチ花束。
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これはまだ袋に入っているところ。包装を解き、同じジャムの空き瓶2個に挿しています。うちにある口の小さな花瓶は安定が悪いので、洒落たジャムの空き瓶に挿してみたら、これがぴったりでした。

春の野原の縮小版が運ばれてきたかのようです。

年齢がいくほどに、花の贈り物が嬉しくなります。若いころは花より団子でしたが。プリザーブドフラワーの薔薇も、二つのプチ花束も、本当にありがたく思いました。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月19日、投稿した記事の再掲です。
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1910年3月から6月に朝日新聞に連載され、翌年1月に春陽堂から上梓された『門』で、伊藤博文が暗殺されたことを宗助は運命といい、さらにこういわせている。
「おれみたような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」

宗助は役人である。

ウィキペディアから、この当時のことを拾ってみる。

  • 1909年10月26日 - 伊藤博文が哈爾浜駅で暗殺される(犯人安重根)
  • 1910年8月22日 - 韓国併合: 日韓併合条約調印

こうした御時世に朝日新聞に連載、上梓されたのだから、ずいぶん鷹揚なムードが日本にはあったようだ。

如何にも反日左派を喜ばせそうな宗助のセリフだが、夏目漱石は純文学作家という姿勢でこの場面を書いているのだろうか、大衆作家的姿勢で読者を楽しませることを目的に書いているのだろうか。

この当時は純文学というジャンルはなかったのかもしれないが、フランス文学――特にバルザックに学んだ無頼派などの時代になると、純文学作家(日本式定義によらなくとも、クラシック音楽、ポピュラー音楽の区別と同様の見方で、純文学と大衆文学をジャンル分けできるはずである)としての意識と手法が確立していると思う。

夏目漱石にはこのどちらの意識もなく、前掲の宗助のセリフが無邪気に書かれた――というと語弊があるかもしれないが――ということもありうる。わたしは構想中の評論の中で『門』を採り上げるときに、まず、このあたりから分析してみたい。

非公開にした記事の中で『こころ』を採り上げたとき、宗教に対する夏目漱石の姿勢と教養の度合いに疑問を呈した。この『門』においても、同じ疑問を呈することになるだろう。

水上勉に以下のような文章がある。

  • 水上 勉「一滴の水脈 – 儀山善来 5.参禅して苦しんだ漱石」若洲一滴文庫(最終閲覧日:2015年2月19日)
    http://itteki.jp/ittekisuimyaku/item05/

     これもまた、有名な話でございますけれども、夏目漱石は『吾輩は猫である』『虞美人草』『三四郎』などを朝日新聞に連載して、日本一の文豪であったわけですけれども、その漱石が、たいへん神経を痛めた時期がございました。友人に菅虎雄(すがとらお)という一高の教授がおりました。その人の薦めで鎌倉の円覚寺へ坐禅を組みに行った。まるで頭の中が戦争をしておると、その戦争をとり鎮めたいというふうなことを漱石は菅さんに手紙でいっておりますが、まあ、神経衰弱の強度な兆候だったんでございましょう。
    帰源院という塔頭が今日もございますけれども、そこで宗活という、釈宗演さんの一のお弟子さんでこの方も偉い人ですけれど、この人に案内されて坐禅を組み、円覚寺の隠寮(いんりょう)で宗演老師と会います。老師と居士が会うのを相見(しょうけん)といいますが、その時に釈宗演は漱石さんに、父母未生(ふぼみしょう)以前の本来の面目を見つけてこいという公案を出した。お父さんお母さんの生まれない前のお前さんを見つけてこいと。禅問答というのは難しいもので、私などそういう問題を貰えばいっそうノイローゼになってしまいましょう。きっと漱石さんもお困りになったでしょう。
    帰源院へ帰った漱石は坐禅を組んで七日くらい経ってからでしょうか、考えたことをまた円覚寺の隠寮へ行きまして、宗演さんに答えを申し上げる、宗演さんは側にあった鈴を振って、「そのようなことは少し大学を出て勉強をすればいえる、もう少し本当のところを見つけていらっしやい、チリンチリン」というふうにあしらわれてしまった。自分は門を入る資格はなく、門外に佇んで門を仰ぐに過ぎなかった。喪家の犬の如く円覚寺を去った、と漱石は書いております。『門』という小説ですね、これは。

鈴木大拙は、ここに出てくる釈宗演の弟子であった。サイト「仏教tv.」に、「仏教が西洋へ伝えられた歴史」というエッセーがある。

  • 仏教が西洋へ伝えられた歴史(最終閲覧日:2015年2月19日)
    http://仏教.tv/history.html
     
     仏教が西洋へ伝えられた歴史
     ショーペンハウエルが仏教を紹介
     仏教を重視した神智学協会
     禅仏教が海外でよく知られている要因
     その他の世界での仏教への関心

この中の「禅仏教が海外でよく知られている要因」を読むと、釈宗演と鈴木大拙の関係や、仏教をめぐる当時の動きがわかる。前掲のエッセーから以下に紹介させていただく。1893年、シカゴで世界宗教会議が開かれた。

ここに、日本の臨済宗の禅僧、釈宗演(しゃくそうえん)が
参加しています。

この時の聴衆の一人、偏執者〔ママ〕のポール・ケーラスは、
仏教的な物の見方に感服し、
仏教の基本的文献を英訳して出版したいと思い、
釈宗演に弟子の派遣を要請しました。

この時選ばれたのが、当時23歳の鈴木大拙です。

鈴木は、その後11年間アメリカに留まり、
日本に帰国すると、英語で仏教関連の著作を
数多く著しました。

こうして20世紀に入ると禅という特殊な形で、
1930年代から1960年代にわたり、
アメリカの知識人に仏教が知られてゆくのです。

 
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ブログ「マダムNの覚書」に2月18日、投稿した記事の再掲です。
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評論を書くために、基幹ブログで非公開設定にしたカテゴリー「Notes:夏目漱石」には4本の記事が入っていたが、非公開設定のまま、5本目を入れることになりそうだ。

漱石には胡散臭いところがあると高校時代から思っていたが、やはりわたしの目にはそのように映る。イソップ寓話に「すっぱい葡萄」というお話があるが、あれに出てくるキツネに似ている。

実は、国民作家・漱石に対して怒りを覚えているのだが、なぜそうなのかを、書こうとしている評論に差し支えない程度には次の記事で触れておきたい。少ししたら、この記事も、次の記事も非公開にするかもしれないが。

それにしても、鈴木大拙が神智学協会の会員だったとは知らなかったなあ!

