文学界にかんする考察

日本社会に、強い潜在的影響を及ぼす文学界について、考察していきます。

2014年06月

 以下のまだ下書きというべき記事で、那須田稔氏の作品に感動したと書いた。

 明日、以下の2冊が届く。

きつねの花火 (おはなし名作絵本 12)
那須田 稔 (著)
出版社: ポプラ社 (1972/06)

天馬のように走れ―書聖・川村驥山物語
那須田 稔 (著)
出版社: ひくまの出版 (2007/11)

『天馬のように走れ』は、50円の中古品ながら「美品!」とあったが、新品ではないし、何せ50円なのだから、本の外観についてはそれほど期待はしていない。

『シラカバと少女』は「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です」と表示されたまま。配送予定日のお知らせメールが届かない。キャンセルになるのだろうか。

 早く読みたいので、図書館から借りてきた。他にも――。

シラカバと少女
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1993/06)

もうひとつの夏
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1993/11)

砂漠の墓標―ある十五歳の物語
那須田 稔 (著)
出版社: 木鶏社 (1994/05)

ぼくと風子の夏―屋久島かめんこ留学記
那須田 稔 (著)
出版社: ひくまの出版 (2005/08)

忍者サノスケじいさんわくわく旅日記〈21〉魔女がやってきたの巻
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2009/07)

忍者サノスケじいさんわくわく旅日記〈35〉やさしいおひめさまの巻
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2010/09)

ぼくのちいさなカンガルー (おはなしキラキラシリーズ)
なすだ みのる (著)
出版社: ひくまの出版 (2009/12)

『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記』〈21〉は佐賀県が舞台で、吉野ヶ里遺跡が出てくる。わたしは佐賀県出身なので、どうしても読みたかった。

 その本も昨日借りてきた。借りた本全部をざっと確認するつもりでその本を開いたら、読み耽ってしまい、次に当然のように、大分県が舞台で姫島[ひめしま]が出てくる〈35〉も夢中で読んでしまっていた。低学年から読めそうな本だ。

 平易でとっつきやすいエンター系作品として読めるが、文学に心得のある人間が読めば、伝統的な純文系の書き方であることがわかる。何気ない描写がとても美しい。

〈35〉でサノスケじいさんは、一郎太、ゆかりちゃんと大分県に飛ぶが、やがて見えてきた石仏をサノスケじいさんはこう説明する。

「むかしのひとが、みんなが、しあわせになるようにと、岩[いわ]に仏[ほとけ]さまをほったのだよ。この大分県には、たくさんの岩の ほとけさまがあるよ」

 姫島はアサギマダラという蝶が飛来することで知られ、その蝶が皆を大分県にいざなったのだった。本の中ではアサギマダラがいつ、どこから姫島に来て、何という花の蜜を吸うのか、そして南へはいつ帰るのかが書かれている。

 それによると、アサギマダラという蝶は春、遠い南のほうからやってきて、スナビキソウの花の蜜を吸い、夏が近づくと北の涼しいところへ避暑(?)に向かう。秋にはまたやってきて、今度はフジバカマの花の蜜を吸って南へ帰って行くという。

 今、姫島村役場のホームページ「詩情と伝説の島 大分県 姫島」を閲覧してみたら、トピックスに「2014年06月15日 お知らせ アサギマダラ飛来中」とあった。

 また、本では姫島伝説が語られ、「おひめさま」が出てくる。最後は島は祭で盛り上がり、矢はず岳の山の上にまるいお月さまがのぼる。そんな中、えりちゃんが、突然、空を指さして「一郎太ちゃん、ほら、みて みて」という。

 えりちゃんが指さした先には、「そらにうかぶ べにいろの 雲のあいだを あの やさしいおひめさまが、ながいころもを  ひるがえして、たのしそうに とんでいるのでした」。

