近藤くんの『銀杏神社』を読むために、文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」を購入。

 まだ小説は近藤勲公『銀杏神社』を読み、その前に掲載されていた三輪太郎『海の碧さに』を失礼ながらざっと読み、コラムの雪舟えま『種の暮らし』を読んだくらいだが、「文學界」を読むときはいつもそうするように、まず陣野俊史/大澤聡「新人小説月評」を読んだ。

 この『新人小説月評』に掲載される評論が掲載や新人賞の基準となり、作家志望者の《傾向と対策》となって、作家をつくっていくからだ。その目で読んで、わたしは久しくこのコーナーに不信感を抱いている。

 陣野俊史のタイトル……誠実な態度

 賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。


・小説家は小説を書いて、原発に対峙する。古川は、小説と小説ではないものとの間で苦悶する。小説は揺らいでいる。

・翻訳と言語の問題を全面に出しながら、後半の詩的なイメージが横溢する文章

・時間軸を自由に移動する伊坂の作風

・全篇に流れるホラーテイストは◎。妹の「肉」の描写がよい。

・……というと割とよくある設定なのだが、最後の数枚で大転換。ここが気持ちよい。

・主人公の無気力キャラを大事にして欲しいと願いつつ読んだ

・それぞれの家庭まできちんと描き込んであって、好感を覚えたが、『きことわ』以後、このタイプはやや書きにくくなったかも。
・トリッキーな設定
・才気を感じた。このテイストの作品をあと十篇くらい並べられれば、かなり面白い。


 新人賞とは、流通業界における新商品を生み出すようなアイディア戦であることがわかる。それも、ひねりを入れた軽薄なものであればあるほどよさそうだ。本当にそれが文学作品に対して一般が求めるものなのだろうか。

 この文芸評論家の頭に浮かぶ詩的、才気というイメージは、おそらくわたしの頭に浮かぶそれらとは全く異質のものだろうという絶望感を覚える。小説で原発に対峙する? あたかも小説家は小説の素材に対立し、敵対しなければならないように読めるが、わたしには意味不明だ。

 わたしにはとても、この評論家が求めるような作品は書けそうにもない。書きたくもない。この月評からは間違っても、文豪といわれる小説家の作品のようなものは浮かんでこない。

 大澤聡のタイトル……「新人」の条件、二重の。

 このタイトルからして、わたしには早くも意味不明だ。内容となると、カラーン(あ、思わず、匙投げちゃった)。それでも、自身を叱咤し、賞応募の傾向と対策のため、チェックすべき箇所を抜書きしてみた。


・本欄「新人」の条件は、「芥川賞候補となる可能性を残す」といったところか。実際そうらしい。

・以上二作、ジャンルへの無防備な甘えが随所に看取された。

・どうということもない。だが、どうということもないことを読ませてしまう。それが丹下の一貫した姿勢。語りの位地と時制を中盤まで宙に吊る構造も機能している。

・職業設定からラスト(空港!)への動線まで、ドラマ的文法の密輸入を思わす。定型だが、それゆえエンタメとして高水準で成立。

・貧乏設定、アフォリズム、並行世界[パラレルワールド]etc。デビュー以来のツールを全て搭載。もはや熟練の境地。

・動力に使用言語の非対称性を適用。その時点でご都合主義に嵌るのは不可避。

・凡庸な解読を拒む。書くという営為をめぐる自己言及。怪作。

・複層的な時空間の堆積=物語たる同作に、さらなる時間(日付)と空間(地図)を挿し込んでゆく。ジャンルの分節など退けてしまう筆圧。

・円城・古川と同様、非線的で錯時的な章構成。再縫合は難しくない。

・「純文/エンタメ」の対立枠組はとうに瓦解した。残るは各誌の伝統と自画像だけ。「純文学」は異質なアイテムや想像力を周回遅れで誘致し延命してきた。隣接分野からのリクルートは定石。大正期から反復された光景だ。そのつど、新人に期待されるのは、内部のプログラムを秘かに書換えてしまう剰余である。その点、今月は模倣の限界例が多く観測された。出来にかかわらず。もっと逸脱した参入動機を。既存の磁場に回収されぬ圧倒的な不可解さを!