廃仏毀釈前の日本の宗教の本質を、祐徳院(花山院萬子媛)をモデルとした初の歴史小説を通して書こうとしているところだが、もう一つ、廃仏毀釈後のことも漱石にかんする評論を書くことで浮かび上がらせたいと考えている。

再構築された――されようとしていた――日本の宗教とそうした意識の庶民への波及を、文才はあったが、宗教的凡才というだけのこと以上の邪魔立てを、自己を飾ることで行ったと思われる国民作家・夏目漱石の問題点を、浮かび上がらせたいという企てである。

わたしにそんな手腕があるとはとても思えないが……。 

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ブログ「マダムNの覚書」に2月20日、投稿した記事の再掲です。
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民主党の辻本清美氏の低次元の質疑に、安倍首相はあざやかな答弁を行いました。これは、一聴の価値ありです。首相の危機管理意識がどんなものかがよくわかります。

さっそくYouTubeに動画がアップされていました。以下の動画は2/2です。首相のISILへの対応について。この動画の後半のやりとりがなかなかです。

https://www.youtube.com/watch?v=Lm8c86-N1nc

ホームページ「衆議院TVインターネット審議中継」で、国会審議テレビ中継で収録された音声と映像が、ビデオライブラリとしてそのまま提供されています。

「テロの危険が高まっているわけですから、公邸に泊まって下さい」と、しきりに首相を公邸に留めようとする辻本氏。どう考えても、怪しい提案に思えます。

それに、首相が電話で指示していたのかどうかを、しきりに知りたがっていましたが、ISIL(アイシル)がこの国会中継を視聴している可能性を考えると、どんな目的でこんな質問をするのか、大いに疑問です。

辻本氏、今日は化粧が濃いですね。勝負化粧?

以下は、安倍首相の答弁の一部です。

勿論、電話等々というのはしますよ。ただ総理大臣として、こうしたときの案件についてはですね、大きな方針を決めるということではわたしは指示しますよ。でも、わたしは中心的なオペレーターではありませんから、当たり前ですが。
そのために危機管理監というのがいるんですから。危機管理監が基本的にですね、対応というのはやりますし、また情報官もいます。その上においては、官房長官がいるわけでありますから。
わたしが判断するのは大きな方針。そして、判断が、例えば選択肢が出てきたときには、どちらにするという判断はします。そういう、すべき判断はしています。
ただ、例えばですね、身代金を払わない、という基本方針を決めるのはわたしです。そういう対応が必要になったときには、そういう判断はわたしはきっちりとしています。そういう判断を、総理大臣はするんですよ。その判断を間違えてはいけない、これが大切なんですよ。
日々どうするか、オペレーションそのものにですね、わたしが口を出すということを、こんなことをしていたらですね、官邸はまさに、かつてそんなことがあったかもしれませんが、こんなことは絶対にやっちゃあいけないことなんですよ。それがまず、常識だということを申し上げておきたいと思うわけであります。
基本的にですね、大切なことは、総理大臣というのは、そういう判断をするわけであります。

そしてですね、先ほど、確かに二人の人質の例もありますよ。でも、全国ではいろんな事件が起こっているんですから。子供の命が危険に晒される、そういう出来事が沢山起こっているじゃないですか。
でも、それは例えば警察がやる、県警本部がやる、報告は全部あがりますよ。でも、それは、そういう人たちがちゃんとやっていくんですよ。
そういう人たちだってみな、大切な命がかかっているじゃないですか。わたしたちはそういう全体に、わたしは責任を持っているんですよ。ですから、そういうものについて、まさにわたしは責任を持っている。ですから、そういう対応をちゃんとそれぞれの司、司に間違いなくやるように、そういう指示をしているということであります。

いやはや、これが民主政権だったら、いくらでも身代金を悪者に渡しちゃうのかなあ。血税を湯水みたいに使って。お手軽な人類愛で結構なことですが、つくづく自民党の安倍政権であるありがたみを再認識した次第でした。

わたしはよく国会中継を視聴していますが、安倍首相ほど居眠りしない政治家は珍しいと思います。

長時間にわたる審議中、ついウトウトしてしまうことがあってもおかしくない気もしますが、安倍首相の居眠り姿を見たことは、わたしが視聴した中では一度もありません。

常に真摯で、誠実な答弁に、だんだん惹きつけられるようになりました。よく熟睡していた小泉元首相と対照的ですね。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月18日、投稿した記事の再掲です。
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ISILが15日、リビアの海岸でキリスト教の一派であるコプト教徒のエジプト人21人を殺害したとする動画を公開した。

コプト教は原始キリスト教(最初期のキリスト教)の流れを汲むキリスト教である。アフリカには、古くからキリスト教があるのだ。

コプト正教会:Wikipedia

伝承では1世紀(42年頃)にマルコがエジプト(アレクサンドリア)に立てた教会(アレクサンドリア教会)である。451年のカルケドン公会議の後、カルケドン派(現在のキリスト教多数派)から分かれた。

ナグ・ハマディ文書などの初期キリスト教文書についての本を読んでいると、よくコプト語というのが出てくる。ギリシア語からコプト語に翻訳されたと考えられているものが多いようだ。

ナグ・ハマディ文書ではないが、初期キリスト教文書の中に『マリア福音書』と呼ばれる文書がある。ここでのマリアはマグダラのマリアで、マリアを愛弟子として薫育するイエスのありし日の面影や、ペトロとの衝撃的なやりとりを伝える文書で、コプト語版とギリシア語断片が知られている。

考え方が違うからといって、無造作に相手を殺せるような宗教がこの世にあるとは信じたくない。それが宗教の名に値するとは思えない。わたしは昔コーランをざっと読んだにすぎないが、砂漠の民にふさわしい格調高い宗教書であると思った。

要するに、どんな名著、名言でも、解釈を間違えば、とんでもないことになるという例証ではないだろうか。全てが国語力、読解力にかかっているとさえ、思えてくる。

アフリカといえば、わたしは映画を観て原作者に興味が湧き、カーレン・ブリクセン『アフリカ農場』(渡辺洋美、筑摩叢書、1992年)を図書館から借りて読んでいた。ペンネームのイサク・ディーネセンで出ている『バベットの晩餐会』(桝田啓介訳、ちくま文庫、1992年)も借りている。

初の歴史小説のための資料読みも、気分転換に書き始めた短編も、後回しにして。

英領東アフリカ(現在のケニア)で、ブリクセンは夫と共に農場を経営するが、コーヒー園事業と結婚が破綻してのちも、そこでの荘園風の生き方を続けることを望んで、経営の立て直しに奮闘。結局のところ、うまくいかず、帰国するに至った。

ブリクセンは離婚した夫から梅毒をうつされていたのだが、「梅毒をもらってでも、〈男爵夫人〉になるだけの価値はある」といった彼女は、古色を帯びた封建的な、ある種の理想世界をアフリカの一角に形成しようとしたのだった。

わたしは以下の記事で、書いた。

  • 2015年2月15日 (日)
    シネマ『バベットの晩餐会』を観て 追記:文学の話へと脱線「マッチ売りの少女」とリンドグレーンの2編
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/02/post-cdaf.html

    晩餐会が終わったあと、台所で1人コーヒーを飲むバベットの凜々しく、美しい、どこか勝利を収めた将軍のような安堵の表情を見ると、彼女はパリの居場所をとり上げられた代わりに、デンマークの寒村をまるごと贈られたのではないかと思えてくる。彼女は見事にそれを料理したのではないだろうか。

まだ映画の原作となった『バベットの晩餐会』は読んでいないが、農場を荘園に見立てて、その土地を掌握しようとしたブリクセンを『アフリカ農場』で知ると、わたしの映画解釈が間違ってはいなかったのだと思える。

