わたしが詩人と呼んでいる女友達が変調を来していたが、何とか安定をみたようだ。 
 だいぶ寒くなってきたから、春までは大丈夫だろう。統合失調症にはとにかく春秋はよくないみたいだ。 
 こうやって一年一年乗り切ってきた。わたしは後方でサポートしているにすぎないが。 
 
 ところで、これは神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、色々なものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。人間や動物に限定されたものではない。ときには、妖精、妖怪、眷族などという呼び名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いすら。 
 
 精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。 
 
 普段は、自然にコントロールできているわたしでも、前回、文学賞狙いにハマっていたときに恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。
 
 賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。 
 
 普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。 
 
 例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。 
 
 ところが雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭[まゆ]に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自分の内面の声を外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。 
 
 賞狙いの本質はギャンブルであり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めているから、神秘主義的には全くお薦めでない。 
 
 酔っぱらうことや恋愛も、同じような高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、だめ、とはいえないものだろうけれど。アルコールは神秘主義的には禁じられている。 
 
 再び賞狙いしているわたしは、他に手段が見いだせないから仕方なくやっているのだが、一刻も早くやめられればと思っている。 
 
 わたしは専門家ではないから、統合失調症について詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。 
 
 賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの女友達とは、構造的に似ている。
 
 そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は彼女の妄想を通して全てを見る。彼女はそのことによって一層混乱し、悪循環を作り上げてしまうのだ。
 
 こんなときにナルシシズムと性欲を以て直子に接したワタナベくんのような人物は、危険である。
 妄想の繭から出るには、直子が自身で澄明な精神状態になるしかないところへ、彼はそれを手助けするどころか、逆のことをやるからだ。
 
 『ノルウェイの森』はわたしにはどうしても危険と感じられる作品なのだが、神秘主義的観点からみれば、村上春樹の作品にはもっと危険なものもあると思う。