〈35〉も面白かった。わたしは卑弥呼に興味があった一昔前に色々と調べ、奈良や佐賀の吉野ヶ里遺跡にも出かけたが、そこでの大昔の暮らしというのがなかなか見えてこなかった。

 それが、本を読んで見えた気がしたのだった。一郎太、えりちゃんと完全に一体化していたので、わたしにも見えた気がしたのだろう。田んぼで働く昔の人々が、こちらを見て手を振ってくれた。川でしじみをとっている子供たちの楽しそうな声が聴こえてきた。子供たちの一人と一緒に「火きりうす」で火をおこした。

 嬉しかったのは、染色の話が出てきたことだった。わたしが吉野ヶ里遺跡を調べて一番印象に残ったのは、甕棺墓から出土した銅剣と貝製腕輪に、茜、紫草、カイムラサキで染めたと思われる布片が付着していたという情報だったからだ。

 現在56歳のわたしが30代で書いた未完の小説「あけぼの―邪馬台国物語―」は現代タッチで、少女小説風のあまい語り口をもつ、粗いところのある、ちょっと恥ずかしい作品なのだが、以下で登場する卑弥呼にカイムラサキ染めの衣装を着せた。

 那須田稔氏の本を読んでいると、物識りになった気がしてくる。居ながらにして旅ができ、日本列島に詳しくなるだろう。

 思えば、子供の頃に読んだ本にはどの本にも豊かな知識が花の蜜のように蓄えられていた。子供には旺盛な知識欲がある。

 わたしは那須田氏の本を読みながら、世界の児童文学全集に囲まれていた子供時代の精神状態に戻っていた。

 健全な読書を可能にしてくれる沢山の本が、那須田氏のような良識ある大人たちによってもたらされていたことを改めて思った。そこは、何て幸せな世界であったことか!

 今の子供たちはどうだろう? 刺激の強い、信頼のおけない、低俗な感じのする沢山の本が子供たちを囲んでいないだろうか? 過激な少女漫画は表現の自由なのだという。

 何にしても、学校が大いに推薦するのは『はだしのゲン』。もう少し大きくなってからは村上春樹か……絶句。可哀想に! そう思ってはいけないのだろうか。どうしても、そう思ってしまうのだけれど。

 そういえば昨日だったか、「ノルウェーの森 中学生 村上春樹 読書感想文の必要性」という検索ワード」でお見えになったかたがあったようだ。

 わたしの考えは当ブログと以下の電子書籍で書いている。

 図書館へ行けば、まだ豊かな世界が広がっているはずだから、図書館で良書に触れてほしいと願わずにはいられない。

 わたしは那須田氏の本で花の蜜をたっぷり吸い、アサギマダラのように「さあ、飛び立とう」という気分になった。

 図書館にある「忍者サノスケじいさん」シリーズは全部読破するつもりだ。子供の頃にこのシリーズを読んでいたら、もっと頭のよい子になったかも……(?)。

 ところで、ネット検索中にたまたま、ある文書を閲覧した。児童文学界の変化の原因を物語るような、少なくとも児童文学界全体に影響したと想像される出来事に関係する文書である。

 そのことを今ここに書いてよいのかどうか、わからない。

 図書館からは以下の3冊も借りた。

サティン入江のなぞ
フィリパ・ピアス(著)
出版社: 岩波書店 (1986/7)

ふしぎな家の番人たち
ルーシー・M. ボストン (著)
出版社: 三陽社 (2001/7/12)

やねの上のカールソンとびまわる (リンドグレーン作品集 (17))
リンドグレーン(著)
出版社: 岩波書店; 改版 (1975/9/26)