ブリクセンの描写はくっきりとした、わかりやすいもので、状況がよく掴め、光景が頭の中に自然に浮かんでくる。

過酷な生活環境だが、内面世界との境界がなくなっているかのような幻想的でもあるアフリカでの日々の記録は、圧巻である。

それにしても、白人の女性の矜持と胆力は凄いなあと思う。

原住民の二人の子供が銃を玩具にして、発砲事故を起こしたときの凄惨な光景。子供の一人は死亡し、もう一人は顎を撃ち砕かれるが、何とか元気になった。

牛に襲いかかった二頭の雄のライオンを、夜間、ブリクセンがぶるぶると震える手で懐中電灯を持ち、照らす中で、恋人デニスが撃ち殺す場面があった(デニスは自家用機の事故で亡くなる)。

あれはBBCの番組だったか、ライオンの群れの観察記録を観ていたので、そのときのライオンたちの事情がわたしには呑み込めた。それで痛ましく感じたが、一つ間違えば、ブリクセンたちが餌食になることもありえたのだった。

ライオンは、一頭あるいは複数の雄ライオンを中心に雌と子供のライオンたちが集う、ハーレムのようなグループを作って暮らすと番組ではいっていた。雄の子供ライオンは、成長すると群れを追い出される。

雄が警備を司り、雌が育児と狩りを行う。雄を王様に迎えるときは、見立てのベテランである数頭の雌が、何ヶ月もの時間をかけてじっくりと決めていた。迎えられて王となった雄は、自分で苦手な狩りをする必要がなくなる。

雌たちは連係プレーで狩りを行い、獲物は一番に王様に行く。その代わり、雄が群れを守る役割を果たせなければ、追い出されるのだ。

二頭の雄が農場の牛を襲ったのは、なかなか王様になれない、狩り慣れのしない二頭(兄弟かもしれない)が空腹を我慢できなかったからだろう。動物の世界は厳しい。その厳しさと魅力をブリクセンは克明に描いている。

イグアナを撃つ場面も忘れがたい。なぜ、彼女がそうしたかといえば、イグアナの皮でいろいろな綺麗なものを作りたいと思ったからだという。美へのあこがれと執着には強烈なものがあったようだ。

『アフリカ農場』には、最後の方に訳者のブリクセン小伝がある。ブリクセンの外観について「アメリカに招かれたとき、数多くの視聴者を驚かせた異様できらびやかな風貌と言動」とあり、その記述を物語るかのような写真も付されている。

彫りの深い、どこか謎めいた深みのあるまなざしが印象的だ。ブリクセンが過剰なまでにお洒落であることや、際立って知的であるだろうことは、その写真を見ればわかる。

イグアナのことを書いた場面を食い入るように見た、否読んだのは、以前ペットショップで大型の檻に入れられたイグアナのあざやかな色彩を思い出したからだった。

目に染むようなグリーンだった。ペンキ塗り立て。触れば、手にグリーンがつきそうな。そのような色をした生物がいるということが、ちょっと信じられないくらいだった。独特な風貌で木に寄り添ったまま、わたしがお店にいた間、イグアナは化石のように動かなかった。

アフリカの強い光を浴び、イグアナはえもいわれぬ色彩を放っていたのだろう。「山と積んだ宝石、あるいは古い教会のステンドグラスの一隅のように燦然と輝いている。人が近づいてさっと逃げたあと、イグアナのいた石の上を空色、緑、真紅の光線が流れて、一瞬、色のスペクトル全部が彗星のように宙に漂って見える」(p.262)

イグアナがまるで鱗粉でも放ったかのような描写だが、そんなイグアナが死ぬと一気に灰色になってしまうとは……。蝗の大群に農場が襲われたときの描写も凄い。

そういえば、いくらか前に、象に襲われる危険に晒されながら、長時間かけて学校に通う兄妹の出てくるドキュメンタリー番組を観た。あれは、確かケニアだった。ググってみよう。

NHK番組『世界の果ての通学路』だった。「世界には、何時間もかけて道なき道を学校に通う子どもたちがいる。なぜ彼らはそこまでして学校に通うのだろう?4か国の子どもたちの通学に密着したドキュメンタリー映画」と、番組内容が紹介されている。

ところで、娘がアリステア・マクラウドの『冬の犬』を注文したという。わたしの話を聴いて、読みたくなったのだそうだ(娘は図書館の本に手を触れない)。娘から借りて、いつでも再読できると思えば、嬉しい。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月15日、投稿した記事の再掲です。
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録画しておいた、BS2プレミアムシネマ『バベットの晩餐会』を観た。

1987年度アカデミー賞外国語映画賞受賞

原題:Babettes Gaestebud
監督:ガブリエル・アクセル
原作者:カレン・ブリクセン
脚本:ガブリエル・アクセル
音楽:ペア・ノアゴー
製作年/製作国/内容時間:1987年/デンマーク/104分
出演:
バベット=ステファーヌ・オードラン、マーチーネ=ビルギッテ・フェダースピール、フィリパ=ボディル・キュア、娘時代のマーチーネ=ヴィーベケ・ハストルプ、娘時代のフィリパ=ハンネ・ステンスゴー、ローレンス=ヤール・キューレ、青年時代のローレンス=グドマール・ヴィーヴェソン、アシール・パパン=ジャン=フィリップ・ラフォン

以下、気ままな感想ですが、ネタバレありですので、ご注意ください!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

デンマークの漁村に、牧師と、その娘である姉妹が暮らしていた。

清貧といってよい暮らしで、牧師一家と同じように貧しく慎ましく暮らす信者たち相手に、姉妹は奉仕の日々を送っていた。姉妹は美しく、優しかったが、敬虔、信仰という言葉が服を着て動いているような、教条的なところもあった。

姉妹に、ロマンスが芽生えかけたことはあった。姉マーチーネは士官ローレンスとの間に、妹フィリパはオペラ歌手アシール・パパンとの間に。だが、姉妹は牧師館の奉仕に生きて老いた。

1871年9月のこと、パリ・コミューンを逃れた女性がオペラ歌手の紹介で、父亡きあと、姉妹だけで暮らす牧師館にやってきた。パリは市街戦の様相を呈し、女性の夫と子供は殺されたと紹介状に書かれていた。

女性は料理人で、名はバベットだという。

最初は受け入れを拒んだ姉妹だったが、無給で家政婦として雇って貰って構わないという言葉に、バベットを牧師館に置くことにした。

バベットのお陰で姉妹は家の仕事から解放され、信者たちに尽くす時間がたっぷりとれるようになる。

14年経ったとき、天の配剤のように宝籤が当たった。バベットは宝籤の購入を、フランスとのただ一つのつながりと冗談めかしていっていた。

大金らしいので(1万フラン)、彼女はそのお金でパリに帰り、料理人に復帰することもできたのではないだろうか。

しかし、バベットはそうしなかった。

姉妹が企画している牧師の生誕100周年を祝う記念日に、本格的なフランス料理を一度だけ、作らせてほしいと申し出るのだ。姉妹はコーヒーと簡単な夕食を出すだけのつもりだったが、バベットの切なる懇願に、譲歩した。

海亀は直前まで生きていた。それがスープとなる。まとめて購入されたウズラも籠の中で生きていたが、ウズラのパイになる。パイにスライスして入れられていた黒いものはトリュフだろうか? 料理に合わせて出される様々な、由緒ありそうなワイン、シャンパン。ケーキはモロゾフで食べたアーモンドケーキに似て見える。すばらしい果物。イチジク、美味しそう。食後のコーヒーはデミタス・カップに注がれる。対のように、小さなグラスのワイン。

