現代日本文学の動向及び流行に触れていたいという動機から、今年もまた某文芸雑誌の定期購読更新の手続きをした。

 

 そして今月も、数日前にその雑誌が届いて嬉しい気分になったが、いざ雑誌を開いて読もうとすると、とてもだめ。読めない。

 

 わが国の作家では、遠藤周作、円地文子あたりまでしか体質的に受け付けなくなってしまっている。わたしの感覚は古いのだろうか?

 

 だが、『竹取物語』や『源氏物語』といった昔々の作品の冴えを思うとき、文学作品の価値は書かれたときの時間的古さ、新しさでは測れないもので、よい作品は常にみずみずしいとの思いを新たにする。

 

 バッハやモーツァルトの音楽が今も第一級のものとして受け容れられているのと、事情は同じだろう。

 

 普段わたしが多く読むのは翻訳物なのだが、例えば、モーリアック著、遠藤周作訳『愛の砂漠』(講談社文芸文庫)の、何気なく装われた次の一場面の文章の香気は如何ばかりであることか。 食堂に漂うコーヒーの香り(嗅覚)。霧が立ち籠める外気の冷たさ(触覚)。古い車がきしませた砂利の音(聴覚)。ココアを飲んだ記憶(味覚)。部屋着の桃色(視覚)。 

 父が食卓から急に立ったあの晩の翌朝、夜が明けるやいなや、食堂でココアを飲んだことを覚えている。窓が外の霧に向かって開かれていたので、彼はひきたてのコーヒーの香りの中で寒さを感じて震えた。小径の砂利が古いクーペの車輪の下できしんだ。医師はその朝、出かけるのに手間どった。クーレージュ夫人は桃色の部屋着をはおり、夜、いつもそうする引っつめて編んだ髪のままで、中学生の額に接吻した。だが息子は食事をするのをやめなかった。

 どこにでもありそうな朝の情景、それでいて、この家庭だけに潜在する特殊な事情がおぼろげに見えてくるような描写だ。この父はあの晩、なぜ食卓から急に立ったのか?  この母親の接吻を気にも止めなくなった、この成長した息子。

 短い文章であるにも拘らず、作者の五感が隅々まで働いていることがわかる。

 

 ところが、今の文芸雑誌で読む作品は、これとは全く対照的で、五感のうちのどれかしか働いていない感じだ。効果をあげるために、あえて、どの感覚かに絞って書くという手法もあるだろうが、それほどの考えが読みとれる書き方でもない。

 

 描写された場面から、ある特殊な事情が浮かび上がってくるという書き方でもない。不自然に予告されるか、いきなり事が起きるかのどちらかなのだ。よほど計画的でないと、モーリアックのような書き方はできず、不自然なものになってしまう。

 

 汚い色で描き殴った、絵本のような作品がつくづく多い。

 

 すばらしい絵本は芸術作品以外の何ものでもないだろうし、大人向きの絵本というものもあるが、ただ絵本というものは、子供向きに制作されることが多いのではないだろうか。

 

 言葉の理解が不充分な子供に、絵で物事を理解させようとして。文盲の庶民が多かった時代の宗教書が、壁画や天井画に頼ったように。言葉の理解が進んだ子供は、文字の量が多くなった本に手を出すようになる。物事のもっと複雑な面を知ろうとして。

 

 絵本のような作品が巷の書店に溢れている現状は、日本人の子供返りを、五感や情操の低下を物語っているのかもしれない。

 


2007年10月 9日 (火)