 リンドグレーンの「やねの上のカールソン」シリーズは全部子供の頃に読んだが、持っていないので、なつかしくなり、借りてきた。

 そういえば、リンドグレーンのアルバムについて書くといっておきながら、まだ書いていなかった。

 昨夜は『不思議な接着剤 (1)冒険への道』のルビ振りを少しやり(ちっとも終わらないのは数行ずつしかやっていないため)、初の歴史小説のことを考えていた。

 初の歴史小説では、いきなり中長編を書くのは無理なので、まず短編を数編書くことにしたのだが、萬子媛に関係する歴史のどのあたりを崩して第一作に持ってくるのかを考えていたのだった。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 数日間セキュリティ関係の補強に追われたが、昨日は少し『不思議な接着剤  (1)冒険への道』のルビ振りをし(まだやっている)、那須田稔著『ぼくらの出航』を読んでいた。

『シラカバと少女』『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記 35 やさしいおひめさまの巻』 をAmazonとは別のところに注文しているが、入荷するかどうかはわからないとメールが来た。購入できないかもしれない。

『ぼくらの出航』からは、最近の日本人によって書かれたものからはめったに嗅げない、本物の児童文学の薫りがするので、胸いっぱいにそれを吸い込む。

 全体をざっと見、ちゃんと読んだのはまだ半分くらいなので、完読後に――この記事を合わせた――きちんとしたレビューを書きたいが、初の歴史小説も進めなくてはならないので、遅れるかもしれない。

 作品は、まばゆいほどの初々しさ、歴史の断面を見せてくれる確かな描写力、人間の真性に対する明るい信頼に満ちている。

 終戦の混乱のハルビンで、子供たち、そして大人たち、動物たちまで、何て生き生きと描かれていることか。情景描写も美しい。

 わたしは読みながら、伯父たちのことを思い出した。

 満鉄勤務だったわたしの母方の伯父も、手広く製麺業を営んでいた伯母夫婦も満州からの引き揚げ者だった。伯父の奥さんは終戦のとき、既に病気だった。従兄は3歳、その妹である従姉はまだ赤ん坊だった。

 病気のおかあさんを助けて3歳の従兄は御飯を炊いていたというが、一家が引き揚げる途中でその人は亡くなった。

 伯父と再婚した女の人も、やはり満州からの引き揚げ者で、日本に向かう船が嵐に遭い、負んぶしていた赤ん坊が背中からすっぽ抜けて波に攫われたと聞いた。

 彼女は帰国後しばらく、気が触れたようになっていたという。伯父は再婚後一児を儲けて亡くなり、彼女ももうとっくに癌で亡くなったが、一緒にお風呂に入ると、首から背中にかけて一面に火傷の痕があった。綺麗な人だったのに。戦争の傷痕に違いないと子供のわたしは思った。

 それでも、伯父たちの体験がぴんとこなかったけれど、『ぼくらの出航』を読んでいると、それがどのようなものであったかが目に見えるような気がしてくる。

  以下、ネタバレあり。

 作品の中で、主人公タダシの父親がシベリアへ行くトラックに乗せられる場面からあとは悲痛な出来事の連続である。そうしたことがまるで川が流れるように、淡々と書かれている。

 寝込むようになった母親を看病する少年。ソビエト軍の命令で家を立ち退かなくてはならなくなり、着替えをしてばったり倒れた母親をリヤカーに乗せて郊外に出るが、小高い丘に来たとき、母親は息絶えた。

 涙が出てきて、しばらく先が読めなくなった。どんなに無念だったろう。タダシは下手をすれば、残留孤児になっていただろう。

 作品から、勢力図の混乱に伴う複雑な諸相が読みとれる。

 国際都市ハルビンで、終戦や各国の混乱の中、もう敵味方の区別さえつかなくなっているようでもある。それでいて、日本の子供、満人の子供、中国の子供、朝鮮の子供、ロシアの子供……それぞれのお国事情と立場がよく書き分けられている。

 このような作品がなぜ、わが国の文学の主流であり続けなかったのか、そのことを疑問に思うと同時に本当にもったいない、残念なことに思う。どの観点から見ても、見事としかいいようのない文学作品ではないか! 