かつて姉に恋したローレンスは将軍となり、経験を積んで料理も評価できる人間となっていた。晩餐会の席で、彼は料理をなつかしむように絶賛し、バベットの経歴を明かす。

「パリにいた頃、競馬大会で勝ち――、騎兵隊の仲間が祝ってくれた。場所は高級レストラン、カフェ・アングレ。驚いたことに料理長は女性でね。そこで食べたウズラのパイは創作料理だった。主催者のガリフェ将軍が料理長のことをこう話してくれた。特別な才能があるんだと。料理を恋愛に変身させる才能さ。恋愛となった料理を食べれば、肉体の欲望と精神の欲望は区別できない」

台所でてんてこ舞いのバベットには、将軍の絶賛が伝わったようだ。12人分で1万フランになるフランス料理のフルコースに、バベットは宝籤で得たお金を使い切ったのだった。

それは彼女の選択であり、将軍が晩餐会でいったように、選択が問題ではなく、神の恵みは無限だと悟ったからだろう。

バベットは、政変のために家族を亡くし、高級レストランの料理長の地位を失い、パリを追われた。料理の腕を発揮する場もない他国の寒村に生きる羽目になった、何とも気の毒な境遇であった。

ところが、晩餐会が終わったあと、台所で1人コーヒーを飲むバベットの凜々しく、美しい、どこか勝利を収めた将軍のような安堵の表情を見ると、彼女はパリの居場所をとり上げられた代わりに、デンマークの寒村をまるごと贈られたのではないかと思えてくる。

彼女は見事にそれを料理したのではないだろうか。

村の信者たちは14年経つうちに、バベットの価値観をどこかで受け入れるようになっていたのだと思う。 

14年もバベットと一緒にいたのだから、彼らは元のままの彼らではないはずだ。棺桶に片足を突っ込む年齢に達して怒りっぽくなっている信者たちではあったのだが、気づかないうちにバベット色に染まっていたのではないだろうか。晩餐会は、その集大成といってもよいひとときだったと思える。

現に、バベットの味に慣れた老人が描かれていた。老人は夕食を牧師の館から届けて貰っていた。バベットが食材の調達のためにパリに帰省していた間、老人には以前のような食事が届けられるのだが、彼はその味に耐えがたい表情をするのである。

バベットは牧師館の屋根裏部屋を提供され、家政婦として料理も任されてきたのだが、彼女は清貧にふさわしい食事の意義を崩さないまま、目立たないように食生活の改善、革命を成し遂げていたのである。

牧師館で食べる料理について、初めてマーチーネに教わり、それを食べてみたときのバベットの表情は印象的だった。

無造作に切って茹でた干しヒラメ。ちぎったパンをビールでどろどろになるまで煮る、おかゆのようなビールパン。バベットの口には合わなかったに違いないが、その表情は分析的、プロフェッショナルなものだった。

次の場面で、早くもバベットは買い物に出ていた。オニオンとシュガーを買っていた。その次の場面では、姉妹にお茶を出しているバベットがいた。シュガーは、お茶のためのものだったのだろうか。オニオンはどう使われたのだろうか。

寒空の下、野に出てハーブを摘むバベットの姿はとうてい忘れられないものだった。その姿からは、厳しい境遇となった彼女の失意、孤独感、また意志力と内に篭もった祈りなどが感じられるような気がした。

バベットは14年間、料理人としての華の舞台が得えられないまま、黙々と生き、ハーブを摘んできたのだろう。ハーブは慎ましやかな料理を活気づけたに違いない。

夕刻の鐘の音を1人聴きながら、涙を流すバベットも描かれていた。

漁村で魚を売る男も、食料品店を営む男も、バベットの影響は免れられない。腐った魚、傷んだベーコンを売ると、見破られるのだ。彼女は人知れず、村全体の意識を高めていったのではないだろうか。

フィリパが嘆くようにいう。「私たちのためにお金を全部使うなんて」
バベットは毅然と答える。「私のためでもあります」
マーチーネが心配そうに、不思議そうにいう。「一生貧しく暮らすなんて」
バベットは誇らしげに答える。「芸術家は貧しくありません」

バベット役のステファーヌ・オードランは、知的で、意志的で、美しかった。

適当なストーリー紹介とまとまりのない感想になってしまったが、わたしはこの映画を観て、勇気づけられたような気がした。バベットのように強くなりたい。

結婚して長い時が経ち、独身時代親しかった人々との絆が一つ、また一つと壊れていく気がしている。人は望む、望まないに拘わらず、影響し合って、一緒にいる相手に合った人間になっていく。

昔ながらのなつかしい感覚が継続していることを感じられる関係もあるが、違和感を覚えるようになった関係の方が多い。影響を与え合う機会の減ったことが一番の原因だろう。

昔、彼女はこんなに無神経なことはいわなかったのに……などと思うわたしがいる。お互いさまなのだろうが。

世間の人々は経済力や社会的地位で相手を見ていることが多いと思うときが、いつごろからか、よくある。わたしも無意識的にそうしているのだろうが、親しい間柄でありながら、そうした上下関係で見るというのがわたしにはよくわからない。

親しくないからなのかもしれない。親しいと思っているのは、わたしだけだったのかもしれない。

もう昨年の出来事になるのだが、「昔は、大きな家で暮らしていたのにね」と、いった女友達。

確かに結婚してからは夫の転勤もあったし(家賃を払うくらいなら買おうかという話が出たこともあったが、転勤を断ってまで落ち着きたいと思える場所には行かなかった)、わたしは外で仕事をしなかったから、いつもお金がなく、住まいでは苦労してきた。それでも、ちょっといい気味という気配が彼女から漂って驚いた。

別に喧嘩をしていたわけではない。賑やかに会話しているときの一コマにすぎなかったので、「えっ?」と思ったものの、忘れていたほどなのだが、時間が経つほどに気にかかる出来事として甦る。

友人関係を解消すべきか。

といっても、連絡しなければ、消えていく関係にすぎず、おそらく、わたしのほうで執着があるだけなのだ。昔、彼女が書いた童話を忘れられないのである。そのころの彼女のそうした一面に、いつまでも執着がある。だから、創作を始めたと聞いたときは本当に嬉しかった。しかし……その彼女は、わたしの知らなかった彼女だった。

彼女にとって、今のわたしは人生の敗残者と映っているようだ。才能もないくせに、文学なんかやって馬鹿ね、文学なんてやれるような経済力のある相手との結婚だったの、と彼女はいいたいようだった。

いってやれば、よかった。文学に生きすぎて、貧乏であることに気づかなかった、と。否、いってわかるような人であれば、あんなことをいいはいないだろう。清貧に生きているマーチーネの言葉とは違う。

友人は努力家で、早期退職する前から創作を始めているが、最初から賞をとりたいようだった。そして、社会的地位を得て退職した夫を見返したい様子。

純粋に文学に打ち込む反面、世に出たいとか、いろいろ打算的なことをずっと考えてきたわたしではあるが、彼女は大学時代にはもっと純粋に童話を書き、わたしに見せてくれた。