 「純文/エンタメ」の対立枠組とは何だろう? 音楽に置き換えてみれば、この言葉の不可解さがはっきりする。クラシック音楽とポピュラー音楽の対立枠組というと、何のことか、さっぱりわからない。ジャンルが違うだけのことを、一体何をけしかけているのだろうか?


 最後の言葉などは、シュプレヒコールのようにも気が触れた人のわめきのようにも感じられる。


 わたしには、まともな文学作品をまともに読む能力に欠けた人間が、まともでない作品を持ってこさせては、このコーナーで自己満足的な嗜好の世界に浸っているとしか思えない。ここには指標らしきものは存在せず、全ては彼の好みに合うか合わないかで決まるようだ。


 当世風の評論家たちは、作家の卵を何処へ連れて行こうとしているのだろう? ハーメルンの笛吹き男をさえ連想してしまう。


 当世風評論家たちの批評を読んだあとで、近藤くんの『銀杏神社』の頁を開いた。抒情的な銀杏の描写にホッとさせられる。安定した筆力と精緻な描写力。今の純文学界では、それだけでも希少価値と思われた。


 幸いというべきか――それなりのバランス感覚が働くのか、当世風批評家の嗜好に副う、文章も作りも派手に壊れている作品が芥川賞に選出される一方では、従来型――同人雑誌型と言い換えてもいいかもしれない――の比較的日本文学的な作品が時々選出されているように思う。


 比較的日本文学的と書いたのは、文章がそうでも作りはそうでもないからである。戦略としてそうさぜるをえないのか、そんな書きかたしかできないのか、個別に見ていく必要があるだろう。


 ホッとさせられたのも束の間、『銀杏神社』を読み進め、わたしはその美々しく描写された銀杏がアイテムとして使われていることに気づいた。となると、この作品は従来型の日本文学的なものではない。


 ストーリーを追ってみる。


 老女ミサは、神社で銀杏の葉をビニール袋に集めている。逝った夫惣一の遺体にかけるために。遺体は生乾きだ。ミサは死体遺棄罪に問われることを承知で、夫の希望に応えようとしているのだった。夫は「わしが、死んだら、焼かずに、ここの銀杏の落葉の中に、埋めて、くれ……腐るまで」と言ったのだった。


 ひとり息子が湿地帯の銀杏の葉に埋もれた状態で夭折した過去があった。湿地帯は埋められ宅地となり、銀杏の木々も伐採されて神社に群生されるものだけが残る。惣一は銀杏を求めて神社に通う。銀杏の群生が惣一の拠り所となっていった。それが、夫に前掲の言葉を言わせ、ミサが銀杏の葉を集め続ける行為の動機なのだ。


 死ぬ前から惣一の魂は体を離れ、神社にいることがあった。死後も神社を彷徨っている。「もし夫ならば何か未練があって神社をさまよっているのだ。それを認めることが辛かった。自分の真心でその未練を拭ってやりたかった」とミサは思う。この辺り、どうにも解せない。ミサの行為はわたしには、夫の魂をこの世に呪縛するための儀式か何かのように思えてしまう。


 『銀杏神社』では老醜がモチーフかと思われるが、それだけでエンディングまで引っぱっていこうとしたかのような単調さがあり、老醜の先に来る死の扱いにしても、作者の死生観がはっきりしないための場当たり的な印象を拭えない。


 息子が神社で死んだのなら、そしてミサが惣一を神社に埋めるのならまだしも納得がいくだろうか。夫婦の銀杏の葉に対する異常なこだわりにも、もう一つ説得力がない気がする。


 ストーリーの不自然さは、モチーフと思いつきを強引につないだためではないかと思われる。核となるべき観念の形成ができていないのは、その原動力となるべき作者の哲学とか思想といったものが希薄だからではないだろうか。


 明治期から日本文学が手本としてきた西洋文学は、何よりその部分を大事にしてきた。しかし、当世風評論家は、そんなものは腹の足しにならない、技巧と技巧が要求するお手軽な知識さえあれば上等といっているかのようだ。


 端正な筆致に、この小説の展開は似合わない。


 ところで、わたしには長年賞狙いを続けたことからきた弊害があり、「日田文学」の合評会で、河津さんからそのことを指摘されたことがあった。近藤くんのこの作品に、わたしはそれと同じものを感じずにはいられない。しかし、文学的には瑕となるそれも、今のわが国の文学界ではその限りではないようだから、わたしの感想など無意味と思っていただいたほうがよいと思う。