 ソビエト軍の戦車隊があとからあとから続く場面や、満人の子供ヤンとロシア人の御者との会話などは、まるでドキュメンタリーを観るように生々しい。以下に引用してみたい(頁74-76)。

 戦車隊のうしろから、歩兵隊が行進してきた。どの兵隊も、あから顔で、サルのような顔に見えた。よごれた服、ズボン、みじかいゲートル、やぶれたくつ――。ヤンは、いままで、こんなうすよごれた兵隊を見たことがなかった。
 かれらは、駅まえのヤマト=ホテルのまえまでくると、どやどやと、さけび声をあげてはいっていった。
 まもなく、ヤマト=ホテルのてっぺんに、かまとつちのマークのはいった大きな赤い旗がひるがえった。
(ソビエト連邦共和国の旗だ。)
 スズメの一群が、さえずりながら旗をかすめて、中央寺院のほうへとんでいった。
 ホテルのまえにある肉屋のまどから、ロシア人のマダムの顔がのぞいて、あわててまどをしめた。
 戦車の横を、ひげを長くはやしたこれもロシア人の馬車が、すずを鳴らして、いそいでとおりぬけ、ヤンのかくれているポプラの木の横の小道にはいって、とまった。ロシア人の御者は、馬車からおりてきて、戦車隊をながめている。
(……)
 ヤンは、ロシア人の御者に中国語で話しかけた。
「おじいさん、あなたたちの国からきた兵隊だね。ロシアの兵隊がきたので、うれしいでしょう?」
 ところが、ロシア人の御者は、はきだすようにいった。
「あれが、ロシアの兵隊なものかね。」
「ロシアの兵隊じゃないって?」
 ヤンはけげんな顔をした。
 御者のじいさんは、白いあごひげをなでて、「そうとも。ロシアの兵隊はあんなだらしないかっこうはしていないよ。わたらのときは金びかのぱりっとした服をきていたものだ。」
「へえ? おじいさんも、ロシアの兵隊だったことがあるの……。」
「ああ、ずうっと、ずうっと、むかしな。」
「それじゃ、ロシアへかえるんだね。」
「いや、わたらは、あいつらとは、生まれがちがうんだ。」
 おじいさんはぶっきらぼうにいった。
「よく、わからないな。おじいさんの話。」
「つまりだ、生まれつきがちがうということは、わしらは、ちゃんとした皇帝の兵隊だったということさ。」
 ヤンは、まだ、よくわからなかったが、うなずいた。
「皇帝だって! すごいな。」
「そうとも。わしらは、あいつらとは縁もゆかりもないわけさ。あいつらは、レーニンとか、スターリンとかという百姓の兵隊だ。」
「ふうん。」
 ヤンが、小首をかしげて考えこんでいると、ロシア人の御者は、馬車にのっていってしまった。
(おもしろいおじいさんだな。おんなじロシア人なのに、じぶんの国の軍隊をけなしてさ。いろんな人がいるんだな。)
 ヤンは、そう思った。

 わたしもそう思う。おんなじ日本人なのに、いろんな人がいる。昔も今も。いろんな人がいる――そのことを教えてくれるだけでも、文学とは凄いものではないか。

 そのあとの場面で、わたしたち読者は酒場で再びソビエト兵に再会する。彼らはバラライカという楽器にあわせて、大声で歌をうたっている。彼らが大きな肉をちぎって口に放り込んでいるのを、タダシと一緒に見る。

 彼らはタダシを酒場に引っ張り込み、肉やじゃがいもをご馳走してくれる。「カリンカ カリンカ カリンカ マヤ ヘイ!」と繰り返し歌う、陽気でフレンドリーなソビエト兵たちをタダシは好きになる。