元々それほど読書の習慣のある人ではなかった。創作を本格的に始めたわりには、ほとんど読まないらしい。

打算的な(現実的な、というべきか)、冷たい言葉を平気で口にするようになった彼女の変化がショックであるが、逆から考えれば、大学時代、わたし――というより文学――の影響で彼女は繊細で純粋だったのかもしれないと思える。

また、わたしが友情を、作品を、純粋に歓迎したので、彼女は昔、そうしたのではないだろうか。彼女の夫は、花より団子の人なのだろう。

文学は、芸術は、やはりいいものだと思う。彼女は書く以前に読む必要がありそうだ。文学を何かの手段にする前に、文学を知り、楽しんでほしいと願うが、それは彼女次第だ。

原作者カレン・ブリクセンには興味が湧いたので、図書館から借りて読んでみたい。

追記:

ウィキペディアによると、カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表する小説家。作家活動は1933年に48歳からと遅いが、翌1934年にアメリカで出版したイサク・ディーネセン名義の作品「七つのゴシック物語」で早くも成功を収めている。

作家として成功するまでは、「父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻(夫に移された梅毒は生涯の病になった)し、離婚。単身での経営を試みるがあえなく失敗し、1931年にデンマークに帰国した」とウィキにあり、紆余曲折あった様子が窺える。

「バベットの晩餐会」は1958年に出版された『運命譚(Anecdotes of Destiny)』の中の一編。

同じ物書きとして思うのは、「バベットの晩餐会」が無名の物書きによって書かれた作品ではなく(そもそも、そのような人物の作品が世に出て残ることはほぼないだろう)、功成り名遂げた作家によって書かれたという事実だ。

映画に感動しながらも、物書きの一人としてはそのことが引っかかり、物にならない物書きの人生――どうやら、それはわたしの人生らしい――が一層つらいものに感じられる気もしている。

そのこととは違うことかもしれないが、アンデルセンが「マッチ売りの少女」を書いたのは滞在中のお城であったこととか、極貧の少年少女が描かれた短編「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」は、セレブのリンドグレーンによって書かれたこととかを思うとき、わたしは複雑な気持ちになる。

『小さいきょうだい-四つのものがたり(Sunnanäng ) 1959年』に収録されている作品。日本では1969年に大塚勇三訳『リンドグレーン作品集 14 小さいきょうだい』として出版されている。

石井登志子訳『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』(ヤコブ・フォシェッル監修、岩波書店、2007年)を読んで初めて、それまで断片的にしか知らなかったリンドグレーンの人生全体を鳥瞰できた。

両親は農場が軌道に乗るまで苦労したかもしれないが、あのころのスウェーデンの時代背景を考えると、彼女は何しろ農場主の娘で、父親は酪農業組合、雄牛協会、種馬協会を結成した活動的な事業家でもあり、娘のリンドグレーンが苦労した様子はアルバムからは窺えない。

ラッセを産んだ件では苦労しただろうが、一生を共にしたくない男の子供を妊娠し、その男と一生を共にしない選択の自由がともかくもあり、女性の権利拡張運動の闘士(職業は弁護士)エヴァ・アンデンの援助も受けられて……と、確かに一時的な苦労はあったようだが、自由奔放な女性がしたいようにしたという印象を強く受ける。ラッセは、実父から3万クローナの遺産を受けとっている。

ちなみに、ラッセが大学受験資格に合格したときの写真を見ると、どちらかというと、いかつい男性的な容貌のリンドグレーンとは対照的な、女性的といってよいようなハンサムボーイだ。

それまでに読んだリンドグレーンの作品解説や伝記的なものからは地味な境遇が想像されていたが、いや、とんでもなかった!

想像とは違っていたが(違っていたからこそ、というべきか)、リンドグレーンや周囲に写っているものがとっても素敵なので、昨年、娘に誕生祝いに何がほしいかと訊かれたとき、迷わず、リンドグレーンのアルバムを挙げたのだった。

だから勿論、わたしは、アンデルセンやリンドグレーンが有名だったり、お金持ちだったり、自由奔放だったりしたからどうのとケチをつけたいわけではない。

無名で貧乏だと、取材もままならないから、有名でお金持ちのほうがいいに決まっているし、自由でなくては書きたいように書けないから、環境的に自由なムードがあり、気質的にも自由奔放なくらいがいいと思う。

ただ、「マッチ売りの少女」にも、「小さいきょうだい」「ボダイジュがかなでるとき」にも、どことなく貼り付いたような不自然さを覚えていたので、つい、どんな環境で書かれたかを探りたくもなったのだった。

アンデルセンの「マッチ売りの少女」はよく読めば、不思議な話なのである。

このことについては、YouTube(聴く、文学エッセイシリーズ)の最初の動画「マッチ売りの少女」のお話と日本の現状 2014/02/07」の中で触れているので、以下に抜粋してみたい(このシリーズ、続けるつもりが頓挫している。あまりに話すのが下手なので。まあ、その練習の意図もあって始めたわけではあるが)。

「マッチ売りの少女」を読んでいました。このお話をご存知ない方は少ないんじゃないかと思いますが、アンデルセンの童話です。アンデルセンは1805年に生まれ1875年に亡くなったデンマークの作家です。日本でいえば、生まれたのは江戸時代で、亡くなったのは明治8年ということになります。

貧しい少女が雪の降る大晦日に、マッチを売りに出かけます。マッチを売ってお金を持って帰らないと、お父さんからぶたれてしまうのですね。ところが、マッチは売れませんでした。夜になってしまって、とても寒いんです。風がピューピュー吹いて、雪も降っていますから。

少女は、マッチを擦って、その炎で温まろうとしたわけです。そうしたときに、美しい幻がいろいろ見えました。ストーブや、美味しい食べ物、クリスマスツリーなんかが見えて、終いには亡くなったお祖母さんが見えたのです。その幻が消えそうになったとき、少女はお祖母さんに、自分も連れて行ってちょうだい、といって、お祖母さんと一緒に天へと昇っていきました。翌日、街の人々は、少女が凍えて亡くなっているという現実を見るわけですね。

そういう救いのないお話ですけれど、今の世の中にはこういう現実は、残念ながら沢山あって、この日本ですら、起きるようになってきたのが怖ろしい話です。

わたしは昔は、こういう悲惨な出来事というのは――こういうお話を読むと、ひじょうに心が痛みますけれど――遠い昔の外国のお話という捉え方をしていたわけですが、日本もだんだんと社会的に難しい状況となってきて、時々ニュースで餓死したとかね、目にしますよね。〔略〕

改めて思ったんですけれど、この少女は――まだ小さいということもあるのかもしれませんが――気立てがいいですよね。お母さんがこの間まで履いていたスリッパを少女が履いて無くしたとありますから、お母さんはどうしたんでしょう。この間までお母さんに可愛がられた雰囲気が少女にはありますよね。マッチ売りにも慣れていないみたいだし。お母さんが亡くなったとしたら、幻にお母さんが出て来ないのは不自然ですから、家を出たとかで、お父さんはやけっぱちなんでしょうか。それにしては家があばら屋みたいなのは変で、何にしてもお父さんは廃人っぽいですね。

