『小説の技法』(西前孝監訳、旺史社、1989年)を書いたレオン・サーメリアンは、これが書かれた時点で、作家であり、またカリフォルニア州立大学の創作コースにおいて作家志望の学生たちを指導する教師とあります。
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 この本は、わが国に蔓延している賞獲りレースのための対策としての創作指導などとは何の似たところもない、格調高い小説技法の研究書であり、懇切丁寧な創作の指南書です。


 訳者あとがきには、次のように書かれています。

 本書においては、目次を一覧しても分るように、場面、要約、描写、三人称、一人称、プロット、人物・性格・意識の流れ・内的独白・文章(文体)などの諸問題が、その関連諸領域にも及んで、肌理細かく、かつ、親切に説かれている。

 ポスト構造主義やメタフィクションを考える今日にあっても、なお、上の諸事項は、殊に作法・技法の観点から、等閑に付すことのできない問題を孕んでいるのである。

  この意味で本書は、文学や小説に関心を持つ全ての学生・教師は勿論、作家を志望する少年・青年・主婦などにとって、有益な知識を提供するはずである。 

  的を射た案内文だと思います。 

  現代においては一方的に軽蔑されている感のある全知の方法についても、そうでない方法と同様にメリット、デメリットの双方が挙げられ、バランスのとれた見方がなされていて、ホッとさせられます。

  というのも、わたしが最終的な目標としたいのが、バルザックの小説において最高度に生かされた、この全知の方法だからです。全知の方法について、小さき人間が「神の視点」で書こうとする、傲慢で、愚かしい、古い方法のような見なされかたをすることに、わたしは疑問を持ち続けてきました。

  彼は、全知の方法のデメリットについて次のように考察しています。

 全知に制限を加えれば加えるほど劇的になっていく。全知は本質的に作家の介入を許し、それだけ散漫になる。  

 全知の方法を最上の方法と信じるわたしの小説が賞の最終選考でいつも落とされ、その理由として、まとまりがない、余分なものが多すぎる、あるいはときに単調とさえといわれるのは、単にわたしが未熟だからということだけが理由ではなく、全知の方法につきまとうデメリットを、既にわたしの小説が含んでいるからだと自分では考えています。全知の方法のメリットについて触れられた箇所を、長くなりますが、引用しておきましょう。 

 限定三人称視点人物というのはヘンリー・ジェイムズが完成させた。彼にとっては全知は創作方法としては無責任なものだった。我々としては、しかし、このことを決定的な金科玉条とする必要はない。

 全知にはそれなりの場というものがあり、これを最上の方法だと考える作家もいるくらいだ。

 人物視点よりもずっと広々とした領域、人物の広々と豊かな局面を取り込むことができる。散漫になるにしてもそれは同時に多様性を与えることでもあるのだ。この方法は行動を、それを取り巻いている広い世界から締め出したりしないからである。

 作家の介入は読者にとってうるさいと感じることもあるだろうが、また気晴らしを与えることもある。『トム・ジョーンズ』や『虚栄の市』ではそうだ。全知の方法は作家の側での並はずれた知識が要求されるものであって、知的また精神的に厳しい限界を持つ作家にはふさわしい方法ではない。

 限定三人称視点の方法は、日和見主義者や傍観者を決め込む人間には都合がいいだろう。また商業主義に同調する作家にとって理想的な方法となろう。というのも、そういう作家は陳腐なものだけに身を任せていればいいからである。

 トルストイの方法を見ればわかるように、囚われなく全知であるためには、作家として、否、人間として、偉大でなければならない。解説するとは責任を取ることなのである。 

 

2006年9月25日