 似た場面を、わたしは林芙美子の旅行記の中で読んだ気がする。

 彼らが見せてくれる家族の写真やドイツの子供たちの写真を、わたしたち読者もタダシと一緒に見る。

 ぼろぼろのズボンを履き、裸足で立っているドイツの子供たち。その子供たちと笑って写真に写っていた年寄りの兵隊は、写真の子供たちを指して「おまえの友だちさ」といい、「あんたのおやじさんのために!」といって、ウォッカをぐっと飲む。傍らの若い兵隊の顔を見て、「世界のおふくろさんのために!」といって、また、ウォッカをあおる。

 明日は自分たちの国に帰っていくというソビエト兵。

 次に、また長い引用になるが(頁128-129)、そうせずにはいられない。この作品は、読み継がれるべきだ。世界中で読まれるべきだ。学校で子供たちに読ませるべき作品とは、こういう作品をいうのではないだろうか。

(じぶんたちの国!)
 タダシの国は、どこなのだろう……。にっぽん、日本はくろい海をこえていったところにういている四つの島。目のまえがかすんできて、日本の地図がうかんできた。地図の上に波がうちよせている。日本の地図がタダシのまわりでぐるぐるうずをまいてまわりはじめた。日本はいまにもちんぼつしそうだ。日本の地図にだぶって、おかあさんの顔があらわれた。むこうから、エンジンの音がきこえる。トラックだ。トラックの上におとうさんがのっている。おとうさんは、おかあさんをトラックにのせると、だんだん遠く走っていってしまった。
(どこへいくの!)
 タダシはさけぼうとしたが、のどがからからにかわいて、声にならなかった。
 波がザブンと立ち、タダシは、ふわふわ、およいだ。大きな波がやってきた! タダシはそのまま、暗い海の底へぐんぐんひきずりこまれてしまった。

 そのあとの感想はちゃんとしたレビューに書くことにして――、作品の最後を見ておくと、タダシら子供たちを救ってくれたのは新しい中国の軍隊であった。その軍隊とは中華民国の国民党だろう。
 Wikipedia:引揚者によると、「満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる」。

 そこからの中国の流れをWikipedia:中華人民共和国中華民国を参考、引用していえば、中国国民党率いる中華民国国軍は、ソビエトの支援を受ける中国共産党率いる中国人民解放軍に破れた。そして、1949年に、共産主義政党による一党独裁国家、中華人民共和国が樹立される。

 国民党政府は、日本の進駐中であった台湾島に追われるかたちで政府機能を移転した。1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において、日本は台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄。

 国際法上の領有権は未確定ともいわれる台湾島地域は、中華民国政府の実効支配下にある。中華民国政府も、中華人民共和国の中国共産党政府と同様に、自らを「『中国』の正統政府」であると主張している。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 昨日(5月1日)、「第16回 別府アルゲリッチ音楽祭」に行ったので、その記事を書くつもりで、その前にニュースをチェックしたところ、なんとまあ、気分の悪くなるようなニュースを目にした。以下、時事通信社のニュースより。


 11月に想定される沖縄県知事選(12月9日任期満了)で、経営コンサルタント会社代表の大城浩氏(48)は30日、那覇市内で記者会見し、無所属で出馬する意向を表明した。沖縄の独立を掲げており、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設については、反対の立場から「独立すればその話はなくなる」と述べた。

 知事選への出馬表明は大城氏が初めて。現職の仲井真弘多知事は態度を明らかにしていない。野党陣営は6月中の候補者決定に向け選考作業を進めている。 (2014/04/30-16:16)


 よく受付が通ったものだと呆れる。何て甘い国なのだろう、日本は。その日本に甘やかされてよい社会的地位、収入を得ている人々がぬくぬくと左派活動をしているのがわが国の現状なのだ。

 しかし、このような人間が出てきたということは、この人の頭がどうかしているというだけならいいのだが、中国による日本侵略作戦が水面下で相当に進行しているということなのかもしれない。今、沖縄が危ない! 