夫に愛想をつかしたお母さんが少女もそのうち引き取るつもりで、下の子だけ連れて家を出たとか、想像したくなりますが、そこまでの情報をアンデルセンはここでは書き込んでいません。

アンデルセンがどういう意図で書いたかは知らないが、「マッチ売りの少女」が少女の貧しさ、恵まれない子の悲惨を訴えた物語にしては、その肝心のマッチ売りの少女が貧しさにも、商売にも慣れていず、すれた感じがないという不思議さがあるのだ。

そういえば、カレン・ブリクセンもアンデルセンも、同じデンマークの作家である。

リンドグレーンの2編についても、不可解な点や解釈に迷うところがあるので、いずれ考察してみたいと考えている。

『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』には作品解釈の手がかりになるようなことが多く書かれている。「はるかな国の兄弟」の謎はそれで大部分が解けた。

わたしが深読みしたより、単純に――シンプルにというべきか――書かれていた。それでも、まだ謎の部分がある。これについても、いずれまた。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月10日、投稿した記事の再掲です。
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アリステア・マクラウドはすばらしい。厳寒の地に生きる人間と動物の物語。

厳寒の地といっても、季節はあり、あの赤毛のアンで有名なプリンス・エドワード島の東隣の島、ケープ・ブレトン島が舞台なのだ。

冬は「ビッグ・アイス」と呼ばれる流氷の群れが接岸し、見渡す限りの氷原がひろがるという。

流氷はお宝を運んでくる。難破船からの流出物で、酒樽、家具、釣り道具、船のドア……人間や馬の死体なども。

ある冬、少年は1匹の犬に曳かせた橇で氷原に出かけ、お宝を見つける。それは、アザラシの死体だった。アザラシを犬橇で持ち帰る途中、少年は氷の割れ目に落ち……最初は犬橇ごと。次は少年ひとりで。

犬は、ジャーマン・シェパードの血が何分の一か混じった家畜用コリー犬だ。すごい力持ちだったが、家畜の群れをまとめ役としては役立たずの犬だった。しかし、このとき、犬は頑張る。

引き具が犬の肩から前へずり落ちはじめたが、犬は私を引っぱりつづけ、私はつかまりつづけた。とうとう肘が堅い氷の上についた感じがした。私はその氷の端に両肘をかけ、自力で這い上がった。全身ずぶ濡れで、暗い水面から白いどろどろの氷の上にあがってきたもう一頭のアザラシのようだった。上に出たとたん、着ているものが凍りはじめた。肘や膝を曲げると、まるでSFの国から抜け出したロボットのようにギーギー音がし、しばらくして自分を見おろすと、ワニスを塗ったように全身が透明な氷でコーティングされていた。〔pp.70-71〕

『冬の犬』(新潮クレスト・ブックス)という短編集に収録された「冬の犬」と、灯台守として生きる女性の過酷すぎて幻想性をすら帯びた人生を描く「島」が、とりわけ印象的だった。

燈台守として長年、孤独に暮らすうち、知らぬ間に「島の狂女」伝説をつくりあげていた女性は、燈台が閉鎖され、島を去らなければならなくなったとき、胸の痛みを覚える。

ひょっしたらそれは、ひどい場所や苦しい状況やつらい結婚から去ってゆく者の心情に似ていたかもしれない。最後にもう一度肩越しにふりかえって、「ああ、私は人生の大半をここにささげてきたんだ。たいした人生ではなかったけれど、それを生きたのはたしかに私だった。これからどこへ行こうと、もう前と同じ私ではない」と静かに自分に言い聞かせる人々の心情に。〔p.226〕

見たこともなかった孫が島に迎えにきて、その若者は、事故死したために結婚できなかった恋人とそっくりのセリフを吐く。「もう、行かなくちゃ」「戻ってくるから」「戻ってくるって言ったよね」「いっしょに行こう。どこかほかの土地に行って、いっしょに暮らそう」

こうした場面は、老いた彼女に現実に起きたことなのだろうか、幻想なのだろうか。

短編小説「島」の主人公が、女性なのか、つかの間のロマンスが生んだ遺伝子の奇跡〔p.229〕なのか、島そのものなのかわからなかったが(渾然一体となっているようでもある)、読み終わったとき、呆然としてしまった。

アリステア・マクラウドは寡作な作家で、生涯に短編小説16を収録した短編集1冊、長編1冊残しただけという。

原題『Island』の短編小説は、日本では8編ずつに分けられ、前掲の『冬の犬』と『灰色の輝ける贈り物』という邦題で出版されている。長編小説の邦題は『彼方なる歌に耳を澄ませよ』。訳者は中野恵津子。

行き届いた、無駄のない描写は、ドキュメンタリーを観るような緊迫感をもたらす。

そして、作家の内面的な豊かさ、卓越した人生観は、作中の人間や動物を明晰な光で照らし出し、大自然の懐の然るべき一点に結晶させる。

生き物たちが醸し出す叙情味は、尊厳美を伴って、読む者を魅了せずにはおかない。

短編集2冊は宝物となりうる本だが、図書館からの借り物なので、返さなくてはならないのが残念だ。

長編はまだ借りていないが、これも評判が高い。

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

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ブログ「マダムNの覚書」に2月5日、投稿した記事の再掲です。
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Amazonが先月21日に書籍閲覧ソフト「Kindle for PC」の日本語版を公開しました。

既にKindle Cloud Readerが提供されていましたが、Kindleコミック、雑誌、洋書しか読めませんでした。「Kindle for PC」は和書にも対応しています。

対応OSは、Windows 7/8/8.1です。

「Kindle for PC」のダウンロード⇒ http://www.amazon.co.jp/kindleforpc

フルスクリーンにでき、フォントサイズ、ページ表示幅、明るさを調節できます。ページの色は白、セピア、黒があります。

わたしのキンドル本が並んでいる著者ページはこちら 

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ブログ「マダムNの覚書」に2月4日、投稿した記事の再掲です。

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前の記事の続きを書こうとしてニュースを見たら、ヨルダン空軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉は1月3日の時点で焼殺されていたとする時事通信、1時48分配信の記事が出ていました。

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『ルーミー語録』を最初に読んだのは大学時代でしたが、これまでの年月が掻き消えたように、女子寮の一室で読んでいる自分なのか、今の自分なのかがわからなくなるほど、当時の自分と一体化していました。

『ルーミー語録』を読んでいると、極上のワインに酔ったようになります。

これを書いている今も、胸の奥から汲めども尽きぬ泉の水のように出てきた純白のオーラで部屋の中がいっぱいです。

ルーミーは13世紀にホラーサーン地方のバルフ(現アフガニスタン)に生まれ、シリアの首都ダマスカスなどで学び、トルコの都市コンヤに歿した、ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人です。

神秘主義的な本は、どれもそっくりなので、どれを読んでいるのか、わからなくなってくるほどです。

『ルーミー語録』には、『コーラン』の言葉が散りばめられています。コーランは大学のときにざっと読んだきりなので、あまり覚えていませんが、旧約聖書がよく出てきて、イエスやマリアがキリスト教とは違った雰囲気で出てきたような記憶があります。

コーランがルーミーにとって、美と慈愛と叡智の源泉であったことを感じさせます。そのルーミーがかつて学び、逍遙した地が現在、ISILによって地獄の様相を呈しています。嘆かわしいことです。どうコーランを読めば、あんなことができるのでしょうか。

では、『ルーミー語録』(井筒俊彦訳、岩波書店、1978年)から断片を紹介します。

 本当に奇蹟と言えるのは、人が卑〔ひく〕い段階から高い段階に昇らされるということだ。あんなところから出発して、こんなところまで辿り着いた、それが奇蹟なのだ。もともとわけも分からなかったものが理性的に考えるようになり、無生物が生命体となったことだ。考えてみれば、そなたも元来は土塊〔つちくれ〕であり無機物だった。それが植物の世界に連れてこられた。植物界から旅を続けて血塊となり肉片となり、血塊と肉片の状態から動物界に出、動物界から遂に人間界に出てきた。これこそ奇蹟というものではなかろうか。
 神はこの長い旅をそなたが無事終えるように取り計らって下さった。途中でいろいろな宿に泊まり、いろいろな道を取りながら、はるばるここまでやってきた。が、その間、そなたは自分でここへ来たいと思ったこともなかった。自分でどの道を選ぼうとか、どうやって辿り着こうとか考えたことも想像したこともなかった。ただ、ひとりでにここまで連れてこられてしまったのだ。だが、自分がここまで来たのだということは、まごうかたない事実としてそなたにもわかっている。同じように、これとは違った種々様々な世界がまだまだ幾つもあって、やがて、そこにも連れてゆかれるのだ。疑心を抱いてはならぬ。このようなことを言って聞かせる人があったら、素直に信じることだ。〔p.207〕

古代インドの哲学書「ウパニシャッド(秘教的教義)」に「神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩き、人間の中で思惟する」とあり、またユダヤ教神秘思想カバラに「石は植物となり、植物は動物、動物は人間、人間は霊、霊は神となる」という格言がありますが、わたしはこれらを連想しました。

 アブラハムの立処で参詣者が二回跪拝する。それは結構だ。だが本当は、立ってはこの世にあって祈り、跪拝してはかの世にあって祈るというような礼拝であってほしい。メッカの神殿とは預言者や聖者がたの心の秘処、神の啓示の下る場所であって、建物としてのメッカの神殿はこの(心の中の)神殿の影にすぎない。内面的精神がなければ、メッカの神殿が何になろう。〔p.288〕

ルカの福音書に「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とありますね。インドの聖者ラーマクリシュナは「神についての正しい知識を得た人にとっては、この世もあの世もないんだよ。どこも同じさ、あの世があると思っている人には、この世もあるんだ」(マヘンドラ・グプタ『不滅の言葉』奈良毅&田中嫺玉訳、三学出版、昭和55年)といいました。

 わしが好んで語るものは、すべて象徴であって、ただ似たものを例として出すのではない。象徴は、ただ似たものというのとは違う。神がその光を灯火に譬えておられるのは、あれは象徴だ。聖者の身体を玻璃に譬えられるのも象徴だ。もともと神の光は場所や空間に容れられるようなものではない。それがどうして玻璃や灯火の中に入ろうか。宇宙に偏在する神の光が誰の心の中に入ろうか。だが、それを探すとなると、心の中に見つかるのだから妙である。といっても、心が何か容器のような役をして、神の光がその中に入っているわけではない。心の深みから湧出してくるのが見えるのだ。鏡をのぞくと、そこに自分の姿が映って見える。別に鏡の中に姿形が本当に存在しているわけではない。それなのに鏡をのぞきこんでみると、ちゃんとそこに自分がいるのだ。〔p.289〕

わたしは拙著『卑弥呼をめぐる私的考察』(Kindle版、ASIN:B00JFHMV38)の中で、『老子』第十章は鏡を連想させると書きましたが、ここにはもろに鏡が出てきます。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月3日、投稿した記事の再掲です。
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後藤さんを英雄視する動きがありますが、政府から渡航中止要請が3回も出ていたとなると、残念ながら後藤さんは英雄どころか、思慮なきジャーナリズムは国家をも危険にさらす……と、思わされます。

尤も、今回後藤さんは湯川さんを探しに行ったともいわれており、そうであれば、尚更、後藤さんをジャーナリストとして祭り上げようとする騒動は的外れもいいところです。

後藤さんに渡航中止要請=昨年9月から3回―政府
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150203-00000008-jij-pol
時事通信 2月3日(火)2時32分配信

 政府が過激組織「イスラム国」によって殺害されたとみられる後藤健二さんに対し、昨年9~10月に3回にわたってシリアへの渡航を見合わせるよう直接要請していたことが2日分かった。関係者によると、外務省職員が昨年9月下旬と同10月上旬に電話で、同月中旬には面会して渡航中止を求めたが、翻意させるには至らなかったという。
 外務省は2011年4月にシリア全土に「退避勧告」を発出している。後藤さんの渡航計画を把握した同省は昨年9月26日に渡航中止を要請。10月3日に後藤さんの入国を知って即時退避を求めた。帰国後の同月14日には職員が面会して再び渡航しないよう注意喚起した。だが、11月1日に後藤さんの家族から、連絡が取れなくなったと通報があった。
 後藤さんは昨年10月末にシリア北部で行方不明になり、先月20日に殺害予告の動画がインターネット上に公開されたのに続き、1日には殺害されたとみられる映像が公開された。先に殺害されたとみられる湯川遥菜さんの入国については、外務省は事前に把握していなかった。
 事件を受けて安倍晋三首相は2日の参院予算委員会で、「内外の日本人の安全確保に万全を期したい」と改めて強調。自民党が2日開いた対策本部では、退避勧告に強制力を持たせるべきだとの意見が出た。しかし、憲法22条が保障する「居住、移転の自由」との兼ね合いで、渡航を禁止するのは困難なのが実情だ。

軍隊もない、情報機関もない、国民が海外で事件に巻き込まれても思うように動けない国家であるからこそ、政府は再三、渡航中止を要請したのでしょう。

政府が事前にこれだけのことをしたのであれば、これ以上の何が望めましょう? まさに「親の心子知らず」で、この場合の親は政府、子は後藤さんです。

残念な結果になったとはいえ、今回のこのことで、国はどれだけのお金(血税)を使ったのでしょうか? ぜひ公開してほしいものです。

以下の記事にも、注目しました。

ところで、ISILには自治区を違法出国したウィグル族が参加していると伝えられますが、中国は自治区のウィグル族に対して、ISILと同じ残虐行為を繰り返しているとか。

今回の事件をだしに安倍首相叩きに余念がない左派ですが、そんな暇があれば、ウィグル、チベットに対する中国の非道な行いに声をあげたらどうですか。

このところ、ISIL関係のひどいニュースにばかり接してきたので、心が渇き、中東の古典を求めました。
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深遠なイスラム神秘主義の著書『ルーミー語録(イスラーム古典叢書)』(井筒俊彦訳、岩波書店、1978年)から断片を紹介したいとます。

以下はウィキペディアより抜粋。

ジャラール・ウッディーン・ルーミー:Wikipedia 

ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年9月30日 - 1273年12月17日)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。