 中国は文化大革命で大勢の自国民を殺した。自国の知と心を抹殺しまくったのだから、すっかり怪物めいた国になってしまった。あちこちに侵略の手を伸ばし、執拗に日本を狙っている。

 大城氏の立候補について、KAZUYAくんが端的に以下の動画で解説している。

 

 惠隆之介氏はずいぶん前から沖縄の危機を訴えてきた。

  • 【恵隆之介】沖縄独立運動に中国・韓国・北朝鮮の影( 削除されたようです


 また、以下の動画は必見である。沖縄問題と中国は切り離せない問題だからである。このままいけば沖縄が第二のウィグル、チベットになることは目に見えている。その次は九州だろうか……蒙古来襲を封じた先祖の警告が聴こえてくるようである。

知っておかなければならないチベットの今

追記(2014.6.26):
ここに貼り付けていたYouTubeからの動画は著作権侵害ということで削除されたようですが、サイト「やしきたかじんメモリアル | 無料視聴コンテンツ」で視聴できます。リンクフリーとありましたので、以下に貼っておきます。

【無料動画】知っておかなければならないチベットの今
http://ex-iinkai.com/free/detail132.html
動画の説明として「
2012年7月5日、大阪国際文化交流センターにて雪の下の炎の会主催「知っておかなければならないチベットの今」という講演会が開かれました。そこでゲストとして登場した、中央チベット政権情報国際関係省(日本でいう外務省にあたる)ディキ・チョヤン大臣が深刻なチベットの状況について語りました」とあります。

 以下の動画は月刊「中国」編集長、鳴霞氏が4年も前に語った中国の脅威である。


 

 国内に大きな反日勢力を抱える日本の問題。

 


 以下のブログ記事では、今回の出馬表明が何であるかが鋭く分析され、わかりやすくまとめられている。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

お風呂映画『テルマエ・ロマエⅡ』を観に行ったときに、予告のチラシを貰ってきた。

その中で観たいと思った映画は、以下の3本。

『トランセンデンス』
監督: ウォーリー・フィスター
製作総指揮: クリストファー・ノーラン
主演: ジョニー・デップ
6月28日公開予定

デップ様の映画は観る。

『マレフィセント』
監督: ロバート・ストロンバーグ
7月5日公開予定

ディズニーのアニメ映画『眠れる森の美女』でオーロラ姫に呪いをかけた邪悪な妖精マレフィセントを主人公とする、ダークファンタジーらしい。

夫が観たいという。

ロバート・ストロンバーグは『アバター』などのプロダクションデザインを手掛けたという。『アバター』は魅力的だったので、ちょっと観たい。

『思い出のマーニー』(ジブリ映画)
監督: 米林宏昌
7月19日公開予定

ジブリ映画では、綺麗な映像を楽しめても、空疎な内容には疑問を覚えることが多い。左派的プロパガンダが骨格を成しているゆえの空疎さ。

児童文学の名作をどうジブリ的に映画化したのか、心配と興味があるのだ。繊細な作品を、別物に変えてほしくない。


『テルマエ・ロマエⅡ』。阿部寛は好きなので、それだけでも楽しめた。Ⅰのほうが内容的にはまとまっていた気がする。

ただ、夫と二人だと半額になるので高いとは思わなかったけれど、そうでなかったとしたら観たかなあ?

全体的に何とはなしに善意が感じられて、嫌みなところが少しもない映画というのは、それだけでも観る価値があるのかもしれないとは思う。

古代ローマ人の混浴シーンが出てきた。

白人を使っていた。その場面には――見た目の印象にすぎないのだが――、日本人の水墨画風(?)の混浴シーンとは異なるバタ臭さといおうか、濃厚に塗られた油絵風といおうか、何かしら危険な匂いのある気がして、平たい顔族――と、古代ローマ人技師という設定の主人公は日本人のことを心の中で呼ぶ――のほうが混浴情景には合っていると思った。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