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簡潔かつ平易であるが抒情性に富む文体が特徴で、詩を読む者に深い感銘を与える。詩には独特のリズムがあり、名手が吟じたルーミーの詩を聴いた人間は陶酔感に浸ると言われている。また、詩の内容にはイスラム教だけでなく新プラトン主義、キリスト教神秘主義からの影響も見て取れる。著作はモロッコから中国、インドネシアにわたる広範なイスラム世界で読まれ、様々な解釈がされてきた。

ウィキペデアと本の解説によると、ルーミーはホラーサーン地方のバルフ(現アフガニスタン)に生まれたとされます。

バルフは当時、「イスラーム文化の一大中心地。知的に、学問的に、宗教的に、全イスラーム世界において主導的役割を果たしていた」そうです。

10年以上も放浪して、あちこちに行っており、ダマスカスに留学しています。ダマスカスはシリアの首都ですね。

次の記事で、『ルーミー語録』から断片を紹介します。

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ブログ「マダムNの覚書」に2月1日、投稿した記事の再掲です。
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「日本時間の1日午前5時すぎ、イスラム過激派組織「ISIL(イスラム国)」とみられる組織に拘束された後藤健二さんを殺害したとする動画がインターネット上に投稿されました」
と、NHKニュースで報じられました。

湯川さんに続いて後藤さんも殺害されたとなると、虚脱感を覚えますが、IRIB(イランラジオ)が31日に「ヨルダン政府が、テロ組織ISISがヨルダン人パイロットを殺害するなら、収監しているISISのメンバーを処刑すると主張しました」と報じ、米海軍特殊部隊「シールズ」の投入が急浮上とも報じられていたので、メンバーを処刑されては困るだろうISILは、シールズに来られても困るでしょうから、こういう結論を下すことは考えられました。

いつ殺害されたのかは、不明であるようですが。動画が投稿された時間、あちらは深夜で、動画の時間帯は昼間であるようです。

日本政府に対するISILのメッセージはここに引用する気もしなくなるくらい、柄の悪いものです。

安倍首相は、記者会見で、テロには屈しないことを改めて強調しました。

この首相の毅然とした姿勢は、ヤクザ並みのいじめが蔓延るようになってしまった教育現場でも、貴重な意味を持つようになるのではないでしょうか。

それにしても、ISILが「アベ」を強調するところが変ですね。遠い中東のISILにとっては、単に日本だろうが、日本政府だろうが、あまり関係ないでしょうから、「アベ」と強調するところが、安倍首相に反感を持つ日本人の協力者がいそうな嫌な予感を覚えます。

ああ、お母様の石堂さんが映りました。憔悴しきった表情で。お顔が土気色です。そっとしておいてほしい。
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ブログ「マダムNの覚書」に1月31日、投稿した記事の再掲です。
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ISIL(イスラム国改めアイシル)に拘束されているジャーナリスト・後藤健二さんの奥様がロイター通信を通じて29日、英語で、音声による声明動画を公開しました。

東洋経済オンラインで、その動画と文章(英文・邦文)を閲覧できます。

何でも、この奥様は東大卒で、独立行政法人・JICA職員(日本国際協力機構)の職員だそうですが、国際的、政治的な面では専門的であるはずの人物が配偶者でありながら、なぜ後藤さんが今回のような事件に巻き込まれることになったのか、不可解です。

また、奥様の声明には――後藤さんのお母様の会見もかなり奇妙なものでしたが――疑問を抱かされるものがあります。思慮を欠いた夫の行動のせいで大変なことになった、という自覚に甚だ欠けているように思える文面です。

夫の生命が危険に晒されている緊迫した状況下、被害者意識があるのは自然なことなのかもしれませんが、「私の夫は善良で、正直な人間です。苦しむ人びとの困窮した様子を報じるためにシリアへ向かいました」といわれると、そうした面がおありなことが感じられ、また生かすために、そのようなアピールが必要だろうと感じられても、聴く側としては白けますし、「私は彼の解放のため、舞台裏で休むことなく働き続けてきました」「私は、彼の命を救おうと戦ったのです」という自画自賛めいた言葉には、違和感と懸念とを同時に覚えてしまいます。

この奥様が水面下でどんな動きをしてきたのか、気になるところです。

「ヨルダン政府と日本政府の手中に、二人の運命が委ねられていることを考えて欲しいと思います」という言葉からは、反日左翼の人々と同じ思考法が感じられます。

この事件は、何らかの終息を見たあとも、尾を引く問題です。日本やヨルダンの今後すら左右しかねない危険性を孕む事件です。テロ組織との取引に応じるには、将来的に出る犠牲と引き換えることだとの覚悟が必要です。

仮に日本とヨルダンが後藤さん夫妻の希望通りに動かなかったとしても(動けなかったとしても)、その責任は日本とヨルダンにあるのではありません。その自覚が少しでもあれば、このような言葉が出てくるはずがないと思えますが、脅迫されていわざるをえなかったのでしょうね。

「私にはヨルダンとヨルダンの人々に対して、特別な感情を持っており、多くの思い出があります」という言葉は、自分たちになるべく親近感を持って貰いたいがためのアピールなのかもしれませんが、ヨルダンの人々に日本人はこの度の人質事件で多大な迷惑をかけているわけです。あって当然のはずのお詫びの言葉がありません。これも、脅迫されて、削らざるをえなかったのでしょうか。

ところで、上の記事に、
「29日朝に公表された画像は、朝9時ごろから日本政府が動き出すというタイムスケジュールを意識している。プロデューサーが視聴者の反応を見てドラマを作っているという感じで、日本の事情をよく知っている人間がイスラム国に協力している」
という元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏の言葉が引用されています。

また、上のジャーナリスト・加賀孝英氏の記事には、
「イスラム国は当初、安倍首相の中東歴訪を重要視していなかった。日本国内などの協力者が、歴訪に合わせて『世界が注目するチャンスだ』と入れ知恵した可能性が高い。この人物を絞り込みつつある」とあります。

後藤さんのことで馬鹿に盛り上がる反日左翼連中といい、奥様の一見まともそうでありながら疑問を抱かせる声明といい、ISILによる日本人人質事件は謎を孕んだ奇怪な展開となってきました。

テレビのニュースが反日左翼色を帯びているので、バランスをとるためにYouTubeへ行くことがあるのですが、視聴した中から2本の動画を紹介しておきます。

以下は、「くにまるジャパン」1月30日放送分から動画に作成されたものです。出演は前出の佐藤優氏。
https://www.youtube.com/watch?v=f_ajv8cTu6U

以下は、SakuraSoTV、「ニュースの読み方」より。戦前・戦中の日本人が如何にイスラム理解に優れていたかが、大川周明氏の著書を通して解説されています。

https://www.youtube.com/watch?v=B-y8OXvx_b4

北大生と関わった、近視眼的印象を与える元大学教授とは、教養という点で大分違うようです。

大川周明:Wikipedia

〔……〕大学卒業後、インドの独立運動を支援。ラース・ビハーリー・ボースやヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆。日本が日英同盟を重視して、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。また、イスラム教に関心を示すなど、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)で欧米からのアジアの解放とともに、「日本改造」を訴えたり、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。ルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介もしている(「三重国家論」として翻訳)〔……〕

ルドルフ・シュタイナーはブラヴァツキーの神智学の影響を受けた人ですが、シュタイナーまで読んでいたとは。昔の知識人って、今の知識人とは読書量にしても、スケールにしても、全く違いますね。

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